柴田裕之のレビュー一覧
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歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリによる
21 Lessons(21世紀の人類のための21の思考)
テクノロジーの難題、政治的難題をどう乗り越えるのか?21の考察は単純な答えで終わりはしない。その目的はさらなる思考を促し、現代の主要な議論のいくつかに読者が参加するのを助けることにある。
第一次トランプ政権誕生、イギリスのEU離脱があったのちに書かれた本書を第二次トランプ政権誕生のタイミングで読み進める。
一つ一つのトピックに深く考えさせられた。AIとバイオテクノロジー革命が社会はもとより私個人に難題を突きつけるそのときに、自由主義は信用を失いつつある。雇用は?自由は?平等は?
終盤の3トピック教育、意味、瞑想でレジリエンス(困難をしなやかに乗り越え回復する力)を示してくれている。
世の中の虚構の物語と現実を見分ける方法について、「もしこの世界や人生の意味や自分自身のアイデンティティについての真実を知りたければ、まずは苦しみに注意を向け、それが何かを調べるにかぎる。その答えは物語ではない。」
まさに、あなたが逃げている部分に目を向けなさい。そうしないと自分なんてわからないから。と言われている気がした。良書。
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Posted by ブクログ
死とは悲しくて恐ろしいもの。
その認識は誰によって作られ、
どうして確立されたものなのか。
映画ドラマの中で描かれる死は、
誰かの悲しみの対照であり、
その悲しみを背負い生きている生者の心に寄り添う。
そうやって生まれた数々の名作を見てきた私にとっては、
同じくそういう感情になることもある。
でも、悲しみばかりではない時もあった。
その違いはなんなのか、
どうして私は人と違う死の感覚を持つのか、
そんな疑問が多角的に分析・解説されていて、
とても読み応えがあった。
また文章自体は、こういう本を読み慣れていない人(私)
にとっても、言葉が容易で読みやすかった。
分厚いこれ系の本に手を出すには勇気がいるものの、
読むことで手に入れられる知識と、
読み切った達成感を味わえる一冊だと思う。 -
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統合失調症の研究が主と思って借りましたが、12人の子供のうち6人が発症してしまう不運な一家の長い長いノンフィクションがメインボディでした。
冒頭から暗雲立ち込める雰囲気で、85パーセントくらいまで絶望的な展開が続く。
最後の15パーセントは急に明度や彩度が変わるというか。それまでの文章が持つ、目に見えない小さな小さな鉛を含んだような空気が軽くなる。末娘が一度は決別した病気の家族や故郷に救いの手を差し伸べるからなのか?いや、それもあるだろうが、障害を持つ古い(前)世代が亡くなり、両親はその気苦労とともに亡くなり、新しく生まれ育った次世代が障害なく生まれ育ったからだろう。
この一家の不運は前世代で終わったと確信できるからだ。(とはいえ統合失調症を患った個人の人生に救いはないし、家族の不必要な苦労も大きな傷のまま。殺された犠牲者や関わった人達もそのまま。)地獄はそのままだけど、時が流れてプレイヤーが新しくなったから空気が変わっただけか。まぁでもそれの繰り返しなんですよね。残念ながらら。
前半85パーセントは「これって本当なの?」と疑いたくなるほどの不運続きのノンフィクション。
そこについては感想は書きようがない。
ただただ不運。
ここでは主に後半15パーセントについての思ったことを。
母親(ミミ)の描写
「知的で博識で恐ろしい悲劇を数えきれないほど耐え抜くほどに強靭でありながら内省を極端に嫌う」
うちの母親のことを書いてるのかと思った。
兄弟の1人が母親の臨終後、介護について
「あんなふうに世話が出来るのは特権だ。やらなきゃいけないならそりゃそうだが、俺たちには金があんだからやらなくてもいいんだし」(意訳)
金で他人を雇うことも出来たのに自分ら子供が母親の世話をしたことについて「特権」と表現。
なるほどね。今回は母親の世話をした兄弟の発言だったが、これが世話も一切しない貧乏な年長者だった場合、意味も変わる。でも同じかも?
「あいつがああやって時間も労力も金もかけられるのは余裕があるから。俺だって(私だって)あいつの立場ならあれくらいやってる。あいつにとっての〇〇円は俺にとっての◯円だ」みたいな?
やってる方は「なんで全く手伝わないでいられるの?バカなの?倫理観ないの?貧乏なの?全部なの?」とか思ってるけど、やらない方は「なぜ自分がやらないのか」もしくは「あいつはなぜやるのか」と理由をつけて自己防衛するものかもね。
てか親の支援とか介護やらない奴は今年中に爆発しますように。(迷惑かからないようにどっかの空き地で爆発してくれ)
統合失調症の発症率
100人に1人。高い。喘息と同じくらい?
片親のどちらかが発症していた場合その子供の発症率は10人に1人で、兄弟姉妹に患者がいる場合でも本人が発症していない場合その子供の発症率は他の人達とほぼ一緒。
なるほどー。
一生涯のうち妄想を一度でも経験した人は意外と多く5-7%
「あれは妄想だった」と本人もしくは他人が認められるものがそれくらいってことですかね。とすると本人が妄想だと自覚してないものを含めるともっと高いか。まぁそりゃそう。そうでなければこんなに宗教が幅きかせる世の中になってないですよね。30-40パーくらいかな?実際。
最後は末娘1人が奮闘して親や発症した兄達の面倒をみている。
その彼女曰く「両親は私達が必要としていたものを与えてはくれなかったが、彼らはそれが分からなかった」
そう。親ガチャ子ガチャなんて言葉があります。それ自体はその通りなんだけど(人生全て運だから)彼女は両親がわざとやってた(もしくはやってなかった)訳ではなく、知識や想像力が無かったり、知らないこと分からないこと考えなかったこと想像しなかったこと他人に聞かなかったことが間違いだった、自身はもっとよりよく対処出来たという感覚がまるっきりなかったということを病気の兄達を通して深く体感しているのだろう。
そう思えるようになると、親や役立たずの兄弟に対する恨みも少しマシになりますね。
(これも本人が賢く生まれつかないと得られない境地なんだけど)
要は運。全て運。何もかも運。 -
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ポストコロナで加速されたかな。
データ至上主義に突入している昨今、競うようにシェアされる個人情報、個人の感想がスマホから溢れている。
cookieを拒否したところで自ら発信しているのだから世話ない。
承認欲求は甘いクッキー。個人を個人たらしめるはずの発信が継続することで個性は溶け、データの一部になってしまうとは皮肉だ。
彼の主張は悲観的な予言ではなく、現実に根差した論理的な予測で納得感がある。
じゃあもうブログ書かない、SNS見ない、と決めたところで、この潮流は変わらないしアルゴリズムの恩恵を受けられないのはもはや不便な世の中になりつつある。
より良い体験をしたいし、良い物が欲しいじゃないか。
欲求がなくならない限り私たちは個人情報を垂れ流し続ける。
科学が人間を追い越すとき。
SFがサイエンスノンフィクションになろうとしているこの瞬間に立ち会えることは、貴重な経験と言えるかもしれない。
追い越されたら最後、その前髪を見ることは二度とないだろうから。
彼の以前言っていた仏教的悟りの世界に突入したら、未来は変わるかもしれない。ホモ・デウスの世の中は人口を減らすかもしれないが、際限ない欲望はそれでも地球を破壊するだろうか?
蚊帳の中で考えるが、人智を超えた未来は想像するに難い。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ筆致が強くて若干引き気味になる部分もあったけど、今までなかった視点がふんだんにあってそれぞれに個性的なデータが示されていて面白かった。
人の色覚は人の体調や感情を肌の色から読み取れるよう進化した。平熱と微熱の一度の差を感じられるのと同様に、普段の肌の色を基準に僅かな差を読み取れる。黄/青(ヘモグロビン濃度高/低)・赤/緑(血中酸素飽和度高/低)が、人の色覚の四原色で、S/M/L錐状体はこれを感知できる設定の配置になっている。人の眼がこのような設定だから、人は今のように世界が見えている。決して正確な描写ではなく、自然淘汰でたまたま生き残った設定で脚色された世界を捉えている。
また、眼は左右の二つがありそれぞれが異なる角度から世界を見ている。二つの像は脳で編集され一つの像として表示される。両眼が前向きについている動物は、自分の眼の間隔よりも細い障害物を透明化してその向こう側を見ることができる。草木の茂る森での生活に適応した結果だろう。
ヒトの眼は自然界での事象を適切に捉えるよう進化した。一瞬先の未来を予測し、知覚した現在が予測と異なっていた場合は修正してから意識される。空間的な配置は二次元の像を脳が分析し解釈して推測される。物体の運動量は網膜に残る光のぼやけから予測される。自己運動に伴う像の変化は予測が容易い。放射様の幾何学的錯視は、前進運動の予測によって起こると考えられる。放射状の線は脳に前進運動を予測させ、脳は前進したとして予想される未来の像を掲示する。同様に、幾何学的錯視の多様かつ数多の例を、現在を知覚するために脳が描く予測の像だと捉えることで体系的に分類することができる。
ここまでは人の眼の進化の話だったが、文字は、自然に合うように進化した人の眼が捉えやすいように、文化的進化を遂げた。人が自然を捉えるときに輪郭を抽出するように、文字は輪郭を成す線画でできている。また、文字に含まれる線画同士の結節点数の割合は、自然の輪郭に表れるそれと符合する。この傾向は、ものの形を模した表語文字だけでなく、発話表記にも見られ、世界中のあらゆる文字が同様の生成原理に依っていると考えられる。自然物を捉えるのと同じプロセスで認識できるよう進化したからこそ、文字は我々の意思疎通に普遍的にストレスなく用いられ、人間社会の発展に寄与してきた。 -
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ー 人類の旅は、魅惑的なエピソードに富んでいる。ディテールの大海原に漂い、波にもまれていると、水面下の強力な流れはつい見過ごしてしまう。本書の第1部では、これらの底流、つまり技術の進歩と人口の規模や構成との相互作用に焦点を当ててきた。こうした力が人類の発展―脳の進化、農業革命と産業革命という二つの重大な革命、人的資本への投資の増加と人口転換など、私たちを地球上でもっとも有力な種にした主な出来事にどんな貢献をしたかを把握せずに人類の歴史を理解するのは、事実上不可能だ。
これらの底流はすべてを統合する概念の枠組みを提供し、人類の旅を理解する明確な軸を与えてくれる。それがなければ、人類の発展の歴史は単に事実を年代順に羅列した一覧になってしまい、文明が栄えては滅ぶことを繰り返す不可解な光景が広がるばかりだろう。
そうは言うものの、生活水準はどこでも同じように改善したわけでもなければ、向上の速さが一つに決まっていたわけでもない。それどころか、現代の人類の状況は、世界の人々の生活水準が主として出生地に左右されるという点で過去に例を見ない。現代の国家や地域のあいだに存在する貧富の巨大な差の根本原因は、何なのだろう? 人間の社会はみな、それぞれ発生した場所の歴史と地理の制約を受け続けざるを得ないのか? 現在の格差は、おおむね起こるべくして起こったのか、あるいは偶然だったのか? 深く根づいた制度や文化や社会の特性は、国家間の豊かさの相違が生まれる過程で、どのような役割を果たしたのだろうか? ー
「歴史の準自然実験」の論証の正当性は詳しくは学んでいないので分からないが、第一部の“何が成長をもたらしたのか”、は刺激的で面白かった。
第二部の“なぜ格差が生じたのか”、はうまくはぐらかされている感じがした。何故かはここでは議論しないが、未来志向、教育、技術革新、男女平等、多元主義、ダイバーシティが普遍的な繁栄のカギ、というのが結論のようだ。
ん〜、結論の前までは良かったのに、結論の後に、未来は明るい、気候変動も何とかなる、我々は解決出来る、と結ばれると、急に胡散臭くなる。
これは彼のマルサスへの評価と同じで、過去はうまく説明出来たが、未来予想はイケてなかった、と同じような気がした。 -
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経済学者による資本主義的な「進歩の時代」から民主主義的な「レジリエンスの時代」への転換の必然性が書かれた本。
前半は科学的な記載が多く、生物学的・化学的・物理的な原理や過去の発明に基づきながら、現代社会の変化やそれに伴う警鐘を鳴らしている。
あくまでも個人の感想だが、あまりこの辺りは頭に入って来ず、経済社会を科学的に捉えるという新鮮さや合理性は強く感じたが、それを自分の論として取り入れるほど解釈することができなかった。
後半は、そういった時代背景も含めて、どのような社会がレジリエンスが高い社会なのかを具体的に述べている。
・クリーンエネルギーやIoTなどの発展、またそれに伴う監視と分散が実現する非中央集権的なインフラの構築
・自然災害などの身近に感じやすく、そこから生まれる生命地域主導のバイオリージョンに基づく統治形態及び生命愛に基づくバイオフィリア
・代議制民主正義の発展系である、ピア議会・ピア政治。より地域住民や市民が合議的な議論や権限を持って、行政を運営/意見していくような状態
これらの具体的な将来像が非常にわかりやすく、実現性の高い論旨になっていることに非常に感動した。
時代の変化とそれに応じて何が求められるかという点を哲学や宗教のみならず、科学や社会学などの観点からも論じている部分が刺激的であった。 -
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【感想】
世界には途方もない格差が存在している。アメリカの一人あたりGDP(2020年)は63,028ドルである一方で、アフリカ諸国の一人あたりGDPは、サハラ以南の国家全体を足しても、1,502ドルしかない。一方、国家間だけでなく一国内でも格差は深刻であり、アメリカでは上位1%の超富裕層が総資産の30%を握り、上位10%が全体の70%を握っている。
格差は年を追うごとにどんどん拡大していっているのだが、しかしそもそも、格差が出現する発端となったのはどういう事象だったのか?欧米とアフリカの間に格差があるのは今に始まった話ではないが、何故数世紀も昔から経済状況に優劣があったのか?そうした疑問を紐解くのが、本書『格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか』である。成長の謎と格差の謎に取り組み、それぞれの社会が異なる発展の道筋をたどった理由や、国家間の生活水準の差が途方もなく広がった理由を考察する一冊となっている。
まず本書は「成長は何故生まれたか」について論じる。ホモ・サピエンスの誕生から農耕社会の出現、それにつづく国家の誕生といった、「人類史の始まり」からヒトの経済活動を振り返っていく。なぜ数ある動物のうち人間だけが成長の軌道に乗れたのかというと、「適応力」があったからだ。脳の進化によって、適応力が向上し、新たな技術を開発したりする能力が高まり、それがさらに適応力を高めた。適応力の向上→技術の開発→その技術への適応という循環こそが、人間を成長の軌道に載せてくれた梃子であった。
だがしかし、いくら技術が進歩しても、人々の物質的豊かさを長期にわたって大きく向上させることはできなかった。なぜなら、人類は「貧困の罠」に捕らえられていたからだ。(※本書で定義されている「貧困の罠」とは、マルサスの人口論のことであるため注意。)技術の進歩とそれに伴う資源の増大はきまって人口の増加を招き、進歩の成果を次第に多くの人間が分けあう羽目になる。技術革新は数世代のあいだは経済の繁栄を促したが、結局は人口増によって人々の暮らしは貧しくなり、生存水準に引き戻された。
例えば、ジャガイモがアイルランドに広く普及した時代のこと。ジャガイモが南アメリカから導入されたあと、1600年には約140万人だったアイルランドの人口は、1841年には820万人にまで膨れ上がったが、暮らしは生存水準に近いままだった。それどころか、状況は以前よりも悪化することになる。
ジャガイモはアイルランドの土壌と気候にとりわけ適しており、農民の収入は短期的には増加し、時には新たに家畜を買う余裕さえできた。ジャガイモを栽培し始めた当時の農民は、カロリー摂取量も生活の質も大幅に上昇した。しかし、ジャガイモに疫病菌が広がり、アイルランド大飢饉が発生すると、主に貧しい農村地帯で100万人もの死者が出て、100万人を超える人がグレートブリテン島や北アメリカに移住した。こうして3世紀のあいだに、優れた作物の導入とその後の大惨事は人口の増加とそれに続く大激減を引き起こしたが、長期的に見れば、生活水準にはほとんど影響が出なかったという。
ただしそれでも水面下では、着実に変化が起こっていた。人類の歴史の大きな歯車――技術の進歩と人口の規模・構成との相互作用――は最初から回り続けていたのだ。そしてついに18世紀後半に、産業革命という技術の爆発的進歩を引き起こした。それから100年後、技術革新の加速と、それによる技術環境の変化に対応できる、教育を受けた労働者の需要の高まりは、平均寿命の延びや児童労働の減少、男女の賃金格差の縮小と相まって人口転換を引き起こし、経済成長を人口増加の相殺効果から解放したというわけだ。
そうして人類は、産業革命の力により人口増加を超える豊かさを手にしたわけだが、この転換が速やかに行われた地域もあれば、そうでない地域もあった。これが現在における「格差」として残っているわけだが、いったい両者のどこに違いがあったのか?
それは、制度、文化、地理、多様性といった諸要素のせいである。
例えば文化の違いについて、現在、イタリア南部の一人当たりの所得は、北部のわずか3分の2程度である。イタリアは1871年以来、法律的にも経済的にも単一の国であるにもかかわらずだ。
この格差について、アメリカで公共政策を研究していたロバート・パットナムは、原因を「文化の違い」に見出した。今から1000年前、イタリア南部はノルマン人の君主たちの統治下にあり、封建的な経済体制が敷かれていた。一方、北部の都市は神聖ローマ帝国のくびきを打ち捨てて以来、ある程度の自由を享受しており、より民主的な制度を発達させた。したがって、北イタリアの市民は昔から政治に積極的に参加し、社会活動にも貢献し、まわりの人をかなり信頼してきたが、南イタリアの人々は強固な階層構造をとる政治制度の中で限られた発言権しかもてないことに徐々に慣れてしまった。パットナムによれば、こうしてイタリアの北部では民主主義につながる文化が育まれたのに対し、南部の多くの地域は古い封建的な秩序の名残をとどめる制度を維持し、マフィアに牛耳られるようになったという。
パットナムは、民主主義を育む重要な材料は「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)=市民を政治に参加させる文化的特性」だ、と主張している。北イタリアはこの文化的特性によって、市民活動に熱心で、投票率が高く、投資率も高く、経済が繁栄している。こうした格差が文化的特性に現れて長期にわたって持続した結果、現在の社会や政治の展開に影響を与えているのだ。
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以上が本書のまとめである。
読んだ感想だが、格差の論じ方が系統立っていて分かりやすく、かつ非常に面白い。人々が豊かになった理由を原始時代→農耕社会時代→暗黒時代→産業革命時代→現在と時系列順に追っているのだが、国家間に格差が生まれた理由は逆に、現代→植民地時代→古代→原始時代と遡って論じており、2つの対比が明確になるように示されている。内容としてはダロン・アセモグルの『国家はなぜ衰退するのか』『技術革新と不平等の1000年史』やスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』、ジャレド・ダイアモンドの各書と結構被る内容があるため、これらを読んでいれば目新しさは無いかもしれない。ただ、人類史と並行して経済問題のルーツを解き直した、という意味では非常に優れた一冊と言える。ぜひおすすめだ。
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【まとめ】
0 まえがき
今から数百年前、大半の人の暮らしは、その子孫である現代人の暮らしよりもむしろ、何千年も前の遠い祖先やその当時世界各地にいた人類の大半の暮らしに近かった。ところが、19世紀初頭以降、平均寿命は2倍以上に延び、1人当たりの生活所得はもっとも発展を遂げた地域では20倍に、世界全体では14倍に急上昇した。
不思議なことに、ここ2世紀ほどで社会が急激に繁栄に向かったとき、その繁栄は世界の一部にとどまった。そのせいで、人類に特有の大きな変化がもう一つ起きた。社会のあいだで著しい格差が生じたのだ。この現象は主に、停滞の時代からの脱出時期に地域差があったためだと考えられるかもしれない。西ヨーロッパ諸国と、そこから派生した北アメリカやオセアニアの国の一部では、早くも19世紀に生活水準が飛躍的に向上した。一方、アジア、アフリカ、ラテンアメリカのほとんどの地域では20世紀後半になってようやく向上が見られた。一部の地域でほかよりも早くこの変化が起きたのは、なぜなのだろうか?
1 成長のはじまり~生活水準停滞期
全てのきっかけは、ホモ・サピエンスが脳の進化によって、居住地の変化や新たな道具に適応できるようになったことだ。適応力の向上によって、環境をうまく操ったり新たな技術を開発したりする能力を高めた。適応力の向上→技術の開発→その技術への適応という循環こそが、成長の引き金である。
また、都市の出現も、技術の進歩によって促されるとともに、技術のいっそうの進歩を促した。技術革新の突然の加速によって動植物の飼育や栽培がさらに進み、耕作や貯蔵、情報の伝達、運搬の方法が向上した。農業革命も同様に、人類の生活様式や道具を大きく変え、その過程で新たな環境への生物学的適応を促したのだ。
しかし、知識と技術のこうした大きな進歩があったにもかかわらず、寿命、生活の質、物質的な快適さや繁栄の程度という物差しで計った場合の人類の生活水準は、なんとも不思議なことに、ほぼ停滞したままだった。それは「貧困の罠」のせいである。
ここで言う「貧困の罠」とは、マルサスの人口論のことだ。人類がどれだけ食糧の生産性を上げても、結局その成果は人口の増加によって帳消しになるため、長期的には豊かになれないという説である。
事実、産業革命以前の時代は、技術水準の基準が高い地域ほど人口密度も高かったが、一人あたりの所得への影響はごくわずかだった。新たな作物や技術が導入されたとしても、それはすぐ人口増加率を上げるので、経済の繁栄にはつながりにくかった。一方、長期的には飢饉や病気や戦争を通して人口が減少するため、人口増加を原因とする長期的な経済の荒廃は、最終的には回避された。こうして、繁栄と荒廃の合間で停滞する「経済の氷河期」が、いやおうなく続いたのだった。
2 水面下で回る歯車
だがついに、人類は繁栄と荒廃の均衡を破り、持続的経済成長へと相転移した。マルサス時代のあいだ中、休むことなく回り続け、ついには過去2世紀に生活水準の劇的な変容を引き起こした謎の歯車とは、いったい何なのだろう?
●人口規模
工業化初期の19世紀初頭には、人類は10億人を突破する寸前だった。実は人口規模と技術の変化は相互関係にあり、人口が増加するにつれて、新たな製品や道具や手法とそれらを考案できる優れた人材の需要と供給は高まる傾向にあった。さらに、大規模な社会では専門化の進展と専門技術の発達や、交易を通じたアイデア交換の増進のおかげで、新たな技術の普及と浸透がいっそう加速した。この自己強化型の好循環は、まさに人類の出現とともに始まり、以来ずっと続いている。
●人口構成
風土病に対する自然免疫や感染症に対する抵抗性などの「身体的に有利な変化」、また模倣、教育、人的資本への投資といった「文化的に有利な変化」が起こることで、人口構成の大部分が、技術の変化を加速させる特性を持った人間たちへと移っていった。
3 産業革命と成長爆発
歯車の力、そして産業革命によって、ついに人間社会に劇的な変化が訪れた。平均寿命が大幅に伸び、乳幼児死亡率が急落した。このとき起こっていたのが、有史以来類例のない、技術の進歩の驚異的な加速だった。蒸気機関に代表される工業技術、陸・海・空の輸送、通信、化学、農業、軍事、金融……。人類の活動の事実上すべての分野が、この技術革新の時代にすっかり変容したのだ。そして教育の対象が一般市民にまで広がることで、技術と文化のさらなる変化に拍車がかかった。(工業化が進展するにつれ、読み書きのできない労働者よりも技能を持つ労働者の需要が大幅に高まった。)15世紀後半に印刷機を導入した都市は主に転入によってよそよりも人口が増加し、学問や文学の中心地となり、識字能力は立派な市民が身につけるべき高尚な素養として、またそれ自体がもつ価値からも、さらに普及した。
産業革命の闇の部分として知られているのは「児童労働」だが、実が世間で思われているのとは裏腹に、児童労働は産業革命期の新たな現象でもなければ工業化にとって重要な要因でもなかった。そして、児童労働が根絶されたのは、じつはそれを禁止する法律が制定されたからではなかった。
児童労働は、歴史を通して人間社会と切り離しようのない要素だった。生き延びるのが精いっぱいの厳しい生活の中で、幼い子どもはやむなく家事と農業の両方の過酷な労働を担わされてきた。そして、産業革命が起きたときにはすでに、児童労働の広まりは未曽有の規模に達していた。
しかし、工業化の過程で技術が急速に進歩し、教育を受けた労働者の需要が高まるにつれ、親と産業資本家のどちらにとっても、児童労働の収益性は2つの形で次第に減少した。まず、新たな機械の出現によって、それまで子どもにも可能だった単純作業が自動化され、子どもの相対的な生産性が下がり、その結果、親と子の収入獲得能力の差が広がって、児童労働から親が受ける恩恵が減った。また、生産過程での人的資本の重要性が増したため、親が子どもの時間とエネルギーを労働にではなく教育に向けさせるようになるとともに、労働者に適切な技能を身につけさせることに熱心な産業資本家が、児童労働を制限する法律を――そして最終的には児童労働を禁止する法律を――支持するようになったのだ。
技術革新の驚異的な加速、大衆教育の登場、児童労働の撤廃という3つの重要な点で、産業革命はまさに進歩の時代だった。
とは言うものの、相転移とマルサスの罠からの脱出をもたらしたのは、これらの要因が女性や家庭や出産に及ぼした影響だった。
19世紀後半~20世紀には、西ヨーロッパ諸国、アメリカで出生率が30〜50%低下し、人口転換が起こった。技術の進歩が人口の増加を追い越し、生活水準の長期的な向上につながり、停滞の時代は終わりを告げた。
人口転換の引き金となった要因はいくつかある。1つ目が子どもの「質と量のトレードオフ」だ。親の所得が伸び、人数ではなく「質」を重視した教育投資が増えたのだ。子どもの平均寿命の急上昇と死亡率の低下によって、コストよりもリターンが(=人的資本の利益率が)上昇した。
2つ目が男女の賃金格差の縮小だ。1820年のアメリカでは、平均的な働く女性の賃金は、男性の賃金の30%にすぎなかった。それが、1890年には46%になり、第二次世界大戦のころには約60%にまで上昇していた。男女の賃金格差の縮小は女性の教育機会の増加と同時に起こり、かつ、出生率の低下をさらに促進した。
4 工業化の限界
産業革命期に西洋で起こった生活水準の向上は主に、人的資本の形成と急速な技術の進歩が互いに促進し合った結果だった。当時の技術の進歩は工業化だった。しかし21世紀に入ると、工業のような低技能産業では、人的資本の育成や経済成長は促進されず、むしろ抑制された。
フランスを例に考えよう。19世紀半ばに急速な工業化と経済成長を経験した地域は1930年代までは相対的に豊かであり続けたが、21世紀初頭には、工業化が遅れていたほかの地域に追い越されていた。製造業に特化した工業中心地では、短期的には地元住民は裕福になれた。だが、工業化が進んだこれらの地域では、基礎教育だけを受けた労働者に工業部門が依存したことが裏目に出て、時とともに高等教育への投資意欲が薄れ、住民の教育面での向上心がさらに抑え込まれた。低技能の工業地域と高技能の工業やサービス業が中心の地域との人的資本形成での格差は、時とともにいっそう広がった。その結果、かつての工業中心地では高水準の教育を必要とする技術の導入が遅れ、低技能の分野に重点を置く傾向がなおさら強まり、衰退が進んだ。
近年では、ドナルド・トランプ旋風やブレグジットなどの現象に見られるように、世界的に製造業の衰退が進んでいる。新たにバトンを渡されたのは、サービス業や金融業やデジタル技術などの部門だった。
5 グローバル時代の始まり――植民地と貿易による格差
現在、世界の地域間には生活水準の巨大な格差が生じている。そうした格差は、人権や市民的自由、社会や政治の安定性、教育の質、平均寿命、収入獲得能力、近年とみに緊迫している暴力紛争の蔓延などの差に表れている。
ではなぜ、一部の国の人が他の国の住民よりもはるかに多く稼ぐのか?言い換えれば、なぜ一部の国の生産過程は、より優れた技能を持つ労働者やより高度な技術の恩恵を受けているのだろうか?普通なら、成長モデルに従って、先行する先進国と後発の途上国の経済の差は縮まっていくはずであるが、現状そうはなっていない。
その理由の1つは、過去2世紀の間に起こったグローバル化と植民地化の影響だ。工業化の初期に起きた国際貿易の拡大は、工業国と非工業国の双方の発展に重大な、そして非対称の影響をもたらした。工業国での国際貿易の拡大は、比較的技能の高い労働者を必要とする工業製品の生産への特化を促し、推し進めた。こうして技能をもつ労働者の需要が高まったことで、それらの国では人的資本への投資が強化され、人口転換に拍車がかかり、技術の進歩がさらに促され、そうした製品の生産での比較優位性が増すことになった。
それとは対照的に、非工業国での国際貿易は、技能をあまり必要としない農産物や原材料の生産への特化を奨励した。こうした部門では教育を受けた労働者への需要があまりないため、人的資本に投資する意欲が抑えられがちで、人口転換も遅れた。それがさらに、低技能の労働者を相対的に増やし、「技能集約型」の製品を生産するうえで比較劣位性をますます強めることになった。
こうして、工業国では貿易の利益は主に教育の投資に向けられ、それが一人当たりの所得の向上につながったが、非工業国では貿易の利益の大半は多産と人口増加に回されてしまった。そうして2つの国の技術や教育の差がなおさら広がり、格差が拡大した。
6 植民地時代以前――制度による格差
では、そもそも植民地時代以前に存在していた不均衡な発展は、どう説明すればいいのか。
その1つは制度の違いだ。人間社会が大きく複雑になるにつれて、拘束力と強制力のある規範を成文化する必要が生まれた。共通の通貨、財産権の保護、一律に課される法律など、貿易に役立つような制度をやがて発展させた社会のほうが、経済成長をうまく促進でき、人口の規模・構成と技術の進歩との好循環を強化できたことだろう。逆に、貿易や経済に適した制度を整えるのが遅かった社会――専制政治に代表されるような「収奪的制度」の国家――は、後れを取ることになった。
植民地時代には、地理的な特性や病気の蔓延しやすさや人口密度を反映して、収奪的な制度が形成されて存続する植民地もあれば、もっと包括的な制度が広まる植民地もあった。最近の一連の証拠によれば、重要な交絡因子、とりわけ病気の蔓延しやすさや植民者の人的資本が、確固とした定量的結論を妨げている可能性があるものの、こうした制度がかつての植民地の経済発展に多大な継続的影響を与えたことが窺われる。
だが、植民地化されなかった社会はどうだったのか?そうした社会の制度の起源は何なのだろう?
7 制度を支えるもの――文化による格差
社会に行き渡り、世代から世代へと受け継がれる共通の価値観や規範、信念、嗜好などの文化的特性は、社会の発展の過程にしばしば大きな影響を与えてきた。なかでも、家族の強い絆や個人間の信頼、個人主義、未来志向、人的資本への投資の維持に人々を向かわせたり、逆にそれらから遠ざけたりする文化の側面が、長期にわたる大きな影響を経済に及ぼしてきた。
文化や規範は、それぞれの社会が独自の生態的地位や歴史的状況に適応した結果生まれる。そのため各共同体で異なるものだが、あるとき、世界のある地域で劇的な転換が起こり、「成長の文化」が生まれることになった。
文化にまつわる知恵や伝統はそれが生存を助けるからこそ大切にされてきた。そして、そうした知恵や伝統が人々の幸福や健康にどのように貢献しているのかをほとんどの人は深く理解していなかったので、それらの妥当性を疑問視することは進化の観点からは危険だっただろう。
そのため、歴史上の人間社会のほとんどは、技術や哲学や科学の大きな進歩を伴うような、文化の急激な変化には抵抗してきた。文化は変化を受け入れる代わりに、しばしば古い祖先の思慮分別を重んじ、郷愁と理想主義の混じりあった気持ちで遠い過去を敬った。
だが、技術の変化がさらに速まり、とうとう保守主義の利点が失われ始めると、昔ながらの知恵に対する敬意は徐々に衰えていった。
重要なのは、西ヨーロッパの社会が人的資本への投資や男女平等を重んじる文化的特性を取り入れたことだ。それが、人口転換の原動力となり、持続的な成長体制への扉を開くことになる。さらに、それらの社会は個人主義と世俗主義という成長促進型の価値観も、やがて受け入れるようになった。個人主義や世俗主義は、社会にも宗教にさえも縛られず、個人は自分で自分の運命を決める権利をもつべきであるとする考えだ。このような文化の変容は、さらなる技術の進歩につながる政治や経済の制度を樹立するのにも役立った。
そして、技術や社会の変化が速まるにつれ、これらの新しい文化規範や制度的構造は、なおさら有利なものになり、好循環が始まっていった。
8 文化や制度の根底――地理と多様性
では、文化規範や制度的構造の出現を支えたのはなにか。それは地理と多様性だ。
地理は経済の発展に影響を与えてきた。海や航行可能な河川に近いと、交易や技術の普及に非常に優位だ。事実、内陸国の大半は今でも貧しいままである。また、ヨーロッパのような、多くの国に分かれて国家と言語がモザイクのように入り乱れていた国は、中国のように単一中央集権の国と違って競争が促進されるため、技術革新を行ったり制度を状況に適応させたりする文化の誕生を助けていた。
地図上の位置関係だけでなく、土壌の特性もまた制度の出現を支えた。土壌が大規模なプランテーション農業に向いていれば、そこには収奪的な制度が生まれがちだった――そして、搾取や奴隷制度を道徳上むりやり正当化し、そうした制度を補強する、人種差別という文化的特性も現れた。作物の栽培で大きな収量が得られる地理的特性は、より未来志向の考え方をする文化的特性の出現につながり、さらにおそらくは、財産権の保護や契約遵守の強制などによってそうした特性を強化する制度を生むことにもなった。地理的特性は文化や制度や生産性の進化を起動させる究極の力の一部なのだ。
しかし、経済の発展にはまた別の、根本的な力が影響している。それは人間の多様性だ。
地球上で人間の多様性にばらつきがある原因は、6万~9万年前に、ホモ・サピエンスがアフリカ大陸を出発したからだ。次から次へ移動を繰り返すので、アフリカから遠い場所に移動して定住した人口集団ほど必然的に多様性が下がった。人類がアフリカから遠く離れるほど(ヨーロッパ、アジア、北アメリカ、南アメリカと離れるにつれ)、社会の文化や言語、行動、身体の多様性は低くなったのだ。
研究によると、異なる民族集団の経済発展に人間の均質性が影響を与えたことが判明している。都市化率やGDP、ないしは紀元前レベルの人口密度の高さなどの指標を測定した結果、均質性が高い国ほど経済発展が遅れていることがわかった。つまり、社会の多様性は実際に、相反する影響を経済の豊かさにもたらしてきたのだ。
多様性は、社会的な相互作用の中で個人の価値観や信念や嗜好の幅を広げることによって、個人間の信頼を低下させ、社会の結束を弱め、内戦を増やし、公益の提供を非効率化し、そのせいで景気を悪化させてきたことが、調査の結果から窺える。その一方で、社会の多様性の高まりは、経済の発展を促してもきた。技能や問題解決の取り組み方など、個人の特性の幅を広げることによって、専門化が進んだり、革新的な活動でアイデアの「交雑」を後押ししたりし、変わりゆく技術環境に迅速に適応することが可能になるからだ。