概要
かつて、強く、勇敢で、富んでいる人々は」、「いい」とみなされていた。しかし、今では人よりも突出していることは、強欲だとして非難の対象になる。反対に清貧で謙虚で利他的な人は、集団で尊敬される傾向にある。このような道徳の変化はいつどのように起こったのだろうか…
そして、この道徳規範は、果たして価値があるのだろうか。
道徳の転換の起源は古代にまで遡る。抑圧されていた弱い人々は、凄まじい鬱憤と復讐の思いに耐えられなくなっていた。ニーチェのいう、ルサンチマンである。彼らは、価値基準の転換を試みることで、主人に対して永遠の復讐をした。それは、攻撃・利己・情欲は「悪」であり、忍耐・利他・禁欲といった行動は「善」であるという「奴隷道徳」を生み出した。この発明によって、強者を善悪で裁き、弱体化させることに成功した。
この一連の行為は、愚かで弱い人民によってなされたものではなく、背後には主導者がいた。それが、司牧者である。彼らは、人民を安楽に導来たいと真剣に考えていたが、実際には統治や支配の形態をとるようになっていた。人々が抑圧され、ルサンチマンを発散できないことで虚無に陥らないように、ルサンチマンの方向性を外部の強者と人々自身に向けせた。「お前が苦しいのは、お前が弱いからだ。お前自身にある。」と。こうして、奴隷道徳は人々の内部にそして外部環境にも浸透し、つにはヨーロッパ世界を覆うまでになった。
ニーチェは数千年の外から押し付けられ道徳規範から脱却し、自分自身の力の意志に従って、力強く生きることを勧める。
感想
昨年入門書を読んだあとに原著に挑戦し、見事に挫折。今年はちゃんと読み通せました。よかった!!私の中でニーチェとウェーバーは絶対リベンジしたい2人だったので、無事に読み通せてよかった。。。そして、わたしはニーチェなんだかんだ好き!!!!!
つい先日にオルテガの「大衆の反逆」を読んだばかりだったので、エリート主義のキャラ被りは否めない。相変わらずニーチェも酷い言いようで笑ってしまう。去年入門書を読んだときより、深い理解と洞察を得られた気がしているので、色々書き散らしていこうと思います!
1 涙ぐましいニーチェの超人人生
「超人」「ルサンチマン」。。。全体的にエリート感漂う言葉で有名なニーチェだが、本人はどんな生涯だったのだろうか。卓越した勇敢な貴族的人生。否、それはエリート貴族とは似ても似つかない極めて壮絶な人生であった。
異例の教授職の抜擢から転落、
友人との三角関係と失恋、
不人気と貧困と発狂______
これが、かの「超人」を掲げた哲学者の人生なのだろうか?
わたしは彼の境遇を思いながら、著作を読むと、胸がキュッとなると同時に、心から勇気づけられる気持ちがする。それは、彼が、自分のルサンチマンと一生涯かけて日々戦い、一つの体系的な思想まで昇華し、その価値を喝破しているからだ。彼こそ、超人の1人なのである。
考えてみてほしい。世間から全く認められない。愛する人が友人に取られる。
ニーチェの中には常に計り知れないほどのルサンチマンがあったはずだ。それを彼は分析視角として活用し、一個の思想体系まで昇華し切った。
そして、読んで貰えばわかると思うが、ニーチェの語りの口調は確信に満ちている。ここに至るまでに彼は人知れず、歯を食いしばって、涙ぐましい努力をしてきたんだろうと思いを馳せる。圧巻である。
しかし、哀しいかな。彼は生前はほとんど認められず、ついには発狂して死んでしまう。ここはゴッホを重ねてしまう。いやあ。。。ニーチェは死ぬ時は幸せだったんだろうか。。。
2 大衆の統治方法としての宗教の有用性と巧妙さ,現代的な応用方法
前回入門書を読んだ時は、ルサンチマンに塗れた大衆が強者に有利な道徳規範を転換することで、勝利を収めるという分析に感心していたのだが、今回はそれを操る司牧者の支配の巧妙さに目が向いた。
この司牧者の話は、現代的に言い換えると、「虚無を乗り越える強さを持たない(持てないの方が正しいかも)大衆のガス抜きをいかに行い、いかに生の肯定に導くか?」という問いに帰着するんじゃないかなと思う。
司牧者の実践はこうだ。
・ルサンチマンが溜まる子羊チャンたちの強者に対する道徳的な勝利でガス抜きさせる。
・子羊ちゃんたちの生活は惨めで苦しいものだったので、そこに原罪意識と救いという考えを刷り込んで、現状の苦しみのとそれを耐え忍ぶ意義づけを行う。
これらを通して、子羊ちゃんたちが虚無らないようにする。これは、、、中々の知恵である。
さて、現代だが、ますます子羊チャンたちにとっては厳しい状況になっている。資本主義が先鋭化する社会では、格差進行は止められず、近代以前の貴族社会の到来も待ったなしである。歴史的には、この辛い惨めな庶民に生きる力を与えてきたのは、司牧者であり、宗教だった。
現代では、誰が司牧者で、どんな方法が庶民を導きうるだろうか?今は政治家が前者のガス抜きだけやっているイメージで、もう少し後者の人々の現状認識の変化の手法が増えてもいいのかなと思う。安全な方法だと瞑想とかになるが、最悪な例だと、メディアのハックとか、デジタルデバイスへの没入促進、麻薬接種促進。若干この辺の傾向はもうありますよね。宗教での支配よりディストピア感ありますが、いかがなんでしょうか。。
3 我々の倫理観の行方、倫理観とはルサンチマンにすぎないのか?という永遠の問い
最後に、ニーチェは我々の倫理観を真っ向から否定する。それは奴隷道徳だ!お前の倫理は所詮ルサンチマンから来るものにすぎない!目を覚ませ!と。
これはかなり根底から価値観を揺るがされることだ。
私は去年どう生きるべきなんだろう?と悩んでいたときに、ニーチェの入門書に出会い、奈落の底に落とされた気分がした。高校の倫理の先生が言っていた「善く生きる」が自分の指針になるんじゃないかなとすら思っていた私(なぜニーチェを読んだのか)は、え?真理とか、善悪がないならじゃあどう生きればいいわけ?と八方塞がりだった。
そして、1年経った今でも、同じ問いは残る。自分の倫理観や規範意識、善く生きたいという思いは、弱さの自己正当化(ルサンチマン)にすぎないのか、自分が「強くなれないから」、強い人を引き摺り下ろすために倫理を使っていないか。自分の「善く生きる」方針は、強くなれないからそうせざるを得ず、ただ正当化して美化しているだけではないか。
ただ、今回ニーチェの一生や哲学史における立ち位置をおさらいしみると、どうもニーチェは「善く生きる」倫理観を全否定しているんじゃないと思うようになった。
ニーチェが強い口調で、倫理や真理を断罪するのは、それらの倫理観や規範意識は、古代から中世、中世から近代に至るまであまりに強大で支配的だったからではないかと思うようになった。一方的に、喝破し、断罪するぐらいでないと、「神は殺せなかったのだ」。それほど神はあまりに強大な存在だった。
また、前述した通り、ニーチェの人生は絶望に満ちていた。それでも生き抜く(発狂してしまったけれど)には、自分の哲学による自分の人生の強い正当化を切実に必要としていたんじゃないかと思うに至った。明らかにうまくいってない時に、他の人から「これ本当に良かったわけ?」と聞かれると、少し強気に「いやこれでよかったんだ!!!!」と言い返してしまうことはよくあって、ニーチェも近い心象だったのかなと思う。この辺ののっぴきならない事情を考えてみると、意外と全否定しているわけではないと都合のいい解釈ができるようになった。
昨年よりも動じなくなったのは、ニーチェの好敵手であるプラトンやその弟子アリストテレスの著作を読んで、こちらの善や徳重視の価値も信じられるようになったことも関係している。(プラトンは2−3冊読んだが、レビューが間に合っていない。ドストエフスキーやゲーテ、カールシュミット、西郷隆盛も読んだが、それらもレビューが間に合っておらず、内容を忘れてしまい、どうしたものかと思っています。笑)
また、カントも乗り越えるべき相手として出てきたので、いつか読みたいが、純正理性批判?は驚異の8巻で読めるわけなくて、頭を抱えています。
(資本論も読んでいるのですが、難しすぎて放り投げています。)
ということで、私の大好きなニーチェのご紹介でした!本当に力が出るのと、純粋に「「悪口力」」が高くて面白いので、おすすめです。今は善悪の彼岸も読んでいるので、またレビューします!