【感想・ネタバレ】実践理性批判2のレビュー

あらすじ

「わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。」人間の自由な意志と倫理を深く洞察し、道徳原理を確立させた近代道徳哲学の原典。

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Posted by ブクログ

 これは道徳の本ということで終わる場合が多いけど、紛れもなく宗教批判まで射程に入れている哲学の本です。全人類が共通に持つ道徳法則の命令、どうして持っているのかどうやって持っているのか分からない、この世に超常現象があるとするならこれのみ。そしてこの道徳法則から宗教が生まれるという(164ページ)。逆に言うと根っこが道徳でないならそれはニセモノの宗教ということです。他宗教の人間を迫害したり、他宗教の施設を燃やしたり、他宗教の祭りやイベントを妨害したり、他宗教の人間を殺害したりするようならそれは宗教ではないということになります。どれだけ宗教だと言い張っても法治国家では許されることはない。最高善である神が法律違反になるような行為を命令することなんかないし、人間同士の争いなど望んでいない、ましてや宗教という自分自身に関することで他の人間に迷惑かけたり傷つけたりすることなど言語道断で許さないでしょう。『純粋理性批判』にこのような記述があります。

石川文康訳
B646「物質と、そもそも世界に属するものは、最大の経験的統一としての必然的存在者の理念にふさわしくないということであり、そのような存在者は世界の外部に設定されなければならない」
「その場合、あたかも必然的存在者がいないかのように、われわれは世界の現象とその現実存在を、つねに安心して、他の現象から導出することができる」

B589「必然的存在者はまったく感覚界の系列の外部に(世界外の存在者として)、そしてまったく仮想的に考えられなければならない」
「このようにしてのみ、必然的存在者がそれ自身、偶然性とあらゆる現象の依存性の法則に従うことは、防止されうる」

 カントといえばコペルニクス的転回が有名ですが、これもそうです。とてつもない革命的なことを言っています。これ要するにどの宗教にも神の言葉を記述したものとして聖典があると思いますが、その物資的な本や文字を見たり内容を聞かされたりすることは全く全知全能の神にふさわしくないと言っているのです。この聖典は神の言葉でうちの宗教だけが本物なんだと主張することは誰でもできる。しかし、例えば日本人の私には別の地域の言語も文字も理解できません。どれだけその地域の聖典と神の言葉がすごいと言われても全く理解できない。これがおかしい。神は全知全能なのになぜ特定地域の特定の人達にしか理解できない言葉と文字で自身の言葉を伝えたのでしょうか。なぜ普遍的なはずの神が一部の地域の人達だけに自分の言葉を伝えるというえこひいきをするのでしょうか。それは神の無能力を示しているのではないでしょうか。仮にその地域の人達が絶滅したら神の言葉が消滅してしまう恐れがあるのに。本というこれまた消失可能な物資的媒体に頼るのもおかしい。本当に普遍的なら全人類が理解できる言葉と文字によって全人類に自分の命令を伝えるものだと思いますけど、世の中そうはなっていない。神は自身の言葉を伝えるのに感性的な手段はとっていないということです。全知全能の神なら全人類に一律に命令を見たり聞いたりでない別の手段で与え、なおかつ人間が神の操り人形にならないという絶妙の配慮するでしょう。また神は常に全人類の心を永遠に認識しているということになります。でないとこの命令は不可能です。これが道徳法則ということになります。聖典を崇拝する気持ちは分かるけど、残念ながらそれらは100%人間が作成したものです。これは確定してます。上記の通り神に相応しくないのだから。神が本当に感性的な方法で言葉を授けたなどあってはならないのです。そんなことがあったら科学など成り立たなくなるし、それは紙とインクを神だと思って崇拝してるだけの真の偶像崇拝で、不信仰です。たとえ強大な権威として神の言葉が伝わっていても、私達はそれを本当に神の言葉として崇拝して実行していいのかどうかまず己の道徳法則に照らして吟味する必要がある。福音書の聖者イエスでさえ、私達が彼を聖者と認める前に、道徳的完全性についての私達の理想と比較されなければならないと述べられています『人倫の形而上学の基礎付け』。神は私達の外部ではなく内部にいます。となると、どれだけうちの宗教だけが本物だと言い張ってもそんな特別扱いなどありえないと分かる。神はこの世界の私達とは違った方法で存在しているのであり、それについての崇拝と祈りはある意味みな平等に無と言える。うちの宗教だけが神の言葉を保存しているなんてのは思い上がりであり、うちらだけが神と現実に接続することができるなんてのは理性の力を超えた狂信です。人類は全員等しく心の中で神と繋がっています。神を外部の書物などに求め、その文言を一字一句神聖視し、たとえ道徳的にもとる内容でも信じることが神への崇拝だと思ってるならとんでもない思い違いです。自分だけが神の声を聴くことが出来る、神を見ることが出来るというのもただのうぬぼれです。本当に神を見たり声を聴いたりできるなら、全人類が神を見られて、全人類が神の声を聴けないとおかしい。

 尊敬の念を道徳法則に抱き、尊敬という感情はこの神=道徳法則をまるで具現化させてるような人間に私達が抱く感情です。そしてこの道徳法則が極まってくると神聖さを帯び恥じます。しかし人間は神聖さの完全体にこの世でなることができない。なぜなら道徳法則は人間の私利私欲・報酬への期待を問答無用で断つからです。これでは幸福にはならない、しかし神聖さの完全体とは道徳と幸福が一致した状態なので、肉の体を失い魂だけになって天国でさらなる道徳の修行をする必要に迫られます。ここで天国とか地獄とかがあると意欲できるわけです。どうやってあるのか分からないけれど、とにかくあることは分かるから、人間の方から天国を要請する。そして理性は道徳法則により最高善を目指せと問答無用で言ってくる。ということは最高善の存在者が存在してないとおかしい。どこにどうやって存在してるのかは分からないけどとにかくそういう存在がいることだけは分かる。そこで人間の方が神を要請する。これらのことは人間の意志が誰からも縛られていない自由だからこそ自分で考えられるのです。人間は自らの意志を感性界に縛られることなく叡智界の法則に従って規定することができる。もし自由がなかったら人間は獣のように行動していたでしょう。ここに人間は自由という原因性を要請する。神や魂など超越的であったものは思弁的理性がアンチノミーに陥ったのに対し、実践的な理性では客体が現存することが必然的となったのでした。ここから分かることは、ある宗教者が毎日神に何度も祈って、複雑な宗教の規則を守ってれば天国へ行けて贅沢ができると思っているだけで、他の人間に対して横柄だったり傲慢だったりするのと、全然宗教的ではない人が道徳にもとる行為は止めようと誓い他人に対しても高潔な生き方をしていた場合、天国へ行くのは後者の人であると分かるのです。他のたとえでは、異教の祭りを敵視して参加しない人と、異教の祭りに参加して異教徒と仲良くしてる人どちらが天国へ行くか、これも後者だと分かるでしょう。神は祭りの違いなどでいちいち怒らない。異教の祭りを神のために妨害してやるなんて考えてる人は論外、地獄行き確定です。

 ここからは本書の内容とは全然関係ないのですが、言っておきたい。このカントがドイツ観念論哲学としてヘーゲル達と同一のジャンルに分類されてるのが残念でなりません。はっきり言ってカントとヘーゲルは全然違います。カントは形而上学の思い上がりと暴走を止めようとした。ヘーゲルは矛盾こそが世界を動かす力として矛盾を許容し、シルクハットから生きたウサギを取り出すがごとき、文字通りなんでもありにしてしまった。アンチノミーのように、神だの魂だの超越論的な題材は何とでも言えるから、本人の好きなように因果関係を設定できる。カントはそういう何の苦労もかけず大きな発見を導出する神託まがいの哲学を批判したわけですが、そのヘーゲルがカントの名声を利用してのし上がっていったというのが真相です。このような哲学をカントは『哲学における最近の高慢な口調』で批判しています。またカントはどれだけ偉い権威だろうと批判の対象になると後の独裁者と呼ばれるような人を批判しました。一方ヘーゲルは権力者に媚びて、あらゆる批判を回避しその時の政権が最善となる独裁を正当化するような同一哲学を展開。これがマルクスを経て自由に牙をむき世界に災いをもたらすことになります。この点でも対照的です。カントがヘーゲルの始祖みたいな扱いになっている、これだけが残念です。

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2026年08月12日

Posted by ブクログ

第一部 純粋実践理性の原理論
第一編 純粋実践理性の分析論
第三章 純粋実践理性の動機について
純粋実践理性の分析論の批判的な解明
第二編 純粋実践理性の弁証論
第一章 純粋実践理性一般の弁証論について
第二章 最高善の概念の規定における純粋理性の弁証論について
第二部 純粋実践理性の方法論
結論
解説(中山 元)
年譜
訳者あとがき

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2026年07月09日

Posted by ブクログ

道徳的である(この表現は正確さが足りない)ことは予想以上に困難であることが判明。私の考える道徳というものはカントでいうところの適法性の道徳でしかなかった(振る舞いとしては倫理的と言えると思うけど)。
教会の悪いところは、悪がそこにあるからではなく善の代用品があるからだ、というヴェイユの言葉を思い出す
最高善という概念は魅力的であるけれど、逆接的に神はいないと言っているように聞こえる。別にいいんだけど。都合の問題なのかとふと思ったり。

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2014年05月14日

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