中山元のレビュー一覧
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ネタバレ人間が「正常である」という思考そのものを侵犯しようと試みること、これがこれからのフーコーの思考のエチカとなる。p36
【レヴィ=ストロースの構造主義】p71
サルトルとメルロ=ポンティにおいては、人間の行為の意味と価値は、歴史の方向性が決定するものであった。しかしレヴィ=ストロースは、意味とは体系における要素の差異で発生することを示したソシュールの言語学に依拠しながら、意味を生み出すのは社会の構造であると指摘した。そして歴史とは、共時的な社会構造が内的な理由から変動することにすぎないと考えたのである。
<一般文法>p94
「思考は単一な操作であるとしても、言表することは継起的な操作である」
フーコー「富に秩序があり、これであれを買うことができ、金が銀の二倍の価値があるとすれば、それはもはや人間の欲望が比較できるからではない。身体を持つ人間が同じ飢えを感じるからでも、人間の心が同じ魅惑にとりこになるからでもない。人間が時間、労力、疲労、さらに究極において、死そのものに支配されているからである」p103
リカード「歴史の一刻一刻において、人間は死の脅威のもとで労働するほかない。すべての住民は、新しい資源をみいださなければ、消滅するように運命づけられている」このように経済を可能とし、必要とするのは、稀少性という基本的な状況であり、労働はこの稀少性を一時的に克服し、一時的に「死に打ちかつ」方法である。p104
生物学、言語学、経済学の誕生によって、それまでに存在しなかったある概念が誕生した。これが<人間>という概念である。p105
(人間は)「知にとっての客体であるとともに認識する主体として、その両義的な立場において登場する」p106
知として学んだものを身体に教え込み、身体の次元で学んだものが知として普遍化される必要がある。そのための一つの手段が試験であり、これは近代の特権的な<真理の保証>である。p143
パノプティコン:「権力を自動的なものとし、没個人化する」p145
⇒近代の新しい「政治解剖学」の基本原理
身体と精神の双方に働きかける戦略は、魂という「柔らかい脳繊維」の上に「強固な帝国」を築くことによって、身体の叛乱を未然に防止することを目的とする身体の「政治解剖学」として結実する。p147
プラトンは、身体が魂の牢獄であると考え、哲学とは魂をそこから解放するための「死の稽古」であると語っていた。フーコーはこのテーゼを完全に逆転させる。身体が魂の牢獄なのではなく、魂が身体の牢獄なのである。p147
ストア派では自己の吟味には四つの技術があったー書簡、良心の点検、アスケーシス(禁欲)、夢の解釈である。p217
【真理のゲーム】p228
①主体化の様式
②行動の戦略
③歴史的な条件
④客体化の様式
⇒絶対的な真理が存在するのではなく、個々の真理は自由な主体の行為としてしかあり得ないと考えると、すべての主体は自分なりの真理の確立に参加することができる。 -
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ネタバレ近代資本主義の成立を人々の内面から推し進めていった資本主義の精神と禁欲的にピュウリタニズムとの関係を社会学的に追求したもの。
以前に岩波文庫版も読みましたが日経BP版のほうが読みやすいです。ただ岩波文庫版は解説が充実しており、その解説と今回の日経BP版の本文を併せて読むのがよいかと。
主な内容は、、、
近代資本主義は商業に対する倫理的規制がない(営利を追求できる)地域・場所では実は生まれておらず、むしろ営利を敵視するピュウリタンの経済倫理(世俗的禁欲、労働を天職として励むという心情)こそが資本主義の精神として、近代資本主義の成立・成長に大きな貢献をした。
このピュウリタンの経済倫理は長期間の(宗教)教育の結果として育まれ、そもそも金儲けのためではなく、敬虔な思想(神への忠誠や隣人への愛)のため世俗的な職業生活への専心や無駄な消費の抑制を要請し、またこのような行動様式を身に着けた労働者が大量に生まれることで、結果として合理的産業経営を土台とする近代資本主義を作り上げていく。
そして、一旦強固に作り上げられた近代資本主義はもはやその基礎となった倫理は必要せず実際にも忘れ去られているが、その経済秩序に囚われた人々(現代の私たちも含まれるでしょう)にその行動様式を強要し、生活のスタイルを決定づけている。 -
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説明不要のルソーの名著「社会契約論」。社会契約論のプレ版ともいうべき「ジュネーブ草稿」も収録。
ジュネーブ草稿にあるように、著作の主題は、統治の原則と市民法の規則について論じている。そこには、当時のルソーが、新たな社会体を創造しようという、意欲が満ちあふれている。
ルソーは、世の中が自然状態から社会状態に移行するための、新たな胎動を「社会契約論」によって創造しようとしたのであろう。
それは、本文中の「自然状態から社会状態社会状態に移行すると、人間のうちにきわめて大きな変化が発生することになる」という一文から察することができる。
では、本書で述べられている本旨は何か。
統治の原則は国民の共通の善を目指すことであり、
市民法の規則は、契約によって結ばれなければならないということである。
統治の原則である、共通の善を導く方法として、ルソーは「一般意思」という概念を提示した。
一般意思とは、国家の構成員の異なった利害のうちに、すべての構成員の利害が一致する共通の要素のことであると、ルソーは説く。
一般意思が存在するからこそ、人間社会は成立するのであり、逆に一般意思が存在しなければ、いかなる社会も成立することができないといったように、人間社会を成立させるための前提条件として提示している。
ルソーは一般意思を「国家の全ての構成員の不変の意思」と綴る。
大事なことは、この一般意思に適切に問いかけることだという。
「一般意思に対象をありのままに眺めさせること、場合によってはあるべき姿で眺めさせることであり、一般意思が探し求めている正しい道を示す事、個別意思の誘惑から守り、みずからの場所と時間をしっかりと認識させ、目の前にあるわかりやすい利益の魅力と、遠く離れて隠れている危険を秤にかけて示すことである」
という一文から、国家の構成員に自立した判断を期待する姿勢が垣間みられる。
しかし、ルソーは人間の理性を、諸手を挙げて信じきっているわけではない。それは、次の一文からも察せられる
「先見の明のない大衆が自分たちの必要なものが何であるかを理解しているのはごく稀な事であり、自分たちがそもそも何を求めているのかも知らない事が多い」
この矛盾について、ルソーは次の言葉で説明する「一般意思は常に正しいのだが、この意思を導く判断がつねに啓蒙されたものとは限らない」
一般意思が正しく機能するためには、啓蒙された国家の構成員というのが前提になるのである。
国家の構成員が正しく啓蒙される道筋として、導き手が必要であるのだと言う。国家の構成員が自らの意思を理性にしたがわせるように強制しなければならならず、啓蒙によって徳を高めて社会体の知性と意思が一致するようすべきであると説く。
国家の構成員を啓蒙するための方法として、法による社会規範にその答えを求めた。
では、一般意思を正しく機能させるための、社会規範となる法の正義は、何を基盤につくるべきか?
ルソーがその答えを求めたのが神である。
「人間に法を与えるのは神々でなければならないだろう」という一文にそれが表れており、「全ての正義は神に由来する。神だけがその源泉」とい一文にも正義に関するルソーの思想的背景が伺える。
そして古の建国時代(ユダヤの法とイスラムの法)を例に挙げ「人間の思慮分別に訴えても動かす事ができない人々を神の権威に頼って動かした」と説き、絆を永続的なものとするのは、(神の)叡智だけであると結論づけた。
つまり、導き手である神の意思に沿って立法し、国家の構成員を啓蒙する。それによって社会全体の知性が向上したときこそ、国家の構成員から導きだされた一般意思こそが正しく機能されるということである。
ルソーが議論の余地のない原則として提示する、
「国家というものは、共通の善を目指して設立されたものであり、国家の力をその目的にしたがって導くことができるのは、一般意思だけ」
という、国歌論についても社会全体の知性が向上する土壌があってはじめて可能になることを示唆しているのではないかと考えられる。
さらにルソーは、
「一般意思によって実現される共通の善が受け入れられるためには、国家の構成員にとって相互的なものでなければならない」
と説く。
相互的とは、国家の構成員の法の下の平等を指すと同時に、国家の構成員同士の間で相互的な契約によって成立することを指す。
この国家の構成員同士の相互的な関係を維持するための方法としてルソーが掲げたのが「社会契約」である。
国家の構成員と、それぞれの個人の間で結ばれる相互の契約によって国家を統合し、社会を成立させるという論理こそがこの著作の最も革新てきな部分ではなかろうか。
王制や貴族制の下では、王と個人の結びつきによって権利と義務の保証がなされていたが、社会契約により主権者である人民はみずからと契約を交わすと同時に、国民であるそれぞれの個人とも契約をとり交わすことになる。
この契約によって統一された国家は、人民の共同の自我とその生命と意思を受け取る。国家の構成員としての人民は、主権に参加する市民と法律に従う国民という二つの性質を担う。
ルソーは王制による支配と契約により成立した社会との違いを次の言葉で簡潔に説明している。
「自分に義務を負う事と自分がその一部を構成する全体に対して義務を追うことは大きな違いがある」
国家の構成員が社会契約によって獲得したものは、社会的な自由を約束された自由権と所有しているすべてのものに対する所有権である。
この権利は国民全体によって尊重されると同時に一般意思によって制約を受ける。これこそが、国家の構成員の相互関係によって成立した新秩序である。
ここでは、社会契約によって契約者ごとの特殊な人格の集まりから、社会的で集団的な一つの団体をつくりだすという新たな国家統治の原則をルソーは示している。人民にとって、受動的な意味での「国家」が存在するとともに、自らが能動的な意味での「主権者」となる国家。
ルソーはそれを「主権国家」と名付けた。
主権国家における国家の防衛について、ルソーは国家の構成員の能動的な行動の正当性を以下の言葉で綴る。
「個人は国家に生命を捧げたが、この生命は国家によってつねに保護されている。個人は国家を防衛するためには生命を危険にさらすが、これは国家に与えられたものを国家に返すだけのことではないだろうか」
社会的秩序を重んじるルソーは「主権国家」における、犯罪に対する考え方も、非常に厳しい。
「社会的な権利を侵害する悪人は、すべてその犯罪のために、祖国への反逆者となり、裏切り者となる。法を犯すことによって、祖国の一員であることをやめたのであり、祖国に戦争を仕掛けたのであるから、どちらか一方が滅びるまで続く」という理論展開とともに、死刑に対しても明確な言葉でそれを綴っている。
「罪のあるものを殺す時は、市民を殺すのではなく敵を殺すのである。
罪人を裁判にかけて判決を下すという行為は、罪人が社会契約に違反したことを証明し、もはや国家の一員ではないと宣言することなのだ」
この社会契約における、国家の統合と社会秩序の確立により、ルソーは国家の構成員の道徳的価値と行動における変化に期待を込めて以下の言葉で綴っている。
「それまで人間は本能的な欲動によって行動していたが、これからは正義に基づいて行動することになる。人間の行動にそれまで欠けていた道徳性が与えられる。
人間は欲望ではなく、権利に基づいて行動するようになる。
自分の好みに耳を傾ける前に自分の理性に問わねばならないことを知る。
自然状態において享受していた様々な利益を失うが、その代わりにもっとも大きな利益を手にするようになる」
人間が社会契約によって失った、自然状態のもとで享受していた無制限の自由と権利。これは、その人の力によって左右されるだけのものであり、力による占有か先に占有した者に認められる所有であった。
社会契約によって、一般意思による制限を受けるものの、体力や才能にでは不平等でありうる個人が、取り決めと権利によってすべて平等となる。
また、平等の権利を理論的には国家の構成員相互によって保証され、実質的には国家によって保護されることによる、自力救済を前提としない安定した社会生活を享受できることになるのである。
社会契約論におけるルソーの主張は以上であるが、例外的な事態に陥った時の対処法についてもルソーは解決策を提示している。
「政府が危険に陥った場合は、政府の一人又は二人に政府のすべての力を集中させる。
この場合は法律の権威に手を加えることなく執行の形式を変えるだけにとどめる。危険が極めて深刻であり、祖国を防衛するためには法律という装置が障害物になるためには最高の指導者一人を任命し、その者にすべての法律を沈黙させ、主権をしばらく停止させる。
このような場合にも一般意思が存在すること、そして人民が何より目指すのが国家の滅亡を防ぐことであるのは疑問の余地がない」
ここで重要なのは、ルソーの主張は国家の存続が最優先事項であるということである。一般意思を尊重しつつも、国家の存続が第一で、法及び主権については国家という形の下に存在するべきものということになる。
感想としては、「社会契約論」、国民国家誕生の契機となった歴史的な書であるということが理解できた。
ルソーは王制や貴族制に変わる新しい国家の統治方法を提示するとともに、自論の弱点も知り尽くしていたと思う。
それは人民に対する期待と懐疑が交互に記された文章から察せられる。
この一貫しない人民に対する姿勢が、読者を混乱させるのかもしれないが、ルソーの政治思想をよく表しているともいえる。
分かりやすい例としては、「暫定的独裁」を肯定した文章によく表れていると思う。
それは、社会契約・一般意思といった新しい秩序を構成する様々な理論展開を行いつつも、自論の弱点と葛藤する思想家の背中が垣間みられるようでもある。
このルソーの体現者が、ヒットラーなのではないかと読書中考えたりした。
秩序による国家の統合と一般意思による自由と権利の保障と、社会的集団による国家的興隆。
そして民意を背景に、独裁を手に入れた。
「政府は主権者ではなく、主権者である人民の召使いにすぎない」
「人民が首長に服従する行為は社会契約には含まれない」
以上のルソーの考えを大きく逸脱するものの、独裁までのプロセスは社会契約論との共通性を感じたりはした。 -
Posted by ブクログ
以前岩波文庫の難解な翻訳で挫折したため、日経BP版で再読。
冒頭第一節には、
「カトリックの支配というのは極めて穏やかで形式的な支配であったのだが、プロテスタンティズムの支配は家庭内の私的な支配から、職業的な公的な生のすべての領域にいたるまで、考えられるかぎりで最も広い範囲にわたってしんとの生活のすべてを規制するものであり、限りなく厄介で真剣な規律を伴うものだった」
とある。
宗教改革に対しては、カトリックの専制的な支配からの脱却といった間違ったイメージをもっていたため、この一文については衝撃を受けた。
宗教改革者は、カトリックの市民に対する支配が不十分であるとし、後のピューリタン的圧制につながったという。
本書の読みどころは、原罪からの救済のみを追求し、現世利益に対して関心の薄かった市民達が、利潤を追求する躍動につながることになったかという点である。
カトリックとプロテスタントの最大の違いは「予定説」であろう。
カトリックにおいては、神への奉仕によって原罪からの解放という「救済」があったが、プロテスタントにおいては「救済される人間はあらかじめ決められている」というものだ。
人々は自分が救済されるかどうかを知り得ないため、不安に駆られる。
救われた人間として自己確信を得るために、職業労働に休み無く従事することによって、宗教的疑惑を振り払い、自己確信を得ようとすると解説している。
1)「神の恩寵」を確証しようとする内面的な思考の原動力が現在に向けられるようになった。
2)身分と職業が神の意思の直接的な表れとして「天職」という考え方が広まった。
この「神の恩寵を得るための現世重視」と「天職という専門職業の重視」という2つの面から「功利主義」が生まれた。
専門的な職業について労働する者のスキルを高めることができたため、労働の生産性を質量共に改善させる方向に動かす考え方が出てきたのだ。
また、「ヨブ記」に書かれた「神が現世においてもその民を物質的な面においても祝福されるのは確実」という箇所が重用視されるようになったのも、功利主義を後押しすることにつながったとも解説している。
ヨーロッパの宗教改革を契機として、労働と現世利益に対する思想的変化を解説しているものの、具体的に資本主義成立へは明言を避けている印象ではあった。
ルターとカルヴァンをセットで宗教改革と認識していたが、本書の解説を読むことで全く別の思想であることがわかった。
また、イギリスにおいては、旧約聖書の道徳と同様の特徴から「イギリスのヘブライズム」とも呼ばれたというのも興味深かったし、ピューリタンとは、ユダヤ教の数世紀にわたって成立したタルムドールと符合する面が多く、形式主義的で立法的な側面があるというのも、目からウロコの読書体験であった。
まだまだ本書についての理解度が低いと自認しているので、「ヨブ記」や宗教改革時代の関連本を読んでみようとは思う。 -
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著者の中山元は、光文社古典新訳文庫でカントの「純粋理性批判」やニーチェの「善悪の彼岸」、ルソーの「社会契約論」、フロイトの「人はなぜ戦争をするのか」等々、次々と新しい翻訳を世に出し続ける人物。しかもその新訳がどれも素晴らしいという稀有なそんざい。その意味で、ヘーゲルにおける長谷川宏と双璧をなすでしょう。
その中山元が古今の名著を並べて要約するのが本書。
ホメロス、プラトンから始まり、レヴィナス、デリダまで扱うのは28冊。
ただ、惜しむらくは28冊にも及ぶ古典を要約したために、ひとつひとつに割く紙面が少なくなっていること。これなら、『正義論の名著』と銘打って4冊組くらいにしても良かったのでは?せっかくの中山節が、「そろそろ盛り上がるぞ!」というところで毎回終わっているのが残念でした。 -
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近代国家観の基礎。
ただ、ホッブズ-ロック-ルソーという、
社会契約論の三大古典として並べると、
やはりルソーは、研究者気質の書き方ができない性質の人であることから、
一般意志を始めとして、重要な概念の捉え方に難儀する。
殺人者に対する処刑や、徴兵の記述は、
原理論としてはそうなることも仕方ないと今の立場からは思うが、
本人も気付いて記しているように、著者自身、大変困惑している。
いくつかの注意点を挟みながら、
今と照らし合わせながら読めれば面白く感じるかな、と。
(この中山訳は、読みやすさを考慮してかの意訳が多く、原文や岩波や中公などの別翻訳版と比較して読まれることが望ましい)
不平等起源論→ジュネーブ草稿→社会契約論
この流れの中で読むとルソー本人の意図が良くわかるかも。
社会契約論は、自然状態から社会状態への転換が早足でわかりにくいから。 -
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この巻は、理性をいかに鍛錬するかとか、「道徳」の構築に向けた思考の動きとか、本書の「応用編」的な部分となっている。つまりカントは既に、次の「実践理性批判」へ向けて、カントは動き出しているのである。
やっと光文社新訳文庫版『純粋理性批判』全7巻を読み終えたわけだが、カントのこの著作とは、結局何だったか。
それまでの経験主義としてくくられる著作家たちを「独断論」として批判し、緻密な思考を展開して見せたこの書物は、18世紀「近代」を切り開いた、やはり革命的だったと思われるし、現在読んでみてもその思想はじゅうぶんに刺激的で、挑発的である。
しかしカントの思考の枠組みが、せいぜい18世紀までの範疇に限定されて見えることも否めない。
なんでも分類する事が大好きなカントは、人間精神の活動を「感性」「知性(旧訳では悟性)」「理性」に分けるのだが、現在の我々のパースペクティヴから見ると、このような分け方は便宜的なものではあっても、それ自体リアリティを欠くし、さほど意味がない。
こんにち的な位置から見ると、私たちは脳をさらに細かく「分ける」こともできるが、人間が思考するとき、それらの各部が複雑に作用し合っていることを理解できるし、また、人間の心的な営みが「脳」という局所にだけ孤立的に限定されているというより、人間存在全体として考えているのだ、という風にも考えられる。
「感性」「知性」「理性」といった「カテゴライズ」は、西洋の言語体系のなかでは便宜的に成立し・活用される概念ではあるが、そうそう截然と区分けされるわけもなく、我々は意識と、意識外(無意識)、あるいは神経伝達物質、シナプス、あるいは身体すべて、といった全要素が複雑に絡み合った「全体」=ゲシュタルトとして、思考活動を行っているのだ、と思う。
だから「感性」も「知性」も「理性」も、人間の心性のちょっとした一面(特性)を示す用語ではあっても、それ自体として「存在するもの」ではないのに、それらを「主語」とし、あたかも独立して機能しうる何者かであるように記述するのは、明らかに「近代の誤謬」に過ぎないと私は思う。
この点で、カントの哲学もまた、「批判」されるべきであった。
しかし緻密な「批判」なる知的営為を確立したカントの「革命」の価値が損なわれることはないだろう。 -
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この巻では「神」について扱われる。
ヨーロッパにおける既存の「神の存在証明」は批判され、カントオリジナルな物として、「道徳的な神学」が提起される。
これは神が最初に存在し、その認識(信仰)から人間的な様々の思考が生まれてくるのではなく、その逆に、道徳的思考の果てに、人間みずからが「神の存在」を「要請」するのである。(P.128-132付近)
この驚愕すべき倒錯により、神学は人間の「理性」に服従するものとなり、ここに西洋的な「近代」が出現するのだ。
これは歴史的にきわめて画期的な飛躍であるが、この新たな神学については、この本ではそれ以上深く追究されない。 -
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難解といわれるカントの文章だけれど、光文社の新訳でとても読みやすくなった一冊。
本書は、カントの政治哲学、歴史哲学に関する著作5編が収められている。それらを通じて語られるのは、人が自立し理性的であることの重要性。そしてそれを実現させるための自由が社会にあることの重要性。人間は本来、平穏で安楽な生活を営みたい本能がある一方で、社会を形成して生きていかざるを得ず、そのため他社との競争が必然的に生まれる。そのことこそが、人間の成長、そして長い目でみると人類の進歩につながる。
これだけでカントの思想の全体像を語ることは到底できないだろうけど、単なる宗教を超え、かつ人類としての運命論的な宿命を超えて、個々人の理性の重要性を説くカントの思想の一端に触れ、元気をもらえる一冊だと思います。