中山元のレビュー一覧
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著者の中山元は、光文社古典新訳文庫でカントの「純粋理性批判」やニーチェの「善悪の彼岸」、ルソーの「社会契約論」、フロイトの「人はなぜ戦争をするのか」等々、次々と新しい翻訳を世に出し続ける人物。しかもその新訳がどれも素晴らしいという稀有なそんざい。その意味で、ヘーゲルにおける長谷川宏と双璧をなすでしょう。
その中山元が古今の名著を並べて要約するのが本書。
ホメロス、プラトンから始まり、レヴィナス、デリダまで扱うのは28冊。
ただ、惜しむらくは28冊にも及ぶ古典を要約したために、ひとつひとつに割く紙面が少なくなっていること。これなら、『正義論の名著』と銘打って4冊組くらいにしても良かったので -
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近代国家観の基礎。
ただ、ホッブズ-ロック-ルソーという、
社会契約論の三大古典として並べると、
やはりルソーは、研究者気質の書き方ができない性質の人であることから、
一般意志を始めとして、重要な概念の捉え方に難儀する。
殺人者に対する処刑や、徴兵の記述は、
原理論としてはそうなることも仕方ないと今の立場からは思うが、
本人も気付いて記しているように、著者自身、大変困惑している。
いくつかの注意点を挟みながら、
今と照らし合わせながら読めれば面白く感じるかな、と。
(この中山訳は、読みやすさを考慮してかの意訳が多く、原文や岩波や中公などの別翻訳版と比較して読まれることが望ましい)
不平 -
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この巻は、理性をいかに鍛錬するかとか、「道徳」の構築に向けた思考の動きとか、本書の「応用編」的な部分となっている。つまりカントは既に、次の「実践理性批判」へ向けて、カントは動き出しているのである。
やっと光文社新訳文庫版『純粋理性批判』全7巻を読み終えたわけだが、カントのこの著作とは、結局何だったか。
それまでの経験主義としてくくられる著作家たちを「独断論」として批判し、緻密な思考を展開して見せたこの書物は、18世紀「近代」を切り開いた、やはり革命的だったと思われるし、現在読んでみてもその思想はじゅうぶんに刺激的で、挑発的である。
しかしカントの思考の枠組みが、せいぜい18世紀までの範疇に限定 -
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この巻では「神」について扱われる。
ヨーロッパにおける既存の「神の存在証明」は批判され、カントオリジナルな物として、「道徳的な神学」が提起される。
これは神が最初に存在し、その認識(信仰)から人間的な様々の思考が生まれてくるのではなく、その逆に、道徳的思考の果てに、人間みずからが「神の存在」を「要請」するのである。(P.128-132付近)
この驚愕すべき倒錯により、神学は人間の「理性」に服従するものとなり、ここに西洋的な「近代」が出現するのだ。
これは歴史的にきわめて画期的な飛躍であるが、この新たな神学については、この本ではそれ以上深く追究されない。 -
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難解といわれるカントの文章だけれど、光文社の新訳でとても読みやすくなった一冊。
本書は、カントの政治哲学、歴史哲学に関する著作5編が収められている。それらを通じて語られるのは、人が自立し理性的であることの重要性。そしてそれを実現させるための自由が社会にあることの重要性。人間は本来、平穏で安楽な生活を営みたい本能がある一方で、社会を形成して生きていかざるを得ず、そのため他社との競争が必然的に生まれる。そのことこそが、人間の成長、そして長い目でみると人類の進歩につながる。
これだけでカントの思想の全体像を語ることは到底できないだろうけど、単なる宗教を超え、かつ人類としての運命論的な宿命を超えて、個 -
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狭義の「理性」の領域へと話題は移り、いよいよこの著作の核心部分に入っていゆく。
この巻で非常に興味深いのは<わたし>なるものについての考察である。この<わたし>は、人格とも「こころ」とも異なる、単なる「思考の主体」である。その上でカントはデカルトを論駁し、「我思う、故に我あり」という命題の論理的破綻を指摘、心身二元論をも批判する。
だがカントの思考をたどってゆくと、「他者」なるものの確かさが危うくなる箇所がある。
あの頑迷で尊大で、愚かな中島義道を独我論に導いたと思われる一節も見られる。
「[思考する存在という]対象は、このわたしの自己意識を他の物に<移す>ことによって成立したにすぎない。」( -
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この巻の前半に出てくる「図式」(シェーマ)という概念は、なかなか面白いと思った。
その後に続く思索は、そろそろ難しくなってきており、厳密なあまり退屈を感じないでもない。
「アプリオリ/アポステリオリ」という区別や、「感性/知性/理性」といった区分に関しては、当時のカントにとっては重大だったかもしれないが、現代の私たちにとっては、そんなに緻密に区別できるものでもないし、そうすることにさほどの意味も見いだせない。
やはりカントもまた、時代の「言語」の内側にいて、別の言語空間から眺めると必然性・絶対性を欠いた思考遊戯をやっているように見えてしまう。
「物自体」は人間には知り得ないし、感性をとおして対 -
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前巻で「感性」を扱ったので、この巻からテーマは「知性」(悟性)。
「判断表」「カテゴリー表」なるものが出てくる。これらが「完全なもの」とはまったく思えないのだが、その後に続く思考が素晴らしい。
「[現象において観察される]諸法則は、こうした現象そのもののうちに存在しているわけではない。たんに知性をそなえて[観察して]いる主体にたいして存在しているのであり、これらの現象はこの主体のうちに宿っているだけなのである。」(P.170)
こうしたカントの認識論は、まっすぐ20世紀のメルロ=ポンティまでつながっていくものであり、実に重要である。
「わたしたちは、いつかわたしたちの認識のうちに登場する可 -
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岩波文庫版で相当昔読んだカント、再読しようと思っていたら、岩波版の訳は誤訳だらけと誰かさん(というか、中島義道)が言っていたので、やむを得ず新訳文庫でそろえ直すことにした。
こちらの訳者中山元さんは、私もこれまでいろんな翻訳を読んできたし、信頼している方だ。なるほど読みやすいが、「悟性」が「知性」になっていたり、昔の翻訳とはいろいろに変わっていて、ちょっと戸惑ってしまうかもしれない。
岩波文庫では全3巻に収まっていた『純粋理性批判』が光文社古典新訳文庫ではいきなり全7巻になってしまったのは、活字が大きいのと、各巻に1冊の3分の1強くらいの分量の「解説」を入れたからだ。
この「解説」は、きっと初 -
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ネタバレ東浩紀さんの『一般意志2.0』を読んだ後、そのベースとなった本書を読んだ。当時は「一般意志」を実現できる情報インフラが整備されていなかったから、「一般意志」とは、あくまでひとつの思考実験に過ぎなかった。だけど、現代はSNSやTWITTERなど市井の人の声を拡散・収集するツールが揃いつつあるので、やる気になれば特殊意志(個人の自分勝手な意志)を吸い上げ全体意思(特殊意志の全部集めたもの)を可視化することはすぐできるし、また社会契約に基づく共同体の意志としての「一般意志」を表出させるのも、(いくつかハードルはありそうだけど)可能性はありそう。民主主義のあり方が根本的に代わるかもしれない今こそ読む価
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「生活が厳しいものとなったのは」競争に負けずに更に冨を増やそうとする人々が、消費するのではなく、利益を増やすことを望んだからであり、昔ながらの生活様式を守ろうとする人々は、節約しなければならなくなったからである。
自己確信を獲得するための優れた手段として、職業労働に休み無く従事することが教え込まれたのである。
カルヴァン派>常に、自分が選ばれているか、それとも神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、みずからを絶えず吟味しつづけることで、救いを作り出す。
規律>世俗的な職業労働についての思想においても採用
「人はどのようにして自己を知りうるだろうか。観察によってではな -