村田喜代子のレビュー一覧
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夫を亡くしたばかりの美土里が、同じく夫を亡くした美子、辰子と出会い、交流していく中で死について考え、受け入れていくまでの「未亡人倶楽部」一年間の物語。
夫との関係性や、亡くなった時の状況によってその死を引きずるかスッキリと前を向けるかに差があったり、泣き暮らす人もいれば、新しい生活に活力を得る人もいて、喪のカタチは人それぞれ。
作者自らの体験に基づく作品らしく、伴侶の死を克服していく過程にリアリティがある。
地獄のあれこれや、大分地方のお盆の“お精露さま迎え”の風習、渡り鳥の話などエピソードも興味深い。
教子の新しいパートナー?貝島さんの「ヒトが生きるのも死ぬのも一つの現象に過ぎない」という考えが私には一番すんなりと胸に落ちた。
そう思うと、これから迎えるであろう様々な別れにうまく向き合っていけそうな気がする。 -
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表紙がとても綺麗で手に取りました。
二十四節気は知っていても、それをさらに三等分した七十二候は知らない人が多いのでは?
わたしも今回初めて知りました。
雉始雊(きじはじめてなく)というように、動詞で示されているのが、分かりやすい。
どれも現代人にも理解できるもので、時代が変わっても季節の移ろいは変わらないものだなと思います。
この本では、二十四節気の春夏部分を抜き出し、また、各節気の真ん中の七十二候をタイトルに各自が短編をお書きになっています。
思えば、短い作品は触れてこなかったので、どれも不思議な余韻を残す終わり方で、こちらの想像力や読解力を掻き立てるなぁと短編の面白みを初めて知りました。
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ネタバレ島に2人の老女が生活をしている、それだけで興味をそそられたけれどその小説の内容はどんなものか、読み進めて実際にこのような島はあるのだろうか?今はなくてもかつてあったとか。。
ウミ子さんの立場になったら母親を引き取りたいというのが本音だというのも理解できる。ただウミ子さんは島で育ったから島から離れようとしない母親の気持ちも分かってしまい寄り添っている。自分が島で暮らすことを考え始めている時点でたくましさがわかる。台風に襲われて散々な目に遭ってもどうにか暮らしていける、となれば2人の老女はやはり命あるかぎり島で暮らすことを選ぶのだろう。きっとウミ子さんは2人を見届けるまで島で生きることになるのだろう、と思った。 -
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2023.03.10 ★3.3
こんなにも自らを貫いたまま淡々と身を売る娼妓もいたのだろうか。
廓は苦界とも言われ、自殺する妓も多かったと聞きかじったことがある。
買われた先の店の大小で待遇に大きく差はあったのだろうが、日記を書くことに自分を見出し、自分を保ち続けた青井イチの元々の強さもあるんだろう。
15歳の少女が廓に売られ、そこを出ていくまでの物語。
時代は明治。舞台は熊本。
慣れない熊本弁(? イチの島の方言?)を読むのに初めのうちは苦労した。
↓↓↓内容↓↓↓
貧しさゆえ硫黄島から熊本の廓に売らた海女の娘イチ。郭の学校〈女紅場〉で読み書きを学び、娼妓としての鍛錬を詰みながら、女たちの悲哀を目の当たりにする。妊娠する者、逃亡する者、刃傷沙汰で命を落とす者や親のさらなる借金のため転売される者もいた。しかし、明治の改革の風を受け、ついに彼女たちはストライキを決意する――過酷な運命を逞しく生きぬく遊女を描いた、読売文学賞受賞作。 -
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実在した熊本の遊廓、東雲楼が舞台。
遊廓と聞けば江戸の吉原がまず浮かんでくるけど、これは明治の後期の熊本のお話。
いろんな土地から貧しい家の娘が売られてくる。
娼妓として育てられる過程(読み書きなどの勉強・性的な技術)や楼での生活の様子、街全体の様子など、興味深く面白かった。
親に売られた女たちの成長と心の声、そして生き様は力強かった。
主人公のイチ15歳は硫黄島の生まれで島の言葉と島の人間しか知らない。
文字を覚えてからのイチが書く日記は、なんとも面白い。
イチも親に売られ男たちに買われ、親との再会を楽しみにしていたが借金が増やされただけだった。
そして、親を捨てるべきだと気付く。
時代の流れと共に遊廓も世間のバッシングを受け、娼妓達は自由を求めて立ち上がる。
新しく始まる生活の先や、仲間達の今後、その後の東雲楼など、もう少し先まで読みたかった。
最後だけあっさりと終わってしまい、少し物足りなかった。 -
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『八幡炎炎記』の続編。時間は昭和二十七年から昭和三十五年にかけて、さらさらと流れて行く。時代は戦後の復興期から高度成長期へと活況を呈していく筈なのに、物語は何処か儚げで淋しい。『八幡炎炎記』ではわさわさと賑やかだった人達が段々と影を潜めていく。主人公の一人、ヒナ子も本書で話が進むに連れ、何処か印象が薄くなってしまう。もう一方の主人公である克美は最後に小さな光を見つけることが出来たのだろうか?
とは言え、楽しめるエピソードは随所にある。運動会の仮説便所の場面とか、スクリーンのゴジラとヒナ子の目が合うとことか、就職もしてないのに勘違いして工場に働きに通いだすとことか(子どもにありがちな勝手な思い込みが、如何にもありそうで微笑ましい。)
ヒナ子の今後が読みたくもある。
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村田さんの放射能や放射線に対する眼差しというのは、「光線」連作で描かれることになった東日本大震災・福島第一原発事故と自身のがんの放射線治療に端を発するものかと思っていたが、実はもっと昔から村田さんを捉え続けていたものなのかも知れない。終戦の年の八幡に生まれたという村田さんは、もし計画が変更されず当初の予定通りに八幡に二つ目の原子爆弾が落とされていたら、自分はこうして生きていなかったかも知れない、そんな考えを内にずっと引きずって来たんじゃないか。それが2011年に起きた出来事によって、より鮮明に村田さんの意識に立ち現れたのではないだろうか。克美をずっと捉え続ける広島の原爆で死んだ親方と生き延びた自分という明暗、ヒナ子がゴジラに向ける共感といったものは、何れも村田さんの錯綜する感慨の表れなのかも知れない。そんなことを自叙伝的作品だと言われるこの二作を読んでふと思った。