中山元のレビュー一覧

  • 責任と判断

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     こうした問題の議論において、特にナチスの犯罪を一般的な形で道徳的に非難しようとする際に忘れてならないのは、真の道徳的な問題が発生したのはナチスの党員の行動によってではないということです。いかなる信念もなく、ただ当時の体制に「同調した」だけの人々の行動によって、真の道徳的な問題が発生したことを見逃すべきではないのです。誰かが自分の「悪党ぶりをあらわに」しようと決心し、折りさえあれば、モーセの十戒の掟を逆転させて、「汝、殺すべし」という命令から始めて、「汝、嘘をつくべし」という掟で終わるような行動を試みることがありうることを理解することは、それほど難しいことではありません。
     どんな社会にも犯罪者がいるのは周知のことです。犯罪者の多くは、かなり想像力に欠けた人々のようですが、なかにはヒトラーやその取り巻きに劣らぬ才能を備えた犯罪者もいるかもしれません。ヒトラーとその取り巻きがやったことは悍(おぞ)ましい犯罪ですし、これらの人々がまずドイツを、次にナチスによって占領されたヨーロッパを組織した方法は、政治科学においても、統治形式の研究においても重要なものです。しかしこうした犯罪はどれも、道徳的な問題を提起するものではありません。
     道徳性がたんなる習俗の集まりに崩壊してしまい、恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごとに堕してしまうのは、犯罪者の責任ではなく、ごく普通の人々の責任なのです。こうした普通の人々は、道徳的な基準が社会的にうけいれられている間は、それまで教え込まれてきたことを疑うことなど、考えもしなかったでしょう。この問題、この事実が提起する重要な事態は、ドイツの国民がナチスの教義を信じつづけたわけではないこと、僅かな期間の予告だけで、「歴史」がドイツの敗北を告げただけで、元の道徳性にもどったことです。この問題は未だに解決されていないのですし、わたしたちはこの事実に直面しなければならないのです。
     ですからわたしたちは、「道徳的な」秩序の崩壊を、一回だけではなく、二回、目撃したのだと言わざるをえません。戦後に「通常の道徳性」に唐突に回帰したことは、ごく当たり前のようにうけいれられていますが、このことは道徳性そのものへの疑念を強めるだけなのです。

     こうして思考という危険で成果のない営みの最後の、おそらく最大の危険性が生まれます。ソクラテスの取り巻きには、アルキビデスやリティアスといった人々がいました。これらの人々は、ソクラテスのいわゆる弟子たちのうちでも最悪の弟子だったわけではないのですが、アテナイのポリスに深刻で現実的な脅威をもたらしました。それもシビレエイのソクラテスによって麻痺させられたからではなく、アブのソクラテスによって目覚めさせられたからでした。
     これらの人々は目覚めて、勝手気ままな行為とシニシズムにたどりつきました。これらの人々は思考することも教えられて、しかも理論を学ぶことができなかったので、ソクラテスの思考の吟味の成果のなさを、否定的な成果へと変えたのでした。敬虔とは何かを定義することができないなら、敬虔であることをやめようというのです。これは敬虔について議論することで、ソクラテスがもたらそうとしたこととはまさに正反対のことでした。
     意味を追い求める営みは、すでにうけいれられているすべての理論や規則を容赦なく新たに吟味し、解体します。これはいつでも、みずからに向かう刃となって、古い価値を逆転させて、これを「新しい価値」として宣言することができます。ニーチェがプラトンの哲学を逆転させたときも、まさにこのことを行ったので、プラトンを逆転させてもプラトンのままだということを忘れていたのです。マルクスはヘーゲルの哲学を「逆立ち」させながら、あくまでもヘーゲルの歴史哲学を構築してしまったのです。
     このような思考の否定的な成果は、古い価値と同じように、思考を伴わないありきたりの営みとして、眠りながらでも使うことができます。こうしたものを人間の行為の領域に適用した瞬間から、思考のプロセスを全く経験していないかのように進むのです。わたしたちはニヒリズムを歴史的に位置づけたり、政治的に非難したり、いわゆる「危険な思想」を思考したりする思想家のものと考えがちですが、実はこのニヒリズムと呼ばれるものは、思考の活動そのものに伴う固有の危険性なのです。危険な思想というものはありません。思考そのものが危険なのです。そしてニヒリズムは思考の産物ではありません。ニヒリズムは伝統を固持する傾向の裏面なのです。ニヒリズムとは、現在のいわゆる確立された既存の価値を否定しながら、そうした価値にあくまでも固執するところから生まれるのです。
     批判的な吟味を行おうとすれば、まずすでにうけいれられている意見とその「価値」が意味するものと、その暗黙の前提を調べることで、少なくとも仮説としてはこうした意見や価値を否定するという段階を経る必要があります。その意味ではニヒリズムは思考につねに存在する危険性とみなすことができるでしょう。しかしこうした危険性は、吟味されていない生は生きるに値する生ではないというソクラテスの信念から生まれるものではありません。そうではなく、もはや思考し続ける必要がなくなるように、なんらかの成果をみいだしたいという願望から生まれるのです。思考はどんな心情にも危険なものであり、新しい信条を生みだすものではないのです。
     こうしてみると政治的にも道徳的にも、思考しない方が望ましいと思われるかもしれませんが、思考しないことにも固有の危険性があるのです。人々を吟味の危険から隔離してしまうと、それがどんなものであっても、その時代にその社会で定められた行動規則に従うように教えることになります。人々が慣れ親しんできたのは、規則の内容でも、特定の事例を包摂する規則を所有することでもないのです(もちろん規則の内容を吟味することは、つねに人々を困惑させることになります)。ということは、人々が慣れ親しんでいるのは、自分で決める必要のない状態だということなのです。
     ですから、なんらかの理由や目的から、古い「価値」や徳を拒絶したいと考える人がいたら、その人は新しい決まりを提示しさえすればよいのです。この新しい決まりを確立するには、矯正も説得も不要です。新しい価値が古い価値よりも優れたものであることを証明する必要もないのです。人々は、古い決まりをうけいれるようになるのが素早いほど新しい決まりを自分のものとしようと努力するでしょう。特定の状況のもとでは、こうした逆転がきわめて容易に行われうるという事実は、そのときすべての人が眠っていたのだということを示すのです。二〇世紀にはわたしたちはこうした経験にいくつか直面しました。全体主義の支配者がいかに、西洋の道徳性の基本的な掟を逆転させることに成功したかをご覧ください。ヒトラーのドイツでは、「汝殺すなかれ」という掟が、スターリンのソ連では「汝の隣人について偽証するなかれ」という掟が、最も簡単に逆転されてしまったのです。

     政治体において平等はそのもっとも重要な原則であるが、社会におけるもっとも重要な原則は差別である。社会とは、政治的な領域と私的な領域にはさまれた奇妙な領域で、どこか雑種のようなところのある領域である。近代の訪れとともに、ほとんどの人は社会のうちで過ごすようになった。わたしたちは壁で囲んで守ってくれる自宅から足を踏みだして、公的な領域のしきいをまたいだ瞬間から、わたしたちが入るのは平等を原則とする政治的な領域ではなく、[差別を原則とする]社会という領域なのである。わたしたちは生計を立てるため、または職業につきたいと願うため、あるいは他人とともにあることの喜びに誘われたいために、この領域に入らざるをえないのである。そしてこの社会という領域に足を踏み入れたとたんに、「類は友を呼ぶ」という古い諺にしたがって制御されているのである。
     社会で重要なのは個人的に優れた特性ではなく、人々が所属する集団の差異である。ある集団に帰属するということは、同じ領域のほかの集団を差別することで、その集団の一員として識別されねばならないということである。アメリカの社会では、人々は職業、所得、人種の差異に基づいて集団に集い、ヨーロッパでは階級の差異、教育、作法に基づいて集団に集う。このようにして他の集団との差異を明確に示すのである。人格という観点からは、こうした差異に基づくやり方は意味のないものである。しかし問題なのは、社会的な領域では、人格というものが存在するのかどうかということなのである。いずれにせよ、なんらかの差異と差別がなければ社会は存在しなくなるのであり、自由な結社と集団の結成の重要な可能性が失われるのである。
     大衆社会とは、差異の境界をあいまいにして集団の違いを均らす社会であり、これは個人の全人格的な一体性よりも、社会そのものに危険をもたらすものである個人的な全人格の一体性の<根>は、社会的な領域の彼方になるからである。しかし順応主義は大衆社会だけの特徴ではなく、すべての社会でみられるのもである。その集団たらしめる差異の全般的な特徴に順応しない人々は、その社会的な集団にうけいれられないのである。アメリカにおける順応主義の持つ危険性は(これはアメリカ合衆国の建国以来の危険性である)、住民がきわめて不均質であるために、社会的な順応主義が絶対的な力を発揮して、国民としての均質性に代わる傾向があることだ。
     いずれにせよ政治体にとって平等が不可欠なものであるのと同時に、社会にとっては差別と差異は不可欠なものなのだ。だから重要なのは、どうすれば差別をなくすことができるかではなく、どうすれば差別をそれが正当に機能する社会的な領域のうちにとどめておくことができるか、そして差別が破壊的な力を発揮する政治的な領域に、はいり込まないようにできるかということにある。

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    2023年03月29日
  • 道徳の系譜学

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    ニーチェの生涯における究極のプロジェクトは「善と悪の価値を逆転させ、ひいては西洋全体の価値観を転倒させること」だった。
    本書はこのニーチェの計画の核となる考えを著したものである。

    ニーチェはこの転倒を成すために、まず「善とされているもの」「悪とされているもの」がどのように成立してきたかを明らかにした。

    人間が社会生活を始めたのと同じくして、人間は「責任を引き受ける」という社会性を身につけた。そしてこの知はやがて社会に生きる人間にとっての支配的な本能となり、「良心」と呼ばれるようになった。

    社会はこれを成員に守らせるためにさまざまな方法をとり、これが徹底されることで人間は安全性を手に入れた。
    しかし、文明は人間に無償で幸福を齎したわけではなかった。社会の中で生きる代価として、人間が自らの欲望を棄てて生きることを強要したのだ。

    これが、個人にとっての善が社会にとっての悪となり、社会にとっての善が個人にとっての悪となるという善悪の逆転であった。
    そしてこれはルサンチマンの感情がもたらした転倒だったとニーチェは指摘する。

    上記が本著におけるニーチェのコア・メッセージだと理解した。とはいえこれですべてが網羅できているわけではないと思う。

    西洋古典独特の抽象的な題材かつ、婉曲的な表現が山盛りなので、決して読みやすい本ではないが、人類の本質的テーマである「道徳」の理解には欠かすことができない本だと思う。

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    2022年08月27日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

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    読書会の課題本。国連やEUのバックボーンにあるものとして有名な表題作を含む短い論文をまとめたもの。巻末の解説もとても詳しいもので、カント入門としてふさわしい一冊であると思った。

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    2022年07月23日
  • 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス

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    書簡には戦争というものに関してフロイトの理論を敷衍(というほどでもないか?)したらまあそうなるよなということが書かれている。「喪とメランコリー」は面白かった。そのあとの二篇は新潮文庫版『精神分析入門』中の『続・精神分析入門』に収められているもの。全体を通して、ある程度フロイトの理論に親しんでからでないと理解しづらいだろうし、といってそうなったらあえて読む必要があるかというと微妙、という感じ。

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    2022年02月27日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

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    自立(自律)、公開性、道徳、自然の導き、SDGSのような、現代の潮流の源泉であるような考えがたくさん書いてある。
    よくもそんな時代にかけたなというよりそれだけカントの影響力が大きいんだろう。

    悪が無ければ人類に進歩はないとは恐れ入りました。

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    2022年01月31日
  • 純粋理性批判 3

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    人間が世界に触れる時、人の中では何が起きているのか。人が現実だと思っているものは、本当に現実なのだろうか。人は世界をありのままに捉えているのだろうか。おそらくそうではなくて、人はそれぞれ別の見方で世界を捉えていると思う。そして同じものを見ていても、人それぞれ捉え方が違うのだ。カントのこの本は非常に難解だ。もちろん読む価値はある。だからこそ読む価値があるとも言える。時間と空間を重要な要素として、現象とは何かについて考察する。

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    2021年12月31日
  • アレント入門

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    ハイデガーをかじってても思うが、ギリシャに夢見すぎでは。アレント個人には興味を持つが哲学的思想にはやはりというかハイデガーの面影が濃い

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    2021年12月20日
  • 純粋理性批判 2

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    非常に難しい。
    理解できたことはほんのわずかだった。

    カントは時間と空間をアプリオリなものとして前提しているが、この前提がまず納得できていな。人間はうまれたときから時間と空間を認識しているのだろうか。成長過程において認識するのではなかろうか。
    今回も書籍の半分程度を中山元による解説が占めている。
    これがなければ、理解は難しい。この解説があっても、ほとんど理解できないのだから。
    人間は、連続した時間を認識して生きている。過去と現在がつながっているものだと認識している。それがなければ、音楽は理解できない。今聴いた音が、次の瞬間には過去になる。その音を記憶したうえで、その次に来る音とのつながりを理解する。その繰り返しによって、人間は音楽を理解する。つまり、人間がなにかを理解するためには、過去・現在・未来という時間の流れを認識している必要がある。
    カントが述べるところによると、三段論法は、個別の事象を説明するだけで、普遍的な物事を説明することができない。アリストテレスは人間である。人間は必ず死ぬ。だからアリストテレスは死ぬ。のように。アリストテレスについて語ることはできても、人間全体について語ることはできない。
    また、たとえば、庭を眺めていて、そこにケヤキがあることを認識するためには、木という概念をしらなければ、目の前には緑の塊があるだけで、地面とケヤキを区別することもできない。など。
    要するに、人間がなにかを認識する際に、人間の中でなにが起きているのか、ということを分析していくのが、本書なのだろう。
    難解であるとはいえ、こういう思考の流れに触れることで、頭を使う。自分なりに理解しようとする。カントはなにを考えているのかとか、この理論は果たして正しいのだろうかとか、そういう風に考えることで、読者も成長していく。それが哲学の面白さだ。

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    2021年12月18日
  • フーコー入門

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    フーコーの生涯を著作を中心にまとめたもの。この本からすると著作そのものが簡単なようにも思える。でもこんなものではないと思う。

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    2021年08月08日
  • フロイト、性と愛について語る

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     フロイトについては、文学、思想、哲学等様々な分野でいろいろに取り上げられ論じられてきたので、何となく分かっているような気になってしまっていた。

     本書に収められている各論文によって、リビドー、エディプスコンプレックス、倒錯といった概念の意義やそれらを用いた分析について、フロイト自身の論述で理解できるのが、何と言っても収穫であった。
     「『文化的な』性道徳と現代人の神経質症」では、性愛に対する西洋社会の抑圧的性格を批判する文明論にまで至っており、フロイト理論の射程の広さを実感できた。

     ドイツ原文は読んだことはなく分からないが、訳文は相当平易にしているようで、大変読みやすかった。

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    2021年07月18日
  • 純粋理性批判 6

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     「超越論的な理想」で神の存在証明の不可能性を論じる第六分冊。超越論的な神学を扱う下りで、初めはカントがID(Intelligent Design)を信奉しているのかと思ったが、よく読むと絶対存在の想定が自然科学の探究のために〈実践的な〉意義を持つ、ということが語られており納得。例え理性が構築した虚構であっても道徳的理念を実践する上での実用的な意義(統制的原理)がある、とする点には目的論と自然科学の調和の必要性を謳ったカントの先見性が垣間見え、流石と思わせる。

     本分冊の神の存在証明のポイントは、存在証明の3類型、すなわち自然神学的な証明、宇宙論的な証明、存在論的な証明のうち、前2者は結局のところ存在論的証明の変形である、というところ。こうしてしまえば、「概念の存在が必ずしも実体の存在を導かない」というアクィナス以来の否定神学を適用することが可能になるからだ。

     しかしここで行われていることが単純に神の否定というわけではないことも注意すべき。「神は存在する」という理論的な認識を証明することは不可能だが、その逆もまた然りである。理神論的な道徳神学の立場に立てば、「神は存在すべきである」という実践的な要請はアプリオリに想定される原理であり、人間の生き方や世界観に指針を与えるという統制的原理として有用なのだという。これが「実践理性批判」で定立される「道徳的命法」、すなわち「己の意志の格律が常に同時に普遍的立法となるように行為せよ」の基盤になっているのだろう。

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    2021年07月11日
  • フロイト、夢について語る

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     フロイト『夢解釈』を補足するような、夢に関する論考をまとめた一冊。
     第一部では、具体的な夢の実例の分析を示しながら考察が進められていて、その解釈の適否はともかく、夢の作用や検閲の役割に関するフロイトの考え方を理解するのに大変参考になると思われる。

     それに対して、第二部の『夢の理論へのメタ心理学的な補足』は、意識・前意識・無意識に関する局所論など、かなりのレベルまでフロイト『夢解釈』を読み込んでいないと、理解が難しいと思う。正直歯が立たなかった。

     『夢解釈』は面白そうな事例及びその解釈を拾い読みしたレベルなので、一度正面から挑戦してみたい。

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    2021年05月30日
  • 職業としての政治 職業としての学問

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    第一次世界大戦が終わった時期の、マックスウェーバーの講演を収録した作品。

    当時の状況をわかっていなかったので、理解するのが難しかった。

    期間を置いて再読したい。

    職業としての政治について
    →政治家の累計や各国の特徴や歴史を丁寧に説明。
     政治家には、信条だけではなく、自分が行ったことに対する責任を感じながら成熟すべき。

    職業としての学問
    →学者は価値判断と事実判断を区別し、事実判断に基づき語ることが大事であり、それによりがくせいの考え方が育っていく。

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    2020年06月25日
  • モーセと一神教

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    フロイト最晩年の書として有名な本書をやっと読むことができた。ユダヤ教成立の事情を、モーセの人物を推論して解き明かしていく。その立論の当否を論じる能力はないが、ユダヤ人フロイトがどうしても書き残したかった思いが強く感じられた。

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    2020年10月16日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    プロテスタンティズムの「禁欲倫理」から、近代資本主義が生まれたとする。
    宗教と労働、資本主義の関係性を解説した書籍。

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    ドイツでは、経済的に発達した地方でプロテスタンティズムが信仰された。
    プロテスタンティズムとその信徒の特徴は以下。
    ・私的な生活から公的な領域まで、広く信徒の生活を規制する。
    ・教育熱心で、高等教育を受ける人の比率が高い。
    ・近代資本主義との親和性が高い。信者の大多数が商人層の出身であり、傑出した実業家も誕生している。

    ベンジャミン・フランクリンは「正直であること/勤勉であることは、信用を築く上で有益だから、美徳である」とした。
    こうした功利主義的な「倫理」の最高善は、あらゆる享楽を退けて「金を儲けること」にある。「利益の獲得」が人生の目的とされる。

    資本主義的な実業家は、不必要な支出を嫌い、社会的な名声を誇示することも喜ばない。彼らは「天職を遂行」すべきであるという感情を持っているだけ。

    「天職(ベルーフ)」という思想は、マルティン・ルターによる宗教改革の産物。
    この時「職業は神から与えられた使命である。世俗的な職業に従事し、その義務を果たすことが、道徳的な実践活動そのものである」として、最高のものと評価されるようになった。

    イギリスの「ピューリタニズム(清教徒主義)」では、富を得て怠惰になること、時間を浪費することは、重い罪とされる。
    1時間を失うことは、神の栄光を高める仕事の時間が1時間失われたことになる。
    だから、絶えず厳しい労働をすることを勧める教えが説かれる。

    近代の資本主義の精神を構成する本質的な要素の1つは、「天職」という観念を土台とした合理的な生活態度。
    この態度は、キリスト教的な禁欲から生まれたもの。

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    2020年05月06日
  • モーセと一神教

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    ネタバレ

    フロイト最晩年の著作。支離滅裂な部分があり全面的に信じることはできないものの、真実を含んでいるのではないか。

    ・唯一神教の起源をエジプトにみる。若いファラオであるアメンヘテプ(後のイクナートン)は、それまでの多神教を捨て太陽神のみ(アトン教)を信仰するようになるが、エジプトの地では衰退した。
    ・エジプト脱出を指揮したモーセは高貴な生まれのエジプト人と推測する。イクナートンが亡くなり多神教信仰者から迫害を受け、アトン教は滅ぼされつつあった。そのときアトン教を信仰していたモーセ(政府の高官)がユダヤ人を引き連れ脱出した。モーセが口下手とされるのはユダヤ人と言語が通じず、通訳を通していたため。
    ・割礼は中近東では見られない風習であり、当時のエジプト人は一般的に行われていた。異民族と距離をとるためのユダヤ人に割礼を行うことで「聖別された民」とした。モーセによる宗教理念はアトン教よりも厳しく、脱出当初からユダヤ人の反発を受けた。そしてモーセはユダヤ人によって殺害された。
    ・エジプトを脱出したユダヤ人は近隣の民族と合流し宗教的にも混合した(カデシュ)。このとき導入された神がヤハウェであり、もともとは火の神である。モーセの信じた神とは全く性質の異なる民族神である。聖書の原文が確定されるまで800年ほどかかり、当時は歴史を事実通り残すという考えはもちろんなかったことから、モーセはユダヤ人ということになり、またカデシュのものと同化していった。
    ・モーセは殺害されたものの、モーセの教えを知っていたレビ人(モーセの仲間の子孫?)が口頭伝承にてユダヤ人に伝えていった。不遇にあえぐユダヤ人が生き抜く力を与えたのは、ヤハウェではなくモーセの神の理念であった。ユダヤ人にとってはおそらく、モーセという人物の姿と神の姿を区別するのは困難であったであろう。預言者を通し過去の信仰が復活していった。

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    2020年03月05日
  • 人間不平等起源論

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    この時代の古典とは、ちょっと相性が悪いのかな。回りくどいように感じられて、なかなか面白いと思えない。ゆっくり、自分が寄り添うような気持ちで読まなくては駄目なんだろうな。忙しい時代の我々にはキツイ。

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    2020年02月07日
  • 資本論 経済学批判 第1巻 IV

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    【1〜4のまとめ】
    意外にも、共産主義のことは書かれていません。
    資本主義の問題点の指摘は当たっていると思いますが、じゃあどうすればいいかは書いていません。

    1.この本を一言で表すと
    ・資本主義の問題点を見直す本

    2.よかった点
    ・資本家は労働者から搾取している
     →ブラック企業と言われている所では、そういう視点で見てみるのはいいかもしれない。

    ・植民理論
     →ヨーロッパ諸国が植民地から搾取して栄えたのは指摘通り

    2.参考にならなかった所(つっこみ所)
    ・資本家は労働者から搾取しているという考えではなく、労働者全員が資本家になるという考え方が必要ではないか?
    また、資本家が儲けているのではなく、会社が儲けているという考えはないか?

    ・価格が労働時間によって決まるという考えは納得できない。農作物でも天候によって価格が変わるのでは?

    ・機械の導入により、貧しい者が増える、という論調は賛同できない。現代の発展を全否定することにならないか?

    3.みんなで議論したいこと
    ・資本論は現代にどのように活かすか?

    4.全体の感想・その他
    ・資本主義の欠点を指摘している点は理解できる所もある。だから共産主義が素晴らしい!という主張になるかと予想していたが、共産主義については一切書かれていなかった。
    むしろ、指摘だけして、じゃあどうすればいいのかという事は何ら書かれていなかった。
    その点は予想外だった。
    (本書対象外の第二部以降に記載があるかもしれないが。)

    ・マルクスの見た産業革命直後の資本主義社会と、現代の資本主義社会はずいぶん異なっているはず。なので、マルクスの主張のなかでも現代で通用しない部分はかなりある。

    ・労働者は、資本家を批判するだけでなく、資本論のような視点と搾取されるという知識を身につけ、その上で企業から搾取されないように、自らの能力を高め、機械にはできない付加価値を産むように考えるべき。

    ・これから共産主義が広がるとは思えない。ただ、これから資本主義が継続されるにしても、絶えず変化であり、マルクス的視点で絶えずチェックする必要。

    ・理論的な内容だけでなく、産業革命直後当時の劣悪な労働環境のレポートとしての価値もある。

    【4固有の内容】
    資本の蓄積過程、資本家はどのようにしてうまれたか。
    現代の植民理論。

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    2018年12月30日
  • 陸と海 世界史的な考察

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    学生の頃に読んだ「陸と海と」の大幅改訳版。懐かしくて落手。生硬なな訳よりは理解しやすいのは良いが、意訳や評価の定まった用語などが使われていないところは残念だ。例えばp.243〜244にある、『歴史における海の権力の影響』などは、マハンによる地政学の名著である『海上権力史論』と訳すべきだ。他にもこういうの箇所が散見されるものの、かつて学生時代にはタブー視されていた学問が、広く一般に出回ることのメリットは計り知れないとも思う。

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    2018年11月25日
  • 資本論 経済学批判 第1巻 III

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    機械、大工業、増殖価値、労働力価格についての部分。
    「ジョン・スチュアート・ミルは「経済学原理」において「これまでさまざまな機械が発明されてきたが、これで日々の労苦が軽減された人が、一人でもいるかどうか疑問である」」p13
    「大工業に特徴的な労働手段であり、体系的に発達してきた機械類は、手工業経営やマニュファクチュア経営の労働手段と比較すると、比較にならないほどの大きな価値をそなえているのは明らかである」p51
    「機械類を使用する規模が大きくなると、労働日をたえず延長することが「望ましい」ことになる」p89
    「木綿紡績業の飛躍的な成長によってアメリカ合衆国では木綿の栽培が促成栽培のように促進され、それとともにアフリカの奴隷貿易が促成栽培のように促進された。これは疑い得ない事実である。1790年にアメリカ合衆国で初めての奴隷人口調査が行われたときには、奴隷の人口は69万7000人だったが、1861年にはこれが400万人近くに増加していた」p184
    「零落して貧しくなった両親は、子供たちをできるだけ搾り取ることしか考えていない」p241

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    2018年11月04日