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「何か質問は?」―教師が語りかけても沈黙を続ける学生たち。街中に溢れる「アアしましょう、コウしてはいけません」という放送・看板etc.なぜ、この国の人々は、個人同士が正面から向き合う「対話」を避けるのか?そしてかくも無意味で暴力的な言葉の氾濫に耐えているのか?著者は、日本的思いやり・優しさこそが、「対話」を妨げていると指摘。誰からも言葉を奪うことのない、風通しよい社会の実現を願って、現代日本の精神風土の「根」に迫った一冊である。
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Posted by ブクログ
政治の停滞と、ここで語られている対話を殺してきた「やさしさ」という暴力にはつながりがあるだろう。 ただ意識改革を訴えるだけではもはや遅い。 実践として、これを展開していくことが求められる。やれることからコツコツと。 「それって野暮じゃないか?」は、対話を殺す。しかしそれによってお互いが守られていると...続きを読むいう平和もある。思いやりを利己主義の変形として捉えることには納得だが、かといって平和を簡単に犠牲にできるほど私の自己愛は脆弱ではない。 やはりまずは装置から考えていきたい。
社会的弱者は言葉を否定され続け、言葉を語ることを諦めてしまう。日本の和の精神が言葉の足かせになっている。日本はルール違反に対しても寛大だが、他人の苦境も見て見ぬふりをする。要するに個人と個人のコミュニケーションをほぼゼロに留めておく国だ。日本人は客観的な立場から論理を使って語るのはそれほど苦手ではな...続きを読むい、しかし、主観的に語る対話、(ここで言う「対話」とは各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観に基づいて何事かを語ること)はにがてである。日本人は(一般的に)言葉を額面通りに受け取る関係よりも、発話者の意図と言葉の字面が微妙にずれることを了承するのに独特の美学をもっている。しかし、その美学にかまけて言葉や態度を軽視してはならない。対話を遂行するものは、「客観的態度」「主観的態度」の間を行く。自分の固有の状況・体験・感受性をまるごと引きずりながら、しかも客観的心理を求めて語りだすのだ。限りないわからないわかったりの揺れがあり、果てしない「ここまではわかった、だが、ここからはわからない」という限定が続く。この営みこそ対話である。生み出された対立をどう統合するのかというヨーロッパ的思考に対して、そもそも対立を避けようという日本的考え。それを認知しない考え。それを殺す考え。
オランダに行って、オランダに関する本を色々読んで、 どうしてこの国の人達は、反対派の人達と協働で何か事を起こしたり出来るのだろう? 対話をすれば良いと言っているが、対話ってそんな効果があるのだろうか。 と思っていましたが、 この本を読んで自覚した。自分を含め日本には普段は「対話」がない。 対話がなか...続きを読むったから、オランダで起こっている事柄が腑に落ちきれていなかったのだ。 この本は20年前に書かれているが、今は少しずつ変わってきているかも。 日本では「対話」をするためには、それが出来る場を敢えて設定してあげることが必要で、 カフェ型トークなど「対話」を生ませる様々な試みが開発、実践されつつあるのかな。
対話を会話と勘違いすることなかれ。 「思いやり」や「優しさ」といういい言葉の裏側には対立を避ける自己利益の追求があった。本来的にそれらは他者へ純粋に向いているべきであるのに。対話はそのような感情に縛られず、先入観を除外して論理的に取り組むべきもの。自己責任なのだ。
地位や年齢や知識を脱ぎ捨て、自分固有の実感に基づいて言葉を発すること。これが就職した会社でいかに排除されているかを、今一度かみ締めた。<対話>から目を背けて人並みの生活を手に入れたとしても、そこで「生きる実感」は薄いという確信がある。自分は「純粋に」どう感じるのかを、生涯大切に自覚し、機会を作って発...続きを読む信していきたい。
「空気」に従わないこと、自己主張をするということの大切さです。 私語が続くと、教室を出ていく中島先生。 しゃべらない学生に対して「いいかげん黙るのはやめなさい!」という中島先生。 カンニングをした学生と徹底的に対話をした話にはうるりときた。 意味のないきれい事の標語に対して怒りを覚え、 放置自転車...続きを読むに神経質なまでにキレて警官とまでやりあう中島先生 という、前半の話は笑いが止まらなかったが、 「思いやりの暴力」や「空気」に逆らうこと、そして対話とはどういうことかを叩きつけられたような気分である。 ディスカッションや討論とは違い、自分を背負って真理に開かれることが「対話」とも言える。そして、空気を壊すことで、傷つくことも一身に引き受ける決断。 弱者の声を押しつぶすことなく、耳をすまして忍耐強くその声を聞く社会。空気に流されて責任を回避するのではなく、あくまでも自己決定し、自己責任をとる社会。 対立を大切にしながら、そこから新しい発展を求めていく社会。 ひねくれものの義道先生にしては、本当にスッキリした読後感でした。
もはや常識となった「空気を読む」という行為を始め、人間関係や社会現象などを「対話(対立)」という視点から見て書かれた本。 本書を通して、「もっと対話をすべきだ」と言われているように感じた。 「対話」の定義を、「自分の意見を主張することで人と対立した場合に会話によってお互いの意見を理解しようとする行...続きを読む為」としたとき、文面だと穏やかに見えるけれど、実際に遭遇すると口角泡を飛ばすイメージになってしまう。 異なる意見の人に自分の意見を分かってもらおうとして、でもわかってもらえないと感情的になることが予想される。対話の相手が、もう何をやっても壊れない関係ならそんな対話もできると思うが、そうでない間柄の人同士だと、その対話によって関係が悪化することが考えられる。 和を重んじる日本人だからこそ、そうなる前に妥協し、対立を避けるのかもしれない。 または、そうまでして理解してほしい強い意見をもっていないだけだろうか。 興味のあるテーマだったので全体を通してサクサク読めた。
同調圧力が日本人から言葉を発する機会を奪っている。これはいわゆる「空気読めない」問題にも繋がっている。学者先生の著は往々にして読み難かったりするのだが、この本はユニークで大変読みやすかった。
コミュニケーションの典型かつ第一歩は対話である。 しかし日本は、公の場で特定個人を評価あるいは非難することがはばかられる(優しい構造=和の精神)社会であるので対話が成り立ちにくい社会である。一人一人の間の格差が大きければ大きいほど対話によるコミュニケーションは成立しにくくなる。だが、そんな今こそ対話...続きを読むの難しさを再認識するとともに、それにとらわれずに対話を行っていくことが大切である。 なぜなら、対話をすることが、即、「よく生きる」ことにつながるからである。 思えば、プラトンの書いた著作集は全て対話から成り立っていた。 (以下略、中村雄治郎『問題群』に譲る) 【標語と言霊思想】 古来より日本の文化を根底から形成する重要な概念、それは井沢元彦氏らがその著書で論を展開する「言霊」思想である。 昔、アニミズム信仰の時代には、万物に意思があり、そのひとつひとつが力を持つと信じられていた。それは、石、木など、自然界のものから言葉といった人間が作り出したものにまで及ぶ。このうち、物活的な部分は時代情勢や発達した科学の流入によりほぼ捨て去られたが、言葉に力が宿るという言霊思想だけはなぜか今なお根強く残っており、日本文化の大半を形成している。 古い時代、天皇などの社会的強者はこの言霊を使って政治等を行い、それが名残として現代、標語・放送という形であらわれたのである。このような標語を掲げていれば大丈夫というあさましく、単純な言霊的目論みが~無意識的にしても~あるのは間違いないのではないか。 一方、社会的弱者、例えば庶民であるとか、強者に比べると立場が弱い存在はどうかというと、昔も今も変わらず強者の決定にただ従うだけであった。これは、日本における「和の精神」が端的に表れたものである。「和」を保つためには、強者に対して批判は許されない。したがって、多少の不満があっても弱者はただ沈黙するのみ、聞き流すのみなのだ。これゆえ、庶民な日本人はそれが知らず知らず身に付き(遺伝かな??)、「言葉を大切にせず、言葉を「聞き流す」態度を産出している(P72)」のだ。 よって、街頭の標語を見てもただ何も感ぜず、通り過ぎる。あまつさえ、たまにスプレーで落書きしていく。あるいは蹴り倒してストレスを発散する。そのくらいの反応しか我々日本人はしない。「流す」だけで、いちいち標語から何かを得るようなこと、標語に感動することなんて全くないのである。 我々日本人が「言葉を大切にせず、言葉を『聞き流す』態度を持っている」との指摘は決して外れてはおらず、むしろそのことが日本的な形式主義をつくるのに大きく役立っている。標語はその極端に外面を重んじる姿勢が生んだとも言える。 標語は「みんな」に向けられており、「特定個人」に向けられているものではない。したがってそれは形骸化しており、社会的強者による一方的な「暴力※」でもある。 (※大衆に訴えかけることで美を目指すものが、かえって美観を損ねるというパラドックスに陥るような汚い看板や垂れ幕、放送などもある。これが結果として暴力と言われることなのである。) 中島氏はこのような管理標語や管理放送抜きに生きられない社会(=対話のない社会)は恐ろしいと主張する。 ここで中島氏は〈対話〉(※狭義の哲学的対話)のある社会を提唱。 〈対話〉は「各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何事かを語ること(P102)」であるので、すなわち、各自固有のスタンスで語り合うことであるので「異質な諸個人が異質性を保持しながら結合する(P103文は井上達夫『共生の作法』創文社のもの)」こともあり得る。その結合の過程は真理探究の過程であり、したがって〈対話〉には真理への意思が必然的に伴う。 その〈対話〉が日本に存在しないのは思いやりと優しさという二つの暴力的美学が大きく影響しているからである。思いやりや優しさは、他者との摩擦や対立を徹底的に避けるという本質によって我々に真実を語れないようにしてしまう。また、根底的な日本文化、その中でもかたや和の精神などと呼ばれたりする状況功利主義によっても〈対話〉は圧殺されてしまっているのだ。状況功利主義による支配、それは一見「得」に見えるが、実際、大きな「損」なのである。 本当に「得」をするためには、個人個人が対話を行えるよう主義を持って、〈対話〉のある社会をつくらねばならない。 〈対話〉をいくら増やしたところで、日本は欧米のような訴訟社会になりはせず、もう少しはいい社会ができる。〈対話〉のある社会とは、弱者の声を聞く社会であり、空気に支配されない自律を各個人が持った社会である。 すごく面白い日本論、日本人論だった。 ※標語は中国にもあるらしい。ただ、内容はやはり中国らしくって、「祖国を愛せ」だとか。全体主義引きずってますな~。 *** 上は10年以上前に書いた文章なので、いま読み返すと論理が粗く稚拙で恥ずかしい。 でも当時のまま載せます。
一連の不明高齢者問題を目にして、再度読み直したい著作。 <対話>と聞いて「お隣さんどうし声を掛け合う」などということを想像してはいけません。個人主義とは何か、他者理解とはどういうことか、哲学的に深い話です。
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