中山元のレビュー一覧

  • フーコー入門

    匿名

    購入済み

    色々としんどく生きにくい世の中をどうやって生きていけばいいのかという現代人のほとんどが抱えているであろう(そして考えてもしょうがないからとりあえず社会のルールにのって生きていき忘れられる)問いに真正面から答えてくれる部分があります。もちろん全体像はそれだけではないだろうし、また自分がその全てを理解できていると思わない。また理解できたと思ったものも誤読してるかもしれない。それでも価値があると思えた

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    2024年12月16日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

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    最初に──
    本書の後ろにある訳者の解説を参照すると良い。というか必須だ。時代背景や地域背景、歴史の流れの中でこそ普遍性のあるメッセージが見えてくるのだから。
    私たちは常に考えなくてはならない。

    カントは、いまだ未解決のテーマへの挑戦を力強くエンカレッジしてくる。

    不思議に東洋思想との融合感を感じるのは、自らの認識論に『コペルニクス的転回』とキャッチコピーを付したカントならではの大きな世界観・統合感のためかもしれない。カントの時空を物ともしない視点の広さ(寛容さ)に感動してほしい。と私が思うのは、おこがましいかもしれないが ....。

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    2024年10月06日
  • モーセと一神教

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    オーストリアの高名な精神分析学者ジークムントフロイトの書いた最晩年の遺書的論文。彼自身がユダヤ人でもありナチスの迫害を受け親族のうちの何人かが強制収容所に送られている。
    モーセがエジプト人でありアメンホテプ4世の一神教時代の神官であったという大胆な仮説を前提に、原始宗教のあり方やフロイトのエディプスコンプレックスをはじめとする精神分析論と絡めながら考察を展開している。世界史でも特異な人物として登場するアメンホテプ4世への当時の欧州での見方について(一神教であるキリスト教が価値観の前提にある欧州社会において多神教の古代エジプトの中で一神教を主張したアクエナテンは好意的にみられていたのかもしれない)見ることができ興味深かった。

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    2024年08月31日
  • 資本論 経済学批判 第1巻 I

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    『資本論』はとにかく難しい。これはもはや一つの慣用句のようにすらなっている感もあります。

    この作品はこれ単体で読んでも到底太刀打ちできるようなものではありません。

    時代背景やこの本が成立した過程、さらにはどのようにこの本が受容されていったかということまで幅広く学んでいく必要があります。

    私がマルクスを読もうと思い始めたのは「マルクスは宗教的現象か」というテーマがあったからでした。

    ここにたどり着くまで1年以上もかかりましたが、マルクスとエンゲルスを学ぶことができて心の底からよかったなと思います

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    2024年08月19日
  • アレント入門

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    アレントが、ナチスを例にした全体主義、アイヒマン裁判を通じて表した悪の凡庸さ。人が、どうしてそれらを受け入れたか、それらをどう防ぐことができるかを思考したことを解説する良質な入門書。
    今、世の中に上げる声が、自らで思考したものなのか、自己愛だけで他者への意識が欠けてないか。
    結局、そこに行き着くのに…。忘れないようにしよう。

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    2024年04月14日
  • 責任と判断

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    “凡庸な悪”とは何か、アイヒマンが法廷に立ったあの時と、アウシュビッツにいたあの時とはどう違うのか。
    政治、道徳というテーマを、古代ギリシャからカントやマキャベリ、ニーチェ等の思想も踏まえながら、組織に生きる我々はどのように生き、そして「無批判に行動すること」の危険性を示唆する内容となっている。
    研究が進み、アイヒマンの行動それ自体にも本書(本講演?)登場時よりも明らかになった部分も増えていると聞く、そのため究極は最新の学説も踏まえて解釈する必要はあるが、思考することの必要性、戦後世界における道徳と政治の関係性および危険性に触れることができる一冊。

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    2024年01月28日
  • 世界宗教の経済倫理 比較宗教社会学の試み 序論・中間考察

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    『職業としての・・・』『プロ倫』に続いて、本シリーズ三冊目のウェーバーである。『プロ倫』でプロテスタンティズムと資本主義発展のダイナミズムの関係を論じたウェーバーが、それを一般化すべく、儒教や仏教など他の世界宗教との比較において、その教義体系や担い手としての社会層の特質を浮き彫りにし、それらが世界観や生活様式の合理化にいかなる影響を及ぼしたかを考察する。「序論」と「中間考察」はその方法論と骨子を述べたもので、壮大なウェーバー宗教社会学の肝が簡潔にまとめられている。

    学問的な厳密さでは旧訳に敬意を表するが、概念過多のウェーバーの複雑な文章を忠実に日本語に移せば、一行一行辿るだけで閉口してしまうのもやむを得ない。中山氏の翻訳は読み易さで定評があるが、後ろから訳し上げるのではなく、文を区切るなどして極力前から訳し、訳語の選択にも「価値自由」→「価値判断を含めずに考察」、「行為の実践的起動力」→「行動させる実際の原動力」、「規定的」→「決定的な役割を果たした」等の工夫が見られる。

    厳密な方法意識に貫かれたウェーバーの著作には、いくつもの前提や留保が張り巡らされており、ドイツ語原文と言わぬまでも直接翻訳にあたってみなければ微妙なニュアンスはわからない。例えば、ウェーバーが「存在が意識を規定する」というマルクスの唯物史観を逆転させたとよく言われるが、ウェーバーは唯心論に立ってプロテスタンティズムが資本主義を生んだと言ってるわけではない。マルクスにしてからが単純な経済決定論ではないが、ウェーバーの真意は一方を他方の単なる「反映」や「関数」と見做すのではなく、双方向の因果関係を考察すべしということだ。ともあれ評者のような一般読者に手近な解説で済まさず原典に向かおうという気を起こさせてくれる好訳だ。

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    2023年12月30日
  • フーコー入門

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    簡潔かつ丁寧なミシェル・フーコーへの導き書。
    キリスト教の司牧者権力と近代国家のポリツァイを同一の視点から分析するとは驚きました。
    告解が罪の意識を作り、そこからまた告解へと戻る。無限のサイクルの内に人が閉じ込められている。
    歴史を過去のものとして振り返る際、そこで表現「されたもの」と「されなかったもの」の差異、ディスクールを理解することの困難さと重要さ。
    一面的な観点を見て単純素朴な結論に終着しないよう吟味することっすね。

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    2023年02月10日
  • 道徳および立法の諸原理序説 下

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     立法の全大系を、道徳も含めて、整えようとの試みには、途中で「挫折」しているものの、迫力がある。フランス革命以前にこうした試みに挑む先人がいたことに敬服する。しかも、その内容は、若干、宗教的なものの扱いに関しては違和感をぬぐえないが、現代でも十分通用する人間の本質に基づいた分析から行われていることに驚かされる。

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    2022年12月04日
  • 社会契約論/ジュネーヴ草稿

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    ・学校の教科書で名前程度は知ってましたが読んだことはありませんでした。今回「世界を動かした一冊」というフレーズにしびれ読んでみることにしました。もっと読みづらいかと思ってましたが新訳のおかげか意外とスラスラいけました。でも内容は難しく、一般意思などわかるようでわからないもどかしさを感じました。今度は「人間不平等起源論」を読んでみたくなりました。

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    2022年04月12日
  • 道徳形而上学の基礎づけ

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    ネタバレ

    カントの名言「汝の意志の格率が〜」をこの年になって詳しく知りたくなったので読んでみた。この名言に関連する「定言命法」、「仮言命法」、「目的の国」、「自律」という高校倫理で取り上げられるカントの思想も本書で登場するので、カント哲学に興味を持った人はまず読んでみてほしい。カントの著作の中では読みやすい方と言われているが、素人にはそれなりに応える一冊だった。本文と同じくらい長い訳者による解説があるのが救い。本書を読んで『実践理性批判』まで読んでみようと思うかどうかが、カント哲学を志すか否かの別れ目になりそう。

    本書を読む前に、世界には2つの世界、我々が知覚する世界(感性界)に対して、経験や知覚を全て排した世界(叡智界)があるということは前提知識として持っておきたい。本書のテーマである道徳は叡智界側に結びつく。上の名言は法則に従うことを私たちに命ずることを示しているが、それだけでなく理性的存在者である人間は「法則を自ら作り出す」存在でもある。外からの影響を全く排した状態で、法則に従い、自ら法則を作り出すその姿は、どこか宗教的な印象を受け、常に物事の原因や理由を考えがちな現代人にとってはイメージがしづらいだろう。(法則が「〜せよ」と私たちに命ずるところもどこか宗教っぽい)

    それにしてもカントの理性というか人間への信頼はすごい。本書はカントが61歳のときに刊行されたようだが、60年も生きていれば、「人間なんて大体バカ」とか思ってしまって、このような著作は書けないのではないだろうか。

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    2022年01月02日
  • 純粋理性批判 5

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     本第5分冊の帯には「最大の難所、あのアンチノミーがついに理解できる」とある。アンチノミー。この歳になるまで全く知らなかった言葉だが、それほどまでに重要な概念なのだろうか。ともかく読み進める。

     前分冊に引き続き、主眼は経験を超越しようとする理性の批判。西洋形而上学における「世界が絶対的・無条件的全体性を有する」という理念はどこから出てくるのか。カントは経験可能な総体としての「世界」と、現象が全体性を持つための条件としての「自然」からこの問題にアプローチするが、それぞれ対応するカテゴリーを2つずつ当てがうため、検討するアンチノミーも4つになっているというわけだ。

     ここで「無限」の概念が重要な役割を果たすのが個人的には意外だった。
    ①全体性を担保する〈無条件者〉が系列に含まれる場合は、スピノザの神即自然よろしく系列全体が無条件ということになり、理性の無条件なものへの遡求(系列の背進)は〈無限への背進〉になる。
    ②無条件者が系列の外部に独立して存在する場合は、系列全体がこのライプニッツ的な神に従属することになり、系列の背進は〈不定への背進〉ということになる。
     正直なところ、特に①の前提となっている「無限でありながら全体が把握可能な系列」というのがよくわからない。無論、有限な系列全体を説明するのに無限回のステップでこれを行う、ということなら理解できる。しかしここで言われているのは、「世界全体が把握される前からそれが無限であることが諒解されている」という事態だ。無限であることが初めからわかっているシステム、とは一体どういうことなのか。カントのロジックからすれば、無限のような経験を超越した概念をいきなり直感する能力を持つのは、ヌーメノンを把握できる神のような叡智的主体に限られるのではなかったか?無限/有限という排中律が前提であるからこそこのような議論になるのであって、「そもそも有限か無限かは経験してみなければわからない」のだとしたら、ここでの議論は成り立たないのではないだろうか。

     ともかく、ここから4つのアンチノミーの定立/反定立命題それぞれの証明が行われるのだが、先述の無限を巡る議論に加え、それぞれ帰謬論(背理法)を用いているため論理の流れが非常に煩雑でわかりにくい。しかも、そもそも使用されるロジックも納得感のあるものとは言い難いのだ。例えば第一アンチノミーの定立命題で言えば、無限の時間が経過したと仮定→無限の時間は完結しない→現在の世界も生じないはず、として世界の端緒の存在を背理的に証明するのだが、現在の世界を無限時間の完結後の姿だと断定する根拠が明らかに脆弱だ。現在の世界は無限前進の最中の過渡的な姿だと見れば、無限の時間が存在する(端緒はない)ことに矛盾はない。このロジックは他のアンチノミーの議論にも用いられているので、4つのアンチノミーに関する議論全ての存立基盤が怪しい、ということになってしまう。

     だから、ここから論ぜられるアンチノミーの誤謬の指摘(二律排反の解消)も、論理的にかなり頼りないものと言わざるを得ない。各命題は現象と物自体を混同している、とカントはいうが、そのカント自身による各命題の証明自体が「無限の系列の全体」という物自体を前提を認識可能だとする、純粋/経験的カテゴリーを混同したものなのだから当然だろう。またアンチノミーが実は矛盾対等ではないとの指摘についても、各命題の証明で排中律をおきながらその検証では否定するというのでは、そもそも検証になっているのだろうかという疑問が湧く。

     全般的にみて「カントのアンチノミーの議論は〈無限〉の取り扱いを誤っている」というのが僕の感想。過ぎ去った時間の総体などのような「無限の系列の全体」という自家撞着した概念を前提とすれば、矛盾を含む結論を導出するのは容易なので、ここで行われていることがすごく意味のあることだ、とは少なくとも僕には思えなかった。砂の山を作って自らそれを壊しているだけに思えてならないのだ。当時のキリスト教神学に与えた打撃が相当のものであったろうことは理解できるが、結局のところ「どっちとも言えない」という結論もなんとなく拍子抜けしてしまう。

     ただそうは言っても、素人の僕にここまで疑問を持たせるのだから、この箇所の読み応えは相当なものと言っていいと思う。これから何度も読み返す分冊になりそうだ。

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    2021年07月11日
  • 純粋理性批判 4

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     「批判」の内容からすれば、人間の客観認識を構成するメカニズムを詳解する「超越論的感性論」から「原則論」までが前半とするなら、理性の限界を論ずる本第4分冊の「超越論的弁証論」以降が後半ということになるだろう。しかし実際の章立ては大きく「Ⅰ. 超越論的原理論」と「Ⅱ. 先験的方法論」の2部構成であり、全体の8割が前者に含まれている。こういう章立ての奇妙さも「批判」を近寄り難いものにしている要因だと思う。

     本分冊で焦点が当てられるのは「理性」。純粋理性概念、即ち〈理念〉を利用して知性の働きに統一を与えながら、事象の原因を際限なく遡上し〈無条件的なもの〉の探究に邁進するという本性を持つ。この理念はちょうど知性におけるカテゴリーに対応する働きを持つが、後者が〈構成的〉(経験対象を拡大)であるのに対し、この理念は〈統制的〉(経験を理念に包摂)な性格を持つ。逆にいえば、理念は経験を統制することはできるが経験の対象を超えて認識を拡大させることはできない、ということになる。それでいて因果の系列をより高次なレベルに遡り〈無条件的なもの〉の把握に至ろうとするのだから、この純粋理性の能力は大きな誤謬の可能性を孕んでいるのでは?というのが主論だ。

     ここで扱われるのが、「批判」内で何度も立ち現れてくるテーマの一つである「誤謬推論」。〈規定する自己=思考する私〉と〈規定される自己=認識する私〉を混同し、2つの命題をつなぐ媒介概念として使用してしまうため、過剰な結論を導いてしまう推論形式のことだ。こうすると、経験によらない分析的命題から経験を伴うはずの総合的命題が出てきてしまう。ここでもやはり批判の対象としてあげられるのはデカルト的観念論であり、〈わたしは思考する〉という命題そのものは成り立つが、内的直感には持続する他の物(=基体?)への参照が伴わないため、ここから直接「〈わたし〉は他者や肉体といった外界から独立して存在可能」という命題は導けない。だからデカルト的「思惟=実体」という推論は誤謬だというわけだ。確かに〈わたし〉が直感可能な客体だとすると、では〈わたし〉を直感しているの別の〈わたし〉がいるのか?という話になり、これは無限後退を必然的に導いてしまう。

     「批判」の中で本第4分冊の扱う範囲は比較的短いのだが、解説では初版における観念論と唯物論に対するカントの反駁が詳細に扱われており、結構な読み応え。カントは一貫して思惟主体に客体性・実体性を与える(つまりカテゴリーを適用して認識の対象とする)ことには強く反対している。このことにより、例えば「心身問題」「自由意思」「目的論」といった諸問題について理性が究極原因を追求してしまい、予定調和や不滅の霊魂などの過剰な結論を導いてしまうことを回避するのだが、ここで重要なのはカントが経験の範囲内でのマイルドなデフレ的決定論・目的論は認めているということであり、それがカントのその後の著作の中で「道徳」や「使命」などの重要なテーゼとして立ち現れてくるのだろう。

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    2021年07月11日
  • 純粋理性批判 1

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     まさかこの年でカントを読み始めるとは思ってもみなかったが、最近読む本読む本にやたらカントへの言及があり、そんなら一度読んでみようと決めた次第。訳書の中では最も平易だという触れ込みのこの光文社古典新訳文庫を選んだが、それでも僕には超難解。本文は全体の約半分しかなく、残りは訳者による頗る丁寧な解説が占めているという相当に親切な作りだが、それでも1回読んだだけでは殆ど理解できず。予め簡素な入門本を読んだ上、本書の本文と解説を何度も何度も行き来しつつ自分なりの読書ノートを作ってもまだよくわからず、最後に詳細な解説本を読んでようやく何となく、といったところ。通常の4、5倍は時間をかけ文字通り四苦八苦しながらやっと最後まで読み通した。

     何がわからないといって、まず題名からしてよくわからない。理性を「批判」とは?普通に考えれば批判とは否定的に検証するといったような意味だから、理性の存在基盤を疑おうということか?と思えばそうではなく、理性そのものの本性を対象として純粋に(超越論的に)批評を加えよう、という意味らしい。
     章立てもよくわからない。「感性論」などはまだいいが、「分析論」とか「弁証論」となると内容と章題とのつながりが相当に希薄であるため、読んでいてこの章がそもそも何を論じているのかすぐにわからなくなってしまうのだ。
     
     本第1文冊は人間の直感がどのように成立するかを論ずる「感性論」だが、ここでいきなり爪づく。本書解説でも触れられているが、空間・時間の「形式」としての存在様式が、客観的普遍性を担保する経験的な「実在」でありながらも同時に(超越論的ではあるにせよ)主観的な「観念」でもある、というカントの論理は逆説的で極めて分かりにくい。これは「批判」内で何度も立ち現れてくるテーマでありながら、その度に混乱させられることになる。この直感を支えるパブリックなプラットフォームとしての空間・時間の実在性がカントでは曖昧に処理されているため、空間-時間を橋渡しして自己の意識をメタ的に意識するという「統覚」の所在も今ひとつピンと来ないままだ。確かに、アインシュタインを経由した現在では、空間と時間に絶対性はないが、その歪みが実体的に電磁波や物体に影響を与える実在だということになっている。ただそうなると、今度はその時空の実在性をアプリオリに把握して直感を受領してしまうこの奇跡的な人間の感性の正体とは何なのか、というカント的地平に容易に引き戻されることになるのだろう。なるほどこれは一筋縄ではいかない…

     というわけでやっと7分の1。先は長い。

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    2021年07月12日
  • 道徳の系譜学

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    ニーチェは、今の日本人こそ読むべきだと思う。言葉の一つ一つが自分に向けられているかのように刺さってくる。
    中二の頃、岩波文庫で読んでいたときと違って、訳が新しいとニーチェでもものすごく読みやすくなっている。これは論文というよりむしろ詩と言った方がいいかもしれない。

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    2021年06月29日
  • 責任と判断

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    責任と判断
    (和書)2012年03月07日 19:48
    2007 筑摩書房 ハンナ・アレント, ジェローム・コーン, 中山 元


    あまり期待していなかったけど、読んでみるととびきり良い本だった。なんだか今までの自分自身を問い直すことができるように感じた。

    ・・・十分な数の人々が「無責任に」行動して、支持を拒んだならば、積極的な抵抗や叛乱なしでも、こうした統治形態にどのようなことが起こりうるかを、一瞬でも想像してみれば、この〈武器〉がどれほど効果的であるか、お分かりいただけるはずです。・・・

    自分自身と矛盾することができない。

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    2020年09月27日
  • 純粋理性批判 2

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    先に入門書を読み過ぎたか、、、

    大凡で色々理解しちゃったあと、こっちを読むと、入門書ではぼんやりしてたところがクッキリして気持ちいい!というのはあるのだけど、どうしても超越論的とか、アプリオリとかにだんだんと辟易してきて、あーもー鬱陶しい!という気持ちになってくるというか、そして眠くなってくるというか、、、

    理論の厳密さは入門書では得難いけども、なんとなくつかんじゃうと、この延々との厳密さについていけなくなりました、、、

    こうなるのでは、と、予想してましたよ、自分のことなんでね、、、

    入門書を3冊も読んだせいで、書いてあることの衝撃的な発見はあまりなく、論理の厳密さはとうぜん、こちらのほうがあるものの、カントをゴールにしてるわけではないので、これ以上、カントの論理の厳密さのために時間を費やすのがもったいない、という気分になってきて、モチベーション保てなくなってきたので、2巻の途中で断念。
    7巻まで買っちゃってるのに、、、。
    また、人生でカントに戻りたくなっなら読もう、、、。
    複数巻ある作品を読み通すという能力が欠如してる、、、。
    どんなに分厚くても、一冊になってないと読めないんだよなぁ、、、。

    てか、この翻訳の解説がめちゃくちゃ良いので、最初からこれだけ買って解説で読めばよかった、、、。

    ロックは人の知性を、タブララサ、真っ白な紙みたいなもんとし、経験がそこに全てを書き込むとした。
    でも、カントは違う、と。真っ白な紙にもいろんな性質があるんだよ、真っ白な紙に色々書き込まれる前から、滲みやすさとか、ザラザラ具合とか、そういうアプリオリな性質があるんだよ、と。
    アプリオリな性質ってどんなんがあるんだよ、というと、感性の意味では、空間とか時間は、真っ白な紙に書き込まれることではなく、真っ白な紙がもってる性質なんだよ、と。
    で、知性の意味では、量・質・関係・様態という4つのカテゴリーがあって、要するに白い紙になんでも自由に書けるんではなく、僕らが白い紙に書けるのは、量・質・関係・様態ってものしかないんだよ、だから、そういう経験しか与えられないんだよ、と。

    つまりは、経験が人に概念を教えるんではなく、アプリオリな概念に従って経験は与えられるんだよ、みたいなのがコペルニクス 的展開ですよね。

    神とか世界の始めとか世界の外とかいうのは、そういう人間のアプリオリな感性や知性を超えたものなので、結論は出せない。なので、「世界の始めはある」と言えば矛盾がうまれるし、「ない」と言っても矛盾がうまれるみたいなアンチノミーが発生する。
    人間は、人間の感性や知性の届く範囲のものに理性を用いるべきではない。

    超雑に言えばそういうことですよね。
    ちょっと違うかもだけど、取り敢えず次にいこう!

    ちょっと人生にも限りがあるので、次にいかせてください、、、。この後ろの5冊が棚で悲しいけども仕方ない、、、。お金より時間が大事。

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    2020年08月04日
  • 善悪の彼岸

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    永劫回帰、超人、ルサンチマンなどの概念を生み出したことでも知られるニーチェだが、
    なぜニーチェが、どうゆう理由で、それらの概念、価値を創り出したのか? それを良しとしたのか?
    この本ではそれらのワードはまだ出てきてはいないが、その結論に至るまでの思考の変遷をニーチェと共に追体験することが可能な本だ。

    結論が正しいかどうかの議論とは別に、
    その結論に至るまでの道筋に対峙していくことができる。時代を超えて。
    それが古典の醍醐味である。

    善悪の彼岸というタイトルのこの著書は、
    過去から作り上げられてきた良し悪しという価値基準をぶち壊しにかかるニーチェの精神の奮闘を共に味わうだけでなく、参加することができる。
    それほどに読者に何かを叩きつけてくる激しさをもった書。

    まったくもって新しい。

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    2020年04月26日
  • ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの

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    古典なれど最新。
    フロイトの理論は、フロイトの物語として読んでいく視点も必要なのだろうと思われた。しかしそれでいて学ぶことは多い。
    3人の女性のイメージは非常に興味深い。

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    2019年11月26日
  • 社会契約論/ジュネーヴ草稿

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    1762年ルソー50歳の時に出版。
    2019年の現在から約250年前に刊行された本だ。

    当時、フランスは王政による封建制度だったが、人民に主権があるとしてこの『社会契約論』を打ち出した。


    が、
    即刻発禁処分となりルソーも迫害を受けて国外逃亡する。
    そして、ルソーは祖国の地を踏むことなく没する。

    1778年のことだ。
    それから11年後の1789年にフランスで革命が起こる。

    ルイ16世はギロチン処刑、マリーアントワネットも車で引き回しの後処刑される。



    そして、
    1794年革命政府により
    祖国フランスへ墓地が移されて、
    ヴォルテールの墓地の横で眠る。


    その革命の思想のルーツとなった本であり、
    世界を変えた本の1冊。


    ルソー著、『社会契約論』。

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    2019年03月26日