村田喜代子のレビュー一覧
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製鉄の街・八幡を舞台に、戦後の復興期から高度成長期にの昭和の世相と、そこに住む人たちを"火"や"光"に託して描いた作品です。『八幡炎炎記』の続編というより炎炎記と本作を合わせて一つの作品ですね。
他人の妻や愛人にだけ昏い情欲を感じる克美は、妻のミツ江の子宮癌を機に献身的な介護を始め、その死後は情欲をミツ江に持ち去られたように、暖かな晩秋の雑木林のような明るさを持ち始める。その一方で天真爛漫・自由に飛び跳ねていたヒナ子は、中学生になると映画の世界に浸りこみ、シナリオライターになりたいと情動を持つようになる。対象は違うけれど克美からヒナ子に「業」が移ったように見えます。それに伴い『八幡炎炎記』で感じられた克美とヒナ子を描く時に文体の差が統一されて行くようです。上手いなぁ。
他にも、祖母・サトの生活視点からの新藤兼人監督の映画「裸の島」のシナリオ否定など印象的シーンが多数あります。
村田さんの自伝的小説です。気になって村田さんの経歴を調べてみました。
12歳で小説を書き始め、本を買うために当時の女子では珍しい新聞配達のアルバイトを始める。人と同じことを求められる学校が嫌いで高校には行かず、鐵工所勤務や映画館のモギリをしながらシナリオライターの勉強をし、22歳で結婚。しばらく育児に専念するが30歳の頃から再び書き始め、40歳の時タイプライターで打った原稿をホチキスでとめただけの個人誌を作って「文學界」の編集部に送り、その中の「熱愛」という小説が「文學界」に転載され、芥川賞候補になった。
やはり個性的な人ですね。 -
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戦後復興期の製鉄の街・八幡を舞台にした村田さんの自伝的小説です。
八幡に暮らす三人の姉妹は、みんな実子を授からず、それぞれ養女を得ている。
上の姉・サトは夫の長兄の娘・百合子を養女にし、離婚した百合子の子・ヒナ子も戸籍上はサトの娘にしている。下の姉・トミ江は金貸しの亭主が借金のカタに連れてきた(と言うより、親元に置くのが不憫で連れ帰った)タマエを養育しており、末の妹・ミツ江は洋裁師である夫・克美の弟の娘・緑を育てているという複雑な家庭環境。
そしてヒナ子が著者・村田さんの様ですね。
主に女好きの克美と小学校2年生のヒナ子の視点で語られます。
元は親方の妻だったトミ江と駆け落ちした克美は、人の奥さんに情欲を感じる性分。その語りは内省的で暗い情念を含みエロティック。そしてヒナ子の語りはキラキラと爽やかな明るさが有り、楽しい。この二つを見事に使い分けながら話は進みます。
登場人物たちは多彩です。でもありがちな安直なキャラでは無く、それぞれが何か「業」を背負っています。そして背景に描かれる戦後復興の世相、特に力強いエネルギーを発する八幡製鉄所の描写が見事です
文体は鋭い。ユーモア小説の手法で文末で「落とす」書き方があります。ちょっと似た雰囲気で、文末がスパッと切れる。そしてそこに余韻が残る。そんな切れを感じさせる文体です。
ところで話は「第一部終了」と途中で切れてしまいます。昨年5月に出版された『火環』に続くようです。
読むしかないな。 -
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ネタバレ黒澤明が監督した最後から二つ目の映画「八月の狂詩曲」の原作者が村田喜代子。原作の名は「鍋の中」(文春文庫)。
長崎の被爆者の老婆と孫の姿を描いた秀作だが、その映画には、主人公「鉦おばあちゃん」のハワイにいる孫、クラークを演じたリチャード・ギアが「もうアリとは共演しない」と言い残したという後日談がある。蟻の行列を撮影するための待ち時間が余りにも長かったという、撮影の苦労話なのだが、映画がクローズアップした「蟻」とは原作者村田喜代子にとって何だったのか。
彼女の自伝的長編といわれている近著、「八幡炎炎記」・「火環-八幡炎炎記完結編」(平凡社)にその謎解きがあった。
《ミツ江と駆け落ちしなければ、克美は毎朝のこの時間に店の前を掃いて掃除をしていたので、たぶん彼は直接、熱線に射抜かれて隣のコンクリート塀か何かに、はかない人型の影となって世の痕跡を残したかもしれない。広島の空にはじけた紅蓮の火の玉は、内側からもくもくと金や銀、オレンジ、青、黄、白と怪しい色を吹き出しながら、天空に生じた巨大腫瘍みたいに血みどろの醜悪な姿で膨れ上がった。爆心地周辺の地表温度は一瞬に三、四千度に上昇して、たぶん克美の親方も店も灼熱地獄の中に消えただろう。
しかし地獄というのは何らかの生前の報いで、それならこれは地獄じゃない。長年にわたり手を取って仕事を教えた弟子に女房を盗られた失意の親方が死に、彼を欺いて店を飛び出した、いわば姦夫姦婦が助かるなんて道理じゃない。ということはこの世は往々にして地獄よりもむごい出来事が生じるのだ。それを何と呼ぶか、もうこれこそ究極、「事実」とだけ呼ぶしかない。》
《しかし、まさかその三日後に、今度は自分の住む北九州が次の原爆の目標いなっているとは克美は知るよしもない。今度のは広島に落ちたウラン型爆弾より一・五倍強力なプルトニュウム型原爆で、投下目標地点は小倉市の陸軍造兵廠だが、爆発すれば小倉に隣接する八幡、戸畑、若松、門司の北九州五市全域と八幡製鉄所、それに関門、山口一帯まで被害が及ぶだろう。今度は克美が冥府に行った親方の後を追う番だった。》
《原爆が落ちた長崎と、からくも助かった北九州。生があり、死があって、ただ二通りの事実に人々は振り分けられる。このときの状況を想うと克美は極小の蟻のような存在で、そして天空には巨大な原爆の鉄槌がぶら下がっていた。それが地上のどこかへ落ちるわけだが、蟻の克美は大鉄槌の落ちてくる間隙をからくもはい出るように生きのびたのだ。》
物語は鉄が燃える町、北九州、八幡に暮らす三姉妹の家族の「蟻」のような暮らしを描いている。村田は、この作品においても、蟻としての人のありさまにこそ、人間の本当の姿があると叫んでいるかのようだ。
絵描きになる夢が捨てられないお人好しで、力仕事の嫌いな指物師貴田菊二と所帯を持つ長女サト。
下宿屋を営む江藤辰蔵と暮らす病身の二女トミ江。洋裁師の親方の女房になりながら、女癖の悪い弟子の瀬高克美と駆け落ちしてきた三女ミツ江。
サトは男運の悪い娘百合子が捨てた孫娘ヒナ子を、トミ江は、辰蔵が借金のカタに連れ帰ってきたタマエを、ミツ江は克美の兄弟の娘緑を引き取り、それぞれ養女として育てている。
サトが語り、克美が次々と出会う女との成り行きを語り、ヒナ子が幼い暮らしの喜びを語る。多層的で、それぞれが蟻のように世界と出会っていく「語り」が重ねられて、この国の戦後の社会が生き生きと描き出されていく。
新たな戦争があり、家族の病気があり、大きな台風の被害があり、日々の食卓のお惣菜がある、不幸な女の死があり、少女の少年との出会いがある。
その中で、この小説の際立った面白さとして忘れられないのが、庶民の戦後映画史ともいうべき、ヒナ子と映画の出会いだ。
《東京湾から上陸するゴジラの大きな姿を、ヒナ子はもう一生忘れない。夜の海は暗くて、遠くの船で炎が上がっている。背中のとさかが濡れてぬるぬる光っていた。ランランと光る眼は昇道寺の仁王像だった。ヒナ子はなんだかわけもなく懐かしくてたまらなくなった。
「ゴジラ――」
と思わずスクリーンに叫んだ。「ゴジラ――。あたしがおるけんね―。」》
《ゴジラは進んでいく。高圧線の鉄塔をなぎ倒し、国会議事堂を踏みつぶし、場内からは拍手がわく。勝鬨橋を蹴り飛ばすとヤンヤの喝さいが上がった。
「ええどう。ゴジラ―、もっとやれー。」》
《「ゴジラ―!死んだらいけ―ん。いやや―。いや―、いや―!」》
《場内が明るくなると、お客は脱力したように顔を上げた。気を取り直した親たちが、自分の子どもを連れに舞台に上がってきた。ヒナ子はその中で一番大きな子どもだった。サトが来てヒナ子の顔をハンカチで拭いた。サトの皺だらけの瞼も赤くなっていた。》
ここには昭和30年代の社会と映画の出会いの姿が活写されている。
木下惠介「二十四の瞳」、「この天の虹」、「楢山節考」、俳優なら市川雷蔵の「大菩薩峠」、中村錦之助は「ひよどり草子」「笛吹童子」「里見八犬伝」、大川橋蔵の「新吾十番勝負」、ネオ・リアリズムの「自転車泥棒」、そして新藤兼人「愛妻物語」「偽れる盛装」「原爆の子」。小説中で話題になるこのラインナップを見ただけで、七十代の映画ファンはしてやったりと、相槌を打つに違いない。
ヒナ子は中学校を卒業すると、なんと、映画館のモギリ上の仕事を得て、さっさと就職する。すでに月刊「映画シナリオ」の定期購読者であり、その映画熱は過熱するばかりである。
独立プロで話題の監督、新藤兼人の「裸の島」を見た彼女は、ついに、新藤に弟子入りすべく家出を決行する。前に立ちふさがったのが、育ての母であり、実の祖母であるサトであった。
家出荷物を持ったヒナ子を、玄関で取り押さえたサト。二人の対話が小説のクライマックス。
《「い、い、嫌や!あたし東京ば行って映画作る。新藤兼人監督の家に行って弟子入りするとや。」
「と、と、東京やと!」
思わずサトが吃った。
「そ、そ、それがどうしたん!あ、あたし、行ってシナリオライターになる。」「な、なんやと・・・。そこの家に行ったら養うてもらえるとか。お、お前はその偉か人の家ば知っとるとか」
「と、所番地なんか、こ、交番で聞いたらわかる!「馬鹿たれっ」とサトはヒナ子の頬を撲った。頭は叩いたことがあるが、頬に手を当てたのは初めてだ。柔らかい白玉饅頭みたいな頬の肉がサトの掌でバシッと鳴った。サトは熱い涙が流れた。赤ん坊の頃から、ヒナ子の可愛さは譬えようがなかった。その子を撲って戸口で地べたに押さえつけた。」》
《「じいちゃんとばあちゃんば置いて、どげな偉か人のところに出ていくとか?こないだの映画場作った監督のとこに行くんやったら許さんど!」
「あの映画がどうしたんや。」
「あれは虚言(すらごと)の映画や!」サトは抑えていたものが噴出したように怒鳴った。
「水のない島というのに、あの小さい島一面には畑がつくられとった!」
「それがどうしたん?なして嘘の映画や。あの映画の夫婦は一生懸命、隣の島から水ば運んで畑ば作って頑張っとるよ。」
「馬鹿言え。たかが貰い水であれだけの畑が育つわけはない。水なしの島に畑はできぬ!」
ヒナ子はハッとした。島を覆った野菜畑の映像が眼に浮かんだ。
「それよりもっと大事なことがある。死んだ子どもば火葬にするところがあったじゃろ。」
「それがどうしたん。」
「人間一人焼くとに、あんなチョロチョロ火で焼けるもんじゃなか。いくら子どもでも脂の多かなまの体を焼き上げるには、燃やす木も太うて油の多いなま木でのうては役に立たん」
「なま木?」
「いま山へ入って伐り倒したばっかりの木のことじゃ。前に伐っておいたような木は。枯れて油が抜けてしもうて役に立たん。」ヒナ子は真剣に聞いている。初めて耳にすることだ。「人の体は骨もあるし臓物もある。簡単に燃えるもんではない。枯れた薪では人を焼く火力が足りん。なま木を小山のように組んで、まる一日かけて死骸を裏返したり表返えしたり、つきっきりで焼き上げる。そやから島では昔から葬式は土層と決まってる。」
《「お前が好きな映画監督がどのくらい偉いか知らんが、人の生き死にの有り様ばわかっとらん。そんな人物にお前は何を習うつもりで家出するとか。」
「・・・・・」
「大事なことはばあちゃんが教えてやる」》
サトはヒナ子が心配で、いっしょに映画を観るのだが、映画には納得しなかった。その彼女の、ひいては、蟻の目で生きている庶民の映画批評がこの発言のすばらしさを支えている。これは、世間知らずの孫娘可愛さだけの発言ではない。
蟻のように、子供を育て、孫を育てて生きてきた人間が、映画の作りごと、「虚言(すらごと)」をどう見やぶるか。爽快ともいえる、老婆の啖呵に、作家の本音が込められている。
一旦は、家出をあきらめるところで小説は終わる。しかし、彼女がやがて小説家へと踏み出していく背景がここにあることはリアルに読み取ることができる。自伝小説として、出色の出来栄えだと思う。(S) -
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八幡炎炎記から続けて読書。ヒナ子が少しずつ大きくなるに連れて周りの大人の様子も変わってくる。
戦後の復興と共に思想も生き方も仕事の仕方も変わって行く子供達や大人達。この後編ではその波に乗って行く子供達や若い世代と、信心深く立ち居振る舞いも昔のまま変わらない老人達との違いも浮き彫りになって来ていたと感じる。
ヒナ子、まっすぐ育ってね、と思いながら読んだ。克美とミツ江の最後の落ち着き方もなるほどな、と。やっぱり生きている間に大事にしないとね。
戦後というのがだんだん遠い時代になるにつれ、こういう本を書ける作家も少なくなって来てしまうのかな。 -
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終戦後の八幡を舞台にした物語。親が生まれた頃の日本はこういう感じだったのかー、と思いながら読んだ。皆貧乏だけど日々の中で幸せや楽しみをみつけて生きて行く様子がたくましい。複雑な事情を抱えながらも元気に育って行く子供達、一方でそんな子供達の目には映っていないだろうけど、実は大人達もまたそれぞれ浮気や駆け落ちなどの事情を抱えていて、大人なりに悩む日々が描かれており、子供を描写している時の「陽」と大人の心情を描写している時の「陰」の空気の変わり方が面白い。
運動会が町をあげてのイベントであるのが面白かった。今と違うなあ、娯楽の少ない時の良さだろう。あと、皆が製鉄所を自慢に思っている所も印象的。その後起こる製鉄産業と町の衰退ぶりを思うと、物事には盛衰がある事を感じずにはいられない。
元は、続きの火環の書評を読み興味を持ったのでまずこちらを読んだ。なかなか良かった。ヒナ子はどんな風に育って行くんだろうか、火環を読むのが楽しみ。 -
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ネタバレさて、不思議な小説です。
雨漏りの修理に来た夢を自在に操れる屋根屋とともに、主婦の「私」が夢の中で様々な屋根をめぐる旅をする内に。。。
二人が訪れる建物や屋根の描写が緻密です。日本の寺社や五重塔の空に飛び立つような屋根の反り。瓦の裏や法輪に書かれた大工や僧の落書きの面白さ。フランスの大聖堂建築のフライングバットレスや身廊(ずいぶん前ですがケン・フォレットの『大聖堂』を読んでいるので構造が目に浮かびます)。何か吐瀉しているように見えるガーゴイル(雨樋から流れてくる水の排出口)の魔物彫刻の群れ。それだけでも読み応えがあります。
ゴルフ三昧の夫とクラブ活動に夢中な息子。特に大きな不満も無いが、どこか家族の中で存在感の薄い主婦と、10数年前に妻を亡くし、一時は精神の不調に陥ったさえない大男の屋根屋。そんな二人の夢の中の道行きは、互いの孤独からの逃避に向かい、やがて夢と現の境さえ不明確になって行く。
著者が何を語ろうとしたのか良く判りません。読む人によって色んな解釈が出来そうですが、独特の空気感の中で、それぞれが自分なりの解釈をすれば良いのだろうと思います。 -
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ネタバレ熊本の遊郭に売られた15才の少女の物語。
主人公のイチは硫黄島の漁村で生まれ育った。
しかし、生活が苦しい家族によって熊本の遊郭に売られてしまう。
彼女は、これまで自然豊かな島でどちらかというとプリミティブな生活を送ってきており、教育も受けたことが無い。
元々は健康ですごくピュアな感性を持っている明るい子である。
それがいきなり慣れ親しんだ故郷の島を離れ、熊本の遊郭で働くことになる。
悲劇以外の何物でもない。
イチを通して描写される遊郭という世界。
舞台は現代からたかだか100年ちょっと前の時代である。
貧しい家から娘達が売られてきて、毎日のように体を売り10年程の年季明けるまで遊郭という世間と切り離された世界で生きてゆく。
人としての権利なんかは、とっくに蹂躙されていて、病気、犯罪、絶望による自殺で若くして命を失っていくものも多い。
想像を絶しているとしか言いようがない。
物語では、当時の遊郭での娼妓達の生活がリアリティー豊かに描かれている。
(当時の彼女達の生活感が伝わってくるほどであり、著者の入念なリサーチには感服する)
当時大きな遊郭では、読み書き計算を教える学校(女紅場)があり、娼妓達はそこで勉強していたらしい。
イチは女紅場で勉強するのが大好きで、ほぼ毎日通っていた。
中でも作文が好きで、訛がすごくて文章が拙いため中々読みにくい文を書くが、内容は彼女のピュアな感性が光るものである。
この小説の各章の題名はイチの作文から採った文で、各章のハードな内容と彼女の子供っぽい文章のコントラストが強く、年端もいかない子供が過酷
な環境で生き抜いていかなければならない状況が鮮明になり哀愁を誘う。
個人的に一番やりきれなかったシーンがあった。
父親が訪ねてくると聞いて喜んでいたイチは、なけなしのお金で姉の為の手鏡を買い、父親に会ったら渡そうと楽しみにしていたのだが、実は父親は更なる借金を申し込む為に来たのであり、イチが働いて返さなければならない借金はさらに大きくなったのであった。
しかも父親は、イチに会うことなくさっさと島へ帰ってしまう。
イチは、自分の将来に絶望感を持ってしまう。
イチが拙い文章で作文に父も母もいらないと書いていたのが、あまりにも哀れだった。
15才の娘を遊郭に売り、親の借金を返すために信じられない様な苦労をしている彼女を労いもせず、平気で更に借金をしていく親。
ちょっと酷過ぎやしないだろうか・・・
彼女の辛さを思うと涙が止まらなかった。
またこの作品には、元武家の娘で、吉原の遊郭に売られが年季が明けた為、女紅場で教師をしている鐵子さんいう40代半ばの女性が登場する。
彼女は、教育がある女性なので最初は、福沢諭吉の思想に感銘を受け新しい時代の息吹を感じていたが、徐々に福沢諭吉の持つ思想が社会的弱者に対
する配慮を欠いていることに気付き絶望する事になる。
私も今まで福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」なんて事を言ってるので非常に啓蒙的な人物と考えていた。
しかし、鐵子さんが指摘したように、彼の思想は社会的弱者を明らかに考慮していない。
彼に対する評価が私の中で少し変わった。
最後にイチと娼妓達(廃業することを望んだ)は遊郭から抜け出す事ができ、外の世界で新しい人生をつかむチャンスを得る。
イチの今後の人生が幸せなものになる事をを切に願う。
歴史の中に消えてしまったが、確かに存在した世界を活写してくれた著者に感謝したい。 -
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明治の熊本の遊郭を舞台にした作品。
「吉原炎上」やら、荷風その他の男性作家の作品と大きく違う。
硫黄島から、両親に売り飛ばされた娘、イチ。
その境遇は苛酷だけれど、「かわいそうな女性」と、ヘンに美化されない。
その体の上に起こる様々な状況、生々しい身体感覚も、意外とドライに描かれる。
だからこそ、心を動かされる。
イチの一本気な性格によるところもあるのかもしれない。
イチの人柄は、彼女が女紅場で師匠の鐵子さんに出す日記によく表れている。
皮肉なことに、彼女は遊郭に売られて、始めて文字を覚えた。
それ以来、書くことに憑かれたようになる。
鐵子さんも没落士族の娘で、かつて遊郭に売られた身。
イチたちを案じつつも、見守るしかないこの人も、教養のある人ながら、娼妓であったことで社会的に蔑まれてきた。
野生児のようなイチと、鐵子さんがつながる。
このことによって、物語が終盤、大きく動いていく。
読んでいて、わくわくするところだ。
イチの売られた娼館、東雲楼は、熊本きっての名店。
楼主も、それほど阿漕な人ではなく、比較的娼妓を大事に扱う。
娼妓同士の諍いも少ない。
えげつないプロレタリア文学は、これでもか、といわんばかりに、その悲惨さを強調するところだが、この作品ではそうではない。
だからこそ、最後に娼妓たちがストライキをして出ていくところが胸を打つ。
暴力に余儀なくされて逃げるのでなく、自らの考えで出ていくことを選び取っているように感じられる。
夜通しの「遊女の大行進」を、応援したくなってくる。 -
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先日花魁道中を見に行った。
これがあの八文字かと胸を高鳴らせた。
混み合っている中、そばにいた中年女性が連れに言った。
「女なら憧れるわよねえ。綺麗な着物着てさ」
確かに綺麗な着物には憧れるけれど、実際の花魁に憧れを持つかといえば、どうだろう?
身体を売ることに抵抗がある(だからと言ってその職にいる人を貶めるつもりはない)だけではなく、病になっても医者に見せてもらえずそのまま命を落としたり、誇りを踏みにじられたり、親に借金をどんどん増やされたり......。
苦界そのものだ。
男たちの作った世界、彼らが思い描き、その思い通りの時間が流れる中で、女たちはどれほど犠牲を払い辛い目にあってきたのだろう。
本書は明治になってからの熊本。
硫黄島から売られてきた青井イチ(子鹿)の目から見た廓の物語だ。
太夫の妊娠、出産、位の低い遊女の逃亡、転売。
その中で生きるよすがとなるのが女紅場と呼ばれる遊女たちの学校だ。
教師役の鐡子は元武家にして元遊女。
彼女が遊女たちの背中を押す。
誇りを持て生きよ、と。
鐡子は福沢諭吉の『女大学』に希望を持つが、次第に諭吉の不平等、不公平の思想を見、失望し、怒りを覚えるようになる。
そして遊女たちに知恵を授け、ストライキを起こさせるのだ。
福沢諭吉の不公平の思想は当時からすれば、それでも画期的なものだったのかもしれない。
しかし私も受験生の頃にその違和感を感じたのを覚えている。
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといへり、そう語ったのと同じ人物とは思えなかった。
東雲太夫の言葉が胸に残る。
楼主は決して悪人ではなかった。
遊女を騙したり、酷いように扱ったりはしなかった。
「それでも」「それでもお前様は、人を売り買いしなさんした」
美化された言葉ではこの太夫の言葉は伝わるまい。 -
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南の小さな島で、貧しい漁師の家に生まれたイチは、15歳で熊本の遊郭に売られる。
広い海で大きな海亀と泳ぎ暮らしていた少女は、きらびやかな牢獄で囚われの日々を送ることになる。
鄙で生まれ育ったイチは、訛りがきつい。「ください」は「けー」、「ここへ」は「こけー」、「これ」は「こー」、「食え」は「けー」、「来い」は「こー」。口数の少ない少女が必要最低限のことをしゃべると「こけー、こー、けー、こー」とまるでニワトリのようであった。
体は真っ黒に日焼けし、行儀も何もなく、小柄で痩せてサルのよう。
どたばたと歩き、訛りを隠すための遊郭独特の言葉もまったく身につかない。
およそ人間らしくない野生児が、突然、絢爛豪華な世界に放り込まれる。見た目は美しい極楽のようだが、その実そこは、性と金に支配される底なしの地獄だった。
島で育ったうえ、まだ子供であるイチは、島の外の広い世界のことは何も知らない。だが彼女には強靱でしなやかな身体とそれに見合う「魂」があった。
女紅場(じょこうば)と呼ばれる遊女たちの学校で、日記を書くことを教えられた少女は、つたない国言葉を重ねて、汚い字で、日々のあれこれを綴る。
有無を言わせぬ破瓜。望まぬ務め。不人情な客。かさむ借金。身勝手な親。
理不尽な出来事を睨みつけ、叩き付けるように文字にしていく。
それは世界をぶった切ろうとする、小さなしかし鋭い刃のようであった。
イチを見守る2人の女がいる。
1人は、イチを預かり、面倒を見ることになった姉さん格の東雲(しののめ)。店一番、いや廓一番の売れっ子で、遊女のトップクラスである「太夫」である。時には菩薩のように、時には魔物のように、底知れぬ美しさを持つ。
いま1人は、女紅場の先生である鐵子。遊女上がりである。幕臣の家の出で、御維新で家が傾いた。大家族が田舎に引っ越す工面をするため、長女である鐵子が身を売ることになった。つらい年季が明けた後、遊女たちに文字や書、算術を教える先生の職に就いた。
非常に対照的な女たちだが、いずれも凛と芯が強い。
激動の時代の中、女たちは自らの境遇や世の中を見据える。
世界の価値観が揺れ動く中、女たちは考え続ける。自分たちはどういう場所にいるのか。ここで何が起こっているのか。これは「正しい」ことなのか。
イチはこの2人をつなぐ架け橋となる。
東雲は太夫として何不自由ない暮らしを送っている。艶然と男たちを意のままに扱い、楼を支え、多くの者を養う金を稼ぎ出す。それでもなお彼女は「売られた」身で、「賤業」に就いていることには変わりはない。
鐵子は若き日、福澤諭吉の「学問のすすめ」「新女大学」に感動した。だがそれは読み込むにつれて、彼女を落胆させる。すべての人が平等と謳いながら、裏には女、特に遊女を低く見る偏見が渦巻いているのが彼女には見えた。
明治維新という激動の時代の中、それまでの世界を支えていた制度や価値観が崩れ、遊郭も揺れた。キリスト教的な思想による外圧もあった。人権意識の高まりもあった。
物語のモデルとなった熊本・二本木では、1900年(明治33年)、遊女による大規模なストライキが起きている。
そんな中、遊女たち自身はどう暮らし、何を思っていたのか。著者の濃密な筆は、力強く、ときにユーモラスに、ときに壮絶に、女たちを描き出す。
イチは日記を綴り続け、考え続ける。その国言葉は稚拙かもしれないが、強い。彼女は最後まで、国訛りを捨てない。それは、自分の言葉で考え、自分の言葉で表現する術を捨てないということだ。
その考えがたどたどしくても、ときに浅薄でも、身のうちから発した思想は強い。それは誰にも奪われぬものだから。
彼女は最後に、自らの意志で海に泳ぎ出す。荒海かもしれない。生き延びることは叶わぬかもしれない。けれど、決めたのだ。
びんと強靱な尾びれを振って1匹の魚がゆく。その潔さがまぶしい。 -
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先日『ゆうじょこう』を読んで気に入った村田さん。今度は多分村田さんの本領らしい短編集です。
恐らく村田さん本人の経験や見聞をもとに、主人公や舞台を少し変えて書かれたものと思われます。私小説ではないけれど、そんな匂いのする文学作品、さすが芥川賞作家というところです。とはいえ、独りよがりな雰囲気や晦渋さはなく、密度は濃いけど読みやすく。
最後の「楽園」は地中湖の探検の、「山の人生」は山中の無人村での一夜を、「夕暮れの菜の花の真ん中」はタイトルの示す通り、そして「関門」は夜の海を、全体にタイトルこそ『光線』ですが、闇を主題にした短編集のようです。
最近、お気楽、お手軽な作品ばかりに手を出す私ですが、やはり時にはこの様にしっかりした作品にも手を出さなきゃと反省させられた充実した読書でした。