澁澤龍彦のレビュー一覧
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お伽噺、というものは、そもそもちょっと怪しげなものなのだけれど、「あやし」の境界線をのぞき込むのではなくうろつける感じになると、大人用ってことなのだな、と個人的には思うのです。というわけで、これは大人用のお伽噺。読んで損なし。
単行本の装丁について付け加えると、「ショッキングピンクとルミナスっぽいグリーン」という、目がおかしくなりそうなデザインで、忘れたくても忘れられない、壮絶なインパクトのあるものでした。ちょっと普通では思いつかないような色遣いが、あやしさを確かに増していたけれど、この本についてはこの文庫版の装丁のほうが、感じいい、というか良い感じであると思います。
*追記*なんとなく確認したら、本人自装、ということで、ご自分のイメージによるものらしいです。今もわたくしの本棚で、目立ちまくっています。 -
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全6篇が収録された短編集。
どれもはっきりオチがなく曖昧さを残して終わってしまうのだが、それがまた読者を惹きつける。
物語中のところどころに入る著者の解説と、どう考えても江戸時代とかそこらの話なのに、唐突にカタカナ言葉が飛び出してきたりする点には独特なユーモアを感じる。個人的にお気に入りは『ぼろんじ』と『夢ちがえ』。『ぼろんじ』では肉体と影、男と女、その境目が曖昧になり、最後には2つの存在がぴったりと重なるという流れに惚れ惚れとした。『夢ちがえ』は残酷で妖しく、単純に好み。耳の聞こえない姫の名前が『万奈子姫(まなこひめ)』=眼(まなこ)なのも良い。 -
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AIと対話しながら、読むべき本を模索していたところ、澁澤龍彦氏の著作をいくつか勧められたので、三島由紀夫が冒頭に(しかもまえがきよりも前に)著者について述べている本書に興味を持ち購入。
恥ずかしながら、これまで様々な哲学入門書を読んできたにも関わらず、AIに進められるまで著者のことを知らなかった。
自分が読んだのは1996年出版された文春文庫版であるが、元は1965年にカッパ・ブックスとして出版されたものである。
昭和期の大きめの本屋には必ずといっていいほどカッパ・ブックスコーナーがあり、様々なテーマやジャンルのものが並んでいて、若い頃はそれらを見ているだけでもワクワクしたものである。
本書はまえがきにおいて、「泰平ムード」というキーワードを用い、戦後20年を経た高度経済成長期真っ只中であった当時の状況を批判するところから始まる。
自分は1972年生まれであるが、それよりもはるか前よりマスコミや観光を中心とした娯楽産業による「作り込まれたお仕着せの快楽」が蔓延していることを著者は看破している。しかもそれは21世紀になって四半世紀が過ぎた現代においても本質的には変わっていない。
本書の前半部分において、著者は現代社会に蔓延る幸福論、博愛主義、儒教的道徳主義、カント的人格主義などのいわば"キレイゴト"を徹底的に否定する。
そして、ストア派(禁欲主義)とエピクロス派(快楽主義)の対比から、外界からくる緊張を緩和しながら動物的な状態に身を置いて生きる快楽主義的生き方を説いていく。
といっても、著者の個人的な想いや経験論だけで述べられているのではなく、国内外の様々な作品からも引用しつつ論考が展開され、著者の博識ぶりが窺える。
中盤では、エロトロギア(性愛学)にこだわる著者の真骨頂ともいうべき性的快楽について1章分が費やされている。
本章は、いわば「澁澤版エロティシズム」ともいえる論考であり、まだ書物の表現に対する評価が現代と比較しておおらかだった時代ならではの内容であろう。
著者の主張には賛否あろうが、著者が本章の最後に、快楽主義は「アンチ・ヒューマニズム」、すなわち「人間の限界をつきやぶり、人間を人間以上の存在にする。」と述べている。
平たく言えば、「"いかに生きるか"ばかり考えてないで、"いかに死を直視して動物的に生きるか"を実践しろ」ということなのであろう。これはニーチェの超人思想にもつながると著者は述べている。
冒頭で用いられた「泰平ムード」に対し、ニーチェの時代の「頽落(=デカダンス)」だと著者は感じていたに違いない。
著者の主張は、現代の「ホワイト社会」に対する痛烈な批判ともとれる。
また、國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』で述べられていた、現代社会における"退屈"と向き合うための"動物になること"の必要性にも通ずる。計算高く消費ばかりしてないで、時には周りが見えなくなるくらい没頭して浪費することも必要であると。
本書の後半からは、著者がいうところの快楽主義の巨人の事例紹介および快楽主義者になるための方法論が展開される。
ホワイト社会において、澁澤的快楽主義者を志向することはむしろ生き難さを増大させてしまうであろう。
ただ、「誤解を恐れないこと」や「レジャーの幻想に目をくらまされないこと」などの提言は、出版から半世紀以上経った現代においても、いや、SNSやAI全盛の現代だからこそ、肝に銘じるべきかもしれない。
とにかく、本書全体を通して澁澤節は痛快であった。
カッパ・ブックスが流行った昭和だからこそ受け入れられた論考かもしれないが、本書を単なる”性の解放のすすめ”として捉えるのではなく、ホワイト社会においては"生き方の解放"として受け入れるべきであろう。
改めて、澁澤氏の勇気ある言行と普遍的洞察力に敬意を表する。 -
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徐々に引き込まれていくような面白さがある!
『サディズム』の語源になったマルキドサドの波乱に満ちた激動の生涯を綴った伝記。
あるきっかけでマルキドサドのことを知り、直感的にこの人は絶対ヤバい人だと思い、どのような人生を送ったのかが気になり、この本を読むことにしました。
時代は17世紀のフランス、絶対王政、フランス革命、共和政、軍事独裁というようにめちゃくちゃ激動の世界を生き抜いた稀代のヤバい異端作家。
しかしこの伝記を読み進めるたびに、単純にやべぇヤツとは到底語りきれない、背徳欲がありつつも人間味溢れる人物なのだと思いました。
そして作者である澁澤龍彦さんの客観的かつ、莫大な資料を元にこの作品を作り上げた文章力に、読む前と読後ではまるっきり印象が変わり、まだサド作品を読んでいない自分にとって、これはサド入門書的な役割がありました!今はまだ怖くて読めませんが、バスティーユ監獄で鼠と共に書かれた『ソドム120日』をいつか読みたいと思う。…いつかね。笑
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『快楽主義の哲学』という一見過激なタイトルですが、卑近な表現に換言すれば、自己達成のために行動してきましょうよ、という内容で、非道徳的な内容であったり社会的頽廃を推し進めようとしたりするものではありません。
マスコミや余暇産業によって提供される規格化されたムードを無批判に享受したり、きびしい現実に適応するために本能的欲求を抑制し苦痛を回避するという消極的な幸福に甘んじたりすることは、一見すれば従順、真面目というふうに他者の目には映るでしょうが、その実は牙を抜かれて無気力で、認識を捻じ曲げて自己の欲求をごまかすようなことに他ならないということです。
ごまかしのための認識に陥るのではなく、無目的な人生の中で、実際に行動を開放し、未知の可能性や新しい快楽の海に身を投げうち、自らの手で快楽を味わい、発見していくべきだと述べている、とわたしは感じました。
三島由紀夫にせよ、ニーチェの超人思想にせよ、こういった思想に対する憧憬をわたしは抱くのですが、実際にそれを行動に移すのはなかなか難しいんですよね。 -
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序文の「奴隷状態の幸福」が気になって読んでみる。ただのドMの話かと思ったら違ってました。とは言っても超弩級Sと超弩級Mが絡むとんでもない話ではあるのですが・・・傷つけたり傷つけられたりすることが快感に繋がるという単純なことではなかった。責めてるほうはただただ相手の一切の自由を奪って自分のために奉仕させるのが楽しい。自由を奪われた方は痛みを喜ぶわけではなくとてつもなく苦しむのだけど、抵抗も許されなく奉仕する状態を抜け出すわけではなく、耐えている自分は相手のことを本当に愛しているのだとか誇りにすら思い始める。異星人並みに理解不能と思うけれど、19世紀に実際にあったバルバドス犯行がこの心理状況を表していると序文にあって驚いた。
異常に束縛された状態がおかしいことだとわからなくなると、かえって考えることがなくて楽に感じることはあるし、自由に自分で考えてやってといわれると急にわからなくなってしまうことは過去に経験しているから、やっぱり人間はそういうところがあるのかもしれない。自分の中にもO嬢がまだいるのか、世の中にはそういうことを巧みに利用する人間がいるのか、と思うと心底恐ろしい。毒にも薬にもならない本があるとすれば、これは毒にしかならない本。だけど、自分の見たくない部分をえぐってくるナイフでもあり歪んだ鏡でもあった。 -
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ネタバレ分類が難しい笑、読みました。手帖シリーズは初めて。
読んでいて、どこまで"本当"なのかという考えはずっと付きまとっていて、全てと言わないまでも、いたるところで澁澤にからかわれているんじゃないかなという気持でした笑。
読んだのはこの表紙ではなく、バフォメットが表紙の版です。(あとがきでまたもや三島を紹介しています。「いまは亡き三島由紀夫氏はこれを「殺し屋的ダンディズムの本」と嘆賞したものであった」)
「カバラ的宇宙」内のZodiac signs の成り立ちとか…笑
「夜行妖鬼編」
…人間の女と交わる男性夢魔は、男が睡眠中に洩らした精液を取って使うと考えられているので、生まれた子供の父親は、はたして母親と衾をともにした悪魔インクブスであるか、それとも精液を取られた男であるか、という神学上の重大問題が生じる。この点について聖トマスが、真の父はインクブスではなくて、遺精した人間の男の方だとはっきり言っているのは興味ぶかい。(p.70)
いや、興味ぶかいじゃないんよwwってなってました笑、もはやふざけてるでしょ、みたいな気持ち笑。どういう思考回路で夢魔は人間の精液使うんだよ、不合理すぎでしょと思わないの中世の人々~~
…そのやり方がいかにも敏捷なので、破瓜にもいたらず、原料は処女の体内に達するであろう。処女はみずからそれとは知らずに、この原料を暖め育てるであろう」
これは容易に聖母マリアが孕んだ子が神の子だったのか?という発想に繋がるものなのだなあ~面白い~
…パラケルススは人間が、目に見える地上的な「物質的物体」と、目に見えないエーテル状の「星辰的身体」と、人間内部の聖霊の発現ともいうべき「霊的身体」と、三つの進退をもっていることに注目する。そして夢魔という現象も、要するに人間の想像力、つまり「星辰的」素質からつくり出されるものであることをはっきり認めて…近代の精神分析が、夢魔現象をヒステリー性の厳格と見なしている点とも、これは原理的に一致する。たとえばゴヤとか、ボッシュとか、ポオとか、ロオトレアモンとかにおけるような、あのすぐれた想像力による芸術作品も、人間の弱さ醜さから生じた、こうしたさまざまな夢魔たちの悪戯によって、触発され鼓舞されたことは申すまでもない…(p.78-9)
読んでいる本がいろいろ重なってきていて面白い笑
「星位と予言」
占星学とは、いわば宇宙を精密な一個の時計になぞらえて、天界の歯車装置を動かす法則発見しようとする秘術である。この時計の文字盤は、星々をちりばめた天球であるから、まず何よりも星の運行の観察が大事である。天界の秩序は一定不変であるけれども、人間の運命はつねに変転きわまりないように見える。しかし、はたしてそうであろうか。人間の運命も、宇宙の歯車装置と絶妙な連関があり、その誕生も、その死も、時計のように正確に、数学的に、あらかじめ決定されているのではなかろうか。ーこれが占星学的認識の成立する第一歩である。(p.156)
「ジル・ド・レエ侯の肖像」この章が一番面白かった…!
…彼にはもうひとつ別の動機、すなわち、教会音楽に対する、ほとんど熱狂的な惑溺ぶりがあったのである。おそらく彼は、聖歌隊の少年合唱を、肉感的な逸楽として聴いていたにちがいないのである。…ある種のひとびとにとって、教会音楽は色情的な恍惚感を誘発する。神秘主義の陶酔は感覚的な陶酔に通じるのである。クラフト・エピングは『性病理学』のなかで、人間的な愛欲も宗教的な神秘主義も、同じく無限の探求という共通の類縁関係によってむすばれ得ることを認め、次のように書いた。「宗教的感覚も性的感覚も、その発展の極限に達すると、刺戟の量および性質について相似をあらわすものである。したがって、それらはある条件のもとでは置換可能であり、もし必要な病理学的条件があれば、両者とも残虐性に変化し得るものである」(p.219-220/聖女と青髭男爵)
…ジルはそうした騒ぎを気にももとめず、夢遊病者のような眼つきで、したたる血をはらおうとするかのように、自分の両手を眺め、汗みどろになって話しつづけた。告白がおわると、がっくり膝まずき、身をふるわせて泣きながら、「神よ、あわれみと赦しを与えたまえ」と哀訴した。
こうして悪魔に後半生を捧げた希代の殺人魔は、最後の瞬間にふたたび、あのジャンヌ・ダルク崇拝の神秘主義者に立ちかえり、神の慈悲を求めながら、喜んで火刑台にのぼったのである。(p.274-5)