中島義道のレビュー一覧
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結局死ぬっていう大前提がある。だからその絶対的不幸に比べたら生きている間に起こることなんて問題じゃないし、なにも興味がわかない、感動しないとしても問題にはならない。
まずそのスタンスを忘れないようにしたい。そこでなんで自分はなにも感じないんだ!と悩む必要はないんじゃないか、ということ。
みんな仲良くというマジョリティの生き方に違和感を感じるということは、その生き方が自分にあっていないということか。
この先強く生きるのか弱く生きるのかはわからない。一つだけ確かなことは、その生きる意味を探し続けるのがいいんじゃないかってことか。結局なにもわからないかもしれない。でも純粋にいろいろ学んでたら何か見つかるかもしれない。 -
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差別感情という人間の奥底に潜んでいるものを徹底的に炙り出している力作。
著者の中島義道に関しては、社会不適合である自意識のある人に寄り添い、励ましてくれるような言葉を投げかけてくれるような印象を勝手にもっていたが、概ね間違ってはいなかったようだ。本書でも中島義道は「常識」や「普通」といった言葉の危険性を訴え、違和感を実直に書き連ねることで、同じような経験をした読者との間に共感の橋を架けている。
一般的に疎まれる「高慢」や「驕り」などの否定的感情と「誇り」や「高邁」などの肯定的感情を対置させ、どちらにも差別感情は含まれていると説く。
自分自身を肯定する感情のそばには、他者を蹴落とす精神も必ず付いて回るという。相手が社会的弱者である、ということを無意識にでも認識した時点で差別感情は必ず発生しているともいう。
ただ、筆者はすべての差別感情をなくすことは難しく、むしろ無くそうといった偽善的な行為はますます社会を窮屈にしていき、そういった(強い)差別反対の意思表示は逆説的に差別を助長しているとまで説く。
どうすれば良いのかといった問いに対しては、解決策を具体的に提示するわけではない。ただ、どんな些細な事象であれ、必ず差別感情は発生するので、その感情と自分が向き合えるか、意識できるかどうかというのがポイントなのだろう。
文中に出てきた「パレーシア」という概念が気になるので、その発案者のフーコーもかじってみたいと思った。
昨今の群集化した怒りの感情や、過激な差別反対主義に違和感を感じる人は読んでみても良いかもしれない。 -
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中島義道、久々の本格哲学書である。
中島の著作は哲学書、哲学入門書、エッセイの大きく三種類に大別されるが(例外中の例外として小説も書いているがこれは除外する)、専門である哲学書・哲学入門書よりも、専門外のエッセイの方がはるかに多くの読者を獲得しているのは皮肉である。久々の本格哲学書となった本書は、広い論域と深い思考に裏打ちされた、期待を裏切らない秀作となっている。
中島は冒頭で「無」と「不在」の違いについて論じ、これまで多くの哲学者たちが語ってきた「無」は、実はそのほとんどが「不在」であると闊歩する(確かにサルトルが『存在と無』において開陳した「無」は、存在の否定形なのだから紛れも無く「不在」であろう)。しかし中島は「無」を語ろうとはせず、「不在」をキーワードに認識論的観点から存在論を紡いでゆく。サルトルが「無」を「存在」に依拠させたのとは対照的に、中島はむしろ「不在」に支えられて「存在」は成立しているのだと説く。
中島は言う。「われわれ人間は有機体としてもともと自己中心化しているが、その有機体が言語を習得することによって脱自己中心化し、さらに二次的自己中心化する」と。その通りだと思うが、言語の習得によってなぜ脱自己中心化が進捗するか、という説明があまりなされていないのが残念であった(そこが本筋ではないし「それぐらい分かってくれよ」と作者は言いたいのかも知れないが)。しかり、言語によってわれわれは他我の存在を知り、その反作用として自我が生まれる。言語がなければ、世界における私の不在としての「私の死」を認識できない。「AをA´として」という認識構造によって他者も私も誕生する。中島の説く認識論は廣松渉の「四肢構造」にも通じるものがあると思う。
「われ思う、ゆえにわれ有り」というあまりにも有名なデカルトのテーゼに疑問を投げかける第四章「不在としての私」から、議論は俄然スリリングになってくる。中島は言う。「われ思う」だけでは、「私」は登場してこない。過去において存在していた「私」と、それを思い出している現在の「私」とがつながったときに、初めて「私」は出現する。「私は考えた、ゆえに、私はあった」という方が正しいのだ。「過去の私」の方が一次的であり、「現在の私」は二次的に過ぎないという議論は、時間の原型は過去であるという中島の時間論とも整合する。私が「私の不在(死)」を発見(あるいは発明?)して初めて「私」は誕生するのだから、「私の死」と「私の誕生」はまさに表裏一体と言っていいだろう。
また第六章「多元的原事実」では、自由の問題が俎上に載せられる。偶然も必然も、言語によって制作された膨大な「不在」としての可能性が見せている幻想に過ぎない。あるのはただ現実のみである。そして自由は、責任が問われる場面において発生する。何らかの過ちが起こったとき、われわれは「あのときああしていれば」「あのときああしていなければ」と考える。「あのとき自由だったはずだ」という過去に対する後悔もしくは帰責の念が、現在および未来に拡大される。自由の原型は過去形であるというこの主張にもまた、過去本物論者としての中島の時間論が反映されている。
中島に問いたい。「過去の私」と「今の私」の結合によって自我が誕生し、責任によって自由が捏造されるのだとしたら、人工知能から自我は発生しうるだろうか。内部知覚は自我の発生の条件ではないと中島は言うが、であれば身体を持たない人工知能も自我および自由を持ちうるのだろうか。
『明るいニヒリズム』もそうだったが、本書も最後の着地点は「私の死」である。「哲学の最大問題は死である」と『哲学の教科書』で宣言しているとおり、中島の哲学は「死」を根源的なモチベーションとしている。「あと数年生きて思考することが許されるなら、今度こそは『無』に挑もうと思う」と中島はあとがきで書いている。ぜひ挑んでほしい、と切に願う。 -
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中島先生は生の無意味さと死の避けられなさに怯えと焦りを隠さない。本書でもそれは徹底的に踏襲されており、読む者の共感を呼ぶとともに深い絶望へと誘う。
一方で永井均は対照的に「存在の祝祭」、つまり長い歴史のなかで己が現在の社会に存在することの驚きを表明する。自己という存在の奇跡を高らかにうたいあげる。同じ現象がこれほど正反対に評価されるものなのかとしみじみ思う。
対照をなす二論のうち、中島先生はどうしても険しい方を選ばざるを得なかった。あえて苦しい道に進まざるを得なかった。それは自分には、あえて弱さを選択するという強さのように見える。気のせいだろうか。 -
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オランダに行って、オランダに関する本を色々読んで、
どうしてこの国の人達は、反対派の人達と協働で何か事を起こしたり出来るのだろう?
対話をすれば良いと言っているが、対話ってそんな効果があるのだろうか。
と思っていましたが、
この本を読んで自覚した。自分を含め日本には普段は「対話」がない。
対話がなかったから、オランダで起こっている事柄が腑に落ちきれていなかったのだ。
この本は20年前に書かれているが、今は少しずつ変わってきているかも。
日本では「対話」をするためには、それが出来る場を敢えて設定してあげることが必要で、
カフェ型トークなど「対話」を生ませる様々な試みが開発、実践されつつあるのかな。 -
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このテキストはなんだろう? たしかに哲学的であるが、同時に私小説のようでもあり不思議な感じがする。エッセイにしては重すぎるし、哲学にしては個人的な経験に基づいたものが多い。自分のことをここまで、掘り返して断じることはなかなかできないし、そういった作業が普通では無いことを感じさせる。己のことを徹底して客観的に語ることは恐ろしいことであるという意味で、哲学ホラーと評した解説森岡正博の言葉は頷けるものがある。内省の徹底と疑義を挟んでの自己認識がどういうものであるか。明るい気持ちにはならないし、完全には沿えないにしても、徹底のもたらすものを客観的に見直す事ができると思う。