マルキ・ド・サドの一覧
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ユーザーレビュー
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本作は、息付く間もなく悪徳の栄光を突っ走り、もっとも豊饒で残虐な幻想が織り成される、サドの傑作長編小説です。
本作が所謂「サド裁判」の根源になったのは言うまでもなく、澁澤の翻訳発表当時から、「芸術とワイセツ」を世に問い続けてきた稀代なる作品と言えるでしょう。私はこの作品を、後世にも遺していくべき不朽
...続きを読むの傑作だと思っています。
さてさて、読み始めたら止まらない、それがサドの小説です。私の場合、もはやサドは封印(敬遠?)対象になるほど良くも悪くも強烈な作品ゆえ、澁澤の批評を読むくらいに留めておいたのですが、やっぱり読んじゃいますよね。そして一度手をつけたら最後、どんどん読んでしまう。5日もあれば、上下巻を読破するのには十分でした。
まさしく悪徳のバイブルとでも言えそうな本作では、主人公のジュリエットを初め、様々な登場人物が悪徳の限りを尽くし、これに耽ります。形式としては連作小説に近く、短い各々のエピソードが連なるようにして全体が構成されていますが、そのどのエピソードにしたって、ぬるいシーンはひとつもありません。只管に自然と悪徳を礼讚する哲学パートと、血みどろの法悦境シーンが延々と、これでもかと続きます。悪徳のバイブルと書きましたが、その流血淋漓たるや凄まじく、ページをめくる度に陰惨な思考と情景に侵食されていくのです! またその残酷極まる描写もどこかこざっぱりしていて、想像では追いつかないようなユートピアが、たった一行の中に凝縮されていたりします。
改めて、やはり凄まじい作品です。昔読んだ時は、その言い回しや冗長な哲学開陳パートよりも、残酷さの中に齎される感受性や衝撃に強い感化を受けたものでしたが、今読むと、澁澤さんの抄訳しかり、サドの思考しかり、考えさせられるものがあります。いみじくも訳者あとがきで澁澤さんが言うように、まさしく本作は「裏返しの教養小説」なのであって、繰り返して述べるようですが、一読の価値は大いにあると思います。
(下巻のとんでもエピソード)
下巻は哲学開陳パートはもはや少なく、ひたすらにジュリエット残酷な放蕩が続いていった印象です。就中「ローマの大饗宴」「デュランとの再会」ではサドの想像力におけるユートピアが隆盛を極めており、また、フォンタンジュやジュスティーヌの悲惨過ぎる最期も、この作品を悪徳を象徴しているように感じます。
Posted by ブクログ
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本作は、息付く間もなく悪徳の栄光を突っ走り、もっとも豊饒で残虐な幻想が織り成される、サドの傑作長編小説です。
本作が所謂「サド裁判」の根源になったのは言うまでもなく、澁澤の翻訳発表当時から、「芸術とワイセツ」を世に問い続けてきた稀代なる作品と言えるでしょう。私はこの作品を、後世にも遺していくべき不朽
...続きを読むの傑作だと思っています。
さてさて、読み始めたら止まらない、それがサドの小説です。私の場合、もはやサドは封印(敬遠?)対象になるほど良くも悪くも強烈な作品ゆえ、澁澤の批評を読むくらいに留めておいたのですが、やっぱり読んじゃいますよね。そして一度手をつけたら最後、どんどん読んでしまう。5日もあれば、上下巻を読破するのには十分でした。
まさしく悪徳のバイブルとでも言えそうな本作では、主人公のジュリエットを初め、様々な登場人物が悪徳の限りを尽くし、これに耽ります。形式としては連作小説に近く、短い各々のエピソードが連なるようにして全体が構成されていますが、そのどのエピソードにしたって、ぬるいシーンはひとつもありません。只管に自然と悪徳を礼讚する哲学パートと、血みどろの法悦境シーンが延々と、これでもかと続きます。悪徳のバイブルと書きましたが、その流血淋漓たるや凄まじく、ページをめくる度に陰惨な思考と情景に侵食されていくのです! またその残酷極まる描写もどこかこざっぱりしていて、想像では追いつかないようなユートピアが、たった一行の中に凝縮されていたりします。
改めて、やはり凄まじい作品です。昔読んだ時は、その言い回しや冗長な哲学開陳パートよりも、残酷さの中に齎される感受性や衝撃に強い感化を受けたものでしたが、今読むと、澁澤さんの抄訳しかり、サドの思考しかり、考えさせられるものがあります。いみじくも訳者あとがきで澁澤さんが言うように、まさしく本作は「裏返しの教養小説」なのであって、繰り返して述べるようですが、一読の価値は大いにあると思います。
(上巻のとんでもエピソード)
「ジュリエットの父親ベルノールのこと」「アペニン隠者ミンスキイのこと」は上巻の中でもかなり凄まじい残酷ぶりではないでしょうか。特に後者は話の内容もそうですが、澁澤さんの著書で深く考察がされていたこともあり、印象深いエピソードです。
Posted by ブクログ
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「悪徳の栄え」ジュリエットの妹、ジュスティーヌの物語になっている。
信心深いのもいいが。見えない何かに縋る意味とは?と、一つ聞いてみたくなりました。
神を信じて救われるのならば、それも良いだろう。
ジュスティーヌの場合、どんなに善行を尽くし、神を信じて「きっと神さまが…!」と、全く運命に嫌われている
...続きを読むのではないか?という不幸の雨嵐にも、彼女はこれを曲げようとはしなかった。
行き過ぎた信仰心ではないが、美徳(善行)の意味、また逆に続く不幸の意味を考えると、きっとキリがないのだけれど、割と読みやすくて、まあ、サドだしな…という内容でした。
「ジェローム神父の物語」も、「悪徳の栄え」寄りで良かったです。
Posted by ブクログ
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ありとあらゆる犯罪の百科全書のような物語だが、こう言っては不謹慎かもしれないが、不思議な爽快感がある。
例えば「美徳の不幸」は、善行の見返りに悪逆をもって応えられるような物語で、正直なところ読み進めるのは辛かったため、中途で断念した経験がある。身につまされるからかもしれない。
思うに、本作では、誤解
...続きを読むを恐れずに言えば、女性が一人称で極悪の限りを尽くす様が語られていることにより、特に男性の読者の、酸鼻きわまるような残酷な犯罪の描写を直視することに対する抵抗が、減じられているように思う。男性の視点から言えば、男性は身体的に優位な立場にあり、男性の方が野蛮であり、男性側が女性に対して自ら欲望を行使することの方が、本来自然な発想のはずである。そこを本書では、女性側(も含めて人類には)にも実は悪徳を求める傾向があり、そのことは実に「自然」に適ったこととされている。
こんなことを書けば、もちろん女性に対して失礼な物言いになることは自覚した上で、それでもなお本書を考察する上で重要なのは、以上のように、男性の読者はおそらく、女性が語っていることに一種の異常な(身勝手な)安心感を抱くのではないか。
それはさておき、本書はかつて猥褻文書の扱いを受けていたようである。むべなるかなとは思うが、本書は、私にとっては、人間の、個人の内面の自由に関して重要な意味を持つ著作だと思われた。
私自身、特に職場では、弱々しく、唯々諾々としているように思われていることだろうし、はっきり言って、それほど仕事の能力は高くない。ただ、外面に現れるその人と、内面においてその人物が何を考え、何を面白いと思うかは、完全に別個のことであり、内面において個人は全くの自由であって、サドの作品も、それを読んで思考をめぐらすことは、全く問題のないことだと思う。むしろ、私のような人間は、自分で言うのも何だが、どんな些細なルール違反にも恐々として、嘘や言い間違いにも細かく気を使ってしまうので、「人間の本性が悪であることは明らかである」と言い切ってくれた方が、むしろ勇気付けられるような気さえする。もちろん、実際に悪行を犯そうとは全く思わないが、そういう想像ができる、考えることができることが重要なのではないかと思う。
また、別の観点で気づいたこととして、本書では罪悪は個人の単位でなされるということ。同じ思想を持つ仲間内で行動することはあっても数人程度で、犯罪友の会というものも登場したが、これもあくまで個々人同士が楽しむためのものとみなせる。
つまり、特定の信仰や主義主張のために徒党を組んで、集団の暴力に訴えるようなやり方は本書では「自然」ではないということだと思った。この点からも、個人主義・エゴイスムの著作という見方を取れると感じた。
Posted by ブクログ
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サドとニーチェは高校生のときに読んで、自分の道徳観がぶち壊された感覚がありました。
その最たるものが本書です。
ちなみに、澁澤龍彦が『美徳の不幸』(ジュスティーヌっていう清純な女の子がめちゃくちゃ酷いめにあう話)の前書きの部分を、「ジュスティーヌになりたがらない女はいない」って訳してたんだけど、本
...続きを読む当は「ジュスティーヌになりたがる女はいない」ってするのが正しい、っていう話も聞きました。ぜんぜん違うじゃん! これって、いったいどちらが正しいんでしょうか?
フランス語に詳しい人がいたら教えてください。
Posted by ブクログ
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