ニーチェの訳本とは思えないくらいに非常にわかりやすい語り口であった。『道徳の系譜学』の違う訳を参考にしたくて、本書を購入したが、一冊目では理解しづらかった部分も、非常に明瞭に理解できるようになった点がよかった。
しかし一冊目から光文社の本のみというのも、哲学を読み解く醍醐味が半ば失われてしまう気もするので、二冊目の参考書としてもっているくらいがとても良いと思う。
また、解説も内容をわかりやすく伝えようとしている訳者の姿勢が伝わってよかった。
以下、第二論文のみ再読した際に、一部メモをとったので、そのメモを自分用に全て載っけておく。
第二論文感想・メモ
第二論文2を読んで思ったこと
「約束を守ることができる人間」と「できない人間」のことについて記されている。
ここの部分は、全体の中での役割としては、ある一つのコミュニティの中で、序列が生じる所以、必然性について書いていると思った。
そのコミュニティの中で約束を守る人間は上位にたつ根拠として、彼の持つ「良心」がある。
そして、このときの「良心」というのは、「約束を守ることができる自意識」であると同時に、「約束を守れない奴に鞭打つ権利を持つ自覚」でもある。
故に、「良心の疾しさ」が内向的な自虐であるとするなら、「良心」は外向的な虐待、というふうに解せる部分があるとおもった。
第二論文5を読んで思ったこと
ここでは、債務者に負債を返済させる、約束を守らせるために、痛み、刑罰によって「忘れさせないように」してきた経緯がかかれている。
これを第二論文2と関連させて読むと、「約束を守ることができる人間」が「守れない人間」に鞭打つ様子を、刑罰という形で、そのまま5で記しているのだと思った。
こう読むと、2→5という流れがあるようにみえる。当たり前なのかもしれないけど
第二論文7を読んで思ったこと
第二論文しか読んでないが、ここで初めてニーチェの真の敵「健常者まで柔弱化、道徳化してしまうこと」が、ペシミストとの対比としてでてきていた。
ペシミストは生の嘔吐、人生への不信をするが、沼地の植物のようなもので、それはまだいい、問題(最悪のしるし)は、柔弱、道徳化なのである、という。それは自分の動物的本能をはじいるものだ。
ここの対比は、一見同じように見えたが、ペシミストは、生存そのもの、自分の存在そのものに対する嫌悪というよりは、生きることやそれに伴う苦悩に対して嫌気があるもので、後者の病人のほうは、自分の存在、動物本能的部分すべてが無理になってしまうのが、ダメってこと?かとおもった。
他にも、人間はやっぱり苦悩そのものよりも苦悩の無意味さがつらいから、いつでも自分の苦悩を神が見てくれるように、神を発明した、とか、
決定論だと神が退屈してしまうから、神が人間への関心をなくさないように、自由意志を発明した、とか、ここら辺の話忘れてて、おもろ、と思った
第二論文11を読んで思ったこと
長かったので覚えてることだけ書く。初読の時は、弱者のルサンチマンを抑えるために、(本当はしたくないけど)強者が法律を定めた、というニュアンスで読んでいたが、それは普通に違いそうだった。
むしろ強者は積極的に法律を定める立場にあるのだろう。
そう読めば、多分後に出てくる、ルサンチマンが方向転換し、内向的な自虐、良心の疾しさに至る、という文脈も、これは弱者側はそうならじるをえないことだから、スムーズにつながる。
また、「正義」という起源についてもちらほら出てきていたが、(「正義」の起源は、約束を守れる人が自分と同程度のものと和解し合うことであり、自分より弱い約束を守れない下劣な奴らには、ルールを強制し、和解させること、であった)正義の起源の、「和解させる」の部分が法を設けて「和解させる」につながるなと思った。
つまり、強者は、ルサンチマンを抑えたい!という動機というよりかは、彼らの正義の観念に従って、うるさいやつらを和解させる!という感じの動機になるのかとおもった。
第二論文14を読んで思ったこと
刑罰を受けた犯罪者が、「まずいことになった感じ」だけがあって、反省・更生などしないのだ、という段落。
その理由として挙げられているのが、刑罰だって、見かけ上はただの「暴力」であって、あいつらだって自分と同じことやってるじゃないか、という感覚にしかならないのだという。
ここを再び読んで、確かに、と思った。学校教育とかで、最初にちょっかい出したやつよりも、やり返して暴力を振るった側が、「でも手を出したのはお前だ」と怒られる風景がある。しかし、大人が、暴力に対してあえて怒るのであれば、そもそも刑罰がなぜ暴力的であるかを考えるべきだと思った。
また、犯罪者を裁く側の人間に、「罪のある者」を相手にしている感覚はまったくなく、単に損害をもたらしたやつ、不運なやつ、という印象しかない、という記述も興味深い。
つまり、「刑罰」という概念と「罪」という概念の連関、あるいは、「負い目」という概念と「罪」という概念の連関は、まだここでは整備されていない。まだその連関が見出されていない時の刑罰の話なのだ。
だから、犯罪者も、裁判官ですらも、お互いに、なんで罰する(罰される)のだ?とキョトンとしているのである。
コントかよ、と思った。
第二論文19を読んで思ったこと
神々の起源についてまた述べてるところがあった。祖先の存在が次第に大きくなり、神となる。つまり恐怖感情こそが起源だということだ。
おそらくこっちの方がニーチェの語り口調は強かったので、前回見た、「人間の苦しみを見落とさせないために発明した」というのは、特性の一つとして発明した、という感じだろう。
高貴な人々ですらも、利子として神々に高貴さを返済してしまった、という部分は、わかるような、まだわからないような気がしている。
第二論文21を読んで思ったこと
この段落では、無神論と神(祖先)に対する負債のなさは比例するのではないか、という反論に対して、神が愛ゆえにすでに返済してしまったから、贖罪は不可能になってしまった、という主旨が語られる。
しかしこれはどうも屁理屈に聞こえてしまう。つまり、この段落は、キリスト教から逃れたくてももう逃れられない、だって神が贖罪してるから、という理屈だと思うが、そもそも無神論に向かえば、キリスト教から逃れられないとか、神が贖罪してる、とかそういうものに対しても無関心でいられるのではないか、と現代的な価値観から思う。なぜ無神論の人を想定するのに、キリスト教に囚われてる前提でいるのか、謎である。