【感想・ネタバレ】道徳形而上学の基礎づけのレビュー

あらすじ

「君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない」。多くの実例をあげて善と悪、義務、人格、自由と道徳性について考察し、経験的な根拠に依拠しない純粋な道徳の原理を探求。きわめて現代的であり、いまこそ読まれるべき書。詳細な解説付きのスタイルで完全読解へ導く“中山カント”第3弾!

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Posted by ブクログ

ネタバレ

カントの名言「汝の意志の格率が〜」をこの年になって詳しく知りたくなったので読んでみた。この名言に関連する「定言命法」、「仮言命法」、「目的の国」、「自律」という高校倫理で取り上げられるカントの思想も本書で登場するので、カント哲学に興味を持った人はまず読んでみてほしい。カントの著作の中では読みやすい方と言われているが、素人にはそれなりに応える一冊だった。本文と同じくらい長い訳者による解説があるのが救い。本書を読んで『実践理性批判』まで読んでみようと思うかどうかが、カント哲学を志すか否かの別れ目になりそう。

本書を読む前に、世界には2つの世界、我々が知覚する世界(感性界)に対して、経験や知覚を全て排した世界(叡智界)があるということは前提知識として持っておきたい。本書のテーマである道徳は叡智界側に結びつく。上の名言は法則に従うことを私たちに命ずることを示しているが、それだけでなく理性的存在者である人間は「法則を自ら作り出す」存在でもある。外からの影響を全く排した状態で、法則に従い、自ら法則を作り出すその姿は、どこか宗教的な印象を受け、常に物事の原因や理由を考えがちな現代人にとってはイメージがしづらいだろう。(法則が「〜せよ」と私たちに命ずるところもどこか宗教っぽい)

それにしてもカントの理性というか人間への信頼はすごい。本書はカントが61歳のときに刊行されたようだが、60年も生きていれば、「人間なんて大体バカ」とか思ってしまって、このような著作は書けないのではないだろうか。

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2022年01月02日

Posted by ブクログ

事物・言動の良し悪しの判断に、
普遍性となりうるかどうかと問うことが道徳性を備えたものであるかどうかの判断となる。

客観的かつ長期的かつ本質的な視点をもつ重要性を、気の遠くなるようなロジカルで組み立て、この原理の正当性と有効性を論じている。

難解な書と言われるカントの著書だが、
岩波文庫の『永遠平和のために』と比しても少し読みやすくはあった。

カントの超がつくほどの規則正しい生活感と、このロジカルな思考の組み立て方に、カントという人間の特質を感じて仕方がない。

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2019年01月17日

Posted by ブクログ

毎度のことながらカントの几帳面な議論の進め方に感動しつつも、厳密さにこだわるあまり、一見同じような内容の議論が延々と繰り返される、半ば宗教書のような展開には、集中力がきれそうになる。が、読み通せました。訳者による150頁以上にわたる解説も大変参考になりました。内容的には、ソクラテスやプラトンが訴えていた「善く生きる」ということを、ガチガチに理屈で固めて主張しているような感じです。

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2018年09月19日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 本論でさらに詳しく考察されるが、「道徳的な法則にかなっているようにみえ」(同)る行為が、その行為者の道徳性のためではなく、たまたまその行為者にそなわっている偶然的な要因のために行われることも多いのである。たとえば友人が好きで、困っている友人を助ける人がいるとしよう。この人の行為は、友人にたいする愛情の表現であり、好意の表現であり、善いことである。しかしこの行為は、その人の友人を愛する「心の傾き」によって行われたものである。たしかに困っている人を助けると言う道徳的な法則に適っている行為ではあるが、「道徳的な法則のために」(同)、道徳的な法則に基づいて行われた行為ではないのである。
 この「道徳的な法則に適っている」行為と、「道徳的な法則に基づいて行われる」好意の違いを明確にするための基準として役立つのが、純粋な道徳的な原理であり、純粋な道徳形而上学は、この原理を確立することを目指すのである。

 カントはこの義務の概念と善い意志の結びつきを明らかにするために、正価で商品を販売する小売店の店主の実例をあげている(以下で明らかになるようにカントは本書で多くの身近な実例をあげている。これらの実例によって本書は、『実践理性批判』よりも読者の思考を刺激する力をそなえているのである)。その店主が「買い物に慣れていない客に、高い値段で商品を売りつけないとすれば、これは義務にかなった行為である(023)。しかしこの行為が善い意志に基づいた行為、すなわち道徳的な行為であるかどうかは、すぐに明確にはならない。「義務に適った行為」には、次のような三種類の行為が考えられるからである。
 第一はこうした行為が、その人の「直接的な心の傾き」(同)のために行われる場合である。たとえば買い物にきた人が幼い子供であって、店主は子供好きだったとしよう。この店主はふつうなら、値段もわからない客には高い値段をふっかけるのだが、たまたまその客が子供だったから、正価で販売したとしよう。その場合には、店主は自分の「直接的な心の傾き」のために「義務に適った」かのようにみえる行為をしたにすぎない。いつもはその義務は守っていないのである。だからこの場合には店主のこの行為は「善い意志」から行われたものとは言えないだろう。
 第二は、その人の直接的な心の傾きからではなく、「自分の利益を重んじた」(同)ために義務に適った行為が行われる場合である。この場合には店主は、たしかに商品を正価で販売するが、それは義務によってではなく、「すべての人に定価で販売する」(同)ようにすれば、「子供でも他のすべての人と同じように、この商人の店で安心して買い物ができる」(同)という評判が高くなることを期待してのことなのである。この場合には、このような評判が高くなれば店は繁盛するだろうから、結局は利益になると計算して、店主は「義務に適った」行為をしたことになる。この行為もまた、善い意志に基づいたものではなかったのである。
 第三に、心の傾きからでも自己の利益のためでもなく、「義務に基づいて」(同)こうした行為が行われた場合である。店主は、客を欺くことは自分の義務に反するし、誠実であろうという意志に反するという理由から、幼い客に正価で販売したとしよう。この場合だけが、善い意志による行為と判断される。この場合にかぎって店主は「義務や誠実さという理由からこのような客の扱いをした」(同)と考えることができる。これはたんに「義務に適った」行為ではなく、「義務に基づいた」行為と判断されるのである。
 このように、ある行為が良い意志による行為であるかどうかを判断するためには、その行為が直接的な心の傾きによるものでも、計算高い利己心によるものでもなく、義務に基づいたものであるかどうかを点検してみればよいことになる。

 ところで本書の序文では、この基礎づけの課題を「道徳性の最高の原理を探求し、確定すること」(013)にあると定めていた。定言命法の最終的な定式化が行われた今、この課題がいよいよ表現される段階に到達した。
 カントは自分の義務を忠実に遂行する人には「崇高で尊厳がある」(114)と感じることを指摘していたが、その尊厳の由来は、たんにその人が道徳的な法則に適って行動するところからは生まれない。わたしたちは道徳的な法則に適って行動するだけではなく、道徳的な法則に基づいて行動する人、しかもその法則を外的な強制とみなすのではなく、みずから法則を定める人、そして「それがゆえに法則に服従している」(同)人に、尊厳を感じるのである。
 だからここで真の意味での道徳性をつくりだしているのは、たんに道徳的な法則に服従するという側面ではなく、道徳的な法則を自らの意志で自由に作り出し、それに服従するありかたなのである。カントはこの意志の自由を「自律」(095)と呼んだのだった。

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2022年01月16日

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