中島義道のレビュー一覧
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結局死ぬっていう大前提がある。だからその絶対的不幸に比べたら生きている間に起こることなんて問題じゃないし、なにも興味がわかない、感動しないとしても問題にはならない。
まずそのスタンスを忘れないようにしたい。そこでなんで自分はなにも感じないんだ!と悩む必要はないんじゃないか、ということ。
みんな仲良くというマジョリティの生き方に違和感を感じるということは、その生き方が自分にあっていないということか。
この先強く生きるのか弱く生きるのかはわからない。一つだけ確かなことは、その生きる意味を探し続けるのがいいんじゃないかってことか。結局なにもわからないかもしれない。でも純粋にいろいろ学んでたら何か -
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差別感情という人間の奥底に潜んでいるものを徹底的に炙り出している力作。
著者の中島義道に関しては、社会不適合である自意識のある人に寄り添い、励ましてくれるような言葉を投げかけてくれるような印象を勝手にもっていたが、概ね間違ってはいなかったようだ。本書でも中島義道は「常識」や「普通」といった言葉の危険性を訴え、違和感を実直に書き連ねることで、同じような経験をした読者との間に共感の橋を架けている。
一般的に疎まれる「高慢」や「驕り」などの否定的感情と「誇り」や「高邁」などの肯定的感情を対置させ、どちらにも差別感情は含まれていると説く。
自分自身を肯定する感情のそばには、他者を蹴落とす精神も必ず -
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中島義道、久々の本格哲学書である。
中島の著作は哲学書、哲学入門書、エッセイの大きく三種類に大別されるが(例外中の例外として小説も書いているがこれは除外する)、専門である哲学書・哲学入門書よりも、専門外のエッセイの方がはるかに多くの読者を獲得しているのは皮肉である。久々の本格哲学書となった本書は、広い論域と深い思考に裏打ちされた、期待を裏切らない秀作となっている。
中島は冒頭で「無」と「不在」の違いについて論じ、これまで多くの哲学者たちが語ってきた「無」は、実はそのほとんどが「不在」であると闊歩する(確かにサルトルが『存在と無』において開陳した「無」は、存在の否定形なのだから紛れも無く「 -
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中島先生は生の無意味さと死の避けられなさに怯えと焦りを隠さない。本書でもそれは徹底的に踏襲されており、読む者の共感を呼ぶとともに深い絶望へと誘う。
一方で永井均は対照的に「存在の祝祭」、つまり長い歴史のなかで己が現在の社会に存在することの驚きを表明する。自己という存在の奇跡を高らかにうたいあげる。同じ現象がこれほど正反対に評価されるものなのかとしみじみ思う。
対照をなす二論のうち、中島先生はどうしても険しい方を選ばざるを得なかった。あえて苦しい道に進まざるを得なかった。それは自分には、あえて弱さを選択するという強さのように見える。気のせいだろうか。 -
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オランダに行って、オランダに関する本を色々読んで、
どうしてこの国の人達は、反対派の人達と協働で何か事を起こしたり出来るのだろう?
対話をすれば良いと言っているが、対話ってそんな効果があるのだろうか。
と思っていましたが、
この本を読んで自覚した。自分を含め日本には普段は「対話」がない。
対話がなかったから、オランダで起こっている事柄が腑に落ちきれていなかったのだ。
この本は20年前に書かれているが、今は少しずつ変わってきているかも。
日本では「対話」をするためには、それが出来る場を敢えて設定してあげることが必要で、
カフェ型トークなど「対話」を生ませる様々な試みが開発、実践されつつあるのかな -
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このテキストはなんだろう? たしかに哲学的であるが、同時に私小説のようでもあり不思議な感じがする。エッセイにしては重すぎるし、哲学にしては個人的な経験に基づいたものが多い。自分のことをここまで、掘り返して断じることはなかなかできないし、そういった作業が普通では無いことを感じさせる。己のことを徹底して客観的に語ることは恐ろしいことであるという意味で、哲学ホラーと評した解説森岡正博の言葉は頷けるものがある。内省の徹底と疑義を挟んでの自己認識がどういうものであるか。明るい気持ちにはならないし、完全には沿えないにしても、徹底のもたらすものを客観的に見直す事ができると思う。