本第5分冊の帯には「最大の難所、あのアンチノミーがついに理解できる」とある。アンチノミー。この歳になるまで全く知らなかった言葉だが、それほどまでに重要な概念なのだろうか。ともかく読み進める。
前分冊に引き続き、主眼は経験を超越しようとする理性の批判。西洋形而上学における「世界が絶対的・無条件的
...続きを読む全体性を有する」という理念はどこから出てくるのか。カントは経験可能な総体としての「世界」と、現象が全体性を持つための条件としての「自然」からこの問題にアプローチするが、それぞれ対応するカテゴリーを2つずつ当てがうため、検討するアンチノミーも4つになっているというわけだ。
ここで「無限」の概念が重要な役割を果たすのが個人的には意外だった。
①全体性を担保する〈無条件者〉が系列に含まれる場合は、スピノザの神即自然よろしく系列全体が無条件ということになり、理性の無条件なものへの遡求(系列の背進)は〈無限への背進〉になる。
②無条件者が系列の外部に独立して存在する場合は、系列全体がこのライプニッツ的な神に従属することになり、系列の背進は〈不定への背進〉ということになる。
正直なところ、特に①の前提となっている「無限でありながら全体が把握可能な系列」というのがよくわからない。無論、有限な系列全体を説明するのに無限回のステップでこれを行う、ということなら理解できる。しかしここで言われているのは、「世界全体が把握される前からそれが無限であることが諒解されている」という事態だ。無限であることが初めからわかっているシステム、とは一体どういうことなのか。カントのロジックからすれば、無限のような経験を超越した概念をいきなり直感する能力を持つのは、ヌーメノンを把握できる神のような叡智的主体に限られるのではなかったか?無限/有限という排中律が前提であるからこそこのような議論になるのであって、「そもそも有限か無限かは経験してみなければわからない」のだとしたら、ここでの議論は成り立たないのではないだろうか。
ともかく、ここから4つのアンチノミーの定立/反定立命題それぞれの証明が行われるのだが、先述の無限を巡る議論に加え、それぞれ帰謬論(背理法)を用いているため論理の流れが非常に煩雑でわかりにくい。しかも、そもそも使用されるロジックも納得感のあるものとは言い難いのだ。例えば第一アンチノミーの定立命題で言えば、無限の時間が経過したと仮定→無限の時間は完結しない→現在の世界も生じないはず、として世界の端緒の存在を背理的に証明するのだが、現在の世界を無限時間の完結後の姿だと断定する根拠が明らかに脆弱だ。現在の世界は無限前進の最中の過渡的な姿だと見れば、無限の時間が存在する(端緒はない)ことに矛盾はない。このロジックは他のアンチノミーの議論にも用いられているので、4つのアンチノミーに関する議論全ての存立基盤が怪しい、ということになってしまう。
だから、ここから論ぜられるアンチノミーの誤謬の指摘(二律排反の解消)も、論理的にかなり頼りないものと言わざるを得ない。各命題は現象と物自体を混同している、とカントはいうが、そのカント自身による各命題の証明自体が「無限の系列の全体」という物自体を前提を認識可能だとする、純粋/経験的カテゴリーを混同したものなのだから当然だろう。またアンチノミーが実は矛盾対等ではないとの指摘についても、各命題の証明で排中律をおきながらその検証では否定するというのでは、そもそも検証になっているのだろうかという疑問が湧く。
全般的にみて「カントのアンチノミーの議論は〈無限〉の取り扱いを誤っている」というのが僕の感想。過ぎ去った時間の総体などのような「無限の系列の全体」という自家撞着した概念を前提とすれば、矛盾を含む結論を導出するのは容易なので、ここで行われていることがすごく意味のあることだ、とは少なくとも僕には思えなかった。砂の山を作って自らそれを壊しているだけに思えてならないのだ。当時のキリスト教神学に与えた打撃が相当のものであったろうことは理解できるが、結局のところ「どっちとも言えない」という結論もなんとなく拍子抜けしてしまう。
ただそうは言っても、素人の僕にここまで疑問を持たせるのだから、この箇所の読み応えは相当なものと言っていいと思う。これから何度も読み返す分冊になりそうだ。