ジャワ攻略を予想以上の成功に導いたのは,ジャングルへの備えと今村均中将およびその命令下の将士の冷静かつ果敢な行動,それに陸海軍の緊密な協力にあった。今村中将の逸話を聞くに従い,これが太平洋戦争全体を包んでいたらという思いを強く持つ。
今村中将は,インドネシアに侵攻しつつも,常に現地人への被害に対す
...続きを読むる反省がつきまとっていたに違いない。このため,オランダの降伏後は,民政に力を入れ,インドネシアの現地人の独立を助けるように支援した。そんな占領初期の日本人に対しては,現地人は非常に好感を持ってこれを向かえ,惜しまない協力をくれた。インドネシアは,どこの占領地域よりも明るく,活気があり,みな伸び伸びと生活していた。しかし,一方で,日本国内の窮乏は日に日に深刻の度合いを深め,このような明るい姿に嫉妬しだし,臥薪嘗胆主義者達の感情に触れた。中央から派遣された武藤章軍務局長が東条の意を携え飛来して来た。威令に満ち・厳しい統治を進めよということだ。今村は決して日本の方針を踏み外すことはなかった。ただ,今村の言う日本の方針とは,唯一,天皇陛下の決定された統治要綱であり,『戦略物資の確保,国際法の厳守,現地の人心安定』の3つであった。その3つを厳守するためには,威令でも鞭でもなく,現地人に常に希望の光を灯しておく,つまりは,独立の夢を支援してあげる事こそが,インドネシアを統治し,うまく運営して行く要となると武藤に懇々と説いた。今村から言わせると,この度の中央からの命令は,天皇の意に沿ったものではなく,陸軍省の感覚や,一部の秀才が勝手に天皇の統治要綱を変更したものだと。ただ,残念ながら今村中将の統治から,軍政当局者による統治に変わるにつれ,現地人には威風で臨めといった空威張りが横行するようになり現地人も暗澹としていく。
ミッドウェー海戦は,日本側からいえば大敗北であり,これまでの必勝の自信と誇りを失う痛恨事であった。当時の海軍は,名実ともに世界のトップクラスであった。ゼロ戦の戦闘力や魚雷の射程距離などは世界随一であった事は明白である。そんな帝国海軍がミッドウェーでは信じられない敗北を喫する。その原因として,今日あげられる最大のものは,連戦連勝の成果に酔った指導部の慢心であったとされる。確かに,それは外れていないが,その背景にあったものを全て理解した後に語るべきものであり,軽々しく,無謀で狂気の沙汰の海戦であったと済ませてはならない。それでは,失われた日本兵の死が全く無意味な犬死に成り下がって行くではないか。歴史上,全く無意味な犬死などは存在しない。それは後世の人々が,その意味するものを探り出そうとする努力を怠り,その過去の事実から反省の資を摂取する才能を持たない人々の,まことに不遜な片付け方ではないかと思うのである。著者としては,この部分を,少なくとも読者には知ってもらいたい,理解してもらいたい,教訓にしてもらいたいと思って,おそらく大げさではなく,命を削ってでも後世に文字として残したのだろう。
本来,海軍は戦争を長引かせることは不可能だと言ってきた。山本は1年ぐらいは十分暴れられるが,その後は自信がないと言っているし,海軍軍令部総長の永野も対米戦争は1年か2年は持ちこたえられるが,それから先は分からないといっている。石油の貯蔵量を使い果たすと,世界一の艦隊も軍港に抑留しなければならなくなるためである。このため,太平洋での防衛的な戦略戦術は取りえない。速戦・即決で如何に早く戦争を有利なうちに終結させるかということに尽きるのであった。まずはハワイを襲撃し,太平洋の制海権を確保し,続いて東南アジアの海域からインド洋を制圧し,陸軍の行動を助けて戦略物資の調達路を確保し,そして,ハワイ奇襲により打撃を与えたアメリカの超大海軍の再建完成を最も効果的に妨害して行くことであった。ただ,アメリカ本土を攻撃して,生産設備を破壊する力まではない。このため,再建艦隊の大きくならないうちにこれをいずれかの海域に誘い出し,艦隊決戦に挑んで行くほかなかった。再建できたアメリカ艦隊がこちらを圧倒するほどの大勢力にならないうちに,どこかの海域へ引っ張り出して叩くこと,これがギリギリで考え出された山本戦法の根幹を成すものであったろう。南は豪州から北はアリューシャン列島まで,広大な作戦規模は,わざと巨大なくもの巣の網を張り,そこへ誘き出し,ひっ包んで撃沈してゆく,そしてその間に好機を捉えてこの戦を終息に導かせるという構想だ。こちらがその意気込みでアメリカ軍を射ち沈めていこうにも,向こうはそれに優る生産力を持っている。それに反して味方は小艦艇一隻を失っても,それはもはや今次の戦争中に補充される見通しはないという,絶対のマイナスに繋がってゆくギリギリの戦だったのだ。アメリカは『日本海軍は石油という動力源のパイプを閉ざしておきさえすれば,両3年の間には乾上る海軍だ』といった蔑視の上に立って,石油の禁輸を断行し,日本はあらゆる面から挑発した。それに対し,日本は従来の戦略戦術をもってしては全然勝ち味のない戦ながら,止むなくこれに突入して来ているのであった。利害を計算したら開戦すべきではなく,はじめから米英のなすがままに任せておく方がよかったのだ。そういった思考のもとから,ミッドウェー作戦を決定していったのは,やむを得ない成り行きだったと思うのである。
真珠湾,シンガポール占領,フィリピン攻略などは,米英は出鼻を挫かれただけで,全然立ち上がってはいないのだ。それなのに,これ以上戦局を拡大し,進むのは不当である等,陸軍出身の東条の考え方もあり,これ以上学生は召集しないという声明が発せられた。連戦連勝の経験がひどくタガを緩ませ,山本の『今度の敵は我が国始まって以来,最大最強の敵である』と言う主張を理解する人間は少なかった。また,情報戦・索敵戦については,アメリカに大きくひけをとっていた。索敵による敵機発見が1時間差があるだけで,運命を決してゆく,言いようもなく大切な差になってしまったのが,ミッドウェー海戦である。この海戦で,日本軍は最新鋭艦4隻を失ったが,それはこの戦争中の日本の実力では取り返しのつかない損失である事を海戦に臨んだ艦長や司令官は認識しており,そのために,自艦沈没の折には,責任をとって,艦とともに沈んだ者が多かった。
山本五十六が三国同盟には徹底して反対していながら,太平洋戦争には徹底的に反対しなかった理由として,『日本の革命』があった。もし太平洋戦争に海軍をあげて反対したら,陸軍の少壮将校は必ずクーデターをやるに違いない。そうなると,国家社会主義やら共産主義やら,判然しない革命政権が出現するだろう。そして,彼らは現在よりも数倍混乱した能力で,昂然とアメリカに挑戦していくにちがいない。その結果,日本は現在の力で戦うよりはるかに惨憺たる亡国になってゆくに違いない。そこで歯を食いしばって開戦に賛成する。賛成するが,早期決戦で講和に持ち込まなければ勝ち味はないことを常に中央に忠告しなければならない。その忠告が届かぬと見た時に,海軍は平素の教育信条のとおり,最後の一兵に至るまで厳しく戦って滅んでゆこうと考えていた。ミッドウェーでは敗北したが,これはミッドウェーと言う局地戦での敗北ではなく,太平洋戦争という大きな視点でも日本海軍は敗北したと言ってもいいだろう。
海軍敗北の一ページはミッドウェーであったが,それと相対する陸軍敗北の第一歩は,ガダルカナル島争奪戦であった。当初は,日本陸軍はガダルカナル島を重視していなかった。というより,このような島はしらなかった。アメリカは逆に,アメリカと豪州の生命線を守る城砦として,日本軍をこれ以上南に進出させないために,絶対欠くことの出来ない拠点であった。その意識においても,守るアメリカ方と攻める日本方では,緊迫度合いも違い,それに輪をかけるように,日本軍の驕りがあった。
ガダルカナルの戦況が悪化して行くにつれ,日本軍の驕り,無謀は輪をかけて増していった。『こうなったら日本軍の面目に賭けてもアメリカ軍を殲滅してやる』と,満々とした考えが中央にも現地軍にもあった。ただ,次第に要塞化され,軍備も充実していくアメリカ軍を冷静な目で捉え,深入りせず,こちらも戦略をもう一度練り直すべきだといったような後ろ向きな意見もあったが,これは一蹴された。そこへ,カノン砲や砲弾とともに,11名の参謀陣と派遣参謀も3名を加え,大兵団を送り込み,一大決戦をしようという動きを陸軍中央部がとるのである。1万5千人の軍隊を送り届けるには,空海上から,それなりの援護が必要になる。しかし,このような隙間は現時点ではほとんどなく,無理に上陸しようとして敵機に見つかり,人員・軍資の大半が海の藻屑に消えてしまったのである。辛うじて上陸した部隊には,10日を養うほどの食料もなく,弾薬は半日で尽きるぐらいしか残っていなかった。これに,マラリヤや赤痢などに多くの兵士が感染し,兵士達は骨と皮ばかりになっていた。引き返すにも船もなく,まさに,行くも死,留まるも死であった。大挙やってきた若い参謀達は大きく狂っていたが,反面,その他の将士や兵士達は責任感があり,再起の可能性がほとんどないと悟った時,この際残っている精力をふりしぼって一寸たりとも前進し,もって後続部隊のために道を拓いておくことが最後の奉公となると考えて,散華していった。2回もの総攻撃に失敗した日本軍は,アメリカ軍に負けたと言うより,これら若き参謀達の稚拙で無謀で全く理解に苦しむ戦略による犠牲となったとも言えよう。
既にガダルカナル島が敵の反抗の第一拠点となったことは明瞭である。ここに,陸軍がこだわればこだわるほど,犠牲は陸軍だけでは済まず,その護衛・輸送に協力する太平洋上の主戦力である海軍勢力の大消耗を来たして,戦争全体の敗色を深める結果となった。2回もの総攻撃に失敗した日本軍だが,子供の喧嘩のような面子にこだわり,意地にもなって,第3次の総攻撃に突撃していったのは,後世の私達から見れば,何故という疑問を超えて,腹ただしくもあり,またそこで亡くなった士卒のことを思うと,やるせない気持ちになるのである。
これらの太平洋戦争では,帝国陸軍の異常なまでの意地や,開戦初期は幸運にみまわれただけのことなのにそれを当たり前のように感じ驕りに変わっていったことが不運な結果を引き起こす大きな要因になったのである。この教訓から,我々は,勝っておごらず,敗れても狼狽しない冷静さをつねに堅持していかねばならないと肝に命じなければ,散っていった将士達に申し訳が立たなくなる気持ちに襲われる。
ガダルカナル島では,第2次総攻撃で生き残った兵達が,飢餓に近い状態で取り残されている。彼らが今戦っているのは,アメリカ軍ではなく,病や飢えに対してであった。川という川には魚一匹いなくなり,森からはトカゲも一匹もいなくなったという。見つけ次第にとる人間の数が多すぎるので,さしものトカゲの群れも食い尽くされてしまったのだ。そんな異常な状態を引き起こすのも,戦争の一情景であることを心しておかなければならない。ある時には,立派な美点として通る日本人の『頑張り』が,ある時には欠点となって,悲劇の波紋を拡大して行ったのだ。第3次総攻撃のため,輸送船団は編成され,魔の海域に乗り出したが,結局これも敵の猛襲に会い,食料の不足している飢餓の島へ,十分な食料の補充も行い得ないまま,人員の補充のみが行われ,悲劇の上塗りをしてしまった。輸送船団の被災により,アメリカ軍との軍備の差が更に増すとともに,原料調達力と生産力の差がいよいよ激しく日本側を圧迫していった。
退きたくても意地でも退けない,そんな陸軍の状況をみかねた山本五十六は,『撤退断行のほかに結論なし』と大本営に具申した。正直なところ,その山本の具申には陸軍首脳部も,ほっとしたのではないか。でも,そこに至るには余りにも多くの犠牲が出すぎた。そして,このような状況において,現地の兵員達は撤退を良しとするのかも問題であった。ここまできたら,飢え死にか,玉砕覚悟の特攻か,そんな選択を迫られているギリギリの状態で,撤退という言葉に飛びつき得ないというのがこれまでの犠牲者と,陸軍参謀達に対する無言の抗議であったのではないか。
投入総員3万3千人のうち,戦死1万4千600人,戦病死4千300人,行方不明2千400人という同胞の犠牲がガダルカナルという一小島で起こった事実である。ここは,日本陸軍の哀しい墓地の一つであった。