あらすじ
人生に目的などありはしない──すべてはここから始まる。
曖昧な幸福に期待をつないで自分を騙すべからず。
求むべきは、今、この一瞬の確かな快楽のみ。
流行を追わず、一匹狼も辞さず、世間の誤解も恐れず、精神の貴族たれ。
人並みの凡庸でなく孤高の異端たれ。
時を隔ててますます新しい澁澤龍彦の煽動的人生論。
【目次】
第1章 幸福より、快楽を
第2章 快楽を拒む、けちくさい思想
第3章 快楽主義とは、何か
第4章 性的快楽の研究
第5章 快楽主義の巨人たち
第6章 あなたも、快楽主義者になれる
※電子版には文庫収録の三島由紀夫氏による推薦文は掲載しておりません。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
ブク友さんが読んでいて「そういえば私も持っていたかなぁ」と本棚から出してきて読んだ。再読。
とはいえ内容はまるで覚えていなかったのでほぼ初読。
他の作品とちょっと毛色が違って、世俗的なことや現代的なことに関しても色々言及しているので興味深く読む。私の中ではなんとなく「西洋の昔の人やもののことを書く人」というイメージなので。まぁ現代に生きていれば世俗的なことだってその人なりに思うところはあるわけで。
巻末の解説でこの本の初版がカッパブックスから出たことを知る。なるほど、と思う。だから雰囲気がちょっと違ったのかー、と。普段なかなか聞けない話を聞けて儲けた、と思う。
小説の「高岡親王航海記」が20代の頃にさっぱりわかっていなかったように、この本も若い頃にはなんとなく読み飛ばしたんだろうな。
追伸:樽のディオゲネスが出てきたので嬉しかった。
Posted by ブクログ
似た考え方の人いたわ~。
というかそりゃいるよな。80億人もいれば。いや、もうなくなった方を含めれば、何人の人間がいるんだろう。
ここではっきり申しますが、オルガスムの美学の最高の理想は、情死だろうと思います。
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密室から広場へ一歩踏み出すためには、まず羞恥心を捨て、嫉妬心を捨て、独占欲を捨てなければなりますまい。2人だけの密室の恋愛になれたわたしたちには、これはなかなか難しいことです。
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まず、第一に注目すべきは、サドが男性のペニス、女性のヴァギナのみを性器と考えているのではない、ということです。
人間の体には、男でも女でも、いろんな孔が開いていますが、サドは肛門であれ口腔であれ、あるいはその他の肉体の凹所であれ、全ての孔をヴァギナと同格なものとみなしているのです。
また、その孔に挿入すべき突起物にも、たんに、男性のペニスだけでなく、口の中の舌、指、あるいは発達した女性のクリトリスなどが使われます。
つまり、肉体のありとあらゆる孔とよび突起物を用いて楽しむわけで、エロチックな快楽には性器だけが利用されうると信じている世の中の通常人には、到底考えられない複雑な態位による乱行も、こうして可能となるのです。
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社会の組織と同じく、人間の肉体の組織にも、階級制度があり、分業が行われているようです。
では仕事をするための器官、舌は味をみるための器官、肛門は糞を排泄するための器官、そして、性器は快楽のための器官、と言うことになってしまいます。
これではあまりに不公平だ。あくせく働いてばかりでちっとも楽しい思いをしない器官があるではないか。
サドはそう考えてら手も舌も肛門も、分け隔てなく、エロスの快楽に参加させてやったわけなのでしょう。
これまで性器だけが、まるで専制君主制のように特権的な地位を占め、あらゆる快楽を独占している現状です。
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快楽主義の巨人
高い知性と、洗練された美意識と、きっぱりとした決断力と、エネルギッシュな行動力
この4つの条件が揃って、初めて人間は翼を得たように、快楽主義的な宇宙の高みに舞い上がることができる。
Posted by ブクログ
お前ら、これ読まないでロックとか語ってんの?
読むほど、自分の元の孤高さを感じる。目を覚まさせてくれ、云うなら自身の「アイデンティティ」を鼓舞してくれる。誰にも邪魔させないという強い気持ちが湧いてくる。
私に近いのは愛読書を書いたゲーテだ。光やまない汎神論の中で、愛に生き進み続ける。
ディオゲネスの放蕩ぶりや、ジャリの茶目っ気も好きだけど。
Posted by ブクログ
最近耽美派にハマってく自分の心理を掴みたくて読んだ。ゲーテって74まで恋してたんだね。しかも19の少女と。w「快楽主義の巨匠たち」の章面白かったな〜哲学や思想史に興味湧いた
精神の貴族たれ!
Posted by ブクログ
人間にはいろんな生き方があるなと思う澁澤氏の生き方と考え方。
史上の珍な生き様を紹介しながら、いかに自分にとっての生き方が大事かを説く。
労働と遊びの一致。
いつでも遊んでいるような存在にならなければ真の意味で社会や文明が進歩したということにならない、と。
1965年刊行で、
今もって尚新しい。
博識知的教養の深さに裏打ちされた澁澤龍彦の思想・発言。
出過ぎた杭とはこのことだろう。
Posted by ブクログ
これは意外と面白い本だった。
題名に『哲学』とあるので少々お堅い本かと思って手に取るも、なんの著者のざっくばらんかつ、筋の通った内容である。
快楽主義とは、一貫し『人間の本能、人間の欲望に忠実である』ことであり、ヘンな常識や風習に惑わされることなく、自然体であることを説く。
・進歩や発展のない生活には、みるべき快楽もまたない(コアラの退屈さと比して)
・常識に囚われることなく、「人間の限界をつきやぶり、人間を人間以上の存在にする。」
・「親子とか夫婦とかいった関係が、人間の自由な冒険的な生き方を拘束し、世の中をじめじめした不潔なものするということを、芸術家の直感でやっているのです。」岡本太郎
・「そもそも、しあわせな家庭などというものを築いたら、もう若者のエネルギーは、行きどまりだということを知るべきです。妻子ある家庭を思えば、冒険もなにもできやしません。大学をうまく卒業し、一流会社へ就職し、課長の媒酌できれいな奥さんをもらい、一姫二太郎をこしらえ、モダンなアパートに住み、車を買い、ステレオを買ったら、まあ、あとはせいぜい、女の子のいるバーで、奥さんの目をぬすんで、ちょっとした浮気をするぐらいが関の山でしょう。まことになさけない。こんなのは、快楽主義者として、最低の部類に属します。」著者
・「ダンディの美の性格は、心をかき乱されまいとする堅い決心、その決心から生ずる冷静な態度のうちに宿る。」ボードレール
Posted by ブクログ
幸福と快楽の違いを知っていますか?
幸福は「苦痛を回避しようという傾向」そして「主観的なもの」
快楽は「進んで快楽を獲得しようとする傾向」そして「客観的なもの」
貧乏だろうが、自分が幸せだと思っている人もいる。
回復不能の病気であっても、ひたすらに神を信じていて、自分は天国にいけると思い込んでいる人は幸せかもしれないし。
昔の人が不便で、汚くて、不幸だったと考えるのも間違っている。
著者は幸福なんて存在しないという。
そんなものに憧れて、ため息をついているのなら、
まず実際に行動してみること。を説いている。
赤ん坊が笑う時、幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ。
哲学者アリストテレスも言っている「幸福とは実践である。」
精神分析学者のライヒによると、性交回数を自慢したり、誇ったりする男は、自分の強さや男らしさの証拠を示したいだけで、実際にセックスの快楽を十分に楽しんでいるのではない。
つまり勃起能力や射精能力を誇ったところで、一回ごとのオルガズムに達しなければ、そもそも性の快楽の意義はどこにあるのかと発言している。
どうすれば真の快楽を味わえるのか。
①誘惑を恐れないこと
―――飲む、打つ、買う、色んな誘惑がある。人を堕落させるものというイメージが強いが、いつも絶対に悪いものなのだろうか。良い悪いは誘惑を受けるものの態度遺憾だと思う。
誘惑を受けて変化するとしても良い方にいけばいいのだ。
影響されたから悪くなったのだ、などの考え方は卑怯だ。
強い人間だったら、これを自分の進歩発展のための有益な糧として消化していくだろう。
決心を努力を、接吻を抱擁を、あすに引き伸ばすことくらい、愚かなことはない。
②一匹狼も辞さぬこと。
―――「人のふりみてわがふりなおせ」、ふざけちゃいけない。他人は他人、自分は自分である。
いつも他人とくらべて、「こんなことしたら笑われないだろうか」「変に思われたりしないだろうか」などビクビクしている人は、すでに自分の主体性を喪失している。
大衆社会の疎外の産物である。
③誤解を恐れない。
―――真理であれ偏見であれ、わたしたちが一定の立場に立つ時、たとえその立場が他の多くの物と異なるとしても、これを気にするに及ばない。たとえ自分の立場が絶対多数の意見に一致しないとしても、遠慮したり撤回したりする必要は毛頭ない。
同性愛だろうと、なんだろうと誇れば良いのです。
④精神の貴族たること
―――強い精神が必要不可欠。戦後の民主主義では、貴族主義などは非難の対象になる。
やれ平等にしろ、やれみんな同じにしろ、同じに接しろ。
1個のりんごを10人で等分に分けた場合、もうそこには快楽はない。
⑤労働を遊ぶこと
Posted by ブクログ
古き時代の名著。快楽主義という言葉は一見すると欲望のまま遊びほうけて暮らせばいいというイメージがあるが、そうではなく、外部に作られた欲望をを消費しようとするのではなく、内に秘めた欲望に素直になるためにはというとても硬派な内容。出会えてよかったと思える一冊。
Posted by ブクログ
冒頭から「人生に目的なんかない」と言い切ってしまう所は小気味よく、目的がなければ「自分でつくりだせばよい」とカール・ブッセの「山のあなたの空遠く」から始まる詩を登場させてセンチメンタリズムを批判し、私たちを行動に駆り立てるその文章は寺山修司を彷彿とさせる。
第四章では、労働嫌悪の風潮を逆転させるために「どうすれば、労働と遊びとを一致させることができるか」という問題を取り上げ、そこから快楽主義の究極の目標を「一種のユートピア議論にはちがいありませんが」と前置きしつつ、「人間のエロス的な力の解放」であるとしている。
子どもが泣いたり、叫んだり、駆け回ったり、あるいは疲れ果てて眠ること、これら全てが快楽に繋がっている。そう考えると、子どもは自然にエロス的な力を使いこなしているといえる。
しかし大人になるとその肉体は労働のために利用され、非エロス的に矮小化していく。そこで筆者が提言するのは、肉体を単なる労働のための道具とみなすのではなく「つらい労働が全て楽しい遊びになる」ような肉体の解放である。
このような考え方は、筆者曰く、ヒューマニズム的偏見からの解放であり、自分の周りに白線を引いて行動範囲を狭めてしまうような消極的幸福論からの脱却、思想的冒険なのだ。
『快楽主義の哲学』は発表後45年以上が経過しているが、その内容からは色あせない刺激を感じ取れる。そこには時代に左右されない、人間にとって根本的なものがあるからだと言えるのかもしれない。
60年代と現在を比べて、人間の持っている肉体的・思想的自由が矮小化していないだろうかという疑問がふと頭をよぎった。ただ、思想の自由度なんて測りようもないのが事実だ。
今を創るのは今を生きている人間だけだとすれば、「今を生きる私たちが、思想的自由をどこまで拡大していけるのか」こそが問われることになる。
Posted by ブクログ
澁澤龍彦は一時ハマっていた時があって、本書も再読である。快楽主義の哲学というタイトルが先ず渋い。そして、人生全て快楽のためであるというような叙述がある。
― せっせと貯金をして家を建てるとか、三時までおやつの時間を待つとか、結婚初夜まで処女を尊重するとか、出世のために下働きの苦労をなめるとか、すべて、こうしたことは、即座の満足でなしに、ひきのばされた満足を求める心の結果であり、用心ぶかい「現実原則」の結果であります。死んだら天国に行かれると信じて、現世の快楽をあきらめる信仰者の場合も、あきらかに、このひきのばされた満足を求めているのでしょう。
宗教さえも〝引き延ばされた満足″と皮肉る。即座の満足ではなく、現実原則。で、クールなのは、そのことについて「快楽の満足をひきのばすなんて、なんともみじめったらしい!」と言ってのける。
更に、真の幸福とは、その実践にあり。運動状態にあるのだという、アリストテレスの「幸福とは実践である」を引いて追い打ちをかける。自分でつくり出す快楽、実践のうちからつかみ取る快楽にこそ、ほんとうの魅力があるのではないかと。オスカー・ワイルドも言っている。幸福などというけちなものを頭から軽蔑し、つねに新しい快楽を求めるという心意気こそ、ダンディズムだ。
死の恐怖なんて気にする必要はない。そのことに初めて触れたのも本書だった。エピクロスの発言。「死はわたしたちに無関係である。なぜなら、わたしたちの存在するかぎり、死は現に存在せず、死が現に存在するときは、もはやわたしたちは存在しないのだから」。
本書で久々に思い出した私のお気に入りの思想が二つ。エピクロスのように、わずらわしい世の中との関係を断ち切り、山にこもったり、放頃の旅に出たり、出家したりして、自分の理想を守ろうという隠者の理想が一つ。「ほんとうのことをくり返してしゃべったって、しかたがないではありませんか。だいいち、ちっともおもしろくない。二つの世界があることを知らねばなりませんよ。その一つの世界とは、現実の世界で、これは話さないでも存在している世界、話さないでもわかっている世界です。もう一つの世界は、芸術の世界で、これは話さなければいけない。話さなくては存在しない世界なんだから。」というワイルドの思想がもう一つ。美的快楽主義、耽美主義。アタラクシア。
Posted by ブクログ
『人間の生活には目的なんかないのです。人間は動物の一種ですから、食って、寝て、性交して、寿命がくれば死ぬだけです。』
冒頭からすごいフレーズだなと。
でも、ある意味人間の本質を突いてる気がする。
他人の胸の内なんてわかんないからこの考えが正しいのかも。
Posted by ブクログ
1965年に発刊された単行本の文庫版。1996年にやっと文庫化されたというのは、この本が当時の日本に与えた衝撃がかなり大きかったということなのかな?こんなの読んじゃいけません!みたいな、保守的な偉い人とか知識人たちもたくさんいただろうなぁと想像する。本文中に、こんな箇所がある。
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p.47
個人的な快楽はすべて軽蔑すべきものであり、不健全なものだ、と頭からきめこんでいる人たちがいます。「きのうは映画、きょうはボーリング。」などというと、不愉快そうな顔をし、「昨夜はおばあさんのお通夜に行ってきました。」などというと、いかにも満足そうな顔をする人たちがいます。
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そういう人たちが大多数の時代にあっては、澁澤龍彦さんが翻訳したたとえばマルキド・サドの著作の数々も、澁澤さん自身の本も、かなり前衛的でアブノーマルなものと捉えられただろう。でも令和5年の今日読むと、そこまでぶっ飛んだ内容でもなかったように感じてしまうから不思議。欧米に比べたらまだまだなのだろうけれど、日本だけで半世紀前と今とを比べてみれば、思想的にも、性的にも、本当に多様性に寛容になってきてはいるんだなぁと思った。
そしてわたしは重大なミスを犯していた。昔読んだ『西洋哲学史 古代から中世へ』がずっと印象に残っていて、その著者が書いた本だと思ってこの本を借りたのだけれど、『西洋哲学史〜』は熊野純彦さんで、澁澤龍彦さんでは全くなかった…道理で文章の雰囲気が似ても似つかなかったわけだわ。
Posted by ブクログ
第一章 幸福より快楽を
から始まり、刺激的だが、荒唐無稽ではなく、むしろ生活そのものであるようなエッセイ。
快楽 とある以上、五感のリアルである事よ。
確かに、現代、概念的理性的に寄りすぎているかもしれない。
なんなら労働ですら遊んで仕舞おうか。
Posted by ブクログ
澁澤の人気本。
今とは全く異なる時代背景にあって書かれたエッセイだから、ややもすると噛みつかれそうな表現があるが、さすが大先輩、古今東西の文学の豊かな土壌に培われ寛容だ。スカトロジーが研究対象だと巫山戯る私とは雲泥の差。
澁澤本人はこの本を嫌ったらしい。かれのすすめる快楽主義とは実のところ何であるのか、お茶を濁すきらいもある。しかし、目次を追っただけで内容が読めてしまうような自己啓発書よりも、これを読んで澁澤の紹介する「韜晦」や「ダンディズム」を知るほうが、人は生きやすくなるのでは。
Posted by ブクログ
精神の貴族たれ、という時に、都合の良い解釈かもしれないけれど、本書に書かれている姿勢をそのまま実績せよとは言っていないと思うので、
例えば本書でかなりページをさかれているエロティシズムに関しては正直なところ、共感は出来なかったが、要は偏屈だ頑固だと言われても、少なくとも精神の自由を侵されてはならないのだと言う主張だと解した。
巻末で解説者は、次のような趣旨を述べている。
本書での、労働の忌避や、大衆化したレジャー産業に乗せられないようにとの警鐘は既にして時代遅れで、定職につかないような若者、ますます個別多様化する趣向などはもはや当たり前になりつつある、と。
また著者は、当時、それこそ大衆向けの安易な入門書?のレーベルに執筆することに抵抗を感じていたともいう。
しかし、本書で重要なのは先に述べたように、誘惑に対して自覚的に乗っかるようなことがあっても、周囲の状況に安易に迎合せずに、既存の価値観念を冷静に検討し、少なくとも精神的には孤高の自由を保つことを最重要視しているのではないか。
時代が変わって、一見多様化したように思えても、結局似たような集団が形成されている状況に変わりないのではないか。
著者が執筆した当時のような破壊すべき「大衆」側の文化は、分かりにくい状況ではあるが、個人として取るべきスタンスは変わらない。そういうものを考えるヒントになるのが本書ではないか。
Posted by ブクログ
あっさりした読みごごち。わかりやすい文章。
幸福: 受動的
快楽: 能動的
周りに流されることなく自分を貫く
先延ばしではなく現在の快楽、自然のままに感情を楽しむこと、を極大化させる。
Posted by ブクログ
「人生には目的なんかない」
強烈にパンチの効いた一行で始まる本書では
人間も本来動物の一種でしかないのだから、食って寝てやっての動物的欲望のみを謳歌しておれば良いはずが、文明の発達と共に宗教的な戒律や社会的倫理や世間の目など社会生活を送る上での制約に縛られるようになってしまっている。その中で見つけられる幸福に依拠するのではなく、自分自身にとってもっとアドレナリンやエンドルフィンがばくばく出るような興味の湧く欲求や欲望に人の目や世間体を顧みずにもっともっと積極的に取り組んで快楽を突き詰めろ…と、それこそが一回きりの人生を楽しむ秘訣なのだって言っていると感じました。
過去の偉人達のエピソードを織り交ぜつつ平易な文章で読みやすいので取っ付き易い一冊です。
Posted by ブクログ
・人生には、目的なんかない
・幸福とは、まことにとりとめのない、ふわふわした主観的なものであって、その当事者の感受性や、人生観や、教養などによってどうにでも変わりうるものだ
・快楽には確固とした客観的な基準があり、ぎゅっと手でつかめるような、新鮮な肌ざわり、重量感があります
・「汝の隣人を愛せ」は空虚な理想
・夢の中に出てくるネクタイはペニスの象徴
Posted by ブクログ
「現実原則」に支配され、規格品のレジャーを供与されることで満足しきって「幸福」を感じている大衆は、今も昔も変わらない。一匹狼として、つくられた流行や価値に反抗し自ら快楽を発見することが肝要であると言った澁澤氏の思考や生活の理想が、大量消費社会や欺瞞に満ちた民主主義の中に生きる私の胸に突き刺さり、決して忘れることができないものとなりました。
しかしながら、現代の同性愛や風俗の乱れ、過剰な自己表現などの抑圧された欲求が解放された社会がスタンダードとなり、澁澤氏の主張が一匹狼的ではなくなった皮肉な情況をみて、単純に良い世の中だとは言えない気持ちになってしまいました。
終局的には、既成の道徳や価値、法律といったものは偏見の集合体であり、偏見を否定することは社会のルールを否定するのと同義であるという撞着の論理の導出から、本書で性感帯の拡大、性のアナーキズムと言われているような一種の「原始的社会」の成立が必要なのかもしれません(文明的退行という意味ではなく)。
Posted by ブクログ
古今東西の快楽主義者の著作に関する博識を駆使し、快楽主義とは何かを説いていく。
内容に少し時代を感じるものの、読んでいて納得する部分が多々あり面白かった。
Posted by ブクログ
日々の労働や将来への不安だけでなく、性愛の自制さえも優しくいなしてくれる一冊。人間的であれ、文化的であれ、そう洗脳されてきた私たちが、今更「動物的に生きる」なんてことはできそうもない。しかし、幸福・道徳・健全を是とする現代社会を、これほどバッサリ切ってくれる文章は痛快この上なく、まさに快楽である。
Posted by ブクログ
世の中や古い価値観を斬りまくる、「ダンディ」な澁澤龍彦に惚れました。非常に読みやすいが、エッジの効いた文章で、読んでいて心地よさすら感じます。
Posted by ブクログ
情死の美学は好きだったな。去年道行ものの日本画をたくさん見たからかな。
全体としてはサクサク読めて手頃だし、基本スタンスは自分のそれと一緒なので楽
Posted by ブクログ
澁澤龍彦には多分に影響を受けているが、この本は現代人の自分にとって余りにも当たり前の内容だった。
幸福なんかより刹那的な快楽、現在形よりing形を重視する生き方なんて当たり前でしょう。
マジメな人には今でも響くものがあるかもしれない
とはいえ、ソクラテスや宮沢賢治を痛烈にディスるのは心地よかった。(かなり無理矢理だが)
Posted by ブクログ
”幸福とは、たんに苦痛の欠如です。 ”
欲望を満たすことこそ人生の目標である、という考えを元に、欲望の中でも消極的な傾向にある「幸福」"ではなく"、積極的な欲望である「快楽」に焦点を当てて筆者の考えを綴った本。
前半は、社会における「快楽」の立ち位置やその性質について書かれており「快楽主義」についての説明がなされている。
中盤からは「快楽」の中でも、最も強いとされている性行為についての考察や「快楽主義」であったとされる歴史上の偉人についての話が続く。
例として頻繁に上がるのが文学者や中世の時代背景だったりするのでその辺に興味が無いとあまり楽しめないかもしれない。
それでも、この本を読むことで澁澤龍彦という人の頭の中、博愛主義や現代社会の枠組みなどを払いのけて「快楽」を追い求める姿勢が垣間見えたのは良かった。
Posted by ブクログ
この本を読むまで、快楽主義と聞いて個人的に思いつくのは、辛いことから逃げて楽しいこと(快楽)に逃げる、ということであった。
ところが本書で著者は、快楽主義をもっとプラスな意味で捉えていた。自分の自分の求める理想、さらに楽しく生きることが出来る方向へ、覚悟を決めて進んでいく。そうやって自分で快楽を発見して掴んでいくことが本当の快楽主義者である、ということであった。
60年代の作品だということを忘れてしまうほど、しっくりと入ってきた。あとがきで浅羽通明氏は、今ではそこまで珍しい論ではないということも述べているが、個人的には感銘を受ける内容が多々あった。ただ、浅羽氏の言葉を受けて、時代が違うんだから、そこまで思いつめて著者の論を全て受け入れなくてもいい、と言われているような安堵感があったことは拭えない。
この作品を読んで、澁澤龍彦という人物に非常に興味が湧いたので、今後著書やムックを読んでみようと思った。
Posted by ブクログ
何か勢いで書いとる感満載な感じなんやけども、澁澤龍彦ってこんなんも書くのね。
国語教育学が幸福、国文学が快楽だと思った。
同じ作品を扱っていても、いつもえらい畑違いやと感じさせられることが多々あったんやけどね、求めるものが幸福なのか快楽なのかっていう違いなのかもなと思った。
Posted by ブクログ
1960年代に書かれた澁澤龍彦さんの雑談。
色んなものに縛られていないでやりたいようにやろうよ!という呼びかけが冗談交じりに行われる本。
ユーモア溢れる内容です。
人間がいつでも遊んでいるような状態にならなければ真の意味で社会や文明が進歩したということにはならないという考えには文句無しに首肯する。
Posted by ブクログ
人生に目的なんか無い。幸福の基準はあいまいだが、快楽の基準は明確だ。だから快楽主義をすすめたい。身も蓋もなくいうとそんな感じ。
人と同じである必要はないけれど、世間の物差しからはずれちゃうと生きにくい世の中なんだよねぇ。。。
Posted by ブクログ
苦痛の回避、という消極的な「幸福」ではなく、欲望の充足、という積極的な「快楽」を求めるべし、と筆者は言う。
一見すると、明快かつ痛快。宮沢賢治を批判した部分は特に面白かった。『ソウイウモノニワタシハナリタクアリマセン!』(p46)
だが、筆者が提示する快楽主義の理想は、俺のような凡人には眩しすぎて、フィクションにしか思えない。筆者がしきりに「こうあるべし」と奨励してくる快楽主義者になりたいとは全く思わないし、周囲にそんな人間がいたらむしろ迷惑だ。
しかし、ただひたすら快楽を追求したいという欲望は誰もが秘めているものというのは事実だろう。だからこそ――大半の凡人が自らをもって快楽主義者を演じ切ることができないからこそ、そういった欲望を脳内で満たしてくれる文学その他の芸術作品って需要があるんじゃないかな。