中山元のレビュー一覧
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ネタバレ人間は陸に暮らす動物であり、大地の上で活動をする。古くからある大地、水、火、空気というエレメントの中でも、大地は人間の基盤、ものの見方、自己の観点といったものを最も強く規定するエレメントである。なぜなら、人間は海に住む魚でもなければ、空を飛ぶ鳥でもなく、ましてや火で構成される生物などではないからである。だが、人間は大地にのみ関連づけられた動物ではない。もし人間がその4つのエレメントによってあますところなく完全に規定されているのであれば、人間は魚であったり、鳥であったり、またはこれらのエレメントの規定から生まれた奇妙な混合物であるはずだからだ。当然人間はそんなことはなく、人間はその四囲の世界に解消されてしまう存在ではない。人間は困難や危機に際しても、その精神と確固たる観察と推論によって自己を新しい存在へと救い上げていくことのできる存在なのである。
航海技術が発達した16-17世紀に、海のエレメントが噴出し「空間革命」なるものが起きる。空間の見方は個々の人間によって異なる。大都会の人間は農夫とは違うふうに世界を考え、捕鯨者はオペラ歌手とは異なる生活空間を持っている。いろいろな民族全般、人間歴史のいろいろな時代についていえば、空間観念の相違はもっと深く、そして大きくなる。空間革命のなかでも、最も根本的で影響力の大きい変革となったのがアメリカの発見と最初の世界一周航海である。世界一周によって、人間の全体意識にとって地球の全体像と、全宇宙の天文学的な全体的観念が変わったのだ。これが、空間革命の決定的な要因である宇宙への拡張、そして無限の空虚な空間という観念につながるのである。ガリレイの科学的な諸実験の結果、空間の無限性が数学的に証明できる真理となった。これによって人類は「空虚な空間」を表象することができるようになるのである。我々は、地球が太陽の周りを回っている、宇宙に無数のようにあるただ一つの星に過ぎないということが学問的真理として広く認知されている世界に生を受けたため真空に対する恐怖を忘れているが、これらの事実はこの空間革命の時代に生きた人間には身の毛のよだつほど恐怖を与えた。
16世紀以来、ヨーロッパ大陸の諸国は陸地戦に関して一定の形式を作り出していた。戦争は国家と国家の一つの関係であるという考えが根底にあったのである。戦争は一種の外交手段であり、敵として相対するのは戦闘を行う軍隊だけで、戦いに参加しない一般市民は敵対関係の外側にある。だが、それに対して海戦の根底には敵の貿易、経済に打撃を与えなければならないという意図がある。海戦における主な戦闘手段は敵国海岸の砲撃と封鎖である。つまり、海戦の構造としては敵国に加えその国と貿易を営み経済関係を結んでいる中立国も敵となるのである。これは、まったく異なった二つの世界である。一つの陸国が地球全体を包含するような世界権力を行使できるなどという考え方は陸国の世界観からすれば途方もないことだが、海上の存在にとって世界支配の手段を見出すことは陸国のそれと比べさほど難しくはないようである。海と陸という二つのエレメントの分離がひとたび地球上の根本原則となったあとで、この分裂を基礎に色々な教義、証明事項、学問体系などの骨組が打ち立てられた。
そして19世紀に人類は新たな空間革命を起こした。電気工学と電気力学の時代へと突入したのである。電気工学・電気力学は飛行機や電波技術を発明する。この空間革命は人間存在の新しいエレメント領域に第三のエレメントとして空気が加わったとする考え方を生んだ。だが、どのような技術的・機械的な手段とエネルギーをもって人間の力が空気中で発揮されるかを考えると本当に新しい人間活動のエレメントとしては火が現れてくるのである。そして、我々は次の二つのことを確実な事実として認めることができる。一つ目は、空間革命の新しい段階とともに始まった空間概念の変化に関係する。16-17世紀の人間は世界を空虚な空間の中に見出したが、今日我々が空間という場合、それはもはや考えられるすべての実質を欠いたたんなる空虚の真相次元のことではない。空間はわれわれにとって人間のエネルギーであるとか、活動とか業績とかのちからの場となったのである。二つ目は陸と海のエレメントとしての根源的な関係に関連する。海は、捕鯨者や海賊たちの時代におけるようなエレメントではなく、交通・伝達手段の空間となったのである。海と陸の分割ということがなくなったのだ。こうしてまた新たなエレメントが生まれた。古いエレメント、新しいエレメントに対する人間の新たな関係が地球の新しい習慣や法律を成長させる。古い力と新しい力との苛酷なたたかいの中にもまた正しい尺度が生まれ、意義深い調和が形成されるのである。 -
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ネタバレツァラトゥストラを分かりやすく書き直したというだけあって曙光よりだいぶ理解できた。と思う。すごくまじめに読んだら面白かった!ニーチェ先生が私たちのレベルまで降りてきてくださっているという感じ。
まず支配者の道徳と奴隷の道徳があって、奴隷=一般人はキリスト教程度で満足していればよいけど、支配者、新しき哲学者は奴隷も何もかも利用して高次の課題にあたり、新たな道徳価値を創造する。そういう人々が必要なんだ、ということ。
精神は自分の周りを同化し、征服し、わがものにすることで成長しようとする、これが生の本能、力への意思。キリスト教的道徳のもので、この本能は悪として否定され、支配者になるべき人を傷つけてきた。無条件に真理に高い価値を認め、認識できるものと断定していた今までの哲学は間違いだった。
新しき哲学者は、下賤な人間に学びながらも、孤独で、独立不羈でなくてはならない。苦悩の中で自由な精神を高め、力への意思を行使する。人間の「どこへ?」と、「何のために?」を定めるために。
これは祖先からこの仕事に取り組み、訓育されていて高貴で強い精神の者のみ許される。
すがすがしいほどの選民思想!あと女性蔑視的発言!真理は女性だから仕方ないのか!私は間違いなく奴隷なのだがここまで徹底してるともう全然嫌な感じしない。感嘆があるのみ。
人間にはランクがあるということは全く間違いではないと思うが、ここまで臆面もなく主張できるのはすごい。
「そこに驢馬が登場した 美しく、いとも逞しき驢馬が」のところと、突然「自殺を考えることは、きわめて優れた慰めの手段である」と言い出してメンヘラになるところは笑った。 -
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「正義」という言葉を発するとなんとなく思い浮かんでくるのは、「社会契約論」。
好きか、嫌いかは別として、そこが思考のスタート地点となっている。
「正義」という概念自体が、西欧と関連していて、思考がそっちのフレームに支配されてしまうんだな〜。
というわけで、この「正義論の名著」は、西欧(アメリカ含む)における正義論の流れを整理してくれている。
でてくるのは、ホメロス、プラトン、アリストテレス、キケロ、アウグスティヌス、トマス・アキナス、マキアヴェッリ、ホッブス、スピノザ、ロック、ルソー、カント、ヒューム、アダム・スミス、ベンサム、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ベンヤミン、ハイエク、ロールズ、ノージック、ウォルツァー、サンデル、ホネット、レヴィナス、デリダ。
ホメロスの「歓待」から始まりデリダの「歓待」に終わる正義論。名前をみているだけで、なんとなくワクワクしてしまう私はなんなんだろう?
西欧の「正義論」の大きな流れが分かることで、なんだろう自分が誰的な発想で考えているのか、というフレームに気づきやすくなっただろうな〜、と思う。そして、「正義」が一番、大事な概念であるわけでもない。
「正義」という言葉を発すると、「なにが正義か」という話になっちゃうんだけど、それ以前に、「正義が一番大事なことなのか?」という問いを抱くことができるといいな。 -
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ネタバレフロイトとアインシュタインで往復書簡をしていた際に
(当時ナチスが支配している戦争真っ只中あたり)
「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」
と当時50代のアインシュタインが70代のフロイトに問うわけですわ。
もちろん返答に困るんだけど
「文化の発展が反戦へ、そして平和主義になり戦争終焉へ向けることが出来る」という答え。
そんな精神分析学者のフロイトが書いた著書を更に分かりやすく解説した本。
と言っても小難しい話はちょっとなぁ…でもたまにはこんなのも読んでみるかと思いつつ読んでみた。
タイトル通り「人はなぜ戦争をするのか」って結構直球の疑問。
あぁまぁ確かにそうだよな、なんでだろ?
太古の昔から今現在まで戦争やテロ、内乱が世界各地で全然終わらないのは何で?という
当り前の疑問なのにそこまで考えたことが無かった。
例え絵にかいたようなどんなに正しい善人であっても
人間って攻撃する欲望や衝動って必ずあるってこと。 -
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何かに対するアンチとして生まれる行動を批判し、ルサンチマン(怨恨の念)というシステムの起動を捉えていたニーチェ。
アンチ、つまり何かへの敵対や恨み及びそこからしか創造できないこと。
アンチから始まる道徳の究極の形態としての発展してきたものがキリスト教であった。
ニーチェ その名前だけならば知っている。
実際、ニーチェは特に日本では非常に有名な哲学者だ。
例えば出版点数で見ると以下のようだ。
「ニーチェの著作の出版点数は、出版国別では本国ドイツに次いで世界第二位、言語別でも、ドイツ語、英語訳、フランス語訳に次いで世界第四位です。日本は、世界一のニーチェ翻訳大国です。ドイツ語圏以外で、ニーチェを自国語で読むことに対する要求がこれほど強い国はありません」(225~226頁『ニーチェ入門』 ちくま学芸文庫、清水真木著)
※ニーチェ入門は非常に丁寧な入門書として最初で最後の本としてとても良い本だった。
本書は第一論文から第三論文まで、ニーチェの著作の中では珍しい論文形式らしい。
『道徳の系譜学』は彼がその晩年に自分の思想を分かりやすく書いた本として、『善悪の彼岸』と並ぶものとのことだ(前掲書より)。
系譜学とは、その物事がどのように成り立ってきたのかを探る事であり、ニーチェは元々古典文献学を専門にしてきた研究者だった。
彼はその手法を元に思想を形成してきた面がある。
特に本書では、いかにして今『良い』とされるものと『悪い』とされるものが成り立ってきたかを考察している。
良い悪い、つまり善悪を考える事は道徳とよばれる。ヨーロッパでは特にキリスト教をその根底に置いている。
ニーチェは古代に遡り、弱者がルサンチマン(怨恨の念)に基づき、弱者こそ『善』、強者こそ『悪』という価値転換を行ってきたことを指摘する。
ルサンチマンを原動力とした統治システム、それがキリスト教だった。
ルサンチンマンは本書で以下のように言い表されている。
「道徳における奴隷の反乱はまず、ルサンチマンそのものが創造する力をもつようになり、価値を生み出すことから始まる。このルサンチマンは、あるものに本当の意味で反応すること、すなわち行動によって反応することができないために、想像だけの復讐によって、その埋め合わせをするような人のルサンチマンである…奴隷の道徳は最初から、『外にあるもの』を、『他なるもの』を、『自己ならざる者』を、否定の言葉、否で否定する。この否定の言葉、否が彼らの創造的な行為なのだ」(本書56~57頁)
怨恨の念が生み出す、価値転換。
そもそも強者が『善』であり、弱者が『悪』であった。
古代ギリシアの貴族は強く、誇り高く、強者であり善であった。
同じく「日本の貴族、ホメロスの英雄、スカンジナヴィアのヴァイキング…」(本書65頁)もそうであった。
その価値観がルサンチマンにより転倒した、それを探っていく。
つまりは、ユダヤ教、キリスト教の系譜=歴史を探るということだ。
特にニーチェの生きる当時の西欧世界にとってのキリスト教的価値観は絶大だった。
その価値観を系譜学、つまりその起源に遡ってその価値観の転換を発見したことは非常に衝撃的な出来事だったのだろう。
私はユダヤ教とキリスト教の大きな違いはユダヤ教が特定の『民族』にとっての宗教である事で、一方キリスト教は全人類の『普遍的』な宗教となったことだと思っている。
ユダヤ教はパレスチナ周辺に住んでいた迫害を受けていた人々の宗教として『選民思想』を基にしてその範囲の中で自己正当化を図る、そうせざるを得ない過酷な対外的状況に応じるために生まれてきたと考えている。
しかし、ユダヤ教共同体がうまくいくとその中でも弱者が生まれる。
その弱者を救うのがユダヤ教徒の改革者キリストであり、『隣人愛』という形で救済を唱え全人類にとっての宗教となったと考えている。
だから、ユダヤ教はその当初の民族以上の広がりを持つことはできなかったが、キリスト教はより広く『普遍性』をもった宗教としてうまくいった。
例えば、ローマ帝国の国教となるくらいに。
この発展のメカニズムをルサンチマンに見出し、
ルサンチマンがいかに機能してきたかを第一論文で指摘し、第二論文においてその宗教の中での代表者(司牧者)がそれを点検し、禁欲という理想が掲げられてきたことを指摘している。
さらにその禁欲という理想の名のもとに、近代的な学問もまた同様な構造があると言っており、ニーチェの射程は今の私たちにも間違いなくささる。
ルサンチマンという人間に備わる機能は、歴史的に全人類を覆うくらいに発展し価値観を転倒してきた。
それは宗教だけでなく学問にも同じように働いており、今も新たなルサンチマンという機能が蠢いているように思われる。
『トランプ現象』や『ヘイトデモ』や『反日』のような何かに対するアンチから生まれる、外にあるものを否定の言葉、否で否定するという創造的な行為はニーチェが解明したルサンチマンシステムの延長線上にあるように思われる。
しかし、外から「我々の自由が脅かされている」という恐怖と「無力な自分たちこそが善だと正当化したい」気持ちから発生する様々な現象の中には、個々人のよく生きたいと願う欲望もあると思う。
ニーチェはシステムとして現れるルサンチマンを基にした宗教を批判し、そのシステムの中で生きている人々にはルサンチマンに陥るなと言っていると思う。
ルサンチマンに回収されない個々人の欲望(よりよく生きたいというような)としての祈りが何らかの宗教的な形態を取ることや何らかの現象として現れる可能性はあるのではないかと思う。 -
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資本主義は、資本を蓄積することにより成功を収めるが、資本の蓄積は労働者の搾取によって生じていると批判している。資本家は資本を増大させることを目的とし事業を行っているという分析は的確であると思う。産業革命後のイギリス労働者が、いかに悲惨な生活を強いられていたかを理解した。また、これは江戸から明治期に来日した欧米人の数多くの手記の内容とも一致する。
ソビエト崩壊後のマルクスの評判は悪いが、資本主義について的確に理解しその重要性をわかった上で批判を展開しており、決して浅はかな論理ではないことが理解できた。
「生産過程をたんに継続するだけで単純再生産を行っているならば、遅かれ早かれ一定の期間の後には、すべての資本は必然的に蓄積した資本に変容する。貨幣形態をとるかどうかは別として、他者の不払労働を体現したものに変容するのである」p24
「価値の増殖を狂信的なまでに熱愛する資本家は、人類を生産のための生産へと容赦なく駆り立て、社会的な生産力を強制的に発展させ、物質的な生産条件を強制的に創出させる。こうした物質的な生産条件のみが、あらゆる個人の自由で完全な発展を根本原理とする高度な社会形態の現実的な土台となり得るのである」p78
「競争のために資本家は、自分の資本を確保するためには、資本をたえず増強せざるをえなくなる。そして資本を増強するには、資本を累積的に蓄積するしかないのである」p79
「蓄積のための蓄積、生産のための生産。この公式によって古典派経済学は、ブルジョア時代の歴史的な使命を表明したのである」p83
「奴隷が許されない自由な国民における最も確実な富は、労働する多数の貧民が存在するということである」p138
「マンチェスターの保健衛生官のリー医師が確認したところでは、この都市の有産階級の平均寿命は38歳であるが、労働者階級の平均寿命は17歳にすぎない。リバプールでは前者が35歳、後者が15歳である。特権的な階級の寿命は、恵まれない同胞市民たちの二倍以上になる」p203
「(ランカシャーの状況)栄養失調が病気を引き起こし、さらに悪化させている事例が無数にある。このことは貧民の医療に詳しい人であれば、誰もが認めることだろう。忘れてならないのは、食物の欠乏に耐えるのは極めてつらいことであるため、ふつうは食物の大幅な不足は、それに先立つさまざまな欠乏の後に初めて現れるということである。栄養失調が衛生面で大きな問題となるはるか以前に、その家庭からあらゆる物質的な快適さが失われていることだろう。衣類や燃料は、食物が不足するよりも前から、さらに不足していただろう。居住空間は切り詰められ、病気の発生や悪化の原因となっているだろう。清潔さを保つのは贅沢なこと、あるいは困難なことになっているだろう。それは衛生警察がもっとも成果を上げていない地区であり、もっとも水捌けが悪く、交通が不便で、汚物が溢れ、給水がもっとも困難か、もっとも行われていない地区だろう。都市においてはもっとも日照が少なく、通気が不足した地区だろう。貧困が食糧不足にまで至ると、こうした衛生上の危険にさらされるようになるのは避けられない。このように貧困が、怠惰によって生まれた自業自得なものではないことを考えると、はなはだ胸が痛む。実際のところ都市労働者たちは、わずかな食べ物を手に入れるために、限度を超えるまで働かされる(サイモン医師)」p234 -
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ネタバレ自然法(ドロワ・ナチュレル)という考えは、人間の本性にかかわる概念である。p38
【二つの原理ー自己愛と憐れみの情】p41-43
学問的な書物はどれも、すでにできあがった状態の人間について理解するために役立つだけであり、ここでは無用のものである。それよりも大切なことは、人間の魂の原初的でもっとも素朴な働きについて考察してみると、理性に先立つ二つの原理を見分けることができるということである。一つの原理は、わたしたちにみずからの幸福と自己保存への強い関心をもたせるものである。もう一つの原理は、感情をもったあらゆる存在、とくに同類である他の人間たちが死んだり、苦しんだりするのをみることに、自然な反感を覚えることである。
わたしたちの精神は、この二つの原理を調和させ、組み合わせることができるのであり、そこから自然法(ドロワ・ナチュレル)のすべての規則を導きだせる。ここに必ずしも社会性(ソシアビリテ)の原理を導入する必要はないのである。
<中略>このように、原初の人間(オム・オリジネル)、その真の欲求、その義務の基本的な原則について研究するというこの方法は、道徳的な不平等の起源について、政治体の真の土台について、政治体の成員の相互の権利についてなど、重要でありながら、十分な解明が行われていない多くの問題を考察するときに発生する無数の難問を解決するために役立つ唯一の有効な手段なのである。
「人間の不平等の期限はどのようなものか。それは自然法(ロワ・ナチュレル)のもとで認可されるものか」p48
【二種類の不平等】p49-50
わたしは人類には二種類の不平等があると考えている。一つは自然の不平等、または身体的な不平等と呼びたいものである。これは自然が定めたものであり、年齢、健康状態、体力、精神の質、魂の質の違いによって生まれる。もう一つは社会的(モラル)または政治的な不平等と呼びたいものである。というのも、この不平等はある種の取り決めによって生まれるものであり、人々の同意によって確立されるか、少なくとも認可されるものだからである。この種の不平等はさまざまな特権から生まれるもので、一部の人々が他の人々を犠牲にして、この特権を享受する。たとえば他の人々よりも豊かであるとか、尊敬されているとか、権力をもっているとか、何らかの方法で他の人々を服従させているとかである。
第二部は【所有という観念の発生】から始まる。p123
【約束と共同体の成立】p128
【私有財産の発生】p131
【自尊心の誕生】p135
【所有権の誕生】p143
【社会と法律の起源】p150
【自由は放棄できない】p161
【社会契約】p169
【不平等の激化】p176 -
Posted by ブクログ
アーレントの思想の全体像をわかりやすく解説している入門書です。
『全体主義の起源』や『人間の条件』で論じられている公共性の問題にまつわるアーレントの議論を明快にときほぐし、そこでの議論にもとづいて『イェルサレムのアイヒマン』でアーレントが何を問題にしているのかということに切り込んでいきます。その上で、アーレントがソクラテスの道徳性やカントの共通感覚などの思想からなにを学び、全体主義や公共性の喪失といった現代的な状況のなかでどのような倫理の可能性を見いだそうとしていたのかが論じられます。
アーレントという思想家には、どことなく魅力を感じつつも、ポストモダン思想の軽やかさに一度は魅了された者としては、「公共性」という問題設定に窮屈さを感じていたのですが、本書を読んでその思想の根幹にあったものと、自分自身がどの点に引っかかりをおぼえていたのかが明確になったように思います。