【感想・ネタバレ】実践理性批判1のレビュー

あらすじ

「人間が真の意味で自分を自由であると認識できるのは道徳法則があるからであり、また自由が存在しなければ道徳的な法則をみいだすことはできなかった。」本書は、思弁的な理性を批判した『純粋理性批判』につづくカントの第二批判書であり、倫理学史上、最も重要な古典である。

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Posted by ブクログ

実践理性批判
 この本は、人間はなぜ道徳を持っているのか、なぜ道徳的に生きるように自分で自分に言い聞かせているのか、そういうことを考え、また考えさせる本です。人間には誰しも自分だけの達成したい利益や欲望があるのに、それを中断させてまで道徳的に生きるように命令を下してるわけです。嘘をついて人を騙したり、盗んで手に入れたり、殺人を犯したり拉致したり、そういうことはやろうと思えば出来るはずなのにやらない。やってはいけないとなぜだか知らないけど分かってるから。カントはこの道徳的な命令は、自然因果の系列とは別のものだと洞察した。私達の生きる現実の世界は原因と結果の法則で成り立っている。しかしこの道徳命令は、その因果の法則を全然考慮に入れず、要するに人間達それぞれの私利私欲なんか全く気にせず一刀両断にしてくる。それ以上原因を遡れない究極の命令として与えられている。究極、これは神のことであり、触れたり見たり経験できない叡智的な概念であり、それが自由であると理解した。私達が生きる現実世界には経験的対象が存在しないものです。つまり人間は経験世界と叡智的な世界の両方にまたがってる種族だと言える。大事なのはこの法則は全人類が等しく持ち合わせてるものであり、人種や性別や国籍や年代など関係なく、簡単に理解できるものであろうということ。だから昔の欧州人のカントが言ってるだけだ、現在の別の地域の私達には関係ない、とはならないわけです。これによると、たとえ個人がついた嘘であろうとも、この社会全体を棄損していることになります。(その前に虚言は自分の人間の尊厳を投げ捨て、無化する行為『人倫の形而上学 道徳の形而上学的原理』)『法論の形而上学的原理』では、それが公法(国と国との関係)にまで拡大され、自国の利益のためなら、または自分が気に入らない人や国になら嘘をついて騙していい、という原理の国こそが不法な敵とされています。結局これらの人や国は、その自分の不誠実な原理がもし普遍的となったら、自分達こそ騙されたり攻撃されたりする危険が伴い、それについて何の文句も言えなくなる、ということに気付いていない。



善と悪
 善と悪についても分析されていて、従来の善と悪の概念を最初に定め、そこから道徳法則を導き出す、という道徳哲学の誤謬を批判します。善と悪の概念を先に定める場合快不快の感情が羅針盤となりますが、そんなもの人それぞれ違ってるわけで、万人に当てはまる根源とはならないわけです。これの問題点は、万人が納得するわけもないものを無理やり当てはめようとする行動に出た場合、恐怖や暴力を使用することになるということです。カントと訳者の文脈では哲学者だけの問題として扱っていますが、これは宗教者や政治家にも適用される問題だと、私は読んでいて感じました。実際カントは宗教批判の本もものしています。ありがちな間違いは、聖典に道徳法則から逸脱する内容を書き込んだり、超感性的な能力を持つと自称する教祖の言葉を絶対視したり、それが神の命令だからと言って正当化するような行動です。これも人種や国籍など関係なくどこでも起こる間違いだと思います。日本でも起きてます。まず道徳法則が定められてから、その法則に従って、善と悪が既定されなければいけない。自分の行動原理がまるで普遍法則であるかのように行動しなさい、という命令。逆に言うと、自分の行動原理を普遍法則化させた場合、自分を破壊してしまうような原理は間違っており、偽の法則だということになります。そして、そういう人や組織は批判して構わないということです。そういう人は自分の人間性を破壊し、他人の自由をも侵害してることになる。善と悪が最初から存在してるのではなく、善と悪は人間の意志によって生み出されるもの。人間の外部に何か善きものがあるのではなく、人間の意志だけが良きもの、善におけるコペルニクス的転回(328P)。神や聖典の書いてあることだから信じる、というのは自分以外の他の者に服従していることになり、自由でもないんです。神だろうが聖典だろうが、どれだけ偉い人の命令であろうとも、まずその命令を自分の道徳法則と照らし合わせてみて、それが道徳的に敬っていいかどうか判断しなければいけないのです。


 カントは『純粋理性批判』において究極を扱う思弁はアンチノミーに陥る、つまり概念のような経験的対象が与えられないものは無に等しいとした。無に対して斬りかかっても突いても空を斬るだけです。

石川文康訳
B646「物質と、そもそも世界に属するものは、最大の経験的統一としての必然的存在者の理念にふさわしくないということであり、そのような存在者は世界の外部に設定されなければならない」
「その場合、あたかも必然的存在者がいないかのように、われわれは世界の現象とその現実存在を、つねに安心して、他の現象から導出することができる」

B589「必然的存在者はまったく感覚界の系列の外部に(世界外の存在者として)、そしてまったく仮想的に考えられなければならない」
「このようにしてのみ、必然的存在者がそれ自身、偶然性とあらゆる現象の依存性の法則に従うことは、防止されうる」

 これによって、世界の現象を神やその他の巨大な力のせいにすることなく、人間は探求できるというわけです。では神は存在しないのか?というとそれも違う。神は、道徳法則と純粋な実践理性の使用の目的としてのみ、実在性を備えています。そして、私達の理性は、因果の法則により必然的に究極を目指そうとする。しかし、究極に辿り着くとアンチノミーという無の戦いに陥ってしまう。そういう問い続ける能力があるのに、問いが解決しない、これはあまりにも理不尽でしょう。ここから、徳と幸福の合一という最高善へと人間は辿り着くことができると想定されます。しかし、それは生きてるうちは不可能で、死後魂だけになって実現されるのでしょう。神(最高善)と死後の世界は現実世界にあるのではなく、私達が叡智的な世界として要請するのです。

神の種族
 人間が感性的自然と非連続で、他の動物達とは違っている証拠が、自由概念に求められるわけです。カントは遺稿で、人間の道徳的実践理性において、人間のあらゆる義務がまるで神の命令であるかのように認識することにおける人間の規定が証明されうる。自由という私達にも把握できない能力が無限に感性界の外の領域に私達を立てる。すなわち使命そして素質において、理性的存在者は神の種族である、と述べています。『カント全集 10 たんなる理性の限界内の宗教』岩波書店。このカントの考えによると、理性を持つ人間には他の動物にはない目的があるようなのです。それは全人類が自分の行動原理を普遍的法則であるかのように行動し、お互いの理性を信頼しあい生きていく平和な社会を作る、と。人間は道徳的実践理性においてだけ、まるで神の命令かのようにそれを認識できるのです。神などいない、という無神論ではこれの説明がつかないです。神などいないと言ってる人は普段どうやって生活してるんでしょうかね?理性を捨てて獣のように生きることになると思うんですが…。それと、人間はサルから進化したという仮説がありますが、人間はどの段階でサルから神の種族になったのでしょうか。カントの哲学は無神論と進化論にも疑問を呈します。

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2026年06月20日

Posted by ブクログ

抽象的で非常にわかりにくいが、カントは抽象的なまま考えていたから、仕方ない部分も多いよね。中島義道によれば、もともとラテン語で思考し、出版する予定でいたらしい。

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2025年06月23日

Posted by ブクログ

なにかするときにどうしてそうするのか。どのようなしくみによってそうすることを判断するのか。簡単に言えばそんなことが書いてある本です。
行動原理は経験主義に非ず道徳によるということを言っておられます。
最初何言ってんのと思うようなことも1ミリも疑問を残さず解消してくれるのがすごいです。純理を読んでいればそんなに難しさは感じないけれど、必ず純理を読んでから読みましょう。
ていうかカント読んでから「哲学」にくくられる分野の読物をカント以外読めなくなってしまった。咀嚼に時間がかかるようになっているというか、思考の道を放置しすぎてて荒れ地になっちゃってる感じがしないでもない。それが唯一の害。しかしその他何かほかのものを読んでいる時なんかにリンクする思想に彩られた一文を見つけると心が躍る。子供にしか哲学をできないという永井均さんの言葉に賛成しますが、哲学の読物は面白いです。2巻に続く。

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2014年03月18日

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