皆さんは物事の理解が、自分の中にある特定の法則に従って行われているのではないか、と疑問に思ったことはないだろうか。
カントはこの『純粋理性批判』の二巻によって、そのような法則の正体を明らかにしようとする。
すなわち感性で思い描いた現象の像(表象)は、知性(悟性)によってカテゴリーに分類された上で、規則に従って総合される。そして自己統合の意識(統覚)でその総合された概念を統一的に理解する。これらの作用によって物事を認識できるというのである。
何を言っているのかわからない方もいらっしゃると思われるので、少しわかりやすく言い換えよう。
物事を認識するには、物事を五感による現象としてイメージ(像, 表象)にし、それをまず自分の内に取り込む必要がある。この働きが直観であり、それを行うものが感性である。
そしてその像を様々なカテゴリーに仕分けする。さらにその仕分けしたものから一定の規則を見出し、互いに関連性を持つように結びつける(総合による概念化)。
この働きは知性によって行われる。また、この総合の働きをする力こそが想像力(構想力)であると、カントは言う。(想像力が感性に属することには注意が必要だ)
そうして最後にそれを全体で統一された概念として把握し、理解し納得するのである。
この一連の過程をカントは経験と言い、経験によって得られたものを認識と呼ぶ。
カントによれば、このカテゴリーや、概念を統一する働き(自己統合の意識)は人類にとって普遍的なもののようである。
普遍的ということはあらゆる人間に当てはまるということだ。それゆえ、そこには心理学(応用論理学)などの経験的な学問の入り込む余地はない。
それは例えば、人間が感性で像を思い描くための形式が空間と時間という、人類にとって普遍的なものに由来することに似ている(この辺りは一巻で述べられる)。
こうして普遍的な認識も成り立つ。そしてそこから例えばすべての自然科学の法則が生まれる、とカントは言うのである。
自己統合の意識はこの二巻のキーワードだ。
私たちはまず私たち自身を過去・現在・未来において一貫性のある統一体として認識している。
この自己認識が自分の中にあまねく及んでいることにより、他の対象にその統一を広げて、それを現象として直観し、概念化して、統合的に認識することができるのである。
例えば対象が自分にとってバラバラなものとして直観され、概念化されたとしても、自分の直観や概念に統一性が生まれなければそれを認識することはできないだろう。
この統一性を生み出すのが自己統合の意識だ、というわけである。
また、例えば他者が何かの現象を見て、それを認識したとしても、それはあくまで他者の認識であり、経験であって、自分自身の認識にはなり得ない。
自分が対象を(現象として)認識するには、まさに自分が自分自身として、時系列にそってその物事を経験するより他にはない。言い換えると自分が自分であり続けているという意識が大事なのである。
終わりに僕の個人的感想を述べる。僕は心理学的にはおそらく感性優位の人間であり、知性を軽んじている節がある。
実際、この二巻が自己統合の意識を含む知性を論じていると聞いて、読むのが退屈ではないかと躊躇ったほどだ。
けれども、読んでいるうちに知的好奇心が刺激され、熱中して読み進んでいった自分がいたことも事実だった。
それはある種のアイデンティティの新発見だった。自己統合の意識とはまた違う話になるが、僕はある程度の知的議論にも耐えることもできるらしいことが分かったのである。
それが理解できただけでも、この書籍を読んだことは大きな収穫だったと言えるのではないだろうか。