中山元のレビュー一覧
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「正義」という言葉を発するとなんとなく思い浮かんでくるのは、「社会契約論」。
好きか、嫌いかは別として、そこが思考のスタート地点となっている。
「正義」という概念自体が、西欧と関連していて、思考がそっちのフレームに支配されてしまうんだな〜。
というわけで、この「正義論の名著」は、西欧(アメリカ含む)における正義論の流れを整理してくれている。
でてくるのは、ホメロス、プラトン、アリストテレス、キケロ、アウグスティヌス、トマス・アキナス、マキアヴェッリ、ホッブス、スピノザ、ロック、ルソー、カント、ヒューム、アダム・スミス、ベンサム、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ベンヤミン、ハイエク、ロールズ、ノージック、ウォルツァー、サンデル、ホネット、レヴィナス、デリダ。
ホメロスの「歓待」から始まりデリダの「歓待」に終わる正義論。名前をみているだけで、なんとなくワクワクしてしまう私はなんなんだろう?
西欧の「正義論」の大きな流れが分かることで、なんだろう自分が誰的な発想で考えているのか、というフレームに気づきやすくなっただろうな〜、と思う。そして、「正義」が一番、大事な概念であるわけでもない。
「正義」という言葉を発すると、「なにが正義か」という話になっちゃうんだけど、それ以前に、「正義が一番大事なことなのか?」という問いを抱くことができるといいな。 -
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ネタバレフロイトとアインシュタインで往復書簡をしていた際に
(当時ナチスが支配している戦争真っ只中あたり)
「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」
と当時50代のアインシュタインが70代のフロイトに問うわけですわ。
もちろん返答に困るんだけど
「文化の発展が反戦へ、そして平和主義になり戦争終焉へ向けることが出来る」という答え。
そんな精神分析学者のフロイトが書いた著書を更に分かりやすく解説した本。
と言っても小難しい話はちょっとなぁ…でもたまにはこんなのも読んでみるかと思いつつ読んでみた。
タイトル通り「人はなぜ戦争をするのか」って結構直球の疑問。
あぁまぁ確かにそうだよな、なんでだろ?
太古の昔から今現在まで戦争やテロ、内乱が世界各地で全然終わらないのは何で?という
当り前の疑問なのにそこまで考えたことが無かった。
例え絵にかいたようなどんなに正しい善人であっても
人間って攻撃する欲望や衝動って必ずあるってこと。 -
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何かに対するアンチとして生まれる行動を批判し、ルサンチマン(怨恨の念)というシステムの起動を捉えていたニーチェ。
アンチ、つまり何かへの敵対や恨み及びそこからしか創造できないこと。
アンチから始まる道徳の究極の形態としての発展してきたものがキリスト教であった。
ニーチェ その名前だけならば知っている。
実際、ニーチェは特に日本では非常に有名な哲学者だ。
例えば出版点数で見ると以下のようだ。
「ニーチェの著作の出版点数は、出版国別では本国ドイツに次いで世界第二位、言語別でも、ドイツ語、英語訳、フランス語訳に次いで世界第四位です。日本は、世界一のニーチェ翻訳大国です。ドイツ語圏以外で、ニーチェを自国語で読むことに対する要求がこれほど強い国はありません」(225~226頁『ニーチェ入門』 ちくま学芸文庫、清水真木著)
※ニーチェ入門は非常に丁寧な入門書として最初で最後の本としてとても良い本だった。
本書は第一論文から第三論文まで、ニーチェの著作の中では珍しい論文形式らしい。
『道徳の系譜学』は彼がその晩年に自分の思想を分かりやすく書いた本として、『善悪の彼岸』と並ぶものとのことだ(前掲書より)。
系譜学とは、その物事がどのように成り立ってきたのかを探る事であり、ニーチェは元々古典文献学を専門にしてきた研究者だった。
彼はその手法を元に思想を形成してきた面がある。
特に本書では、いかにして今『良い』とされるものと『悪い』とされるものが成り立ってきたかを考察している。
良い悪い、つまり善悪を考える事は道徳とよばれる。ヨーロッパでは特にキリスト教をその根底に置いている。
ニーチェは古代に遡り、弱者がルサンチマン(怨恨の念)に基づき、弱者こそ『善』、強者こそ『悪』という価値転換を行ってきたことを指摘する。
ルサンチマンを原動力とした統治システム、それがキリスト教だった。
ルサンチンマンは本書で以下のように言い表されている。
「道徳における奴隷の反乱はまず、ルサンチマンそのものが創造する力をもつようになり、価値を生み出すことから始まる。このルサンチマンは、あるものに本当の意味で反応すること、すなわち行動によって反応することができないために、想像だけの復讐によって、その埋め合わせをするような人のルサンチマンである…奴隷の道徳は最初から、『外にあるもの』を、『他なるもの』を、『自己ならざる者』を、否定の言葉、否で否定する。この否定の言葉、否が彼らの創造的な行為なのだ」(本書56~57頁)
怨恨の念が生み出す、価値転換。
そもそも強者が『善』であり、弱者が『悪』であった。
古代ギリシアの貴族は強く、誇り高く、強者であり善であった。
同じく「日本の貴族、ホメロスの英雄、スカンジナヴィアのヴァイキング…」(本書65頁)もそうであった。
その価値観がルサンチマンにより転倒した、それを探っていく。
つまりは、ユダヤ教、キリスト教の系譜=歴史を探るということだ。
特にニーチェの生きる当時の西欧世界にとってのキリスト教的価値観は絶大だった。
その価値観を系譜学、つまりその起源に遡ってその価値観の転換を発見したことは非常に衝撃的な出来事だったのだろう。
私はユダヤ教とキリスト教の大きな違いはユダヤ教が特定の『民族』にとっての宗教である事で、一方キリスト教は全人類の『普遍的』な宗教となったことだと思っている。
ユダヤ教はパレスチナ周辺に住んでいた迫害を受けていた人々の宗教として『選民思想』を基にしてその範囲の中で自己正当化を図る、そうせざるを得ない過酷な対外的状況に応じるために生まれてきたと考えている。
しかし、ユダヤ教共同体がうまくいくとその中でも弱者が生まれる。
その弱者を救うのがユダヤ教徒の改革者キリストであり、『隣人愛』という形で救済を唱え全人類にとっての宗教となったと考えている。
だから、ユダヤ教はその当初の民族以上の広がりを持つことはできなかったが、キリスト教はより広く『普遍性』をもった宗教としてうまくいった。
例えば、ローマ帝国の国教となるくらいに。
この発展のメカニズムをルサンチマンに見出し、
ルサンチマンがいかに機能してきたかを第一論文で指摘し、第二論文においてその宗教の中での代表者(司牧者)がそれを点検し、禁欲という理想が掲げられてきたことを指摘している。
さらにその禁欲という理想の名のもとに、近代的な学問もまた同様な構造があると言っており、ニーチェの射程は今の私たちにも間違いなくささる。
ルサンチマンという人間に備わる機能は、歴史的に全人類を覆うくらいに発展し価値観を転倒してきた。
それは宗教だけでなく学問にも同じように働いており、今も新たなルサンチマンという機能が蠢いているように思われる。
『トランプ現象』や『ヘイトデモ』や『反日』のような何かに対するアンチから生まれる、外にあるものを否定の言葉、否で否定するという創造的な行為はニーチェが解明したルサンチマンシステムの延長線上にあるように思われる。
しかし、外から「我々の自由が脅かされている」という恐怖と「無力な自分たちこそが善だと正当化したい」気持ちから発生する様々な現象の中には、個々人のよく生きたいと願う欲望もあると思う。
ニーチェはシステムとして現れるルサンチマンを基にした宗教を批判し、そのシステムの中で生きている人々にはルサンチマンに陥るなと言っていると思う。
ルサンチマンに回収されない個々人の欲望(よりよく生きたいというような)としての祈りが何らかの宗教的な形態を取ることや何らかの現象として現れる可能性はあるのではないかと思う。 -
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資本主義は、資本を蓄積することにより成功を収めるが、資本の蓄積は労働者の搾取によって生じていると批判している。資本家は資本を増大させることを目的とし事業を行っているという分析は的確であると思う。産業革命後のイギリス労働者が、いかに悲惨な生活を強いられていたかを理解した。また、これは江戸から明治期に来日した欧米人の数多くの手記の内容とも一致する。
ソビエト崩壊後のマルクスの評判は悪いが、資本主義について的確に理解しその重要性をわかった上で批判を展開しており、決して浅はかな論理ではないことが理解できた。
「生産過程をたんに継続するだけで単純再生産を行っているならば、遅かれ早かれ一定の期間の後には、すべての資本は必然的に蓄積した資本に変容する。貨幣形態をとるかどうかは別として、他者の不払労働を体現したものに変容するのである」p24
「価値の増殖を狂信的なまでに熱愛する資本家は、人類を生産のための生産へと容赦なく駆り立て、社会的な生産力を強制的に発展させ、物質的な生産条件を強制的に創出させる。こうした物質的な生産条件のみが、あらゆる個人の自由で完全な発展を根本原理とする高度な社会形態の現実的な土台となり得るのである」p78
「競争のために資本家は、自分の資本を確保するためには、資本をたえず増強せざるをえなくなる。そして資本を増強するには、資本を累積的に蓄積するしかないのである」p79
「蓄積のための蓄積、生産のための生産。この公式によって古典派経済学は、ブルジョア時代の歴史的な使命を表明したのである」p83
「奴隷が許されない自由な国民における最も確実な富は、労働する多数の貧民が存在するということである」p138
「マンチェスターの保健衛生官のリー医師が確認したところでは、この都市の有産階級の平均寿命は38歳であるが、労働者階級の平均寿命は17歳にすぎない。リバプールでは前者が35歳、後者が15歳である。特権的な階級の寿命は、恵まれない同胞市民たちの二倍以上になる」p203
「(ランカシャーの状況)栄養失調が病気を引き起こし、さらに悪化させている事例が無数にある。このことは貧民の医療に詳しい人であれば、誰もが認めることだろう。忘れてならないのは、食物の欠乏に耐えるのは極めてつらいことであるため、ふつうは食物の大幅な不足は、それに先立つさまざまな欠乏の後に初めて現れるということである。栄養失調が衛生面で大きな問題となるはるか以前に、その家庭からあらゆる物質的な快適さが失われていることだろう。衣類や燃料は、食物が不足するよりも前から、さらに不足していただろう。居住空間は切り詰められ、病気の発生や悪化の原因となっているだろう。清潔さを保つのは贅沢なこと、あるいは困難なことになっているだろう。それは衛生警察がもっとも成果を上げていない地区であり、もっとも水捌けが悪く、交通が不便で、汚物が溢れ、給水がもっとも困難か、もっとも行われていない地区だろう。都市においてはもっとも日照が少なく、通気が不足した地区だろう。貧困が食糧不足にまで至ると、こうした衛生上の危険にさらされるようになるのは避けられない。このように貧困が、怠惰によって生まれた自業自得なものではないことを考えると、はなはだ胸が痛む。実際のところ都市労働者たちは、わずかな食べ物を手に入れるために、限度を超えるまで働かされる(サイモン医師)」p234 -
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ネタバレ自然法(ドロワ・ナチュレル)という考えは、人間の本性にかかわる概念である。p38
【二つの原理ー自己愛と憐れみの情】p41-43
学問的な書物はどれも、すでにできあがった状態の人間について理解するために役立つだけであり、ここでは無用のものである。それよりも大切なことは、人間の魂の原初的でもっとも素朴な働きについて考察してみると、理性に先立つ二つの原理を見分けることができるということである。一つの原理は、わたしたちにみずからの幸福と自己保存への強い関心をもたせるものである。もう一つの原理は、感情をもったあらゆる存在、とくに同類である他の人間たちが死んだり、苦しんだりするのをみることに、自然な反感を覚えることである。
わたしたちの精神は、この二つの原理を調和させ、組み合わせることができるのであり、そこから自然法(ドロワ・ナチュレル)のすべての規則を導きだせる。ここに必ずしも社会性(ソシアビリテ)の原理を導入する必要はないのである。
<中略>このように、原初の人間(オム・オリジネル)、その真の欲求、その義務の基本的な原則について研究するというこの方法は、道徳的な不平等の起源について、政治体の真の土台について、政治体の成員の相互の権利についてなど、重要でありながら、十分な解明が行われていない多くの問題を考察するときに発生する無数の難問を解決するために役立つ唯一の有効な手段なのである。
「人間の不平等の期限はどのようなものか。それは自然法(ロワ・ナチュレル)のもとで認可されるものか」p48
【二種類の不平等】p49-50
わたしは人類には二種類の不平等があると考えている。一つは自然の不平等、または身体的な不平等と呼びたいものである。これは自然が定めたものであり、年齢、健康状態、体力、精神の質、魂の質の違いによって生まれる。もう一つは社会的(モラル)または政治的な不平等と呼びたいものである。というのも、この不平等はある種の取り決めによって生まれるものであり、人々の同意によって確立されるか、少なくとも認可されるものだからである。この種の不平等はさまざまな特権から生まれるもので、一部の人々が他の人々を犠牲にして、この特権を享受する。たとえば他の人々よりも豊かであるとか、尊敬されているとか、権力をもっているとか、何らかの方法で他の人々を服従させているとかである。
第二部は【所有という観念の発生】から始まる。p123
【約束と共同体の成立】p128
【私有財産の発生】p131
【自尊心の誕生】p135
【所有権の誕生】p143
【社会と法律の起源】p150
【自由は放棄できない】p161
【社会契約】p169
【不平等の激化】p176 -
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アーレントの思想の全体像をわかりやすく解説している入門書です。
『全体主義の起源』や『人間の条件』で論じられている公共性の問題にまつわるアーレントの議論を明快にときほぐし、そこでの議論にもとづいて『イェルサレムのアイヒマン』でアーレントが何を問題にしているのかということに切り込んでいきます。その上で、アーレントがソクラテスの道徳性やカントの共通感覚などの思想からなにを学び、全体主義や公共性の喪失といった現代的な状況のなかでどのような倫理の可能性を見いだそうとしていたのかが論じられます。
アーレントという思想家には、どことなく魅力を感じつつも、ポストモダン思想の軽やかさに一度は魅了された者としては、「公共性」という問題設定に窮屈さを感じていたのですが、本書を読んでその思想の根幹にあったものと、自分自身がどの点に引っかかりをおぼえていたのかが明確になったように思います。 -
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40歳を過ぎて、「初フロイト」。
実は、多分20代の前半か、10代の後半の頃に、「夢判断」か「精神分析入門」、どちらかに挑戦した記憶が。(どっちだったかは、忘れてしまいました)
「なんじゃこの日本語は?さっぱりわからん...」と、言葉の難解さに辟易して、放り出しました...。
無駄に難解な日本語にしない。
と、いう意味で絶大な信頼を持っている、光文社古典新訳文庫さん。
今回も、その期待はかなり満たされました。
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刺激的なタイトルの小文を表題作にしています。
有名な、アインシュタインさんとの文通書簡。
要は、アインシュタインさんが「人はなぜ戦争するんですか?フロイトさん?」と、尋ねたわけですね。1932年。想定にあるのは、第一次世界大戦と、近づいてくる第二次世界大戦の足音です。
1932年には、ナチスがかなり台頭して、ユダヤ人迫害を始めています。フロイトさんはユダヤ人でした。アインシュタインさんも。
で。
人はなぜ戦争をするのか?
フロイトさんは、どうやら、こう言ってはります。
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人って、そういうところがもともとあんねんよ。
敵を殺す快感、欲動ってものがあって。
強いものに集団で立ち向かうにせよ、結局暴力的な欲動があることには変わりがあらへんねん。
最終的に支配者は、かならず自分たちに都合のいいルールを作ります。必ず。どういう共同体であれ。
法と言うもんは、もともとが「剥き出しの暴力」だったんやねえ。
そして、指導者と従う者という、避けられない関係が集団にはあって、そういうことから戦争になったりします。
共同体には、暴力による強制と、感情的な結びつき、のふたつが必要。
そして今、世界の民族を支配している流行?の思想は、ナショナリズムの理念。これが国同士を対立させている。
生きようとする欲望、エロス。自分も含めて破壊して殺戮しようとする、タナトス。両方をひとはもっています。
だから戦争を止めるためには、エロスに訴える。愛でしょ、愛。
愛する人を失いたくない。これはみんなそうです。
そういう、自らの生を決定する権利を、戦争は奪います。
殺すのも、殺されるのも、それを命令されるのも、いややわあ、という気持ちは必ずあるんです。
戦争を、残酷なことをしてしまう、したがる、そして、指導者に従ってしまう。
そんな本能も僕らはもっているんですね。
でも、一方でエロスみたいな生きる欲動もあります。
そっちに働きかけるしか無いんちゃいますかね。
やっぱり、嫌なもんは嫌や、平和主義やっていうか...
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まあ、というような内容です。
かなり口語的で分かりやすいです。
善悪論ではなく、人間の根源的?な性質?という視点があって。
そして、地獄落ちじゃない力強い主張があります。
名演説を聞いた気分。
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それ以外に、
「戦争と死に関する時評」
「喪とメランコリー」
「心的な人格の解明」
「不安と欲動の生」
という四つの文章が収められています。
その一部は、「続・精神分析入門」に入っているらしいので、恐らく編者訳者がある指針に基づいて、「フロイト入門編」的な本に作っているんだと思います。
で、正直、「???」で終わってしまった章もあったんですが...
総論として、かなり判りやすく、ドキドキ楽しめるところもあり。
元々が当然、娯楽のための読み物ではないので、言ってみれば「コク」のある、「噛みごたえのある」タイプの読書だったんですが、
少なくとも日本語として、翻訳として、何が何だか迷いの森の迷子道...ということは無く。
ニンゲンの不思議な気持ち、精神っていうのを、分解して考えていく面白み、は判りました。
そして、そういう、ある種の整理の仕方、ある種の傾向が分かるだけでも、
ひょっとすると自分の「ココロの健康」について、多少の対策を、気持ちの中で持ち得るのだろうなあ、と思いました。
いやあ、そういうことを、言ってみればゼロから言葉として作って行ったんでしょうから。
フロイトさん、確かに、大したものです。
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以下、メモ風に
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「自我」「超自我」「エス」という三つのコトバで、人の気持ちや欲望を分析するのは、なんとなく理解できました。(多分)
つまりは、「自我」というのはなんとなく僕らが普段考えている「エゴ」みたいなこと。
「エス」というのは、大抵の場合、道徳的には問題がある、僕らの本能的な欲望。
つまり、破壊とか殺戮とか征服とか、セックスとか食欲とか、そういう、ダークな、井戸の底のような、悪い本能っていうか。
「超自我」っていうのは、恐らく雑に言うと「良心」とか「モラル」とかそういった。
産まれてからの後付けで身に着けている、「自分がこうありたい」というルールのようなもの。
「自我」というのはなかなか大変で。
「社会」「エス」「超自我」という、三つの、正反対の君主に仕えている訳です。
しかも、それぞれの意味合いで、この三人の君主は暴君で、強力な訳です。
そういうところから、うつ病になったりする。
というか、うつ病というのは、うつ病の発作である、という考え方。
こういった整理の仕方は、スッキリ分かった気がします。(多分)
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そういうのが全て、理性の判断とか知性とか、そういう水平線を超えた(あるいはその下の)脊髄的な持ってしまっている感情支配が前提なんですね。
で、それはすごく判ります。
結局は、ヒトは最後は合理性や理念では動かない。
そういうのは全て、感情、気持ち、そういうものが、「その場の都合のいい外套」を選んで着ているようなものなんですね。外套=理念や理屈、合理性。
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そして、死、というものの考え方。
ヒトの歴史は殺戮の歴史。
でもどこかで、「自分の愛する者が死んだら、心がぽっかりしてしまう」という矛盾?に気づく。
そこを誤魔化す?正当化する?癒す?ものとしての宗教、死の概念。魂の不死、という考え方。
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喪、という言葉を、「愛する人を失った場合」に限定せず、理想や仕事やプライドや自由や、そういうものを失った場合でも同じ。
という考え方。これも、凄く納得。ふむふむでした。
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そして、「自我」と別に「超自我」とか「こうなりたい自分」みたいな理想。
それをまず、親から影響を受ける。
ここで、同一化、つまり、同じようになりきる感じ、というのと、その人に好かれたい、という憧れ感と、に二分される影響の受け方がある、という。
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やや脱線で、マルクスなどの唯物史観は、経済が人間に及ぼす影響を過大評価していて、
実は人間は、経済的には過去の文化でも、親や大人に与えられてしまったそういう「価値観」に縛られることが多い...
と、言う指摘には、それはそれで、「なるほどおお」と思ってしまいました。
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それに加えて...
割と言葉だけは有名な、子供の精神状態の「口唇期」とか「肛門期」とかの話とか。
産まれるときの窒息の恐怖感が及ぼす影響とか。
性器を切断されるという原体験的恐怖感?だとか。
なんとなく「ああ、フロイトってこういうことを言っているってことが、よくギャグ化して言われるよなあ」ということについての言及も多かったです。
なんですが...そこンところは正直、ピンと来ず...
ま、読み方が雑なんでしょうけれど。
この先まだまだ、そういう興味が出れば、そういうことを読んだり考えたりする楽しみもあるなあ、と思いました...。
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そうそう。
第1次世界大戦で、これまでにない酷い戦場体験を多くの人がして。
「もうあかんわ、戦争でけへん」
という心の病人が出たんですって。大量に。
そこで、時の政府、軍隊は、
「甘ったれてんぢゃないよ」
ということで、電気ショック療法(拷問?)を施したそうです。
そうすると、多くの兵が、
「電気ショックの辛さよりかは、戦場に戻ります」と戻って行ったそうです。
そうなると、電気ショックをした側は、
「ほら、そうだろ?甘えなんだよ」と、エッヘンな訳です。
ところが。
そうやって戦場に戻って行った兵隊たちが、やがて、相当に高い確率で、もう、戦闘不能なくらいに心が壊れちゃったんですって。
というわけで、困った困ったになって、フロイトさんたち「電気ショック反対派」が改めて招聘されたそうです...
へえ、というお話ですけれど。
実は、笑えませんね。この話。2016年現在も。
怖い怖い... -
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フロイト 欲動論と局所論から「人間はなぜ戦争をするのか」について論じた本。
人間の自己破壊の欲動と道徳的人間に至る過程を解明している。表題以外は専門的だが、訳者 中山元 氏の解説のおかげで 読めた
フロイトの人間像、戦争に対する態度、戦争における国家像は いずれも悲観的。まずは 最悪に備えよ というメッセージとして捉えた。人間に希望を残すキーワードとして、文化の発達、他者愛(ナルシズムからの脱却)、超自我を取り上げ、道徳や良心の源泉として論じている
鬱病に見られる自己破壊欲動(死の欲動)と超自我の対立を見ると、死の欲動の強さを実感する。フロイトの「人間は他者を犠牲にしてでも自分の欲望を充足しようとする〜戦争はなくならない」という論調も うなずける
フロイトの人間像
*人間は他者を犠牲にしてでも自分の欲望を充足させようと願う存在
*人間は 死の欲動(破壊欲動)により戦争をやめることはできない
*生の欲動(エロス欲動)に働きかけ文化の発達を通じて、戦争に反対する道徳的人間の余地は残している
フロイトの戦争に対する態度
「戦争が存在することに諦めを抱き、戦争に自分を合わせていくべき」
フロイトの戦争における国家像
「国家は 国民に最大限の服従と犠牲を強いておきながら秘密主義と報道や言論の検閲によって 国民の行動能力を剥奪する」
戦争に反対する道徳的人間像(利己主義から利他主義への変貌)
*利己的欲動がエロス的な成分と混じり、他者からの愛を求めることにより、社会的欲動に変貌する
*教育により利己的欲動の放棄を学ぶ
文化の発達は 人間の良心や道徳の根となる
*人間の文化は〜愛する者の死によって誕生した〜愛する者の死の辛さに耐えるために、人間は霊魂を思いついた
*愛する者の死は、疎ましさを自覚されることで、罪意識の根源となり、良心や道徳の根となる
鬱病に見られる自己破壊欲動(死の欲動)と超自我の対立
*喪の仕事の失敗(超自我の欠乏)は鬱病まで悪化する
*喪の仕事=愛する者に向けられたリビドーの再転換の営み