中島義道のレビュー一覧
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タイトルだけを見ると、なんだか犯罪心理分析のような本かと思ったが、本書は「カント哲学」の「根本悪」をわかりやすく解説している本だった。
カントというとわかりにくいイメージがあり、またこの「根本悪」という言葉も性悪説?なのかとやや批判的に思っていたのだが、筆者の言葉をかりると、カントがいうところの「悪」は、キリスト教の原罪よりも、より”人間的”なのだ。
筆者は、カント哲学をわかりやすく解説しつつ、我々に考えるヒントを与えてくれているようだ。
「善く生きること」を求めるがゆえ、悪に陥るという矛盾した構造に悩むことを、筆者は力強く肯定的に問いかけている。
この本はカント哲学の入門書として最適な一冊だと思う。 -
Posted by ブクログ
「奴隷的サービス」と「醜と不快の哲学」が特に面白かった。ある食堂で、「72番さんです。お待たせしました!」と不快な物扱いをされたことを思い出す。「72番の札でお待ちのお客様、お待たせいたしました」だろ!この店員がいる時には、そっと店を後にする私...。
「たとえどんなによいことでも、人々の言葉が一律になってしまったら、用心しなければならないと思う。そのことを、われわれは歴史からうんざりするほど学んできたはずである」
「「他人の気持ちがわかる人」とか「他人の痛みがわかる人」というスローガンをもとに、他人の感受性を尊重する教育がなされているように見える。だが、この場合、じつは「わかる」内容は、感受性のマジョリティが「わかる」ことに限定されているのだ」 -
Posted by ブクログ
日本的スピーチの怒りに関して書かれている頁は痛快だった。私は結婚式とかでよく聞く「諸先輩方を差し置いて誠に僭越ながら・・・」みたいなのが大嫌いなので、読んでて爆笑だった。
ルール違反者を徹底的に追跡するドイツ人の話、中島先生が違法自転車をぶっ倒して歩く話などは本当におもしろい。
しかし、子供に対するプールサイドを走るなとかの日本の注意喚起に関しては、事故が起こってからじゃ遅いのでそれはうるさくてもいいんじゃないかな?と思った。欧米(米はわからないが)ではそこも自己責任になるのかもだけど。特にプールの場合、中には泳げない子供だっているわけだし、万が一ぶつかって落ちて溺れたなんてことがあれば大変だもんなぁ。 -
Posted by ブクログ
著者の中島義道はドイツ哲学を専門とする哲学者で、本書にも出てくる通り、「戦う哲学者」との異名を持つ。
本書は、「音漬け社会・日本(=うるさい日本)」に対して、著者が様々なところに寄せた告発文を素材にまとめたもので、1996年に発刊され、その後いくつかの出版社で文庫化されている。単行本出版時の反響は大きく、朝日新聞の「天声人語」、NHKのラジオ番組、The Japan Times、Chicago Tribuneなどに取り上げられたという。
内容は、日本の社会が如何に「音漬け社会」となっているかを、駅、電車、バス、商店街、デパート、銀行、竿竹屋、広報車、海水浴場、プール、防災無線、美術館、京都や日光の社寺等を挙げて、これでもかと語り、更にそれを辞めさせるための自身の戦闘の様子と結果を、これまたこれでもかと綴っている。因みに、中島氏が問題にしている「音」とは、「エスカレーターにお乗りの際はベルトにおつかまり黄色い線の内側に・・・」、「当駅は終日禁煙です。おタバコはご遠慮ください」、「駆け込み乗車は危ないですからおやめください」、「切符をお取りください/切符は回収されます」、「まもなく終点でございます」、「足元にお気を付けください」、「危険物の持ち込みはご遠慮ください」、「走行中急停車することがありますので、お立ちの方はつり革や手すりにおつかまりください」、「カードをお入れください。現金及びカードの取り忘れにご注意ください」、「準備運動をしてから泳ぎましょう」、「置き引きに注意しましょう」、「ゴミは片づけましょう」、「当日券をお求めの方はこちらに一列に並んでください。券をお持ちの方はそのままお入りください」等々の、実質的な効果のない「騒音」である。
そして、その「音漬け社会」を作っている真の原因は、いまや日本を完全に支配している、マジョリティの考えをお互いに察する「優しさ(思いやり)」であるが、それは実はいじめを生み出す最大の原因にもなっており、「音漬け社会」を解体するためには、「察する」ことを縮小し、「語る(対話をする)」ことを拡大する必要があると主張している。
本書で取り上げられる「音」に対する私の感覚は、相対的には中島氏に近く、爆笑しながらも頷ける部分は少なくなかったのだが、その元凶については、本書でも触れられている「自己責任意識の欠如」にあるように思う。
中島氏が称賛する(無駄な音の存在しない)銀座や鎌倉の小町通りのような街・場所が広がれば、それは素晴らしいことである。
(2017年5月了) -
Posted by ブクログ
賛否分かれるかもしれませんね。
うちは賛成です。
悪いことを悪いといけないのは
おかしいことだと思うんですよね。
他人をしかられることを嫌と思っているのは
はっきりいって自己保身なんですよね。
しかられなければ何がいけないことも
わからない。
だから本当にしかってくれる人
目を向ける「おせっかい」って大事だと思いますよ。
うちはそういうのがあったから
見た目はかなりあれだけれども
しょうもないことはやらかさないですし。
この本が賛成の理由は
CMや注意書きの項目。
こんなん言われなくてもわかるでしょ?
どれだけ考える力ないのと
同じ人間としてあきれてしまいました。 -
Posted by ブクログ
過去というものは、あっという間に過ぎ去ってしまう。客観的時間と実感には大きな隔たりがあり、その点を理解することが時間に対する了解の第一歩ともいえる。
過去における実感を未来に投影した場合、人生とははかないものであるという悲観的な、人生の短さに対する嘆きが生まれてくる。
客観的時間とは、認識によって生み出されたものであり、認識とは、自己とは他のものに対する態度。つまり、自己の概念を、自分がいま見えているものという風に拡張すると、他者とは今見えていない、実感できないもの、それは不在ということになる。
過去の認識とは、とりもなおさず、不在への態度によって紡がれる。
屁理屈のような論理だが、実は人間は自分ひとりだけだと過去について証明できない。過去は人間の想起によってのみうかびあがるが、その想起自体は現在行われているゆえに、単純に過ぎ去ったものという感覚のみをまとった現在の運動なのである。
ジョージ・オーウェルの「1984年」にもあるように、過去の出来事というものは、他者が嘘をつけば簡単に改竄されてしまう脆弱性を持つ。
人間は忘れることができるため、実はそのことが起こっていなくても、起きたと多くの人に言われれば「自分が忘れているだけで起きたのかもしれない」と考えてしまう。
自分は忘れる可能性があるという経験が、過去に対する認識を押し広げる。つまり、過去を可能性の領域としてとらえるのである。そうとらえているからこそ、自分が見たことのない、実感したことのない人類の長い歴史を人は信じることができるのである。
人間は忘れるからこそ信じることできるのである。もう一つは、自分のいうことを信じてほしいという期待もあるだろう。先ほども述べたように、過去に起きたことは、厳密には自分一人では証明できない(このことは、多くの精神病の映画で扱われている。例えば、ビューティフル・マインドなどは最たるものだろう)。しかし、お互いその事実を二人そろって無視することによって、お互いを信じているのである。社会で日常的に行われている共犯関係を過去という不在に対する態度に拡張させたとき、人は過去を信じるようになる。そのような無意識の努力によって人は存在が証明されていない過去の存在を信じる。
哲学とは、このような確実ではないものを消去していく態度、デカルト的な態度であるように思える。確かに、それによって導き出された結論は嘘ではないが、その結論を引っ提げては社会という二人以上の人間のいる空間では生きていけない。しかし、今、時間にて証明された、不在への態度という人間的慣習は、時間のみならず、多くの人間行動の基礎に立つように思える。それは、人間の信じるという行動に重大な示唆を与えるものであるからである。人間は信じる生き物であり、まさしく信仰によって、人を殺しさえしてしまう生き物であるのは、こうした不在に対する態度が根本にあるのだと思う。時間論はまさしく、他者論でもあり、そこに深みがあるのだろう。