中山元のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
これは一般的に道徳と道徳批判についての哲学書ということで終わる場合が多いけど、紛れもなく宗教批判まで射程に入れている、宗教批判の哲学の本です。聖典に書いてあるんだ何が悪い!と言って殺人すら神の命令として正当化する宗教があった場合、私達はそれは困るんだけどどう反論していいか分からない。そんなときこの本が確実に役に立つと思います。これは宗教の狂信や思い上がりを挫く。そして私は宗教の特権的思い上がりは、特権的な人種が存在するという人種差別と同じ危険性をもつ差別だと思っています。しかし人種差別は悪いものだとは認識されてても、宗教的な差別は許容されてるように思える。
全人類が共通に持つ道徳法則の命令、どうして持っているのかどうやって持っているのか分からない、この世に超常現象があるとするならこれのみ。そしてこの道徳法則から宗教が生まれるという(164ページ)。逆に言うと根っこが道徳でないならそれはニセモノの宗教ということです。他宗教の人間を迫害したり、他宗教の施設を燃やしたり、他宗教の祭りやイベントを妨害したり、他宗教の人間を殺害したりするようならそれは宗教ではないということになります。どれだけ宗教だと言い張っても法治国家では許されることはない。最高善である神が法律違反になるような行為を命令することなんかないし、人間同士の争いなど望んでいない、ましてや宗教という自分自身に関することで他の人間に迷惑かけたり傷つけたりすることなど言語道断で許さないでしょう。『純粋理性批判』にこのような記述があります。
石川文康訳
B646「物質と、そもそも世界に属するものは、最大の経験的統一としての必然的存在者の理念にふさわしくないということであり、そのような存在者は世界の外部に設定されなければならない」
「その場合、あたかも必然的存在者がいないかのように、われわれは世界の現象とその現実存在を、つねに安心して、他の現象から導出することができる」
B589「必然的存在者はまったく感覚界の系列の外部に(世界外の存在者として)、そしてまったく仮想的に考えられなければならない」
「このようにしてのみ、必然的存在者がそれ自身、偶然性とあらゆる現象の依存性の法則に従うことは、防止されうる」
カントといえばコペルニクス的転回が有名ですが、これもそうです。とてつもない革命的なことを言っています。これ要するにどの宗教にも神の言葉を記述したものとして聖典があると思いますが、その物資的な本や文字を見たり内容を聞かされたりすることは全く全知全能の神にふさわしくないと言っているのです。この聖典は神の言葉でうちの宗教だけが本物なんだと主張することは誰でもできる。しかし、例えば日本人の私には別の地域の言語も文字も理解できません。どれだけその地域の聖典と神の言葉がすごいと言われても全く理解できない。これがおかしい。神は全知全能なのになぜ特定地域の特定の人達にしか理解できない言葉と文字で自身の言葉を伝えたのでしょうか。なぜ普遍的なはずの神が一部の地域の人達だけに自分の言葉を伝えるというえこひいきをするのでしょうか。それは神の無能力を示しているのではないでしょうか。仮にその地域の人達が絶滅したら神の言葉が消滅してしまう恐れがあるのに。本というこれまた消失可能な物資的媒体に頼るのもおかしい。本当に普遍的なら全人類が理解できる言葉と文字によって全人類に自分の命令を伝えるものだと思いますけど、世の中そうはなっていない。神は自身の言葉を伝えるのに感性的な手段はとっていないということです。全知全能の神なら全人類に一律に命令を見たり聞いたりでない別の手段で与え、なおかつ人間が神の操り人形にならないという絶妙の配慮するでしょう。また神は常に全人類の心を永遠に認識しているということになります。でないとこの命令は不可能です。これが道徳法則ということになります。聖典を崇拝する気持ちは分かるけど、残念ながらそれらは100%人間が作成したものです。これは確定してます。上記の通り神に相応しくないのだから。神が本当に感性的な方法で言葉を授けたなどあってはならないのです。そんなことがあったら科学など成り立たなくなるし、それは紙とインクを神だと思って崇拝してるだけの真の偶像崇拝で、不信仰です。たとえ強大な権威として神の言葉が伝わっていても、私達はそれを本当に神の言葉として崇拝して実行していいのかどうかまず己の道徳法則に照らして吟味する必要がある。福音書の聖者イエスでさえ、私達が彼を聖者と認める前に、道徳的完全性についての私達の理想と比較されなければならないと述べられています『人倫の形而上学の基礎付け』。神は私達の外部ではなく内部にいます。となると、どれだけうちの宗教だけが本物だと言い張ってもそんな特別扱いなどありえないと分かる。神はこの世界の私達とは違った方法で存在しているのであり、それについての崇拝と祈りはある意味みな平等に無と言える。うちの宗教だけが神の言葉を保存しているなんてのは思い上がりであり、うちらだけが神と現実に接続することができるなんてのは理性の力を超えた狂信です。人類は全員等しく心の中で神と繋がっています。神を外部の書物などに求め、その文言を一字一句神聖視し、たとえ道徳的にもとる内容でも信じることが神への崇拝だと思ってるならとんでもない思い違いです。自分だけが神の声を聴くことが出来る、神を見ることが出来るというのもただのうぬぼれです。本当に神を見たり声を聴いたりできるなら、全人類が神を見られて、全人類が神の声を聴けないとおかしい。
尊敬の念を道徳法則に抱き、尊敬という感情はこの神=道徳法則をまるで具現化させてるような人間に私達が抱く感情です。そしてこの道徳法則が極まってくると神聖さを帯び恥じます。しかし人間は神聖さの完全体にこの世でなることができない。なぜなら道徳法則は人間の私利私欲・報酬への期待を問答無用で断つからです。これでは幸福にはならない、しかし神聖さの完全体とは道徳と幸福が一致した状態なので、肉の体を失い魂だけになって天国でさらなる道徳の修行をする必要に迫られます。ここで天国とか地獄とかがあると意欲できるわけです。どうやってあるのか分からないけれど、とにかくあることは分かるから、人間の方から天国を要請する。そして理性は道徳法則により最高善を目指せと問答無用で言ってくる。ということは最高善の存在者が存在してないとおかしい。どこにどうやって存在してるのかは分からないけどとにかくそういう存在がいることだけは分かる。そこで人間の方が神を要請する。これらのことは人間の意志が誰からも縛られていない自由だからこそ自分で考えられるのです。人間は自らの意志を感性界に縛られることなく叡智界の法則に従って規定することができる。もし自由がなかったら人間は獣のように行動していたでしょう。ここに人間は自由という原因性を要請する。神や魂など超越的であったものは思弁的理性がアンチノミーに陥ったのに対し、実践的な理性では客体が現存することが必然的となったのでした。ここから分かることは、ある宗教者が毎日神に何度も祈って、複雑な宗教の規則を守ってれば天国へ行けて贅沢ができると思っているだけで、他の人間に対して横柄だったり傲慢だったりするのと、全然宗教的ではない人が道徳にもとる行為は止めようと誓い他人に対しても高潔な生き方をしていた場合、天国へ行くのは後者の人であると分かるのです。他のたとえでは、異教の祭りを敵視して参加しない人と、異教の祭りに参加して異教徒と仲良くしてる人どちらが天国へ行くか、これも後者だと分かるでしょう。神は祭りの違いなどでいちいち怒らない。異教の祭りを神のために妨害してやるなんて考えてる人は論外、地獄行き確定です。
ここからは本書の内容とは全然関係ないのですが、言っておきたい。このカントがドイツ観念論哲学としてヘーゲル達と同一のジャンルに分類されてるのが残念でなりません。はっきり言ってカントとヘーゲルは全然違います。カントは形而上学の思い上がりと暴走を止めようとした。ヘーゲルは矛盾こそが世界を動かす力として矛盾を許容し、シルクハットから生きたウサギを取り出すがごとき、文字通りなんでもありにしてしまった。アンチノミーのように、神だの魂だの超越論的な題材は何とでも言えるから、本人の好きなように因果関係を設定できる。カントはそういう何の苦労もかけず大きな発見を導出する神託まがいの哲学を批判したわけですが、そのヘーゲルがカントの名声を利用してのし上がっていったというのが真相です。このような哲学をカントは『哲学における最近の高慢な口調』で批判しています。またカントはどれだけ偉い権威だろうと批判の対象になると後の独裁者と呼ばれるような人を批判しました。一方ヘーゲルは権力者に媚びて、あらゆる批判を回避しその時の政権が最善となる独裁を正当化するような同一哲学を展開。これがマルクスを経て自由に牙をむき世界に災いをもたらすことになります。この点でも対照的です。カントがヘーゲルの始祖みたいな扱いになっている、これだけが残念です。 -
Posted by ブクログ
実践理性批判
この本は、人間はなぜ道徳を持っているのか、なぜ道徳的に生きるように自分で自分に言い聞かせているのか、そういうことを考え、また考えさせる本です。人間には誰しも自分だけの達成したい利益や欲望があるのに、それを中断させてまで道徳的に生きるように命令を下してるわけです。嘘をついて人を騙したり、盗んで手に入れたり、殺人を犯したり拉致したり、そういうことはやろうと思えば出来るはずなのにやらない。やってはいけないとなぜだか知らないけど分かってるから。カントはこの道徳的な命令は、自然因果の系列とは別のものだと洞察した。私達の生きる現実の世界は原因と結果の法則で成り立っている。しかしこの道徳命令は、その因果の法則を全然考慮に入れず、要するに人間達それぞれの私利私欲なんか全く気にせず一刀両断にしてくる。それ以上原因を遡れない究極の命令として与えられている。究極、これは神のことであり、触れたり見たり経験できない叡智的な概念であり、それが自由であると理解した。私達が生きる現実世界には経験的対象が存在しないものです。つまり人間は経験世界と叡智的な世界の両方にまたがってる種族だと言える。大事なのはこの法則は全人類が等しく持ち合わせてるものであり、人種や性別や国籍や年代など関係なく、簡単に理解できるものであろうということ。だから昔の欧州人のカントが言ってるだけだ、現在の別の地域の私達には関係ない、とはならないわけです。これによると、たとえ個人がついた嘘であろうとも、この社会全体を棄損していることになります。(その前に虚言は自分の人間の尊厳を投げ捨て、無化する行為『人倫の形而上学 道徳の形而上学的原理』)『法論の形而上学的原理』では、それが公法(国と国との関係)にまで拡大され、自国の利益のためなら、または自分が気に入らない人や国になら嘘をついて騙していい、という原理の国こそが不法な敵とされています。結局これらの人や国は、その自分の不誠実な原理がもし普遍的となったら、自分達こそ騙されたり攻撃されたりする危険が伴い、それについて何の文句も言えなくなる、ということに気付いていない。
善と悪
善と悪についても分析されていて、従来の善と悪の概念を最初に定め、そこから道徳法則を導き出す、という道徳哲学の誤謬を批判します。善と悪の概念を先に定める場合快不快の感情が羅針盤となりますが、そんなもの人それぞれ違ってるわけで、万人に当てはまる根源とはならないわけです。これの問題点は、万人が納得するわけもないものを無理やり当てはめようとする行動に出た場合、恐怖や暴力を使用することになるということです。カントと訳者の文脈では哲学者だけの問題として扱っていますが、これは宗教者や政治家にも適用される問題だと、私は読んでいて感じました。実際カントは宗教批判の本もものしています。ありがちな間違いは、聖典に道徳法則から逸脱する内容を書き込んだり、超感性的な能力を持つと自称する教祖の言葉を絶対視したり、それが神の命令だからと言って正当化するような行動です。これも人種や国籍など関係なくどこでも起こる間違いだと思います。日本でも起きてます。まず道徳法則が定められてから、その法則に従って、善と悪が既定されなければいけない。自分の行動原理がまるで普遍法則であるかのように行動しなさい、という命令。逆に言うと、自分の行動原理を普遍法則化させた場合、自分を破壊してしまうような原理は間違っており、偽の法則だということになります。そして、そういう人や組織は批判して構わないということです。そういう人は自分の人間性を破壊し、他人の自由をも侵害してることになる。善と悪が最初から存在してるのではなく、善と悪は人間の意志によって生み出されるもの。人間の外部に何か善きものがあるのではなく、人間の意志だけが良きもの、善におけるコペルニクス的転回(328P)。神や聖典の書いてあることだから信じる、というのは自分以外の他の者に服従していることになり、自由でもないんです。神だろうが聖典だろうが、どれだけ偉い人の命令であろうとも、まずその命令を自分の道徳法則と照らし合わせてみて、それが道徳的に敬っていいかどうか判断しなければいけないのです。
神
カントは『純粋理性批判』において究極を扱う思弁はアンチノミーに陥る、つまり概念のような経験的対象が与えられないものは無に等しいとした。無に対して斬りかかっても突いても空を斬るだけです。
石川文康訳
B646「物質と、そもそも世界に属するものは、最大の経験的統一としての必然的存在者の理念にふさわしくないということであり、そのような存在者は世界の外部に設定されなければならない」
「その場合、あたかも必然的存在者がいないかのように、われわれは世界の現象とその現実存在を、つねに安心して、他の現象から導出することができる」
B589「必然的存在者はまったく感覚界の系列の外部に(世界外の存在者として)、そしてまったく仮想的に考えられなければならない」
「このようにしてのみ、必然的存在者がそれ自身、偶然性とあらゆる現象の依存性の法則に従うことは、防止されうる」
これによって、世界の現象を神やその他の巨大な力のせいにすることなく、人間は探求できるというわけです。では神は存在しないのか?というとそれも違う。神は、道徳法則と純粋な実践理性の使用の目的としてのみ、実在性を備えています。そして、私達の理性は、因果の法則により必然的に究極を目指そうとする。しかし、究極に辿り着くとアンチノミーという無の戦いに陥ってしまう。そういう問い続ける能力があるのに、問いが解決しない、これはあまりにも理不尽でしょう。ここから、徳と幸福の合一という最高善へと人間は辿り着くことができると想定されます。しかし、それは生きてるうちは不可能で、死後魂だけになって実現されるのでしょう。神(最高善)と死後の世界は現実世界にあるのではなく、私達が叡智的な世界として要請するのです。
神の種族
人間が感性的自然と非連続で、他の動物達とは違っている証拠が、自由概念に求められるわけです。カントは遺稿で、人間の道徳的実践理性において、人間のあらゆる義務がまるで神の命令であるかのように認識することにおける人間の規定が証明されうる。自由という私達にも把握できない能力が無限に感性界の外の領域に私達を立てる。すなわち使命そして素質において、理性的存在者は神の種族である、と述べています。『カント全集 10 たんなる理性の限界内の宗教』岩波書店。このカントの考えによると、理性を持つ人間には他の動物にはない目的があるようなのです。それは全人類が自分の行動原理を普遍的法則であるかのように行動し、お互いの理性を信頼しあい生きていく平和な社会を作る、と。人間は道徳的実践理性においてだけ、まるで神の命令かのようにそれを認識できるのです。神などいない、という無神論ではこれの説明がつかないです。神などいないと言ってる人は普段どうやって生活してるんでしょうかね?理性を捨てて獣のように生きることになると思うんですが…。それと、人間はサルから進化したという仮説がありますが、人間はどの段階でサルから神の種族になったのでしょうか。カントの哲学は無神論と進化論にも疑問を呈します。 -
Posted by ブクログ
近年の必読論考といえる「不気味なもの」だけ、とりあえず読んでみました。
「抑圧した熟知したものの回帰」というテーゼは有名だけど、いざ読んでみるとなかなか面白かったです。何よりホフマンの『砂男』の読解が鮮やか。
ただ、後半(ドッペルゲンガー論、アニミズム的能力の残滓論など)は思ったりより複雑かつスッキリしない論考なので、2回読んでようやく大意がわかる感じでした。
結論としては、「ある印象によって抑圧された幼児期のコンプレックスがよみがえったとき、あるいは克服された原始的な確信があらためて確証されたようにみえるとき、不気味なものという経験が生まれる」ってことでした。(後半部分はあまり知られていませんね。また、訳者の中山元は三系列に分けられるはずだと主張していますが。)
あと先行研究もあって、そもそもシェリングの言葉の発展概念みたいですね…シェリング、凄いわ。 -
Posted by ブクログ
概要
かつて、強く、勇敢で、富んでいる人々は」、「いい」とみなされていた。しかし、今では人よりも突出していることは、強欲だとして非難の対象になる。反対に清貧で謙虚で利他的な人は、集団で尊敬される傾向にある。このような道徳の変化はいつどのように起こったのだろうか…
そして、この道徳規範は、果たして価値があるのだろうか。
道徳の転換の起源は古代にまで遡る。抑圧されていた弱い人々は、凄まじい鬱憤と復讐の思いに耐えられなくなっていた。ニーチェのいう、ルサンチマンである。彼らは、価値基準の転換を試みることで、主人に対して永遠の復讐をした。それは、攻撃・利己・情欲は「悪」であり、忍耐・利他・禁欲といった行動は「善」であるという「奴隷道徳」を生み出した。この発明によって、強者を善悪で裁き、弱体化させることに成功した。
この一連の行為は、愚かで弱い人民によってなされたものではなく、背後には主導者がいた。それが、司牧者である。彼らは、人民を安楽に導来たいと真剣に考えていたが、実際には統治や支配の形態をとるようになっていた。人々が抑圧され、ルサンチマンを発散できないことで虚無に陥らないように、ルサンチマンの方向性を外部の強者と人々自身に向けせた。「お前が苦しいのは、お前が弱いからだ。お前自身にある。」と。こうして、奴隷道徳は人々の内部にそして外部環境にも浸透し、つにはヨーロッパ世界を覆うまでになった。
ニーチェは数千年の外から押し付けられ道徳規範から脱却し、自分自身の力の意志に従って、力強く生きることを勧める。
感想
昨年入門書を読んだあとに原著に挑戦し、見事に挫折。今年はちゃんと読み通せました。よかった!!私の中でニーチェとウェーバーは絶対リベンジしたい2人だったので、無事に読み通せてよかった。。。そして、わたしはニーチェなんだかんだ好き!!!!!
つい先日にオルテガの「大衆の反逆」を読んだばかりだったので、エリート主義のキャラ被りは否めない。相変わらずニーチェも酷い言いようで笑ってしまう。去年入門書を読んだときより、深い理解と洞察を得られた気がしているので、色々書き散らしていこうと思います!
1 涙ぐましいニーチェの超人人生
「超人」「ルサンチマン」。。。全体的にエリート感漂う言葉で有名なニーチェだが、本人はどんな生涯だったのだろうか。卓越した勇敢な貴族的人生。否、それはエリート貴族とは似ても似つかない極めて壮絶な人生であった。
異例の教授職の抜擢から転落、
友人との三角関係と失恋、
不人気と貧困と発狂______
これが、かの「超人」を掲げた哲学者の人生なのだろうか?
わたしは彼の境遇を思いながら、著作を読むと、胸がキュッとなると同時に、心から勇気づけられる気持ちがする。それは、彼が、自分のルサンチマンと一生涯かけて日々戦い、一つの体系的な思想まで昇華し、その価値を喝破しているからだ。彼こそ、超人の1人なのである。
考えてみてほしい。世間から全く認められない。愛する人が友人に取られる。
ニーチェの中には常に計り知れないほどのルサンチマンがあったはずだ。それを彼は分析視角として活用し、一個の思想体系まで昇華し切った。
そして、読んで貰えばわかると思うが、ニーチェの語りの口調は確信に満ちている。ここに至るまでに彼は人知れず、歯を食いしばって、涙ぐましい努力をしてきたんだろうと思いを馳せる。圧巻である。
しかし、哀しいかな。彼は生前はほとんど認められず、ついには発狂して死んでしまう。ここはゴッホを重ねてしまう。いやあ。。。ニーチェは死ぬ時は幸せだったんだろうか。。。
2 大衆の統治方法としての宗教の有用性と巧妙さ,現代的な応用方法
前回入門書を読んだ時は、ルサンチマンに塗れた大衆が強者に有利な道徳規範を転換することで、勝利を収めるという分析に感心していたのだが、今回はそれを操る司牧者の支配の巧妙さに目が向いた。
この司牧者の話は、現代的に言い換えると、「虚無を乗り越える強さを持たない(持てないの方が正しいかも)大衆のガス抜きをいかに行い、いかに生の肯定に導くか?」という問いに帰着するんじゃないかなと思う。
司牧者の実践はこうだ。
・ルサンチマンが溜まる子羊チャンたちの強者に対する道徳的な勝利でガス抜きさせる。
・子羊ちゃんたちの生活は惨めで苦しいものだったので、そこに原罪意識と救いという考えを刷り込んで、現状の苦しみのとそれを耐え忍ぶ意義づけを行う。
これらを通して、子羊ちゃんたちが虚無らないようにする。これは、、、中々の知恵である。
さて、現代だが、ますます子羊チャンたちにとっては厳しい状況になっている。資本主義が先鋭化する社会では、格差進行は止められず、近代以前の貴族社会の到来も待ったなしである。歴史的には、この辛い惨めな庶民に生きる力を与えてきたのは、司牧者であり、宗教だった。
現代では、誰が司牧者で、どんな方法が庶民を導きうるだろうか?今は政治家が前者のガス抜きだけやっているイメージで、もう少し後者の人々の現状認識の変化の手法が増えてもいいのかなと思う。安全な方法だと瞑想とかになるが、最悪な例だと、メディアのハックとか、デジタルデバイスへの没入促進、麻薬接種促進。若干この辺の傾向はもうありますよね。宗教での支配よりディストピア感ありますが、いかがなんでしょうか。。
3 我々の倫理観の行方、倫理観とはルサンチマンにすぎないのか?という永遠の問い
最後に、ニーチェは我々の倫理観を真っ向から否定する。それは奴隷道徳だ!お前の倫理は所詮ルサンチマンから来るものにすぎない!目を覚ませ!と。
これはかなり根底から価値観を揺るがされることだ。
私は去年どう生きるべきなんだろう?と悩んでいたときに、ニーチェの入門書に出会い、奈落の底に落とされた気分がした。高校の倫理の先生が言っていた「善く生きる」が自分の指針になるんじゃないかなとすら思っていた私(なぜニーチェを読んだのか)は、え?真理とか、善悪がないならじゃあどう生きればいいわけ?と八方塞がりだった。
そして、1年経った今でも、同じ問いは残る。自分の倫理観や規範意識、善く生きたいという思いは、弱さの自己正当化(ルサンチマン)にすぎないのか、自分が「強くなれないから」、強い人を引き摺り下ろすために倫理を使っていないか。自分の「善く生きる」方針は、強くなれないからそうせざるを得ず、ただ正当化して美化しているだけではないか。
ただ、今回ニーチェの一生や哲学史における立ち位置をおさらいしみると、どうもニーチェは「善く生きる」倫理観を全否定しているんじゃないと思うようになった。
ニーチェが強い口調で、倫理や真理を断罪するのは、それらの倫理観や規範意識は、古代から中世、中世から近代に至るまであまりに強大で支配的だったからではないかと思うようになった。一方的に、喝破し、断罪するぐらいでないと、「神は殺せなかったのだ」。それほど神はあまりに強大な存在だった。
また、前述した通り、ニーチェの人生は絶望に満ちていた。それでも生き抜く(発狂してしまったけれど)には、自分の哲学による自分の人生の強い正当化を切実に必要としていたんじゃないかと思うに至った。明らかにうまくいってない時に、他の人から「これ本当に良かったわけ?」と聞かれると、少し強気に「いやこれでよかったんだ!!!!」と言い返してしまうことはよくあって、ニーチェも近い心象だったのかなと思う。この辺ののっぴきならない事情を考えてみると、意外と全否定しているわけではないと都合のいい解釈ができるようになった。
昨年よりも動じなくなったのは、ニーチェの好敵手であるプラトンやその弟子アリストテレスの著作を読んで、こちらの善や徳重視の価値も信じられるようになったことも関係している。(プラトンは2−3冊読んだが、レビューが間に合っていない。ドストエフスキーやゲーテ、カールシュミット、西郷隆盛も読んだが、それらもレビューが間に合っておらず、内容を忘れてしまい、どうしたものかと思っています。笑)
また、カントも乗り越えるべき相手として出てきたので、いつか読みたいが、純正理性批判?は驚異の8巻で読めるわけなくて、頭を抱えています。
(資本論も読んでいるのですが、難しすぎて放り投げています。)
ということで、私の大好きなニーチェのご紹介でした!本当に力が出るのと、純粋に「「悪口力」」が高くて面白いので、おすすめです。今は善悪の彼岸も読んでいるので、またレビューします!
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Posted by ブクログ
言わずと知れた名著『純粋理性批判』のさわりを少しだけ。
人間の経験を経験たらしめる秘密のベールを紐解いていく。超自然的で形而上学的な概念や存在は我々の直感を超越してしまうゆえにそのブレーキの効かない理性に制限を作る、というよりも焦点を絞ると表現した方が適していそう。
時間と空間がアプリオリに与えられているからこそ感性が生まれ、主観と客観が入り混じるこの「世界」で体験を得ることができる。
物自体を見ることは不可能、その懐疑的思考が後の現代哲学を生み出す礎石ともなっている。
もちろん、批判哲学というすべての理性に対する基礎的学問を生み出すカントの言い分にはフッサールの現象学にも通じる。
ヘーゲルは主観と客観の弁証法によって現れ出る絶対精神こそが大事だろ、と力説していたがカントに対する強気なカウンターだったんだな。 -
Posted by ブクログ
ニーチェの訳本とは思えないくらいに非常にわかりやすい語り口であった。『道徳の系譜学』の違う訳を参考にしたくて、本書を購入したが、一冊目では理解しづらかった部分も、非常に明瞭に理解できるようになった点がよかった。
しかし一冊目から光文社の本のみというのも、哲学を読み解く醍醐味が半ば失われてしまう気もするので、二冊目の参考書としてもっているくらいがとても良いと思う。
また、解説も内容をわかりやすく伝えようとしている訳者の姿勢が伝わってよかった。
以下、第二論文のみ再読した際に、一部メモをとったので、そのメモを自分用に全て載っけておく。
第二論文感想・メモ
第二論文2を読んで思ったこと
「約束を守ることができる人間」と「できない人間」のことについて記されている。
ここの部分は、全体の中での役割としては、ある一つのコミュニティの中で、序列が生じる所以、必然性について書いていると思った。
そのコミュニティの中で約束を守る人間は上位にたつ根拠として、彼の持つ「良心」がある。
そして、このときの「良心」というのは、「約束を守ることができる自意識」であると同時に、「約束を守れない奴に鞭打つ権利を持つ自覚」でもある。
故に、「良心の疾しさ」が内向的な自虐であるとするなら、「良心」は外向的な虐待、というふうに解せる部分があるとおもった。
第二論文5を読んで思ったこと
ここでは、債務者に負債を返済させる、約束を守らせるために、痛み、刑罰によって「忘れさせないように」してきた経緯がかかれている。
これを第二論文2と関連させて読むと、「約束を守ることができる人間」が「守れない人間」に鞭打つ様子を、刑罰という形で、そのまま5で記しているのだと思った。
こう読むと、2→5という流れがあるようにみえる。当たり前なのかもしれないけど
第二論文7を読んで思ったこと
第二論文しか読んでないが、ここで初めてニーチェの真の敵「健常者まで柔弱化、道徳化してしまうこと」が、ペシミストとの対比としてでてきていた。
ペシミストは生の嘔吐、人生への不信をするが、沼地の植物のようなもので、それはまだいい、問題(最悪のしるし)は、柔弱、道徳化なのである、という。それは自分の動物的本能をはじいるものだ。
ここの対比は、一見同じように見えたが、ペシミストは、生存そのもの、自分の存在そのものに対する嫌悪というよりは、生きることやそれに伴う苦悩に対して嫌気があるもので、後者の病人のほうは、自分の存在、動物本能的部分すべてが無理になってしまうのが、ダメってこと?かとおもった。
他にも、人間はやっぱり苦悩そのものよりも苦悩の無意味さがつらいから、いつでも自分の苦悩を神が見てくれるように、神を発明した、とか、
決定論だと神が退屈してしまうから、神が人間への関心をなくさないように、自由意志を発明した、とか、ここら辺の話忘れてて、おもろ、と思った
第二論文11を読んで思ったこと
長かったので覚えてることだけ書く。初読の時は、弱者のルサンチマンを抑えるために、(本当はしたくないけど)強者が法律を定めた、というニュアンスで読んでいたが、それは普通に違いそうだった。
むしろ強者は積極的に法律を定める立場にあるのだろう。
そう読めば、多分後に出てくる、ルサンチマンが方向転換し、内向的な自虐、良心の疾しさに至る、という文脈も、これは弱者側はそうならじるをえないことだから、スムーズにつながる。
また、「正義」という起源についてもちらほら出てきていたが、(「正義」の起源は、約束を守れる人が自分と同程度のものと和解し合うことであり、自分より弱い約束を守れない下劣な奴らには、ルールを強制し、和解させること、であった)正義の起源の、「和解させる」の部分が法を設けて「和解させる」につながるなと思った。
つまり、強者は、ルサンチマンを抑えたい!という動機というよりかは、彼らの正義の観念に従って、うるさいやつらを和解させる!という感じの動機になるのかとおもった。
第二論文14を読んで思ったこと
刑罰を受けた犯罪者が、「まずいことになった感じ」だけがあって、反省・更生などしないのだ、という段落。
その理由として挙げられているのが、刑罰だって、見かけ上はただの「暴力」であって、あいつらだって自分と同じことやってるじゃないか、という感覚にしかならないのだという。
ここを再び読んで、確かに、と思った。学校教育とかで、最初にちょっかい出したやつよりも、やり返して暴力を振るった側が、「でも手を出したのはお前だ」と怒られる風景がある。しかし、大人が、暴力に対してあえて怒るのであれば、そもそも刑罰がなぜ暴力的であるかを考えるべきだと思った。
また、犯罪者を裁く側の人間に、「罪のある者」を相手にしている感覚はまったくなく、単に損害をもたらしたやつ、不運なやつ、という印象しかない、という記述も興味深い。
つまり、「刑罰」という概念と「罪」という概念の連関、あるいは、「負い目」という概念と「罪」という概念の連関は、まだここでは整備されていない。まだその連関が見出されていない時の刑罰の話なのだ。
だから、犯罪者も、裁判官ですらも、お互いに、なんで罰する(罰される)のだ?とキョトンとしているのである。
コントかよ、と思った。
第二論文19を読んで思ったこと
神々の起源についてまた述べてるところがあった。祖先の存在が次第に大きくなり、神となる。つまり恐怖感情こそが起源だということだ。
おそらくこっちの方がニーチェの語り口調は強かったので、前回見た、「人間の苦しみを見落とさせないために発明した」というのは、特性の一つとして発明した、という感じだろう。
高貴な人々ですらも、利子として神々に高貴さを返済してしまった、という部分は、わかるような、まだわからないような気がしている。
第二論文21を読んで思ったこと
この段落では、無神論と神(祖先)に対する負債のなさは比例するのではないか、という反論に対して、神が愛ゆえにすでに返済してしまったから、贖罪は不可能になってしまった、という主旨が語られる。
しかしこれはどうも屁理屈に聞こえてしまう。つまり、この段落は、キリスト教から逃れたくてももう逃れられない、だって神が贖罪してるから、という理屈だと思うが、そもそも無神論に向かえば、キリスト教から逃れられないとか、神が贖罪してる、とかそういうものに対しても無関心でいられるのではないか、と現代的な価値観から思う。なぜ無神論の人を想定するのに、キリスト教に囚われてる前提でいるのか、謎である。
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Posted by ブクログ
皆さんは物事の理解が、自分の中にある特定の法則に従って行われているのではないか、と疑問に思ったことはないだろうか。
カントはこの『純粋理性批判』の二巻によって、そのような法則の正体を明らかにしようとする。
すなわち感性で思い描いた現象の像(表象)は、知性(悟性)によってカテゴリーに分類された上で、規則に従って総合される。そして自己統合の意識(統覚)でその総合された概念を統一的に理解する。これらの作用によって物事を認識できるというのである。
何を言っているのかわからない方もいらっしゃると思われるので、少しわかりやすく言い換えよう。
物事を認識するには、物事を五感による現象としてイメージ(像, 表象)にし、それをまず自分の内に取り込む必要がある。この働きが直観であり、それを行うものが感性である。
そしてその像を様々なカテゴリーに仕分けする。さらにその仕分けしたものから一定の規則を見出し、互いに関連性を持つように結びつける(総合による概念化)。
この働きは知性によって行われる。また、この総合の働きをする力こそが想像力(構想力)であると、カントは言う。(想像力が感性に属することには注意が必要だ)
そうして最後にそれを全体で統一された概念として把握し、理解し納得するのである。
この一連の過程をカントは経験と言い、経験によって得られたものを認識と呼ぶ。
カントによれば、このカテゴリーや、概念を統一する働き(自己統合の意識)は人類にとって普遍的なもののようである。
普遍的ということはあらゆる人間に当てはまるということだ。それゆえ、そこには心理学(応用論理学)などの経験的な学問の入り込む余地はない。
それは例えば、人間が感性で像を思い描くための形式が空間と時間という、人類にとって普遍的なものに由来することに似ている(この辺りは一巻で述べられる)。
こうして普遍的な認識も成り立つ。そしてそこから例えばすべての自然科学の法則が生まれる、とカントは言うのである。
自己統合の意識はこの二巻のキーワードだ。
私たちはまず私たち自身を過去・現在・未来において一貫性のある統一体として認識している。
この自己認識が自分の中にあまねく及んでいることにより、他の対象にその統一を広げて、それを現象として直観し、概念化して、統合的に認識することができるのである。
例えば対象が自分にとってバラバラなものとして直観され、概念化されたとしても、自分の直観や概念に統一性が生まれなければそれを認識することはできないだろう。
この統一性を生み出すのが自己統合の意識だ、というわけである。
また、例えば他者が何かの現象を見て、それを認識したとしても、それはあくまで他者の認識であり、経験であって、自分自身の認識にはなり得ない。
自分が対象を(現象として)認識するには、まさに自分が自分自身として、時系列にそってその物事を経験するより他にはない。言い換えると自分が自分であり続けているという意識が大事なのである。
終わりに僕の個人的感想を述べる。僕は心理学的にはおそらく感性優位の人間であり、知性を軽んじている節がある。
実際、この二巻が自己統合の意識を含む知性を論じていると聞いて、読むのが退屈ではないかと躊躇ったほどだ。
けれども、読んでいるうちに知的好奇心が刺激され、熱中して読み進んでいった自分がいたことも事実だった。
それはある種のアイデンティティの新発見だった。自己統合の意識とはまた違う話になるが、僕はある程度の知的議論にも耐えることもできるらしいことが分かったのである。
それが理解できただけでも、この書籍を読んだことは大きな収穫だったと言えるのではないだろうか。 -
Posted by ブクログ
三角形的な関係においてこそ男性の欲求が増していく。嫉妬心という人間の心的働きは予想以上に不合理。愛する人を救いたいと欲する気持ち、愛する人は不幸であってほしいという願望、全てが非常に文化的な視点からの読み解きを推進してくる。映画や小説でそのような構造的仕組みが配されているのがよく分かる。
フロイトお得意の近親相姦的な欲望とその不可能性によるリビドーの増大、そしてその解消対象の選択等、まだ前半だが非常に面白い。訳が分かりやすい。
流石に女性が抱く男根願望に関しては納得がしづらい。クリトリスの不完全性を打ち出すフロイトは今的な視点で見ると理解ができないが、男性にも女性的な側面が入り混じる両性性についての、言及があったりと簡単に古臭い男根主義と切り捨てることはできない。当時の一般的な価値観と照らし合わせるとフロイトの思考の方が進んでるのかな、と。