中山元のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
狭義の「理性」の領域へと話題は移り、いよいよこの著作の核心部分に入っていゆく。
この巻で非常に興味深いのは<わたし>なるものについての考察である。この<わたし>は、人格とも「こころ」とも異なる、単なる「思考の主体」である。その上でカントはデカルトを論駁し、「我思う、故に我あり」という命題の論理的破綻を指摘、心身二元論をも批判する。
だがカントの思考をたどってゆくと、「他者」なるものの確かさが危うくなる箇所がある。
あの頑迷で尊大で、愚かな中島義道を独我論に導いたと思われる一節も見られる。
「[思考する存在という]対象は、このわたしの自己意識を他の物に<移す>ことによって成立したにすぎない。」(P.108)
しかしこれは私の考えでは倒錯である。
人間は他者たちとの共同性から出発するのであり、<わたし>が出現するのは<他者>がそこにあって思考し、<わたし>にまなざしを向けるその地点からなのだ。だから<わたし>の方が後から現出した「仮象」なのではないかと私は疑う。
それはともかく、デカルトを堂々と批判した点においてこの巻は痛快だった。なるほどカントには、決して古くさくはない面が存在する。
さて次巻は例のアンチノミーだ・・・。 -
Posted by ブクログ
この巻の前半に出てくる「図式」(シェーマ)という概念は、なかなか面白いと思った。
その後に続く思索は、そろそろ難しくなってきており、厳密なあまり退屈を感じないでもない。
「アプリオリ/アポステリオリ」という区別や、「感性/知性/理性」といった区分に関しては、当時のカントにとっては重大だったかもしれないが、現代の私たちにとっては、そんなに緻密に区別できるものでもないし、そうすることにさほどの意味も見いだせない。
やはりカントもまた、時代の「言語」の内側にいて、別の言語空間から眺めると必然性・絶対性を欠いた思考遊戯をやっているように見えてしまう。
「物自体」は人間には知り得ないし、感性をとおして対峙せず、知性のみから把握された知(概念)は空虚である、とカントは言うが、たとえば物質の分子-原子-素粒子へと突き進んでいった自然科学の知見の歴史そのものによって、カント的思考の枠組みは一部乗りこえられてしまっている。
とはいえ、時代の制約を追いながらも、力強く厳格なカントの思考はやはり天才的なものであって、イギリス経験主義をはるかに超えてラディカルな近代哲学をきりひらいた事実の重要さは、いささかも損なわれることはない。 -
Posted by ブクログ
前巻で「感性」を扱ったので、この巻からテーマは「知性」(悟性)。
「判断表」「カテゴリー表」なるものが出てくる。これらが「完全なもの」とはまったく思えないのだが、その後に続く思考が素晴らしい。
「[現象において観察される]諸法則は、こうした現象そのもののうちに存在しているわけではない。たんに知性をそなえて[観察して]いる主体にたいして存在しているのであり、これらの現象はこの主体のうちに宿っているだけなのである。」(P.170)
こうしたカントの認識論は、まっすぐ20世紀のメルロ=ポンティまでつながっていくものであり、実に重要である。
「わたしたちは、いつかわたしたちの認識のうちに登場する可能性があるすべての像について、わたしたち自身がつねに同一であることを、アプリオリに認識している。
この[自己同一性の]意識はすべての像を可能にするための必然的な条件として意識されるのである。」(P219, 初版の文章)
ここで言われる統覚、同一性は、20世紀個人心理学でいう「アイデンティティ」のことではなく、つまり個体としての自我ということでなく、自己と共に存在している「世界」との「あいだ」、その刹那に「ともにある」すべての事象が直面する知覚の「パースペクティヴ」の同一性(統合性)と解釈する限りで、正しいと思う。
それにしても、巻末の訳者の長大な解説は、今回も余計なものに感じた。そう思っているのは私だけなのだろうか・・・ -
Posted by ブクログ
岩波文庫版で相当昔読んだカント、再読しようと思っていたら、岩波版の訳は誤訳だらけと誰かさん(というか、中島義道)が言っていたので、やむを得ず新訳文庫でそろえ直すことにした。
こちらの訳者中山元さんは、私もこれまでいろんな翻訳を読んできたし、信頼している方だ。なるほど読みやすいが、「悟性」が「知性」になっていたり、昔の翻訳とはいろいろに変わっていて、ちょっと戸惑ってしまうかもしれない。
岩波文庫では全3巻に収まっていた『純粋理性批判』が光文社古典新訳文庫ではいきなり全7巻になってしまったのは、活字が大きいのと、各巻に1冊の3分の1強くらいの分量の「解説」を入れたからだ。
この「解説」は、きっと初心者用に、カントの言説をやさしくかみ砕いて説明してくれているのだろう、と予想していたが、まるでそういうものではなかった。
カントの本文には書かれていない背景や、他の哲学者との比較など、むしろ「知識を拡大するための解説」になっている。
本巻(超越論的な感性論)あたりはカントの本文も難しくなく、むしろ先を読みたい気持ちが強くて、この「解説」は余計なものに感じた。
大昔に読んだカント、なぜ「アプリオリとアポステリオリなんていう区別にこだわるんだろう」とかつて首をかしげたものだが、今回読み直してみて、確かにその疑問(「経験」なるものをキーワードにして人間の知的認識をふたつに分離しようという設定の不思議さ)は残らないわけではないが、このようにして厳密な哲学を、この時代にいきなり登場させたカントは、やはり抜群の存在だと思った。
さて続きをどんどん読もう・・・ -
Posted by ブクログ
ネタバレ東浩紀さんの『一般意志2.0』を読んだ後、そのベースとなった本書を読んだ。当時は「一般意志」を実現できる情報インフラが整備されていなかったから、「一般意志」とは、あくまでひとつの思考実験に過ぎなかった。だけど、現代はSNSやTWITTERなど市井の人の声を拡散・収集するツールが揃いつつあるので、やる気になれば特殊意志(個人の自分勝手な意志)を吸い上げ全体意思(特殊意志の全部集めたもの)を可視化することはすぐできるし、また社会契約に基づく共同体の意志としての「一般意志」を表出させるのも、(いくつかハードルはありそうだけど)可能性はありそう。民主主義のあり方が根本的に代わるかもしれない今こそ読む価値のある一冊。抽象的な話が多くやや難しいが、翻訳が良いからか読みやすい。
-
Posted by ブクログ
「生活が厳しいものとなったのは」競争に負けずに更に冨を増やそうとする人々が、消費するのではなく、利益を増やすことを望んだからであり、昔ながらの生活様式を守ろうとする人々は、節約しなければならなくなったからである。
自己確信を獲得するための優れた手段として、職業労働に休み無く従事することが教え込まれたのである。
カルヴァン派>常に、自分が選ばれているか、それとも神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、みずからを絶えず吟味しつづけることで、救いを作り出す。
規律>世俗的な職業労働についての思想においても採用
「人はどのようにして自己を知りうるだろうか。観察によってではない。おそらく行為によってだろう。汝の義務をなすように努力せよ、そうすれば汝は自分が何者であるかを、すぐに知るだろう。しかし義務とは何だろうか。それは日々の生活が要求する事柄である。」ゲーテ
「働きたくないものは、食べてはならない」パウロ
禁欲的なプロテスタンティズム>資本主義の発展
禁欲的な精神が求めたのは、所有者に苦行を強いることではなく、必要で、実際に有用な物事のために所有物を利用することだった。
現在では禁欲の精神は、この鋼鉄の「檻」から抜け出してしまった。勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、いまではこの禁欲という支柱を必要としていない。禁欲の跡を継いだのは晴れやかな啓蒙だったが、啓蒙のばら色の雰囲気すら現在では薄れてしまったようである。そして「職業の義務」という思想が、かつての宗教的な信仰の内容の名残を示す幽霊として、私たちの生活のあちこちをさまよっている。
「職業の遂行」が、もやは文化の最高の精神的な価値と結びつけて考える事が出来なくなっても、そしてある意味ではそれが個人の主観にとって経済的な強制としてしか感じられなくなっても、今日ではだれもその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。営利活動がもっとも自由に解放されている場所であるアメリカ合衆国においても、営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときにはスポーツの性格をおびていることも稀ではないのである。 -
Posted by ブクログ
近代資本主義を支える心理的原動力となったものは何だったのか?その答えの一つとしてヴェーバーはプロテスタンティズムの禁欲的精神があったと考えた。禁欲とは修行僧にみられるような絶食・座禅といった修行ではなく目的のために他の欲望を一切拝するというものである。そういった精神はルターの提示した天職義務の教義と融合しつつ発展していき、こうしたカルヴァニズムが社会に浸透していった結果、意図せずして産業経営合理的な資本主義を発展させることになった。非常に逆説的ではあるが、近代資本主義というのは、マモニズムへの嫌悪、すなわち、金儲けすることを目的とした重商主義的精神からは決して生まれる事はなかったのだと、そう彼は主張しているのである。しかし、本来神の救済を求め、隣人愛を実践した結果として裕福になっていったが、次第にそれらを支えてきた精神・形式そのものが形骸化していった。と同時に資本主義というシステムそのものは残ったままである。もはやこのシステムが強制的に我々に天職たらざるをえない状況を作り出しているのである。本来であれば天職的労働者たらんとしていた者が天職たらざるをえなくなったのだ。
生活世界とシステムの相互補完的な関係は、現在においてはシステム側の避けがたい強力な力によって支配されているといっても過言ではない。バランスをとるためには、どういったことが望ましいのか答えはまだ闇の中ではあるが、いつかは考えなくてはならない急務である。 -
Posted by ブクログ
自然状態から社会状態へ移行し、利己心を持ってしまった人間たち。そこから、社会の成員全員の自由と正義が守られる理想政体を作ることは可能なのか? 前著の『人間不平等起源論』を受けて、この『社会契約論』ではその可能性が探られる。前著に引き続く壮大な思考実験だが、国家の規模や風土に応じて望ましい政体の幅を持つなど、現実を見据えた議論でもある。
さて、ここで理想政体を作るための鍵概念となるのが、「全員の、全権譲渡による社会契約」であり、「一般意志」(一個の精神的存在としての政体の意志)に基づいた徹底的な人民主権だ。高校の公民レベルの知識しかない僕には、これまでこの「一般意志」がひどく全体主義的なものに思えて仕方なかったのだが、初めて本書を手にとり、いくつか学んだことがある。
第一に、ルソーがこれによって「一人の成員も犠牲にしない」「正義と幸福が一致する」「存在と幸福を同胞と分かち合うことで、存在も幸福も強まる」社会を目指していたこと。第二に、その「一般意志」が形成されるためには、個人の多様な意見の違いが必要であるとすること。特に後者は意外だった。多様性に基づいてこそ一般意志が生まれるとは! 残念なことにそのプロセスがよくわからないのだが、少なくともルソーが僕のイメージしていたような全体主義者でないことは確実だ。
なるほど、利己心や個人の多様性からスタートして社会全員の自由・幸福・平等を追求するルソーの社会は、確かに美しい理想であるに違いない。しかし、まだ僕には釈然としない点も多い。例えば、一般意志を無謬とするルソーは、自分の個人的意志と一般意志が齟齬を来した場合に、自分の個人的意志が正しいということはありえないとする。
「もしもわたしの個人的な意志が、一般意志よりも優位に立つならば、それはわたしが自分の望んでいなかったことをしたことになる。その場合にはわたしは自由ではなかったのである」(215ページ)
これは、本当にそうなのだろうか? 僕はここには強い抵抗を覚える。この場合の「自由」とは何なのだろうか?これは拘束からの自由ではなく、アイザィア・バーリンの言う「積極的自由」なのかもしれないが、そうだとすると、僕たちが守るべき「自由」はそれなのだろうか? もやもやが残る。
と、まあ、自分の力不足で、まだ「読めた!」という感じにはならない本。しかし、ルソーの理想の美しさへの共感と、にもかかわらず僕の中に残った大きな違和感。これは大事にしていきたい。 -
Posted by ブクログ
個々の人間がいかにして国際的な連帯を築くことが可能なのか。この本に治められた一連の著作を通じて、カントの政治哲学と歴史哲学を一望することができる。「啓蒙」の持つ可能性に絶対的信頼を寄せているあたりに時代の雰囲気も感じるのだが、カントが決して楽観的に「永遠平和」を唱えているのではなく、人間性がかかえる「非社交的な社交性」を冷徹に見つめ、それを与えた「自然」によって人間達が国際的な連帯へと導かれていくと考えるロジックが面白かった。中山元の解説にも大いに助けられ、カント入門には良い一冊。カントってとても真摯に人間の限界と可能性を見つめ、現実に向き合い、その改良を目指した思想家なのだと好感を持った。
それにしてもホッブズ、ロック、スミス、そしてこのカントら啓蒙思想家の著作を読むと、彼らがみな人間の本性をしっかり見つめ、そこから人間の連帯(共同体)の成立について論じていくことにある種の感銘を受ける。人間とは何か、という問いが、全ての根底にあるのだなあ。