澁澤龍彦のレビュー一覧
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澁澤龍彦のエッセイの中では比較的おとなしめで分量もかなり少なく、難解な表現もほぼないと言って良い。あとがきで「女性読者が、何らかの指針なり暗示なりを探り出して頂ければ、筆者としては幸いである」と述べていることからも、かなりフランクで澁澤龍彦初心者向けの1冊になっている。
しかし、一見「そのエピソード、知ってるよ〜」と思いながらページをめくっていると、とんでもない解釈・情報も書かれていたりするので、そこは流石澁澤龍彦だなぁと思いながら、退屈にはならなかった。パッと手にしてザッと読めてしまうのもポイントが高い。忘れそうになったら気になるところだけ読み直すのもアリ。 -
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『ねむり姫』リーダビリティはよい。ポニーで田舎者を馬鹿にするのがなんか
『狐媚記』狐の好物ってさうなのね。(原典読んで「澁澤作品の方が」と言へるレヴェルの筈)
『ぼろんじ』澁澤先生みとこーもんくらゐは見てたってどっかに書いてあった筈
『夢ちがえ』 琵琶湖の畔の話なのね。(田楽を舞ふ異形のなんぞが鎌倉でどうたら話があるさうなのだが先生の地元シリーズに入らない)
『画美人』へそー
『きらら姫』おさるスーツと、欲望に弱いキャラがそれを叶へて「あぁ、俺がナニしたあれが」と言ふのであったと言ふのが、衝撃。しかもタイムトラベルをするではないか。で先生の地元シリーズの壱。 -
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澁澤龍彦の遺作。
高丘(高岳)親王は実在の人物で、平城帝の第三皇子。
平城帝が譲位した後の嵯峨帝の皇太子であったが、「薬子の変」により廃太子され、出家した人物である。
薬子は平城帝の愛妾である。元々は薬子の娘が平城帝(当時は東宮)に召されて宮中に上がることになったが、まだ幼い娘の後見のような形で母の薬子が同行する。ところが東宮は母の方に夢中になって寵愛してしまう。もちろん、薬子には夫がいるのに、である。父・桓武帝は醜聞に怒り、薬子は追放。だが、桓武帝の死に伴って、平城帝は再び(今度は尚侍として)薬子を呼び戻す。
後、嵯峨帝に譲位して上皇となるも、都を平城京に戻して、政権を再び掌握しようとする。その陰には寵愛されていた薬子とその兄の動きもあり、そのため「薬子の変」と名付けられてはいる。が、おそらく薬子一派だけではなく、多くの人のさまざまな思惑が絡んでのことだろう。「薬子の変」と名付けて、上皇の女狂いのせいで片付けてしまうのが落としどころとしてはちょうどよかったのだと思われる。
いずれにしろ、上皇方は敗北。薬子は尚侍の職を解かれて、後、自殺。兄は左遷されて、後、射殺。上皇は出家。皇太子であった高丘親王も廃太子となった。
・・・というような前段は本書では軽く触れられるのみ。
物語では高丘親王はもう老人である。
出家し、空海の弟子として修業したのも遠い昔のこと。
老人になってから唐に渡った親王は、さらに天竺を目指す。通説では、唐では仏教が衰退しており、優れた師が見つからなかったため、仏法の真理を求める親王は渡天を決意する、となっているが、澁澤はこの説をよしとしない。唐での滞在期間が短すぎるのである。おそらく、親王にとって、最初から唐は目的地ではなく、経由地に過ぎなかった。天竺へのあこがれから、まずは唐に行き、天竺への手づるを探し求めたのだろう、という。
その背景には、母のようでもあり、それでいて妖艶でもあった、薬子の想い出があったのではないか、というのがこの幻想譚の始まりである。
そう、これは幻想譚というべきものだ。
親王は老境に至ってもどこか少年のようで、従者らは彼を「みこ」と呼ぶ。
彼らは、海路、天竺を目指す。
その途上で、さまざま異形のもの・不思議な出来事に遭遇する。
言葉を話す儒艮(ジュゴン)。
人の夢を食う獏。
上半身が人、下半身が鳥の女たち。
死期の近い人は水面に姿が映らぬ湖。
のどに詰まった真珠。
生気を吸い取り、人をミイラに変えてしまう花。
迦陵頻伽の鳥。
親王の命は長くはないことが旅の途上でわかる。
病に倒れ、それでも天竺を目指す親王が最後に取った手段とは。
無残なようで、実はこれほど幸福なことはないのかもしれない。
仏教も絡ませながら、どこか妖艶な香りも漂う。
母なるものへの思慕。年上の女へのあこがれ。
それらすべてが浄化され、鳥の舞い踊る中、この世ならぬ世界へと向かうのだ。
これが絶筆となった澁澤もまた、脳裏で彼の「天竺」にたどり着いたのだろうか。 -
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ペロー童話といえば、「赤ずきん」や「長靴をはいた猫」、「眠れる森の美女」あたりが有名だろうか。数多くリライトもされ、そうして出版されるものの多くは「子供向け」にアレンジされている。
だが、実は原作はかなり荒削り、ときに残酷、ときにかなり性的だ。それが逆に「味わい」でもあるのだが。
ペローが採話した民間伝承・昔話がベースになり、そこにペローが多少の脚色と「教訓」を加えている。アカデミー・フランセーズの会員であったペローが、文芸サロンで発表したものを徐々に練り上げて形にしていったもので、そのあたりは別の本(『いま読む ペロー「昔話」』)に詳しい。
河出文庫版は澁澤龍彦訳、底本はガルニエ古典叢書1967年版。
収録作は、「猫の親方あるいは長靴をはいた猫」「赤頭巾ちゃん」「仙女たち」「サンドリヨンあるいは小さなガラスの上靴」「捲き毛のリケ」「眠れる森の美女」「青髯」「親指太郎」「驢馬の皮」の8編(こうしてタイトルを書き出してみるだけで、訳語や漢字の選び方に、澁澤のこだわりがそこはかとなく感じられるようにも思う)。
原作にほぼ即しているが、最後の「驢馬の皮」のみは韻文であったものを散文形式に訳している。
初出は創刊時(昭和45年)の雑誌「アンアン」だったそうで、「アンアン」てかなり尖がった雑誌だったのだな、というのも興味深いところである。
グリム童話に比べてプリミティブで荒っぽいのがペローの味わい。
「赤頭巾ちゃん」は狼に食べられっぱなしで終わる(猟師は助けに来てはくれない)し、「眠れる森の美女」は王子様に助けられてめでたしめでたしかと思えば、お姑さんが人食い鬼(!)で危うく子供もろとも食われそうになる。
「えええー」と呆然としているところに、わかったようなわからないような「教訓」が最後に述べられ、「ああ、そう、なんですか・・・?」とさらにぽかんとしてしまう。
「赤頭巾ちゃん」の教訓の一部はこんな風。
狼は食べるのが商売なのだから
食べられたって不思議はないのです。
(中略)
牙をかくし、爪をかくし
御機嫌とりの、甘い言葉をささやきながら
(中略)
この甘ったるい狼ほど、
危険なものはないのです。
・・・赤頭巾ちゃん、可哀そうだったけど、自己責任なの、これ・・・?
澁澤の流麗な訳に、片山健の妖しく美しい絵。どこか四谷シモンの人形なども連想させる、異界のエロス。少女性愛なども匂わせる。
そういう意味で強烈なのは最終話の「驢馬の皮」。これはあまり知られていないお話ではないかと思うが、一種の貴種流離譚である。
強く富もある王様、美しい王妃、一粒種のかわいい姫。何不自由ない一家に不幸が訪れ、お妃が亡くなってしまう。父王は悲しみのあまり、正気を失い、母の面影を宿す姫を恋い慕うようになってしまう。姫は何とか父の気を逸らそうとするがうまくいかず、父との結婚を強いられそうになる。辛くも驢馬の皮をかぶって宮廷を逃れ、とある農家で下女として働くようになる。
最終的には姫は自身の幸せを見つけ、父王も正気を取り戻すのだが、子供に読み聞かせるにはあまり向かないお話かもしれない。
タイトル・表紙絵に「長靴をはいた猫」が採られているのは澁澤の希望による。雑誌連載時も片山の挿絵で、澁澤は特にこの「猫」が気に入っていたのだという。
澁澤は巻末解説で、「ダヤン将軍のように眼帯をしている」と述べているが、ダヤンとはイスラエルの英雄で、第二次大戦時に眼を負傷し、隻眼の将軍として知られた人物である。
現実を離れた味わいが魅力。時には異界に遊ぶのも悪くはない。
でも、狼には気をつけて・・・! -
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精神の貴族たれ、という時に、都合の良い解釈かもしれないけれど、本書に書かれている姿勢をそのまま実績せよとは言っていないと思うので、
例えば本書でかなりページをさかれているエロティシズムに関しては正直なところ、共感は出来なかったが、要は偏屈だ頑固だと言われても、少なくとも精神の自由を侵されてはならないのだと言う主張だと解した。
巻末で解説者は、次のような趣旨を述べている。
本書での、労働の忌避や、大衆化したレジャー産業に乗せられないようにとの警鐘は既にして時代遅れで、定職につかないような若者、ますます個別多様化する趣向などはもはや当たり前になりつつある、と。
また著者は、当時、それこそ大衆向けの安易な入門書?のレーベルに執筆することに抵抗を感じていたともいう。
しかし、本書で重要なのは先に述べたように、誘惑に対して自覚的に乗っかるようなことがあっても、周囲の状況に安易に迎合せずに、既存の価値観念を冷静に検討し、少なくとも精神的には孤高の自由を保つことを最重要視しているのではないか。
時代が変わって、一見多様化したように思えても、結局似たような集団が形成されている状況に変わりないのではないか。
著者が執筆した当時のような破壊すべき「大衆」側の文化は、分かりにくい状況ではあるが、個人として取るべきスタンスは変わらない。そういうものを考えるヒントになるのが本書ではないか。