道徳の系譜学

道徳の系譜学

ビジネス・実用
1,276円 (税込)

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ニーチェが目指したのは、たんに道徳的な善と悪の概念を転倒することではなく、西洋文明の根本的な価値観を転倒すること、近代哲学批判だけではなく、学問もまた「一つの形而上学的な信仰に依拠している」として批判することだった。『善悪の彼岸』の結論を引き継ぎながら、キリスト教的道徳観と価値観の伝統を鋭い刃で腑分けし、新しい道徳と新しい価値の可能性を探る。ニーチェがいま、はじめて理解できる決定訳!

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道徳の系譜学 のユーザーレビュー

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    Posted by ブクログ

    概要
    かつて、強く、勇敢で、富んでいる人々は」、「いい」とみなされていた。しかし、今では人よりも突出していることは、強欲だとして非難の対象になる。反対に清貧で謙虚で利他的な人は、集団で尊敬される傾向にある。このような道徳の変化はいつどのように起こったのだろうか…

    そして、この道徳規範は、果たして価値があるのだろうか。

    道徳の転換の起源は古代にまで遡る。抑圧されていた弱い人々は、凄まじい鬱憤と復讐の思いに耐えられなくなっていた。ニーチェのいう、ルサンチマンである。彼らは、価値基準の転換を試みることで、主人に対して永遠の復讐をした。それは、攻撃・利己・情欲は「悪」であり、忍耐・利他・禁欲といった行動は「善」であるという「奴隷道徳」を生み出した。この発明によって、強者を善悪で裁き、弱体化させることに成功した。

    この一連の行為は、愚かで弱い人民によってなされたものではなく、背後には主導者がいた。それが、司牧者である。彼らは、人民を安楽に導来たいと真剣に考えていたが、実際には統治や支配の形態をとるようになっていた。人々が抑圧され、ルサンチマンを発散できないことで虚無に陥らないように、ルサンチマンの方向性を外部の強者と人々自身に向けせた。「お前が苦しいのは、お前が弱いからだ。お前自身にある。」と。こうして、奴隷道徳は人々の内部にそして外部環境にも浸透し、つにはヨーロッパ世界を覆うまでになった。

    ニーチェは数千年の外から押し付けられ道徳規範から脱却し、自分自身の力の意志に従って、力強く生きることを勧める。

    感想

    昨年入門書を読んだあとに原著に挑戦し、見事に挫折。今年はちゃんと読み通せました。よかった!!私の中でニーチェとウェーバーは絶対リベンジしたい2人だったので、無事に読み通せてよかった。。。そして、わたしはニーチェなんだかんだ好き!!!!!

    つい先日にオルテガの「大衆の反逆」を読んだばかりだったので、エリート主義のキャラ被りは否めない。相変わらずニーチェも酷い言いようで笑ってしまう。去年入門書を読んだときより、深い理解と洞察を得られた気がしているので、色々書き散らしていこうと思います!

    1 涙ぐましいニーチェの超人人生
    「超人」「ルサンチマン」。。。全体的にエリート感漂う言葉で有名なニーチェだが、本人はどんな生涯だったのだろうか。卓越した勇敢な貴族的人生。否、それはエリート貴族とは似ても似つかない極めて壮絶な人生であった。

    異例の教授職の抜擢から転落、
    友人との三角関係と失恋、
    不人気と貧困と発狂______

    これが、かの「超人」を掲げた哲学者の人生なのだろうか?
    わたしは彼の境遇を思いながら、著作を読むと、胸がキュッとなると同時に、心から勇気づけられる気持ちがする。それは、彼が、自分のルサンチマンと一生涯かけて日々戦い、一つの体系的な思想まで昇華し、その価値を喝破しているからだ。彼こそ、超人の1人なのである。

    考えてみてほしい。世間から全く認められない。愛する人が友人に取られる。
    ニーチェの中には常に計り知れないほどのルサンチマンがあったはずだ。それを彼は分析視角として活用し、一個の思想体系まで昇華し切った。

    そして、読んで貰えばわかると思うが、ニーチェの語りの口調は確信に満ちている。ここに至るまでに彼は人知れず、歯を食いしばって、涙ぐましい努力をしてきたんだろうと思いを馳せる。圧巻である。

    しかし、哀しいかな。彼は生前はほとんど認められず、ついには発狂して死んでしまう。ここはゴッホを重ねてしまう。いやあ。。。ニーチェは死ぬ時は幸せだったんだろうか。。。

    2 大衆の統治方法としての宗教の有用性と巧妙さ,現代的な応用方法
    前回入門書を読んだ時は、ルサンチマンに塗れた大衆が強者に有利な道徳規範を転換することで、勝利を収めるという分析に感心していたのだが、今回はそれを操る司牧者の支配の巧妙さに目が向いた。

    この司牧者の話は、現代的に言い換えると、「虚無を乗り越える強さを持たない(持てないの方が正しいかも)大衆のガス抜きをいかに行い、いかに生の肯定に導くか?」という問いに帰着するんじゃないかなと思う。
    司牧者の実践はこうだ。

    ・ルサンチマンが溜まる子羊チャンたちの強者に対する道徳的な勝利でガス抜きさせる。
    ・子羊ちゃんたちの生活は惨めで苦しいものだったので、そこに原罪意識と救いという考えを刷り込んで、現状の苦しみのとそれを耐え忍ぶ意義づけを行う。

    これらを通して、子羊ちゃんたちが虚無らないようにする。これは、、、中々の知恵である。

    さて、現代だが、ますます子羊チャンたちにとっては厳しい状況になっている。資本主義が先鋭化する社会では、格差進行は止められず、近代以前の貴族社会の到来も待ったなしである。歴史的には、この辛い惨めな庶民に生きる力を与えてきたのは、司牧者であり、宗教だった。

    現代では、誰が司牧者で、どんな方法が庶民を導きうるだろうか?今は政治家が前者のガス抜きだけやっているイメージで、もう少し後者の人々の現状認識の変化の手法が増えてもいいのかなと思う。安全な方法だと瞑想とかになるが、最悪な例だと、メディアのハックとか、デジタルデバイスへの没入促進、麻薬接種促進。若干この辺の傾向はもうありますよね。宗教での支配よりディストピア感ありますが、いかがなんでしょうか。。

    3 我々の倫理観の行方、倫理観とはルサンチマンにすぎないのか?という永遠の問い
    最後に、ニーチェは我々の倫理観を真っ向から否定する。それは奴隷道徳だ!お前の倫理は所詮ルサンチマンから来るものにすぎない!目を覚ませ!と。
    これはかなり根底から価値観を揺るがされることだ。

    私は去年どう生きるべきなんだろう?と悩んでいたときに、ニーチェの入門書に出会い、奈落の底に落とされた気分がした。高校の倫理の先生が言っていた「善く生きる」が自分の指針になるんじゃないかなとすら思っていた私(なぜニーチェを読んだのか)は、え?真理とか、善悪がないならじゃあどう生きればいいわけ?と八方塞がりだった。

    そして、1年経った今でも、同じ問いは残る。自分の倫理観や規範意識、善く生きたいという思いは、弱さの自己正当化(ルサンチマン)にすぎないのか、自分が「強くなれないから」、強い人を引き摺り下ろすために倫理を使っていないか。自分の「善く生きる」方針は、強くなれないからそうせざるを得ず、ただ正当化して美化しているだけではないか。

    ただ、今回ニーチェの一生や哲学史における立ち位置をおさらいしみると、どうもニーチェは「善く生きる」倫理観を全否定しているんじゃないと思うようになった。
    ニーチェが強い口調で、倫理や真理を断罪するのは、それらの倫理観や規範意識は、古代から中世、中世から近代に至るまであまりに強大で支配的だったからではないかと思うようになった。一方的に、喝破し、断罪するぐらいでないと、「神は殺せなかったのだ」。それほど神はあまりに強大な存在だった。

    また、前述した通り、ニーチェの人生は絶望に満ちていた。それでも生き抜く(発狂してしまったけれど)には、自分の哲学による自分の人生の強い正当化を切実に必要としていたんじゃないかと思うに至った。明らかにうまくいってない時に、他の人から「これ本当に良かったわけ?」と聞かれると、少し強気に「いやこれでよかったんだ!!!!」と言い返してしまうことはよくあって、ニーチェも近い心象だったのかなと思う。この辺ののっぴきならない事情を考えてみると、意外と全否定しているわけではないと都合のいい解釈ができるようになった。

    昨年よりも動じなくなったのは、ニーチェの好敵手であるプラトンやその弟子アリストテレスの著作を読んで、こちらの善や徳重視の価値も信じられるようになったことも関係している。(プラトンは2−3冊読んだが、レビューが間に合っていない。ドストエフスキーやゲーテ、カールシュミット、西郷隆盛も読んだが、それらもレビューが間に合っておらず、内容を忘れてしまい、どうしたものかと思っています。笑)

    また、カントも乗り越えるべき相手として出てきたので、いつか読みたいが、純正理性批判?は驚異の8巻で読めるわけなくて、頭を抱えています。
    (資本論も読んでいるのですが、難しすぎて放り投げています。)

    ということで、私の大好きなニーチェのご紹介でした!本当に力が出るのと、純粋に「「悪口力」」が高くて面白いので、おすすめです。今は善悪の彼岸も読んでいるので、またレビューします!

    0
    2026年02月03日

    Posted by ブクログ

    ニーチェの訳本とは思えないくらいに非常にわかりやすい語り口であった。『道徳の系譜学』の違う訳を参考にしたくて、本書を購入したが、一冊目では理解しづらかった部分も、非常に明瞭に理解できるようになった点がよかった。
    しかし一冊目から光文社の本のみというのも、哲学を読み解く醍醐味が半ば失われてしまう気もするので、二冊目の参考書としてもっているくらいがとても良いと思う。
    また、解説も内容をわかりやすく伝えようとしている訳者の姿勢が伝わってよかった。




    以下、第二論文のみ再読した際に、一部メモをとったので、そのメモを自分用に全て載っけておく。


    第二論文感想・メモ

    第二論文2を読んで思ったこと
    「約束を守ることができる人間」と「できない人間」のことについて記されている。
    ここの部分は、全体の中での役割としては、ある一つのコミュニティの中で、序列が生じる所以、必然性について書いていると思った。
    そのコミュニティの中で約束を守る人間は上位にたつ根拠として、彼の持つ「良心」がある。
    そして、このときの「良心」というのは、「約束を守ることができる自意識」であると同時に、「約束を守れない奴に鞭打つ権利を持つ自覚」でもある。
    故に、「良心の疾しさ」が内向的な自虐であるとするなら、「良心」は外向的な虐待、というふうに解せる部分があるとおもった。

    第二論文5を読んで思ったこと
    ここでは、債務者に負債を返済させる、約束を守らせるために、痛み、刑罰によって「忘れさせないように」してきた経緯がかかれている。
    これを第二論文2と関連させて読むと、「約束を守ることができる人間」が「守れない人間」に鞭打つ様子を、刑罰という形で、そのまま5で記しているのだと思った。
    こう読むと、2→5という流れがあるようにみえる。当たり前なのかもしれないけど

    第二論文7を読んで思ったこと

    第二論文しか読んでないが、ここで初めてニーチェの真の敵「健常者まで柔弱化、道徳化してしまうこと」が、ペシミストとの対比としてでてきていた。
    ペシミストは生の嘔吐、人生への不信をするが、沼地の植物のようなもので、それはまだいい、問題(最悪のしるし)は、柔弱、道徳化なのである、という。それは自分の動物的本能をはじいるものだ。
    ここの対比は、一見同じように見えたが、ペシミストは、生存そのもの、自分の存在そのものに対する嫌悪というよりは、生きることやそれに伴う苦悩に対して嫌気があるもので、後者の病人のほうは、自分の存在、動物本能的部分すべてが無理になってしまうのが、ダメってこと?かとおもった。

    他にも、人間はやっぱり苦悩そのものよりも苦悩の無意味さがつらいから、いつでも自分の苦悩を神が見てくれるように、神を発明した、とか、
    決定論だと神が退屈してしまうから、神が人間への関心をなくさないように、自由意志を発明した、とか、ここら辺の話忘れてて、おもろ、と思った

    第二論文11を読んで思ったこと
    長かったので覚えてることだけ書く。初読の時は、弱者のルサンチマンを抑えるために、(本当はしたくないけど)強者が法律を定めた、というニュアンスで読んでいたが、それは普通に違いそうだった。
    むしろ強者は積極的に法律を定める立場にあるのだろう。
    そう読めば、多分後に出てくる、ルサンチマンが方向転換し、内向的な自虐、良心の疾しさに至る、という文脈も、これは弱者側はそうならじるをえないことだから、スムーズにつながる。
    また、「正義」という起源についてもちらほら出てきていたが、(「正義」の起源は、約束を守れる人が自分と同程度のものと和解し合うことであり、自分より弱い約束を守れない下劣な奴らには、ルールを強制し、和解させること、であった)正義の起源の、「和解させる」の部分が法を設けて「和解させる」につながるなと思った。
    つまり、強者は、ルサンチマンを抑えたい!という動機というよりかは、彼らの正義の観念に従って、うるさいやつらを和解させる!という感じの動機になるのかとおもった。

    第二論文14を読んで思ったこと
    刑罰を受けた犯罪者が、「まずいことになった感じ」だけがあって、反省・更生などしないのだ、という段落。
    その理由として挙げられているのが、刑罰だって、見かけ上はただの「暴力」であって、あいつらだって自分と同じことやってるじゃないか、という感覚にしかならないのだという。
    ここを再び読んで、確かに、と思った。学校教育とかで、最初にちょっかい出したやつよりも、やり返して暴力を振るった側が、「でも手を出したのはお前だ」と怒られる風景がある。しかし、大人が、暴力に対してあえて怒るのであれば、そもそも刑罰がなぜ暴力的であるかを考えるべきだと思った。

    また、犯罪者を裁く側の人間に、「罪のある者」を相手にしている感覚はまったくなく、単に損害をもたらしたやつ、不運なやつ、という印象しかない、という記述も興味深い。
    つまり、「刑罰」という概念と「罪」という概念の連関、あるいは、「負い目」という概念と「罪」という概念の連関は、まだここでは整備されていない。まだその連関が見出されていない時の刑罰の話なのだ。
    だから、犯罪者も、裁判官ですらも、お互いに、なんで罰する(罰される)のだ?とキョトンとしているのである。
    コントかよ、と思った。

    第二論文19を読んで思ったこと
    神々の起源についてまた述べてるところがあった。祖先の存在が次第に大きくなり、神となる。つまり恐怖感情こそが起源だということだ。
    おそらくこっちの方がニーチェの語り口調は強かったので、前回見た、「人間の苦しみを見落とさせないために発明した」というのは、特性の一つとして発明した、という感じだろう。

    高貴な人々ですらも、利子として神々に高貴さを返済してしまった、という部分は、わかるような、まだわからないような気がしている。

    第二論文21を読んで思ったこと
    この段落では、無神論と神(祖先)に対する負債のなさは比例するのではないか、という反論に対して、神が愛ゆえにすでに返済してしまったから、贖罪は不可能になってしまった、という主旨が語られる。

    しかしこれはどうも屁理屈に聞こえてしまう。つまり、この段落は、キリスト教から逃れたくてももう逃れられない、だって神が贖罪してるから、という理屈だと思うが、そもそも無神論に向かえば、キリスト教から逃れられないとか、神が贖罪してる、とかそういうものに対しても無関心でいられるのではないか、と現代的な価値観から思う。なぜ無神論の人を想定するのに、キリスト教に囚われてる前提でいるのか、謎である。

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    2025年11月02日

    Posted by ブクログ

    ニーチェは、今の日本人こそ読むべきだと思う。言葉の一つ一つが自分に向けられているかのように刺さってくる。
    中二の頃、岩波文庫で読んでいたときと違って、訳が新しいとニーチェでもものすごく読みやすくなっている。これは論文というよりむしろ詩と言った方がいいかもしれない。

    0
    2021年06月29日

    Posted by ブクログ

    第一論文は語源的に、良いと悪い、善と悪の系譜をたどっていく。これまでのニーチェの直感的、詩的な記述に比べ、論理的な記述が明晰である。

    第3論文まで読んで、人間の底無しの深淵を覗き込んだような気がした。すごい筆力だった。

    ヨーロッパとキリスト教、そして学問体系に挑み、瓦解させ、それでも、さらに生きよと言う。恐ろしい本だ。

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    2017年10月11日

    Posted by ブクログ

    これまでの文化、哲学、さらには学問全体を、徹底的に分析し批判することで、ヨーロッパを支えてきた従来の価値観を転倒し、新たな価値観を探る。

    「どう生きるべきか?」という問いに、徹底的に、本気で向き合った、不朽の名著。

    以前、岩波文庫版『善悪の彼岸』で挫折してしまったが、今回、『ニーチェ入門』を読んでから本書に挑戦。
    内容は難解だが、訳文は読みやすい。

    0
    2016年10月15日

    Posted by ブクログ

    善悪の起源、良心の起源、禁欲の起源、それらが如何に倒錯的に現れ、人間を支配してきたか。それは近代科学のような学問の領域においてさえ。

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    2012年04月19日

    Posted by ブクログ

    第3論文「禁欲の理想の意味するもの」が最もおもしろかった。ルサンチマンについても、それが発揮される方向についても、この著作を読んでよく理解できた。

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    2026年06月07日

    Posted by ブクログ

    何かに対するアンチとして生まれる行動を批判し、ルサンチマン(怨恨の念)というシステムの起動を捉えていたニーチェ。

    アンチ、つまり何かへの敵対や恨み及びそこからしか創造できないこと。

    アンチから始まる道徳の究極の形態としての発展してきたものがキリスト教であった。

    ニーチェ その名前だけならば知っている。
    実際、ニーチェは特に日本では非常に有名な哲学者だ。

    例えば出版点数で見ると以下のようだ。

    「ニーチェの著作の出版点数は、出版国別では本国ドイツに次いで世界第二位、言語別でも、ドイツ語、英語訳、フランス語訳に次いで世界第四位です。日本は、世界一のニーチェ翻訳大国です。ドイツ語圏以外で、ニーチェを自国語で読むことに対する要求がこれほど強い国はありません」(225~226頁『ニーチェ入門』 ちくま学芸文庫、清水真木著)
    ※ニーチェ入門は非常に丁寧な入門書として最初で最後の本としてとても良い本だった。

    本書は第一論文から第三論文まで、ニーチェの著作の中では珍しい論文形式らしい。
    『道徳の系譜学』は彼がその晩年に自分の思想を分かりやすく書いた本として、『善悪の彼岸』と並ぶものとのことだ(前掲書より)。

    系譜学とは、その物事がどのように成り立ってきたのかを探る事であり、ニーチェは元々古典文献学を専門にしてきた研究者だった。
    彼はその手法を元に思想を形成してきた面がある。

    特に本書では、いかにして今『良い』とされるものと『悪い』とされるものが成り立ってきたかを考察している。
    良い悪い、つまり善悪を考える事は道徳とよばれる。ヨーロッパでは特にキリスト教をその根底に置いている。

    ニーチェは古代に遡り、弱者がルサンチマン(怨恨の念)に基づき、弱者こそ『善』、強者こそ『悪』という価値転換を行ってきたことを指摘する。
    ルサンチマンを原動力とした統治システム、それがキリスト教だった。
    ルサンチンマンは本書で以下のように言い表されている。

    「道徳における奴隷の反乱はまず、ルサンチマンそのものが創造する力をもつようになり、価値を生み出すことから始まる。このルサンチマンは、あるものに本当の意味で反応すること、すなわち行動によって反応することができないために、想像だけの復讐によって、その埋め合わせをするような人のルサンチマンである…奴隷の道徳は最初から、『外にあるもの』を、『他なるもの』を、『自己ならざる者』を、否定の言葉、否で否定する。この否定の言葉、否が彼らの創造的な行為なのだ」(本書56~57頁)

    怨恨の念が生み出す、価値転換。

    そもそも強者が『善』であり、弱者が『悪』であった。
    古代ギリシアの貴族は強く、誇り高く、強者であり善であった。
    同じく「日本の貴族、ホメロスの英雄、スカンジナヴィアのヴァイキング…」(本書65頁)もそうであった。
    その価値観がルサンチマンにより転倒した、それを探っていく。
    つまりは、ユダヤ教、キリスト教の系譜=歴史を探るということだ。
    特にニーチェの生きる当時の西欧世界にとってのキリスト教的価値観は絶大だった。

    その価値観を系譜学、つまりその起源に遡ってその価値観の転換を発見したことは非常に衝撃的な出来事だったのだろう。

    私はユダヤ教とキリスト教の大きな違いはユダヤ教が特定の『民族』にとっての宗教である事で、一方キリスト教は全人類の『普遍的』な宗教となったことだと思っている。
    ユダヤ教はパレスチナ周辺に住んでいた迫害を受けていた人々の宗教として『選民思想』を基にしてその範囲の中で自己正当化を図る、そうせざるを得ない過酷な対外的状況に応じるために生まれてきたと考えている。
    しかし、ユダヤ教共同体がうまくいくとその中でも弱者が生まれる。
    その弱者を救うのがユダヤ教徒の改革者キリストであり、『隣人愛』という形で救済を唱え全人類にとっての宗教となったと考えている。
    だから、ユダヤ教はその当初の民族以上の広がりを持つことはできなかったが、キリスト教はより広く『普遍性』をもった宗教としてうまくいった。
    例えば、ローマ帝国の国教となるくらいに。

    この発展のメカニズムをルサンチマンに見出し、
    ルサンチマンがいかに機能してきたかを第一論文で指摘し、第二論文においてその宗教の中での代表者(司牧者)がそれを点検し、禁欲という理想が掲げられてきたことを指摘している。

    さらにその禁欲という理想の名のもとに、近代的な学問もまた同様な構造があると言っており、ニーチェの射程は今の私たちにも間違いなくささる。

    ルサンチマンという人間に備わる機能は、歴史的に全人類を覆うくらいに発展し価値観を転倒してきた。
    それは宗教だけでなく学問にも同じように働いており、今も新たなルサンチマンという機能が蠢いているように思われる。

    『トランプ現象』や『ヘイトデモ』や『反日』のような何かに対するアンチから生まれる、外にあるものを否定の言葉、否で否定するという創造的な行為はニーチェが解明したルサンチマンシステムの延長線上にあるように思われる。

    しかし、外から「我々の自由が脅かされている」という恐怖と「無力な自分たちこそが善だと正当化したい」気持ちから発生する様々な現象の中には、個々人のよく生きたいと願う欲望もあると思う。

    ニーチェはシステムとして現れるルサンチマンを基にした宗教を批判し、そのシステムの中で生きている人々にはルサンチマンに陥るなと言っていると思う。

    ルサンチマンに回収されない個々人の欲望(よりよく生きたいというような)としての祈りが何らかの宗教的な形態を取ることや何らかの現象として現れる可能性はあるのではないかと思う。

    0
    2018年11月25日

    Posted by ブクログ

    西洋文明批判というニーチェの畢生の課題を、道徳の価値を問うという方法から遂行する。一応論文集という体裁はとっているが、中身はアフォリズムが敷き詰められた独特の文体である。しかしその中にも、道徳の起源を古き時代の支配関係、種族、生理学的反応などに見出そうとするニーチェの苦心が読み取れる。全てを混ぜっ返してしまうニーチェの筆法がよくわかる作品である。

    0
    2012年12月11日

    Posted by ブクログ

    読み物としては、善悪の彼岸のほうが面白かった。テンポも良かったし、語り口にキレがある。とはいえ、ルサンチマンやニヒリズムといったニーチェ用語に生で接することができて嬉しい。どこまでも冷徹な目で世界を眺める様子はさすが。
    論文形式といえど、結局はニーチェ節が満載で、敵対者に対して恐ろしいほどの語彙力であらん限りの悪口雑言を尽くすさまは、つい笑ってしまった。
    結論を小出しにしつつコネコネ、ネチネチと語る語り口で、途中でちょっと飽きた。でも解説が秀逸で、結論を一息で語ってくれる。

    0
    2011年06月10日

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