中山元のレビュー一覧

  • 責任と判断

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    ナチスドイツの体制のもとで、想像を絶する反人道的な犯罪行為を犯したアイヒマンたち。自分は組織の歯車に過ぎなかったと主張する被告たちの個人としての責任を追及できるのか、また、普通の人がなぜこのようなおぞましい行為に加担できたのかをハンナ・アーレントは懸命に思考した。そのことに並々ならぬ思いを感じた。
    本書に「過去に立ち返って自分のしたことを思い出すことを拒む」と「人格であることを拒んだ人」になり、最大の悪を犯し得るというようなことが書かれていた。
    現代においてもこの考えを持っておきたいと思った。そうすれば大きな声で無責任なことを喚いている人々を注意して見ることができると思った。

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    2022年06月04日
  • 純粋理性批判 6

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    純粋理性批判は、主に時間と空間を軸に、世界と人間の関係についての考察を続けてきたが、6巻ではいよいよ神の証明というデリケートな話題に切り込む。
    さまざまな方位から、神の存在を分析していくが、いずれもカントの理論によって矛盾が露呈する。要するに神という存在は虚構なのか。
    しかし、神は存在しなければならない、というのがカントの結論のようだ。ようだ、と書いたのは、小生はカントの結論が読み取れず、解説を読んでようやく理解したからだ。理解、というか、解説にそう書いてある、というのが正直なところだ。
    そういった難解さがあるとはいえ、カントの分析眼は鋭い。そして、時代的に、神はいない、という結論はありえないとはいえ、存在は証明できないが、存在はしなければならない、という落としどころは、かなり挑戦的だったのではないか。
    カントは純粋理性批判という一連の書物において、人間とはこの世界において、現実だと考えているものは果たして本当に現実なのか、それは意識が作り出したものであり、誰もが同じ「現実」を生きているわけではないという観点から、時間や空間は本当に継続的に存在しているのか、神はいるのか、というところまで理論を展開した。人間はみずから作り上げた虚構の中に生きているのだなあ。
    いよいよ次は最終巻となる。
    ここまで広げた理論をどのようにまとめるのか楽しみだ。

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    2022年04月17日
  • 道徳形而上学の基礎づけ

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     本論でさらに詳しく考察されるが、「道徳的な法則にかなっているようにみえ」(同)る行為が、その行為者の道徳性のためではなく、たまたまその行為者にそなわっている偶然的な要因のために行われることも多いのである。たとえば友人が好きで、困っている友人を助ける人がいるとしよう。この人の行為は、友人にたいする愛情の表現であり、好意の表現であり、善いことである。しかしこの行為は、その人の友人を愛する「心の傾き」によって行われたものである。たしかに困っている人を助けると言う道徳的な法則に適っている行為ではあるが、「道徳的な法則のために」(同)、道徳的な法則に基づいて行われた行為ではないのである。
     この「道徳的な法則に適っている」行為と、「道徳的な法則に基づいて行われる」好意の違いを明確にするための基準として役立つのが、純粋な道徳的な原理であり、純粋な道徳形而上学は、この原理を確立することを目指すのである。

     カントはこの義務の概念と善い意志の結びつきを明らかにするために、正価で商品を販売する小売店の店主の実例をあげている(以下で明らかになるようにカントは本書で多くの身近な実例をあげている。これらの実例によって本書は、『実践理性批判』よりも読者の思考を刺激する力をそなえているのである)。その店主が「買い物に慣れていない客に、高い値段で商品を売りつけないとすれば、これは義務にかなった行為である(023)。しかしこの行為が善い意志に基づいた行為、すなわち道徳的な行為であるかどうかは、すぐに明確にはならない。「義務に適った行為」には、次のような三種類の行為が考えられるからである。
     第一はこうした行為が、その人の「直接的な心の傾き」(同)のために行われる場合である。たとえば買い物にきた人が幼い子供であって、店主は子供好きだったとしよう。この店主はふつうなら、値段もわからない客には高い値段をふっかけるのだが、たまたまその客が子供だったから、正価で販売したとしよう。その場合には、店主は自分の「直接的な心の傾き」のために「義務に適った」かのようにみえる行為をしたにすぎない。いつもはその義務は守っていないのである。だからこの場合には店主のこの行為は「善い意志」から行われたものとは言えないだろう。
     第二は、その人の直接的な心の傾きからではなく、「自分の利益を重んじた」(同)ために義務に適った行為が行われる場合である。この場合には店主は、たしかに商品を正価で販売するが、それは義務によってではなく、「すべての人に定価で販売する」(同)ようにすれば、「子供でも他のすべての人と同じように、この商人の店で安心して買い物ができる」(同)という評判が高くなることを期待してのことなのである。この場合には、このような評判が高くなれば店は繁盛するだろうから、結局は利益になると計算して、店主は「義務に適った」行為をしたことになる。この行為もまた、善い意志に基づいたものではなかったのである。
     第三に、心の傾きからでも自己の利益のためでもなく、「義務に基づいて」(同)こうした行為が行われた場合である。店主は、客を欺くことは自分の義務に反するし、誠実であろうという意志に反するという理由から、幼い客に正価で販売したとしよう。この場合だけが、善い意志による行為と判断される。この場合にかぎって店主は「義務や誠実さという理由からこのような客の扱いをした」(同)と考えることができる。これはたんに「義務に適った」行為ではなく、「義務に基づいた」行為と判断されるのである。
     このように、ある行為が良い意志による行為であるかどうかを判断するためには、その行為が直接的な心の傾きによるものでも、計算高い利己心によるものでもなく、義務に基づいたものであるかどうかを点検してみればよいことになる。

     ところで本書の序文では、この基礎づけの課題を「道徳性の最高の原理を探求し、確定すること」(013)にあると定めていた。定言命法の最終的な定式化が行われた今、この課題がいよいよ表現される段階に到達した。
     カントは自分の義務を忠実に遂行する人には「崇高で尊厳がある」(114)と感じることを指摘していたが、その尊厳の由来は、たんにその人が道徳的な法則に適って行動するところからは生まれない。わたしたちは道徳的な法則に適って行動するだけではなく、道徳的な法則に基づいて行動する人、しかもその法則を外的な強制とみなすのではなく、みずから法則を定める人、そして「それがゆえに法則に服従している」(同)人に、尊厳を感じるのである。
     だからここで真の意味での道徳性をつくりだしているのは、たんに道徳的な法則に服従するという側面ではなく、道徳的な法則を自らの意志で自由に作り出し、それに服従するありかたなのである。カントはこの意志の自由を「自律」(095)と呼んだのだった。

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    2022年01月17日
  • 純粋理性批判 7

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    ようやく、読み終わったが、いよいよこれからが本番である。わかりやすいという評判の本訳であるが、いわゆる定番の訳語を当てはめていないことによって、かえってわかりづらい部分も多い。また、丁寧に訳者が解説していることは、細かすぎて全体が見えづらく、巻数も多くなっていることも含めて、やや「おなか一杯」という感じである。他の解説書や他の訳本も読んでみたい。どちらにしても難解である。なんとなくわかった部分はまだ多くないので、再読しながら、理解できる部分を増やしていきたい。

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    2021年11月21日
  • 純粋理性批判 1

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    長い解説のおかげでなんとなく理解できた。
    アプリオリとアポステリオリ。
    アプリオリとは、その事象を経験する前から、他の経験や知識を通じて、その経験を理解していること。アポステリオリは、経験しないとわからないこと。
    時間と空間についてはアプリオリなものとして挙げられる。しかし、時間や空間は生まれたときから認識しているのだろうか。これには疑問を覚えた。
    また、神の概念は避けがたいらしく、カントも持ち出してくる。神の概念を述べなければ、哲学というものは大きく違ったのではないだろうか。
    それにしても面白い本だ。理解できたとはとうてい言えないが。思考の訓練に役立つ。

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    2021年10月16日
  • 幻想の未来/文化への不満

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    フロイトの作品の中ではかなり分かりやすい文章を選んだ3作品。フロイト精神分析のとっかかりとして、『文化への不満』から入るのは丁度いいと思う。

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    2021年09月28日
  • 純粋理性批判 4

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    いよいよ本筋のデカルト批判に入る。やはり難解で、本書以外の他の解説も必要だ。本書は解説が細分化されすぎていて、全体の位置づけが分かりにくい。

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    2021年08月25日
  • 純粋理性批判 3

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    全巻の中でも、かなり難解な巻で、通読するのに時間がかかった。まだまだ消化不足であるが、先を急いでいくことにしよう。

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    2021年07月22日
  • 純粋理性批判 3

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     感性が受け取る直感すなわち経験的対象に、カテゴリーがいかに適用されるかを論じる「図式論」とその各論となる「原則論」。この図式を用いて理性の定める原則との適合性をジャッジする「判断力」と、前分冊で出てきた知性が個別の直感をまとめ上げる際に用いられる「想像力」との関係がよくわからず混乱したが、どうやらそれぞれの「根拠づけ」の対象が異なるようだ(前者は理性、後者は知性に権限がある)。
     
     しかしこの「図式論」も厄介な代物だ。現象とカテゴリーを媒介する純粋な形式としての図式即ち〈時間〉が多様な私的経験のうちに含まれているからこそ、客観性を担保するカテゴリーが感性のうちに与えられて自己の追加的な判断即ち〈総合判断〉が成り立つというのだが、本当にこのような複雑な過程を経てアプリオリな総合判断というものが生まれているのだろうか。そもそもこの感性・図式・カテゴリー・原則というメカニズムは実証不可能なカント一流の説明にすぎない。しかし、「現象などの物自体にカテゴリーは直接適用できない」というカントの金科玉条からすれば、特にこの図式は人間認識の制限項として導入不可避なメカニズムだったのだろう。
     
     「原則論」はよく言われるように、「本当にこれだけの原則で概念が網羅されているの?」という素朴な疑問を否応なく惹起するが、僕に関しては特に力学的な原則(関係と様態のカテゴリーに対応する「経験の類比」と「経験的な思考一般の前提条件」)についてはある程度の納得感を伴って読めた。例えばスピノザやライプニッツ的な決定論に対し、因果律は人間が現象認識の結果として確立したものだというカントの主張は、若干情緒的に感じられはするが、人間中心主義的な世界観に立脚する点で共感を覚えた。

     なお本分冊では全くメジャーな論点ではないが、個人的には原則論の観念論への反駁で出てくる「基体」の扱いが微妙だなと感じた。カントは我々が対象の変化を知覚する際に、時間そのものは知覚できないのでその代わりに不変なるものとの相対変化を知覚しているという。ここが外部の実体性を要請する点でバークリ的な際限のない懐疑論やデカルトの唯心論的懐疑に対する論駁の根拠となっているのだが、この不変な基体というものの実体が判然としないのだ。どうやら対象の変化というのは対象の不変な基体すなわち「実体」そのものではなく、その属性が変化するさまを指すようだが、やはりライプニッツが言うように「対象の実体」という変化しない本質というのはそれこそ人間が認識不能な「物自体」の最たるものではないのか。それとも、カントは人間に認識可能な「変化」を定義するためにそのような基体という概念を構成的に導入したのだろうか。つまり人間がアプリオリにもつ法則に従い変化を認識する際に、構成的に後付けで設定される基準点のようなものか。確かに「コペルニクス的転回」ではあるが、しかしそれだと循環論そのものになってしまうような気がするのだが…。

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    2021年07月11日
  • 純粋理性批判 2

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     感性を扱った第1分冊に続く本書では、主に人間の認識における知性の役割に焦点が当てられる。ちなみにこの中山訳では「悟性」ではなく一貫して「知性」が使用されている。
     哲学というものは往々にしてそうなのだろうが、用語の使用が一般のそれと全く乖離しているために用語を見ただけではそれが意味するところを把握しづらいところがあるが、本分冊では特にこれが目白押し。何度読んでも「判断力」と「想像力」の違いや、「総合」とか「統覚」の関係性が頭に定着せず、その度に定義を確認する羽目になる。
     極め付けは頻発する「根拠づけ」という言葉。流石にわかりづらいと考えたのか、訳者も解説に多くの紙面を割いているがそれでもピンとこない。訳者によれば、ここで行われているのは直訳の「演繹」ではなく「権利問題」、つまりカテゴリーにより生ずる客観認識の場合ならば、感性・知性・理性のどれがその認識を生じさせるかについての「権利」=「権限」を有しているのかが論じられているのだという。これは直感的には極めて理解しにくい。それならもっと字面から意味がはっきりわかる言葉にしてくれればいいのだが…。

     なお本分冊の「純粋理性批判」全体の中の守備範囲はさほど広くない割には、解説の記述量が多く丁寧な説明がされている。やはり経験に基づく判断によりカテゴリーが理解されるのではなく「カテゴリーを用いた経験の統合が客観的判断そのものを可能する」という例の転回が、「批判」の前半の大きな山場となるからだろう。ここのところは多くの例示を用いられていることもあり割と理解しやすかった。ロックやヒューム的な経験論との対照も鮮明でわかりやすい。

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    2021年07月11日
  • フロイト、夢について語る

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    夢の解釈は多分に恣意的でオカルト的である。やはりオカルトの域を超えないが、原因ー結果の科学の方法に忠実であろうとするフロイトの説明は納得できる部分も多い。いまだにブラックボックスである心の分析は解釈学に過ぎないのか。どのように人間はこの最大の課題の解決の向かっていくのであろうか。

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    2021年06月07日
  • フーコー入門

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    ■著者が扱っているメインテーマ
    思考のエチカとは?

    ■筆者が最も伝えたかったメッセージ
    社会が用意した真理に従うより、自分の欲望が実現される世界に目を向けて、
    自己と社会を変えていこうという意志。

    ■学んだことは何か
    本当の自由って社会や集団が用意した場所に従って生きることではなく、
    自分の欲望と向き合い、そこを追求していける人生なんじゃないか?

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    2021年03月06日
  • 責任と判断

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    「道徳性というのは一種の習慣」
    これは恐ろしくも鋭い指摘だと思う。

    現代で「いいも悪いもない、価値観だ」
    みたいな語り方がされるのは、ある種
    的を得ているんだろう
    そしてアーレントはそれに
    挑戦しようとしていた。

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    2020年10月04日
  • フロイト入門

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    人が分からなくなって読んだ。読みにくくはないながらも、内容が多いだけになかなか読み終わらず。面白かった。

    フロイトの考えの変遷を、そう考えるに至ったフロイトの経験も交えて紹介している。フロイトは精神症の根底には性的欲望があることを想定しており、それを証明するための弁証をしている。
    無意識を提唱したのはフロイトであったが、無意識には普段は抑圧しているものが含まれているという提唱がなされている。

    夢分析の章はややしんどかったが、エディプスコンプレックスの章は面白かった。日常で出会う自罰的な人に対して、どこからこの罰意識はくるのだろうかと不思議であったが、フロイトによると、エディプスコンプレックスを克服した結果生じる超自我がこの罪悪感を生み出しているようだった。

    どんなに自分で考えた突飛な論でも、皆を納得させられるくらいに組み立てをつくれば世の中に広く残るものになるのだと思うようになった。

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    2020年05月27日
  • 幻想の未来/文化への不満

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    光文社古典新訳文庫 フロイト 宗教批判論文3編。

    キリスト教の抑圧性や神経症患者との共通性から、宗教や文化を批判する論調。3編が共通テーマであり、フロイトのユダヤ人問題や宗教論を理解できる構成。中山元 解説のおかげで読めた。

    随所に 科学重視、合理主義、個人主義の立場から、キリスト教批判は見受けられる。


    各論文のテーマとアプローチ
    *幻想の未来
    宗教は幻想であり、科学に未来を託する論調。強迫神経症とキリスト教儀式の共通性からアプローチ

    *文化への不満
    キリスト教道徳の抑圧性が文化への敵視、不満とする論調。欲動論からアプローチし、文化の発展は人間の種の生存を賭けた闘いであるとした

    *人間モーセと一神教
    反ユダヤ主義の原因を考察。トーテミズムから始まり、ユダヤ教の多神教から一神教化とキリスト教誕生を経て、反ユダヤ主義に至る宗教史からアプローチ。



    幻想の未来
    *カントの啓蒙の立場から宗教批判
    *啓蒙=人間が自ら招いた未成年の状態から抜け出る
    *宗教=人間が自然や文化から身を守る仕掛け
    *宗教の教えは幻想〜理性では宗教の教えは証明できない
    *幻想は 人間の願望から生まれる

    文化と宗教の関係を変革する
    *科学的な理論の変遷は発展、進歩であり、転覆でない
    *科学は幻想でない

    強迫神経症と宗教的儀礼の共通性
    *宗教は普遍的な強迫神経症
    *宗教の教えは神経症的な遺物であると理解すること→宗教の意味を理解し、歴史的価値を認識


    文化への不満=集団妄想の狂気
    *大洋性の感情=外部の世界の全体とともに生きている、結びつきの感情→残存した原初的な自我感情
    *宗教の集団妄想性を批判〜キリスト教の性道徳→欲望の抑圧→神経症へ逃げ込む
    *欲動論〜文化の発展は、人間の種の生存を賭けた闘い
    *人間が頼れるのは、神の救済でなく、エロスが死の欲動に対抗することだけ


    欲動論
    *エロスの欲動と破壊欲動の対立
    *エロスの欲動=自己保存欲動、性欲動
    *破壊欲動=死の欲動(タナトス)
    *文化の発展は、人間の種の生存を賭けた闘い「エロスと死の闘い、生の欲動と破壊欲動の闘い〜この闘いは人生そのものの本質的な内容」


    反ユダヤ主義の原因
    *キリスト教化された諸民族の嫉妬
    *割礼による去勢不安
    *キリスト教への不満、土着信仰への愛着

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    2020年02月23日
  • 人間不平等起源論

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    PSYCHO-PASSで紹介されてから購入し、だいたい5〜6年間、トライしては挫折を続け、やっとこさ読み終わることができました。

    政治哲学に関する素養はないので、あまり大それた感想は書けませんが…
    「自然状態」という事実かどうかは当時確かめようのない想定から人類の社会の誕生を考え、言語などをはじめとする文化の誕生に言及し、不平等がいかに誕生したのかという緻密な分析は、読んだ甲斐があると思いました。心理学的な人間理解にも通じるものがあり、1700年代にこのような人間理解をしたルソーはまさに天才であると感じます。
    ルソーは他に、『社会契約論』や『エミール 』でも有名ですが、これらの本にもいつかは当たってみたいです。

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    2020年01月22日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

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    イマヌエル・カント(1724~1804年)は、プロイセン王国に生まれ、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、認識論における所謂「コペルニクス的転回」をもたらした。ヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされ、彼による超越論哲学の枠組みは、以後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしている。
    本書には、カントの政治哲学、歴史哲学に関連した重要な論考である、「啓蒙とは何か」、「永遠平和にために」のほか、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」、「万物の終焉」が収められている。
    「啓蒙とは何か」のエッセンスは、冒頭の一段落に集約されている。「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。」
    本稿が発表されたのは1784年、近世から近代の転換点と言われるフランス革命(1789年)の直前で、「啓蒙」という概念がイギリス、フランスからプロイセンに入ってきて、一般市民にも教育の関心が高まってきた時代で、その時代の要請に応える形で書かれたと言える。しかし、それから2世紀以上を経た現在、我々は「自分の理性を使う勇気」を持ち得たのだろうか? 第二次大戦のファシズムは言うに及ばず、現在世界を席巻するポピュリズムも、「自分の理性を使う勇気」を放棄した結果の現象なのではないだろうか。。。今こそ読み返す価値のある短著である。
    また、「永遠平和のために」は1795年に発表された。同年はフランスとプロイセンがバーゼルの和約を締結した年であるが、同和約は将来の戦争を防止するものではなく、戦争の戦果を調整する一時的な講和条約に過ぎず、こうした条約では永遠平和の樹立はできないと考え、カントには永遠平和の実現のための具体的な計画を示す必要があった。
    そして本稿では、永遠平和を実現するための予備条項と確定条項が示されている。予備条約では、①将来の戦争の原因を含む平和条約、②継承・交換・売却・贈与等による国家の所有、③常備軍、④国家間の紛争を理由とした国債の発行、➄他国に対する暴力による内政干渉、⑥相互信頼を不可能にするような敵対行為、を禁止するとしている。また、確定条項では、平和の条件として、①各国の政治体制が共和的なものであること、②国際法は自由な国家の連合が基礎となること、③世界市民法は普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと、が定められている。
    しかし、カントは、永遠平和の実現は容易ではないとし、本書を「公法の状態を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのが、たとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけとしてもである。だから永遠平和は、これまでは誤って平和条約と呼ばれてきたものの後につづくものではないし(これはたんなる戦争の休止にすぎない)、たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。この課題が次第に実現され、つねにその目標に近づいてゆくこと、そして進歩を実現するために必要な時間がますます短縮されることを期待したい。」と結んでいる。第二次世界大戦の後、(現代しか知らない我々には)未来永劫続くとさえ思われた東西冷戦は20世紀末に終結したが、その後の世界は、文明・宗教間の衝突の渦の中におり、解決は到底不可能なようにも思える。しかし、「永遠平和」は、カントの言うように、義務であり、根拠のある希望であり、実現すべき課題であり、人類として諦めることは許されないのだ。
    今こそ、18世紀にカントが希求した啓蒙への夢とヨーロッパ的な共和国(=永遠平和)への夢を、改めて考えるべきときなのだと思う。
    (2019年12月了)

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    2019年12月29日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    プロテスタンティズムねは禁欲的な倫理が、資本主義におよぼした影響を考察したすごい本。
    宗教と経済の関係性を考えさせられた。
    このプロセスがあるから外国は大学等に寄付というのが、多いのだろうか。
    よくわかんない所も多かったけど、面白かった。

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    2019年11月23日
  • 陸と海 世界史的な考察

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    人間は陸に暮らす動物であり、大地の上で活動をする。古くからある大地、水、火、空気というエレメントの中でも、大地は人間の基盤、ものの見方、自己の観点といったものを最も強く規定するエレメントである。なぜなら、人間は海に住む魚でもなければ、空を飛ぶ鳥でもなく、ましてや火で構成される生物などではないからである。だが、人間は大地にのみ関連づけられた動物ではない。もし人間がその4つのエレメントによってあますところなく完全に規定されているのであれば、人間は魚であったり、鳥であったり、またはこれらのエレメントの規定から生まれた奇妙な混合物であるはずだからだ。当然人間はそんなことはなく、人間はその四囲の世界に解消されてしまう存在ではない。人間は困難や危機に際しても、その精神と確固たる観察と推論によって自己を新しい存在へと救い上げていくことのできる存在なのである。

    航海技術が発達した16-17世紀に、海のエレメントが噴出し「空間革命」なるものが起きる。空間の見方は個々の人間によって異なる。大都会の人間は農夫とは違うふうに世界を考え、捕鯨者はオペラ歌手とは異なる生活空間を持っている。いろいろな民族全般、人間歴史のいろいろな時代についていえば、空間観念の相違はもっと深く、そして大きくなる。空間革命のなかでも、最も根本的で影響力の大きい変革となったのがアメリカの発見と最初の世界一周航海である。世界一周によって、人間の全体意識にとって地球の全体像と、全宇宙の天文学的な全体的観念が変わったのだ。これが、空間革命の決定的な要因である宇宙への拡張、そして無限の空虚な空間という観念につながるのである。ガリレイの科学的な諸実験の結果、空間の無限性が数学的に証明できる真理となった。これによって人類は「空虚な空間」を表象することができるようになるのである。我々は、地球が太陽の周りを回っている、宇宙に無数のようにあるただ一つの星に過ぎないということが学問的真理として広く認知されている世界に生を受けたため真空に対する恐怖を忘れているが、これらの事実はこの空間革命の時代に生きた人間には身の毛のよだつほど恐怖を与えた。

    16世紀以来、ヨーロッパ大陸の諸国は陸地戦に関して一定の形式を作り出していた。戦争は国家と国家の一つの関係であるという考えが根底にあったのである。戦争は一種の外交手段であり、敵として相対するのは戦闘を行う軍隊だけで、戦いに参加しない一般市民は敵対関係の外側にある。だが、それに対して海戦の根底には敵の貿易、経済に打撃を与えなければならないという意図がある。海戦における主な戦闘手段は敵国海岸の砲撃と封鎖である。つまり、海戦の構造としては敵国に加えその国と貿易を営み経済関係を結んでいる中立国も敵となるのである。これは、まったく異なった二つの世界である。一つの陸国が地球全体を包含するような世界権力を行使できるなどという考え方は陸国の世界観からすれば途方もないことだが、海上の存在にとって世界支配の手段を見出すことは陸国のそれと比べさほど難しくはないようである。海と陸という二つのエレメントの分離がひとたび地球上の根本原則となったあとで、この分裂を基礎に色々な教義、証明事項、学問体系などの骨組が打ち立てられた。

    そして19世紀に人類は新たな空間革命を起こした。電気工学と電気力学の時代へと突入したのである。電気工学・電気力学は飛行機や電波技術を発明する。この空間革命は人間存在の新しいエレメント領域に第三のエレメントとして空気が加わったとする考え方を生んだ。だが、どのような技術的・機械的な手段とエネルギーをもって人間の力が空気中で発揮されるかを考えると本当に新しい人間活動のエレメントとしては火が現れてくるのである。そして、我々は次の二つのことを確実な事実として認めることができる。一つ目は、空間革命の新しい段階とともに始まった空間概念の変化に関係する。16-17世紀の人間は世界を空虚な空間の中に見出したが、今日我々が空間という場合、それはもはや考えられるすべての実質を欠いたたんなる空虚の真相次元のことではない。空間はわれわれにとって人間のエネルギーであるとか、活動とか業績とかのちからの場となったのである。二つ目は陸と海のエレメントとしての根源的な関係に関連する。海は、捕鯨者や海賊たちの時代におけるようなエレメントではなく、交通・伝達手段の空間となったのである。海と陸の分割ということがなくなったのだ。こうしてまた新たなエレメントが生まれた。古いエレメント、新しいエレメントに対する人間の新たな関係が地球の新しい習慣や法律を成長させる。古い力と新しい力との苛酷なたたかいの中にもまた正しい尺度が生まれ、意義深い調和が形成されるのである。

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    2019年11月21日
  • 善悪の彼岸

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    ツァラトゥストラを分かりやすく書き直したというだけあって曙光よりだいぶ理解できた。と思う。すごくまじめに読んだら面白かった!ニーチェ先生が私たちのレベルまで降りてきてくださっているという感じ。

    まず支配者の道徳と奴隷の道徳があって、奴隷=一般人はキリスト教程度で満足していればよいけど、支配者、新しき哲学者は奴隷も何もかも利用して高次の課題にあたり、新たな道徳価値を創造する。そういう人々が必要なんだ、ということ。
    精神は自分の周りを同化し、征服し、わがものにすることで成長しようとする、これが生の本能、力への意思。キリスト教的道徳のもので、この本能は悪として否定され、支配者になるべき人を傷つけてきた。無条件に真理に高い価値を認め、認識できるものと断定していた今までの哲学は間違いだった。
    新しき哲学者は、下賤な人間に学びながらも、孤独で、独立不羈でなくてはならない。苦悩の中で自由な精神を高め、力への意思を行使する。人間の「どこへ?」と、「何のために?」を定めるために。
    これは祖先からこの仕事に取り組み、訓育されていて高貴で強い精神の者のみ許される。

    すがすがしいほどの選民思想!あと女性蔑視的発言!真理は女性だから仕方ないのか!私は間違いなく奴隷なのだがここまで徹底してるともう全然嫌な感じしない。感嘆があるのみ。
    人間にはランクがあるということは全く間違いではないと思うが、ここまで臆面もなく主張できるのはすごい。
    「そこに驢馬が登場した 美しく、いとも逞しき驢馬が」のところと、突然「自殺を考えることは、きわめて優れた慰めの手段である」と言い出してメンヘラになるところは笑った。

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    2019年10月29日