垣根涼介のレビュー一覧
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【2025年58冊目】
戦国時代の京――三人の男が運命的な出会いを果たす。若き兵法者・新九郎、破戒僧・愚息、そして十兵衛こと後の明智光秀である。新九郎と愚息の二人と十兵衛の交流を通して見る、明智光秀の出世と反乱の物語。
歴史小説というのは、さまざまな解釈で書かれているのが大きな魅力の一つのような気がしています。明智光秀――信長に謀反をし、秀吉に打たれた三日天下人。史実の概略だけを見るとただの謀反人ですが、命を賭した戦国時代に、謀反を起こそうと思ったまでに至ったのかは何故なのかを突き詰めると「確かになぜ」と思うところから本作が生まれたのかもしれません。
新九郎と愚息が実際にいたのかいなかったのかはわかりませんが、全く異なる価値観の二人から通してみる戦国武将たちの生き様は、新しい視点だなと思いました。もちろん、新九郎と愚息の人間性もきっちり書かれているのも良いですね。特に新九郎の人間としての成長はなかなかのものでした。
肝心の光秀に関しては、そうか、こういう人物だったのかもしれないなと思わせられる説得感がありました。実際に残る資料などから作者さんが推測されたのでしょうが、なるほどなと。あと、秀吉のことは嫌いそうだなと思ってちょっと面白かった。
四つの碁石の理については、読み進めるまでわからなかったのですが「信長だってすぐにはわかんなかったんだからしゃーないて」と思って開き直っていました。なるほど、そういうことか。私も賭け事してみようかしら。
歴史小説を読むことは少ないのですが、読みやすくて良かったです。 -
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上巻を読んでから少し間が空いてしまい、上巻を読み終わった直後の熱量が下がった状態から読み始めましたが、読み始めたらたちまちのめり込んでしまいました。流石の垣根先生。
上巻は徒手空拳から大名に成り上がったところで終わり、下巻は版図の拡大と織田、毛利との駆け引きが描かれています。上巻ほどのドラマチックさはないですが、動きがない分、直家の人となりや考え方が丁寧に描かれてよかったと思います。
これだけの偉業を成し遂げたのに知名度が今ひとつなのは、やはり歴史は勝者のものだからでしょうか?わたしも今まで碌に知らなかったので他人のこと言えないですが。。
今回、宇喜多直家のことをネットで調べてたら、宇喜多家を大河ドラマにしてもらおうの署名活動をネットでしていたので思わず署名してしまいました。映像でも見てみたいです! -
Posted by ブクログ
ネタバレ下巻では、それぞれの過去と向き合う四人の男たちが、自らの意志で生きる道を選ぶ。復讐を終え、移民時代のしがらみから解き放たれた男達が、そこから先の「尊厳」を取り戻す、静かな闘いだ。印象的だったのは、山本と松尾。
山本は逃亡中に意識を失い、半身麻痺のまま病院で目を覚ました彼は、仲間を売ることなく、自ら命を絶つことを選ぶ。その決断は単なる罪滅ぼしではない。過去に縛られ続けた自分からようやく解放され、「自分のために生きた」と言える一瞬の自由を味わいたかったのだ。死の間際にして初めて“自分”を取り戻す姿が、痛ましくも美しい。
そして、本作で最も鮮烈なのが、松尾の結末だ。裏切りを悟った仲間と車に乗り込んだ彼は、首都高を時速300キロで爆走し、そのまま京浜大橋から車ごと空へと跳躍する。法定速度を超えて夜の高速を走るという彼の奇行は、自由を知らずに育った松尾自身の生き方を象徴していた。既定のコースしか走れなかった男が、最後に道を逸れて宙を舞うことで、これまでの自分を破壊し、新たな“自由を手に入れる。解放の物語として鮮烈な印象を残した。 下巻は、理不尽な歴史に翻弄された男たちが、自らの意思で運命に決着をつける物語。 どんな形であれ、彼らの進んだ道には確かな自由があった。 -
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リストラを代行する会社に勤める男性・村上真介が主人公。
会社の依頼でリストラ候補者に面接し、人数分を依願退職へと持っていく。
嫌われ役を買って出る?
判断力と説得力は必要とされる仕事でしょう。
リストにある対象者のこれまでの人生を考慮して、どういう道へ進むのがいいのかを考える姿勢があるのは、良い所。
他人事と思えなくなってきた相手もいたりして。
まったく知らない世界の話なので、かなり疲れました。
それだけに、垣間見る面白さはありました。
この辺は常識? これは例外的なのか?と迷いつつ~
会社と一口に言っても色々だから、業種による違いもあることでしょうが。
人の人生を大きく変える役割、と思えば重いですよね。
でも一人が全てを背負っているわけじゃない、それぞれ社会の歯車の一つ。
そして、人はもともと千差万別。
しまいには、そう思ったのでありました(笑) -
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垣根先生の「武田の金、毛利の銀」を先日読んで、帯にこちらの本も紹介されていたので手に取ってみました。
戦国武将の宇喜多直家の話とのことですが、お恥ずかしながら歴史好きなのに、この方のことを全く知りませんでした。宇喜多といえば秀家しか知らず(直家の次の代の当主)それも関ヶ原でどっちについた…レベル。。でも戦国の三大梟雄だったそうで。松永久秀と斎藤道三は知ってたんだけどなーという感じです。手段を選ばずのし上がった方ということらしいのですが、我々の現代感覚から言えばそこまで阿漕なことをしているようには見えませんでした。垣根先生の書き方がうまいのか。。
上下巻ですが、上巻では幼少時代に零落してしまった直家が宇喜多家を再興し、徐々に力をつけてきた…くらいのところで終わります。この話が最後どのように締め括られるのか下巻を楽しみにしたいと思います。
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織田信長の命を受けた明智光秀が腕利きの友垣2人と風変わりな武田家臣の四人で毛利の銀山を密偵する物語。
時代小説のポイントである個性的でクセがあり魅力的な人物像が書かれている。
今とは違う倫理観や死生観ながら人の営みや本質は変わらない。
苛烈な描写が先行しがちな織田信長だが、本作では加えて怜悧に書かれている。
人の上に立つヒトは少なからず非人情なのは今も同じ。
『〇〇で「ありましたか」』末尾の言い回しが安芸地方の方言がルーツなのは意外だった。
銭の世であるからこそ、その銭で浮世から俯瞰する立場を買うのだ。
夢中になるものがありますれば、そこに没入し、世の縛りから自在に舞うことが出来るように思われまする。 -
Posted by ブクログ
街道と大河を交わらせた交通の要衝に、商人と武士が融合した城郭都市を築く。そのような意味での城下町という概念は、日ノ本では宇喜多直家が初めて具現化した。この新しく普請した石山城が、のちの岡山城である。さらに言えば現在の岡山県の商業発展の基盤となった。
次に城下町をも内包した城が出来たのは、これより五年後、近江国に着工した安土城である。むろん、その城主は織田信長であった。
本書は、その宇喜多直家の物語である。
武力とはすなわち財力である。それを直家は実践していく。
乱世に生きる上での人知の深さは、その当人に、悪の要素が多少なりとも入っていることから生まれる。正確には、悪とは何かを充分に知りながらも善人である必要がある。何が悪かを充分にわきまえつつも、基本的にはなるだけ善人としての行いを心掛けている必要があるということだ。それが、表も裏もないまるっきりの善人では、この世が激しくうごめく動乱の世にあって、人の上に立っていくことなど到底できない。
人間は、その風向き次第では、ごくごく普通の性質でも、必要に迫られればいとも簡単に悪人になることもでき、また、利害の絡まぬ状況次第では、すぐに善人に成り代わることもできる。
山野の獣というものは、強いから生き残っていくのではない。その用心深さで生き残っていくのだ。
生きておる冥利とは、好ましい相手に当てにされることである。つまり自分の生は、自分一人でこしらえたものではない。自分がこれまで関わってきた数多の人々の、無数の生の断片で成り立っている。その断片の連なりの上に漂い、時に枝分かれし、時に戸惑い、笑い苦しんだ結果、今の自分がいる。いわば、今の自分とは、それら断片の集積だ。そしてその断片は、これからも生きていく限り、自分の中に落ち葉のようにさらに積み重なり、発酵していく。どこかへと自分を誘っていく。それは、場所ではない。まだ見ぬ心のどこかへだ。
直家という男は目的さえ達せられれば、そのやり方には一向に頓着しないようであった。
戦の心得は、
いつさつたしょう
「一殺多生」
であると、直家本人がしばしば家臣たちに公言していた。予め敵の威力を削ぎ、なるべく味方の損傷を経ず戦に勝つには、奇策はいくらでも弄してよい。卑怯と世間でそしられようが一向に構わない。武士道とはそもそもが畜生道であり、この世界にあっては、目的は手段を正当化するのだ、という意味のことも、折に触れて口にしていた。
宇喜多直家は臆病だからこそ、先々のことに対しても先回りし、あれこれと手を尽くす。遠方の織田家のことも調べる。そもそも武門の知恵とは、その根を洗えば臆病さから発酵するものではなかろうか。だからこそ宇喜多家もこのように大きくなった。
この世に絶対などということはない。もしあるとするならば、人はいつかは死ぬということだ
無慈悲に踏み付けられるのが嫌なら、大なる者が襲い掛かってくる前に、自らがその攻撃に耐え得るくらいに大きくなっておくしか仕方ないのだ。その大きくなった分だけ、相手はこちらに気を遣う。
自分の人生は、存外に自分では決められない。たとえ自分がこうであれかしと願っていても、それまで自分と関わってきた人々との流れ、つまりは世間が決めることなのだ。自分の生き方の在りようは、世間の関わりと、自分のこれまでの来し方の因果によって、思わぬところへ定められる。人は生まれながらにして、岩肌を伝う水のようなものだ、と。ある方向に向かおうと必死になってあがいても、不感もなく流れゆく方向を岩の起伏によって変えられ、遮られてしまう。人が唯一決められることは、その立っている岩肌の舞台から降りていくことだけなのだ。退く自由しかない。
人はたとえ互いに好き合っていても、それぞれの過去の重みには、自らが一人で耐えていくしかない。夫が、妻の来し方を背負うわけにはいかない。自分一人で過去に折り合いをつけ、持ち越していくしかない。そこで示せるのは安易な同情ではなく、相手に黙って寄り添うことだけだ。
人は基本、損得で生きるものだが、常にそれだけではつまらない
長い目で見て物事の得手不得手は、そのことを好むか、気が乗るかどうかで決まる。好まぬままやっていれば、いつかは心が破れ、自滅する。つまりかとは、気性のことなのだ
何かを得ようとするなら、何かは手放す。生きるとは、その痛みを伴う分かれ道の連続なのだ。