音楽が鳴り、舞台が回り出し、木馬が上がったり下りたりしはじめた。昇平はおお、と息を漏らし、脚の間にいる小さな女の子を片手でしっかり押さえた。回転木馬が光を撒き散らしながら夜の後楽園を回る。隣の女の子はときどき馬から片手を離して昇平に手を振って笑う。なんだかとてもよく知っているように感じられる温もり、熱といっしょに伝わってくる重みが昇平の腿と腹のあたりにあった。昇平の腹に体をあずけた小さな娘がとてもかわいらしい高い声で笑い、首をねじって見上げてくる。
ともかくこの娘をしっかりしっかりつかまえていよう。それはとてもだいじなことなんだー。
題名は忘れてしまったが馴染みのあるメロディが流れ、木馬が回る中で昇平はそう考えた。ララララ、ララララ、ラララララ、と口をついてメロディが出てきた。幸福、と呼びたいような感覚が腹の底から立ち上ってきた。
この日何十回目かの振動をしているGPS機能付き携帯電話をコートのポケットに入れたまま、昇平は幼い娘たちと木馬に乗ってくるくると回り続けた。
たいへん困ったことに、ミチコには天性の無邪気さとでもいうべきものがあり、土曜日にパーティーに行けなくなったらわたしの予定はどうなるのよ、という理屈が、いかなる場合も通って然るべきだと考えているのだった。
認知症は静かに遠ざかっていく引き潮のよう。そしてその潮がもう2度と寄せてはこない
「ああ、いいねえ。きれいねえ。」
「やわらかいだろ、母さんに似合うと思ってたんだ」
「あなた、とっても優しい人ね」
屈託なく自分を見つめる母の瞳に映る自分が、もう「息子」ではないことを晴夫は意識する。
それでも母は、嬉しそうに笑いかけ、ねえ、と少し悪戯っぽい表情で続けた。
「私、あなたのことが好きみたい」
晴夫は少し泣きそうな顔で笑いだす。
困った人だよ、まったく。
「そんなことを、簡単に言うもんじゃないよ」
「嫌ね、誰にでも言ってんじゃないわよ」
晴夫は母の頭を抱き寄せる。そうだよ、誰にでも言ってもらっちゃ困るよ。
この「やだ!」というのはなんなんだろう、と、しばしば曜子は自問する。
自分の意思で何かをすることができなくなってきた夫にとって、拒否は最もはっきりした自己表現なのかもしれない。あれをしたいと言えなくなってしまった彼には、NOだけが自分でも確かだと思える意思表示で、その必死のNOに気押されてこちらが要求を引っ込めると、何か達成したような、勝ち取ったような気がするのかもしれない。
夫が認知症になったというと、人はひどく気の毒そうに声をかけてくる。(もう、あなたのことも誰だか忘れちゃってるんでしょ?たいへんねえ)。善意で言ってくれていることは疑う余地もないが、服子はそんな言葉を聞くと、夫のほうをこっそり見て口をひん曲げたくなったものだった。
夫がわたしのことを忘れるですって?
ええ。ええ、忘れてますとも。わたしが誰だかなんてまっさきに忘れてしまいましたよ。
その「忘れる」という言葉には、どんな意味がこめられているのだろう。夫は妻の名前を忘れた。結婚記念日も、三人の娘をいっしょに育てたこともどうやら忘れた。二十数年前に二人が初めて買い、それ以来暮らし続けている家の住所も、それが自分の家であることも忘れた。妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。
それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不倫快なことがあれば、目で訴えてくる。
何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、あるときはさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。
幸いだったのは、夫の感情を司る脳の機能が、記憶や言話を使うための機能に比べて、さほど損なわれなかったことだろう。ときおり、意のままにならないことにいら立って、人を突き飛ばしたり大きな声を出したりすることはあるけれど、そこにはいつも何らかの理由があるし、笑顔が消え失せたわけではない。この人が何かを忘れてしまったからといって、この人以外の何者かに変わってしまったわけではない。
ええ、夫はわたしのことを忘れてしまいましたとも。で、それが何か?
、弱々しいけれどもはっきりした言葉を、曜子は思い出した。
頭も体もあんなに壊れてしまっているのに、夫はいつだって自分の意志を貫きたがる。まるで拒否だけが生の証であるように、嫌なことは「やだ!」と大きな声で言い続ける。意志に反して体を触られるのすらあれだけ嫌がる昇平が、その意志を永久に放棄して、チューブや機械に繋がれて生命を保つことを受け入れるとは、曜子にも三人の娘たちにも思えなかった。
十年前に、友達の集まりに行こうとして場所がわからなくなったのが最初だって、おばあちゃ
んはよく言ってます」
「十年か。長いね。長いお別れだね」
「なに?」
「長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠
ざかって行くから」