あらすじ
認知症を患い、正常な記憶が失われていく父。日々発生する不測の事態のなかでも、ときには笑いが、ときにはあたたかな感動が訪れる。
「十年か。長いね。長いお別れ(ロング・グッドバイ)だね」
「なに?」
「ロング・グッドバイと呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」
東家の大黒柱、父・昇平はかつて区立中学校長や公立図書館の館長をつとめ、十年ほど前から認知症を患っている。
長年連れ添った妻・曜子とふたり暮らし。
娘が三人、長女の茉莉は夫の転勤で米国西海岸暮らし。次女の奈菜は菓子メーカー勤務の夫と小さな子供を抱える主婦、三女の芙美は独身でフードコーディネーター。
ある言葉が予想もつかない別の言葉と入れ替わってしまう。
迷子になって遊園地へまぎれこむ。
入れ歯の頻繁な紛失と出現。
記憶の混濁により日々起こる不測の事態――しかし、そこには日常のユーモアが見出され、昇平自身の記憶がうしなわれても、自分たちに向けられる信頼と愛情を発見する家族がいつもそばにいる。
認知症の実父を介護した経験を踏まえて書かれた短編連作。
暗くなりがちなテーマをユーモラスに、あたたかなまなざしで描いた作品は、単行本発表時から大きな話題になり、中央公論文芸賞や日本医療小説大賞にも選ばれた。
映画化決定!
解説・川本三郎
感情タグBEST3
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「長いお別れ」=ロンググッバイ
「少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから。」
介護を経験したことはないが、この本のおかげで擬似体験させていただいた。実際の介護とはもっと、言葉にならない、経験した人にしか分からない事がたくさんあると思う。タイトル通り、本当に長い、長いお別れというか、戦いというか。3人の娘たちの、配偶者である妻の、全てが「遠く」なっていく痴呆症である本人の、気持ちがじんわりと伝わってくる。自分の立場や未来を想像しながら読んだ。切ないなぁ。でもこうして人生は順番に回って行くのだなぁと感じた。
Posted by ブクログ
ある人物がどういう人だったかという「評価」は、その人が生涯を終えた後にしかできません。
なぜなら、生き続けている限り、評価すべきその人の「全体」が決まらないからです。
人は「一生」という単位が定まった後に「あの人は〇〇な人だったねえ。」と評価されます。
では、この小説のように、ばりばりと活躍していた中学校の校長だった人が、生きている途中から認知症になって家族のことさえ分からなくなっていく10年間を過ごしてから生涯を終えた場合、彼の「一生」を評価する時には、その10年間を「一生」に含めて評価するのが適切なのでしょうか、それとも適用除外して評価するのが適切なのでしょうか?
それは、人生の価値や意味をどのように考えるか、ということにも繋がるのかなとも思います。
この作品のタイトルは「長いお別れ」。
もとの本人が少しずつ違う人になっていって亡くなることをそう表しています。英語ではlong goodbye。
突然にお別れすることになる人もいれば、この小説の主人公のように「長いお別れ」となる人もいます。
この作品を通して、人の「一生」の評価(理解)について考えてしまった わたしなのでした。
(そもそも家族からの評価と、他人からの評価とは、違うものだと思いますが。。)
(映画も素晴らしかったです。山崎 努さん、松原智恵子さん、蒼井 優さん、竹内結子さん。凄かったぁ♡)
〔作品紹介・あらすじ〕
かつて中学の校長だった東昇平はある日、
同窓会に辿り着けず、自宅に戻ってきてしまい、
心配した妻に伴われて受診した病院で
認知症だと診断される。
昇平は、迷い込んだ遊園地で出会った幼い姉妹の相手をしたり、
入れ歯を次々となくしたり、
友人の通夜でトンチンカンな受け答えを披露したり。
妻と3人の娘を予測不能なアクシデントに巻き込みながら、
彼の病気は少しずつ進行していく。
そして、家族の人生もまた、少しずつ進んでいく。
認知症の父を支える妻と娘たちが過ごした、
あたたかくも切ない、お別れまでの10年の日々。
Posted by ブクログ
認知症になった昇平と家族の話。
夫昇平を支える妻の曜子。
そしてその娘たちとそれぞれの家族。
徐々に記憶を無くしていき体力も無くしていく昇平。
老老介護を心配する娘たち。
しかし深刻すぎず重くなりすぎないタッチで描かれていました。
Posted by ブクログ
ブク友さんのどなたかのレビューを拝見して知った本ですが、どなただったのかわからなくなってしまいました。ごめんなさい。
中央公論文芸賞
日本医療小説大賞
W受賞作
沁みました。
タイトルの『長いお別れ』の意味がわかるとつらくて涙が出そうになりました。
この小説の主人公は元中学校の教師で校長も務めた70歳の東昇平。
認知症を患うところから最期のお別れまでの十年間を描いた作品です。
家族は妻の曜子と娘が三人います。
妻の曜子も後期高齢者の老々介護です。
以下、ネタバレ多少ありの感想です。
お気を付けください。
昇平の家族が最期に病院で「人工呼吸器と胃ろうはつけますか」と訊かれるところが、あまりにもつらくて苦しくてむごくてたまりませんでした。
認知症という病気は罹った本人も家族もなんでこんなに苦しいのかと思いました。
私の母も認知症と診断されてそろそろ1年経ちますが、こんなむごい未来が待っているのかと思うとぞっとしました。
最後に川本三郎さんの解説「帰ってゆく父」を読んだらまた泣けました。
「帰ってゆく父」より引用します。
孫は校長に祖父の死を告げる。
自分の祖母も最後、認知症になったという校長は認知症のことをアメリカでは「長いお別れ」(ロンググッドバイ)というと語る。「少しづつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」。
「長いお別れ」という言葉で語られることで認知症は「病気」や「試練」から「詩」になる。人間の領域から神の世界へと移る。
Posted by ブクログ
認知症だと診断された中学の校長だった東昇平を中心に彼の妻や3人の娘たち、そしてその旦那や孫たちが織りなす物語。
どんどん実社会がわからなくなっていく昇平を中心に暖かな話がぽんぽんと続いていきテンポよく読める作品であった。
最初の話は家がわからなくなり徘徊するようになってしまうところから始まり、どんどん物語が進むにつれて、症状が進んでいく。物語の進み方もいきなり年が飛んだりするが、それもまた自然に読めてしまう作品だった。
Posted by ブクログ
これは今年1番読んでよかった小説になりそうです。(6月時点)そのくらい、素晴らしかった。
介護士をしておりますが、認知症の方の変わりゆく様子や発言などがすごくリアルでした。ご本人を取り巻く家族や周囲の人々の感情も、やはり当事者(中島さん)の方ならではのリアルな表現で惹き込まれました。
最後も、とても良かったです。
認知症の方が周りにいる方だけでなく、認知症とはどういうものか知るための1冊としてもとても良い本だと思いました。
介護福祉士で良かったと、そう思える本でした。
Posted by ブクログ
いい話しでした。
ボケていく中学の校長だったお父さん
いいひとだったんだなあ!
と思いました。
必死で世話するお母さんは 私と近い
私も何人も同時に介護して必死だった時は こんな風でした。
娘たち3人も孫も みんないいこですね。
最後に学校に行かなくなったタカシという孫に
アメリカの校長先生が
どんなことでもいい。君の話しをして!
という。
タカシは おじいさんが亡くなった話しをする。
そうしたら 校長先生が プライベートな話しをしてくれてありがとう。光栄だったよ。
痴呆でゆっくりとあの世に行く人のことを ロンググッドバイ というんだそうだ。
レイモンドチャンドラーの小説みたいだけど。
この校長先生が自分の話しをちゃんと聴いてくれた
っていうことが この子の人生を支えるんだろうね。
ボケた人を見送る話しはいっぱいあるけど いい話しでした。
Posted by ブクログ
今はこの立場でこれを読んだ。後10年、20年すれば今度は当事者として問題に対峙しなければならないのだろう。そうなった時に私は夫の面倒を曜子のように見れるのだろうか?反対に私が認知症になったら夫は私の面倒を見てくれるのだろうか?早めに介護体制の整った施設に終の住処を求めるか?
Posted by ブクログ
認知症を介護する大変さが伝わり、これからそれに関わっていかなければいけないのだと思い気持ちに。
その「忘れる」という言葉には、どんな意味がこめられているのだろう。夫は妻の名前を忘れた。結婚記念日も、三人の娘を一緒に育てたこともどうやら忘れた。二十数年前に二人が初めて買い、それ以来暮らし続けている家の住所も、それが自分の家であることも忘れた。妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。
それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不愉快なことがあれば、目で訴えてくる。何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、あふときはさほど強くなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。
この部分がすごく心に残った。忘れるとは何か、考えてしまう。
Posted by ブクログ
年老いた親を持つ者にとってはまさに悪夢である認知症。
見ないでいられるものなら見たくない親の姿である。
明るい母を中心に認知症の父、東昇平を最後まで温かく見守る家族の話だ。
実際の身に起きれば憤懣やる方ない認知症の症状も、チャーミングな母と自立した娘たちは、面白おかしくひとつひとつやり過ごしていく。
愛情を注ぎたい妻である母、それでもやはり寄る年波には勝てないもどかしさ、それがとても温かく切ない。
クスリとしながら涙がポロンと落ちるそんな作品。
Posted by ブクログ
祖母・母・父と、代々脳疾患による認知症を患った血筋に生まれた私にとって、この物語は決して他人事ではありませんでした。ときに父・昇平に、ときに妻・曜子に、そして娘たちに感情移入しながら読み進めました。
どんな状況に置かれても、前向きさを失わずにいたい、そのためにも今を一生懸命生きよう、そんな思いをあらためて強くしてくれる一冊でした。
Posted by ブクログ
元中学の校長だった東昇平が認知症になり、かれこれ10年に渡り、家族で支えていく話。
読んでいて自分の父親の介護を思い出した。時にはワガママを言う父に腹を立て、弱っていく父を見て何とも言えない気持ちになった。そしてこの話は私が経験したことであった。いつまで続くのかと思っていた介護もある日、突然父が旅立ってしまうと今度はもっとやってあげられたんじゃないかという罪悪感に苛まれた。
人生100年時代。子供に迷惑をかけたくないと思いつつ、私の老後はどうなっていくのかと不安になってしまったな。
Posted by ブクログ
妻である曜子さんが明るく強いので、そこまで深刻な雰囲気でなくたまにクスッとしながら読めましたが、、、実際の介護はもっと大変なんだろうなと思いつつ。
記憶がどんどんなくなって、体力も知力も衰えていく。
親が、または自分がそうなるかもしれないと思うとなんだかとても重く考え始めてしまう。
曜子さんの飄々とした感じ、見習ったら少しは乗り越えやすいかもな。
Posted by ブクログ
介護サービスのあれこれ、自宅介護の大変さ、医療との関わりなど家族それぞれの立場からの思いが縦横に書き込まれています。タイトルは認知症のことを英語でロンググッドバイと言うことからつけられたそうです。胸に迫ってきました。人ごとではないです。
Posted by ブクログ
外じゃなかったら泣いていた
文体は好みというわけじゃないけど、物語として好き。10年間の変化が切ない。認知症の近しい人がいるので、私の周りを見る目が変わった。登場人物それぞれに真摯に向き合って心境が綴られているのがよかった
妻が椎茸だったころを読んで他に読みたいと思っていた作者さん。独立した短編集のほうが好きかもしれないが、読んで後悔はない。
Posted by ブクログ
認知症が発症してから家族に迫られる介護の日々の十年。だんだん会話がままならなくなる、わがままを言い始めるリアルな生活なのだが何故かそんなに重く感じない。世話をする曜子さんがそれに無理してないように感じるからなのだろうか。愛情とか飛んで憎しみが募ってきそうなのに。実際はかなり大変なのも想像できるのだが、何故かこのままこの生活をみていたくなる。
そうくりまるなよ。語彙もなくなってきて日本語にもならなくなっても、何故か娘と会話が通じているようで何かを超えた愛なのかと思わされる。
あっさりと十年が終わってしまった時も、リアルにこんな感じなのかも。
娘達とほぼ同年代の自分にとっても近い未来に訪れるのかと身に迫られた作品だった。
Posted by ブクログ
老老介護の問題が赤裸々に描かれています。自分がアルツハイマーになったら、どうなってしまうのか?を考えさせられた。それにしても、昇平さんはいい奥様をもって羨ましい!
Posted by ブクログ
中島京子さんの作品を読んだのは、本書『長いお別れ』が初めてです。
いつも立ち寄る本屋さんの文庫コーナーで、たくさんの本が平積みされていましたが、圧倒的に私の目を惹いたのが本書でした。
どこに目が留まったのか?
それは、「心ここにあらずといった表情で、椅子に腰かけている年配の男性」が描かれている表紙と、『長いお別れ』というタイトルでした。
帯には、次の文面が書かれています。
認知症の父と
妻、娘たちが過ごした
お別れまでの切なくて
あたたかい日々
なるほど、表紙の男性は認知症を患っているのだなと分かりました。
次に、裏面のあらすじには、
妻と3人の娘を予測不能なアクシデントに巻き込みながら、病気は少しずつ進行していく。あたたかくて切ない、家族の物語。
とあり、そのまま手に持ってレジに向かいました。
先ず、このような小説を読むと「家族の絆」を改めて感じさせてくれるのですが、それと並行して、家族(本書では妻と3人の娘たち)それぞれの生活の中での介護という(綺麗ごとではない、お金、時間、肉体的・精神的な負担)現実を、どのようなバランスで両立させることが最良なのか?人生の幸せとは?家族とは?
をいつも考えさせられます。(答えは出ません)
次に、本書で最も印象的だったのは、夫への妻の愛情と献身(嫉妬すら感じるほど)です。
自分よりも(失明寸前になろうとも)何よりも、夫の身が最優先であり、夫を理解し、夫を本当の意味で助けられるのは自分しかいない(介護に当たっては娘にも闘争心を燃やしまうほど)という姿には、心を打たれました。(男性側の勝手な想いかもしれませんが)
また、解説にも書いてありましたが、夫(父)の死をリアルには描写せず、海外に住む中学生の孫と、その中学の校長先生との面談の場面で締めくくるラストにはとても感銘を受けました。
亡くなった夫(父、祖父)が、中学校の校長先生を務めていたことと、単なる偶然では勿論ありませんね。
ラストの場面で、事実を聞いた校長先生が
「『長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。
少しずつ記憶を失くして、ゆっくり遠ざかって行くから」
と孫に言うのですが、その時の校長先生は祖父だったのではと思ってしまいます。
Posted by ブクログ
アルツハイマー型認知症、老老介護、
なかなか重めのテーマだけど、たまにクスッと笑いながら軽く読めた。
私、親元離れて上京して就職して、自分のこれからの人生プランだって白紙に近くて、どうなるのやら、どうするのやら。
Posted by ブクログ
少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかっていく認知症という病気は、アメリカでは長いお別れ=ロンググッドバイというらしい。もう何年も前になるが、義母は認知症の義父を一人で介護していた。孫を忘れ、嫁を忘れ、息子を忘れ、最後の最後には妻もわからなくなってしまった。よく義母が「説得より納得だ」と言っていたのを思い出す。
本書では、妻である自分のことを忘れてしまった夫の老老介護が淡々と書かれている。自分はこんな風に向き合って寄り添うことができるのかな。
ええ、夫は私のことを忘れてしまいましたとも。で、それが何か?
Posted by ブクログ
認知症の話だったが、なんとなく温かい気持ちになった。
特に人生がうまくいかないときに認知症患者の父親と関わる娘の関係が印象的であった。意味の無さない言葉を発する父親に対して受け止める、言葉をそのまま受け止めるだけで、動揺している父親が落ち着く。
関わり方が大事だとわかった。
また、認知症は長いお別れとアメリカでは言われている。ずっとずっと時間をかけて忘れていくから。
Posted by ブクログ
認知症を抱える家族。老々介護。月日とともに増えていく負担。他人事とは思えない内容でうなずく場面が多々あって。目を背けたくなるような現実と向き合わざるを得ない日常に、家族とは介護とは尊厳とはと、改めて考えながらの読書だった。出来る範囲でやれることをやるしかないのだろうが、その線引きが各人で違うこともまた難しいことなのだろう。しみじみと考えることが多かった。
Posted by ブクログ
読みながら、認知症だった祖父を思い出した。
祖母もまた、妻の曜子のように献身的に介護につとめていた。
東家族の日常と
自分の記憶を重ねて読んで
そうそう家族のあたたかさって、こういうことだよなと改めて感じ、
やわらかな気持ちになった。
Posted by ブクログ
認知症を患うお父さんの世話に向き合う妻と3人の娘達。妻の献身的支えは、愛情から生まれているのに加え、無意識の内にそれは当然の務めとの認識がある様に感じる。
彼女達は、それでも公的支援としてヘルパーさんやショートステイ等を適宜利用していたと思うが、お父さんがかなり弱って来てから医者が「最後は娘さんの頑張りが必要」と覚悟を求める場面があり、ここには少々違和感を感じた。出版が2018年という事なので、家族で面倒見るのが当然、との意識は今時点よりも強かったのだろう。
Posted by ブクログ
認知症の家族を支える妻と娘たち。
ゆっくり進行していく症状と介護の現実の描写がとてもリアルでした。
決して他人事ではない話だけに、時々胸が締めつけられそうになった。
Posted by ブクログ
曜子さんが明るいので、重い内容なのに読みやすかった。
在宅介護、ここまでメンタル保ちながらうまくやれるものかな?介護する側が参ってしまいそうだけど。
網膜剥離の手術後、何とか早く治そうと医師の言葉通りうつ伏せを頑張る曜子さん、めちゃくちゃ可愛らしかった。一緒に退院できてよかったね。
ラストシーンも良かった。
「長いお別れ」って、良い表現だな。
Posted by ブクログ
同じような年代の両親を抱える身としてはホラー。この本のケースは暴力とかがないからまだマシで、それでも各家庭で納められる問題か、これからに向けていつまでも目を背けられる訳じゃないことを認識させられる。
女性らしい文章でした。
Posted by ブクログ
音楽が鳴り、舞台が回り出し、木馬が上がったり下りたりしはじめた。昇平はおお、と息を漏らし、脚の間にいる小さな女の子を片手でしっかり押さえた。回転木馬が光を撒き散らしながら夜の後楽園を回る。隣の女の子はときどき馬から片手を離して昇平に手を振って笑う。なんだかとてもよく知っているように感じられる温もり、熱といっしょに伝わってくる重みが昇平の腿と腹のあたりにあった。昇平の腹に体をあずけた小さな娘がとてもかわいらしい高い声で笑い、首をねじって見上げてくる。
ともかくこの娘をしっかりしっかりつかまえていよう。それはとてもだいじなことなんだー。
題名は忘れてしまったが馴染みのあるメロディが流れ、木馬が回る中で昇平はそう考えた。ララララ、ララララ、ラララララ、と口をついてメロディが出てきた。幸福、と呼びたいような感覚が腹の底から立ち上ってきた。
この日何十回目かの振動をしているGPS機能付き携帯電話をコートのポケットに入れたまま、昇平は幼い娘たちと木馬に乗ってくるくると回り続けた。
たいへん困ったことに、ミチコには天性の無邪気さとでもいうべきものがあり、土曜日にパーティーに行けなくなったらわたしの予定はどうなるのよ、という理屈が、いかなる場合も通って然るべきだと考えているのだった。
認知症は静かに遠ざかっていく引き潮のよう。そしてその潮がもう2度と寄せてはこない
「ああ、いいねえ。きれいねえ。」
「やわらかいだろ、母さんに似合うと思ってたんだ」
「あなた、とっても優しい人ね」
屈託なく自分を見つめる母の瞳に映る自分が、もう「息子」ではないことを晴夫は意識する。
それでも母は、嬉しそうに笑いかけ、ねえ、と少し悪戯っぽい表情で続けた。
「私、あなたのことが好きみたい」
晴夫は少し泣きそうな顔で笑いだす。
困った人だよ、まったく。
「そんなことを、簡単に言うもんじゃないよ」
「嫌ね、誰にでも言ってんじゃないわよ」
晴夫は母の頭を抱き寄せる。そうだよ、誰にでも言ってもらっちゃ困るよ。
この「やだ!」というのはなんなんだろう、と、しばしば曜子は自問する。
自分の意思で何かをすることができなくなってきた夫にとって、拒否は最もはっきりした自己表現なのかもしれない。あれをしたいと言えなくなってしまった彼には、NOだけが自分でも確かだと思える意思表示で、その必死のNOに気押されてこちらが要求を引っ込めると、何か達成したような、勝ち取ったような気がするのかもしれない。
夫が認知症になったというと、人はひどく気の毒そうに声をかけてくる。(もう、あなたのことも誰だか忘れちゃってるんでしょ?たいへんねえ)。善意で言ってくれていることは疑う余地もないが、服子はそんな言葉を聞くと、夫のほうをこっそり見て口をひん曲げたくなったものだった。
夫がわたしのことを忘れるですって?
ええ。ええ、忘れてますとも。わたしが誰だかなんてまっさきに忘れてしまいましたよ。
その「忘れる」という言葉には、どんな意味がこめられているのだろう。夫は妻の名前を忘れた。結婚記念日も、三人の娘をいっしょに育てたこともどうやら忘れた。二十数年前に二人が初めて買い、それ以来暮らし続けている家の住所も、それが自分の家であることも忘れた。妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。
それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不倫快なことがあれば、目で訴えてくる。
何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、あるときはさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。
幸いだったのは、夫の感情を司る脳の機能が、記憶や言話を使うための機能に比べて、さほど損なわれなかったことだろう。ときおり、意のままにならないことにいら立って、人を突き飛ばしたり大きな声を出したりすることはあるけれど、そこにはいつも何らかの理由があるし、笑顔が消え失せたわけではない。この人が何かを忘れてしまったからといって、この人以外の何者かに変わってしまったわけではない。
ええ、夫はわたしのことを忘れてしまいましたとも。で、それが何か?
、弱々しいけれどもはっきりした言葉を、曜子は思い出した。
頭も体もあんなに壊れてしまっているのに、夫はいつだって自分の意志を貫きたがる。まるで拒否だけが生の証であるように、嫌なことは「やだ!」と大きな声で言い続ける。意志に反して体を触られるのすらあれだけ嫌がる昇平が、その意志を永久に放棄して、チューブや機械に繋がれて生命を保つことを受け入れるとは、曜子にも三人の娘たちにも思えなかった。
十年前に、友達の集まりに行こうとして場所がわからなくなったのが最初だって、おばあちゃ
んはよく言ってます」
「十年か。長いね。長いお別れだね」
「なに?」
「長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠
ざかって行くから」