山岡荘八のレビュー一覧
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吉田松陰の命日を迎え、山岡荘八の著書を読む。
第一巻は幼少時から脱藩覚悟で東北への旅へ向かい士籍を失うまで。
この後、松陰は10年間の遊学を認められるわけだが、この長州藩の優秀な若手を育成させる術が維新に向けて人材を輩出する原動力になっていることを改めて認識する。
叔父の玉木文之進からの受けた厳しい教育等、松陰の人格形成を育んだ幼少期の部分は「教育のあり方」を考える意味でも興味深い。
英才教育とは『公』を徹底的に意識させること。
以下引用~
・「足るを知らない人間は生涯幸福にはなり得ない」
・「これから十五、六歳の元服までの期間は躾の時期じゃ。この間に、忠をつけ、孝をしつけ、礼をしつけ、勤勉をしつけるのに何の容赦がいるものか」
・「百術不如一清(ひゃくじゅついっせいにしかず)」あらゆる権謀術策は一つの清廉さに及ばない。
・「日本中の人物地理を描いておくために」 -
Posted by ブクログ
これまた痛快な巻。
美濃攻め、近江蹂躙、近畿制圧。
前半は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の活躍が目覚ましい。
中盤から明智光秀が信長の下で働き出すけど、
僕が知っている光秀のイメージとは、全く違う人物に描かれている。
僕のイメージとは違うまま終わるのか?
それとも、これから変わっていくのか?
そこらへんも楽しみ。
とにかく副題の『侵略怒涛の巻』の通り、
どんどんと攻め落として行く織田軍。
広く視野を持ち、決して自分の都合の良い計算をしない。
いろいろな思想を汲み取り、
瞬時に判断し、電光石火のごとく行動を起こす。
大事だと思った。
意外だったのは、
京に上洛した信長が、民から支持されていた事。
己の名誉に全く欲の無かった信長だからこその行動がそれを得た。
織田信長がこんなにも『平和』を目指していた人物だと言うのは、
世間一般的には知られてないと思った。
また少し、信長殿に惹かれました!! -
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大権現様が盟友の死と人生の危機を堪え忍ぶ8巻。
自分の中の家康像では、
伊賀越では信長の死を知り、
狼狽えまくり、前途に絶望して死のうとし、
本多忠勝あたりに殴られて思いとどまり、
ひいひい言いながら岡崎に帰って、
兵を出したところで光秀が討たれた知らせを聞き、
秀吉の行動の速さに唖然とするのだが、
この小説では常に堂々としており、三手先を読みつつ、
どんな状況でも民衆を救うことばかりを考えている。
聖人君子というレベルを超えており、
思わず本に手を合わせたくなってしまう。
この小説の家康公は作者に平和への祈りを
託された存在なので、天から遣わされた
神仏の化身として描かれているのだろうか。
これからは大権現様とお呼びすることにしよう。 -
Posted by ブクログ
ネタバレいよいよ最終巻だ。
陛下の玉音放送に先立ち,日本が条件付で受諾することが日本軍の青年将校達に漏れ,彼らの動きは慌しくなった。ある者はテロによって,平沼,近衛,岡田,鈴木,米内,東郷を暗殺すべきだとし,またある者は陸軍大臣の治安維持のための兵力使用権を利用し,実質的にクーデターを断行すべきだとして,その構想を進めだしていた。
外務省では『天皇の主権が一時軍司令官の”制限下におかれる”』と訳され,これは『”隷属”ではないか』と将校達が騒ぎだした。天皇の大権が軍司令官に隷属して何の国体護持であろうか。もはや逡巡すべき時ではない。国体護持のために敢然決起して天皇を我らの手に奪い返さなければならない!という空気が支配的に強くなった。敵の手で武装解除されるというのだから,感情的に納得できるはずがない。そんな屈辱に耐えるぐらいなら,人も我も共に死を選ぶべきだ,というのが根本にある。しかしながら,このクーデターは,陸軍上層部には依然として保持されていた”承詔必謹”により,なだめられ,また,上層部は,命を投げ出しながらの説得や,自決による無言の慰留などにより,何とか日本人同士で血で血を洗うような内乱には発展せず,治まりを見せた。
敗戦の責任者である軍の側では,阿南大将に続いて自決して行く者が続々と現れた。上は元帥から下は一等兵に至るまで,総計568名の人々が自決に及んでいる。従って,日本人の死生観と人生観,責任感の諸々相は,ここに網羅されていると言って良い。これらの自決者に共通しているのは彼らが自からの肉体を捧げる事によって民族永遠の生命を清めようとしていることであり,清め得ると信じている点である。この自信はいうまでもなく,神国思想の肯定に繋がるもので,ほとんどの遺書の末尾には,天皇陛下万歳か,皇国の弥栄を祈って逝くという殉教的な意味が書き加えられている。また,その反対に,終戦時から,国体だの神国思想だの,伝統だのというものの一切を否定して,過去と訣別しようと騒ぎ立てた進歩的文化人と呼ばれた人も出てきた。
『日本は果たして敗れたのであったろうか?』そうした疑問と反省は日本人の間よりもむしろ外国人に多いようだった。有色人種中唯一の近代国家として20世紀に生き残っていた大日本帝国が,その当時の文明の最大汚点であった人種的差別観という人間不平等の悪慣行に遂に怒りを誘発させられて起ちあがった。そして,数百万の犠牲を払っただけでなく,最初の原子爆弾まで浴びてヘトヘトになったところで,危うく『国体』という眼に見えない観念の中心の柱であった天皇の実力によって救われた。それだけではない,その折にあらためて『神国』の持つ『国体』が色々な面から吟味摘出されて,その護持にはこれしかないというご聖断の前でポツダム宣言を受諾する結果になった。そして受諾してみると,もはや世界の夜は,人種的不平等の点では夜明けを迎えることになっていた。
終戦のご詔勅が放送され,続々と自決者を出しながら,15,16,17日の3日間の間に,日本人が成し得た政治的な処置といえば,鈴木内閣が敗戦の責任をとって総辞職し,これから進駐してくる連合軍の受付窓口として,東久邇内閣を成立させたことぐらいであった。新内閣は,何よりもまず,外地派遣軍の反乱や暴動に気を配った。ポツダム宣言を受諾した以上,これに従うのは日本側の責任だとする律儀な民族性の現われだ。誰を現地へ派遣したら天皇の大御心を誤りなく伝達することができるだろうか。結局これも皇室にすがることになった。捕虜になるよりは死を選べと教育されてきた軍隊が,270万9千人も海外に残っていたのだ。これをおとなしく武装解除しなければならない。全く混乱が無かった訳ではないが,何とか,順次,復員を完了していった。
連合軍の進駐が落ち着くと,太平洋戦争に対する裁判に向けた逮捕が始まった。東条は逮捕されるであろうと当然にして覚悟していた。逮捕前日のインタビューでは,はっきりと戦争責任にも触れている。『私は今度の戦争に責任があった。私は全面的にその責任を負う。しかし,だからといって私は,その事から私が戦犯であるということにはならないと信ずる。自分が正しいと信じている国家の戦争指導を行うことと,戦争犯罪人であることとは別問題である。しかし,これもまた戦勝国の決定するところではあるが。真の軍人は,戦場では最後まで真剣に戦うものである。平和が宣せられたら戦争は終わる。一生懸命にフェアに戦った相手をお互いに尊敬するものである。しかたがって日本国民のみならず,私自身もマッカーサーを尊敬している。』と答えている。この答えはどこまでも理性的でフェアであったと言えるが,相手は東条が考えているほど淡白で寛容な紳士ばかりではなかった。この戦争で流し続けた血の末端に,黄色い皮膚の『剃髪したアジアの極悪人』が立っている。そ奴に復讐しなければ死んだ戦友に合わす顔がないという,集中的な憎悪の焦点に東条をとらえていた。当然,東条は自決も考えたが,次第に自決以上の責任のとり方を考え出していた。累が陛下に及ばないようにしなければならない。陛下が始めからこの戦には反対であり,どのように平和維持のために苦労されたかを一番良く証明できるのは自分ではないかと考えたのだ。
太平洋戦争の裁判は,正式には『極東国際軍事裁判所』と名付けられらが,その命名からして適正とは言えなかった。これが軍事裁判であったことは事実ながら決して『国際的』な裁判ではなかった。国際という以上,戦勝国と敗戦国の双方を中立国の良識が裁くという形を採らなければ正義は期し難い。ところが,この裁判ではアメリカ,ソ連,イギリス,中国,オランダ,フランス,豪州,カナダ,ニュージーランドの9戦勝国が寄ってたかって敗戦国日本を裁くというのだから,公平さとはおよそ縁の遠い,完全に一種の復讐の祭典でしかなかった。降伏した日本人からまず武器を取り上げ,その上で憎悪の対象を逮捕監禁しておいて復讐するというのでは,厳密に言えば法の悪用にほかならない。この裁判はおかしいのではないか,当然そうした声は戦勝国の法律家の間でも上がっていった。そこで,直接命令者であるマッカーサー司令官は,さらにインドとフィリピンを中立国として加盟させたのだが,そのためにこの裁判の本質を変える事にはならなかった。フィリピンは日本軍を憎悪しており,フィリピンの裁判加入は日本人への憎悪に油を注ぐものに他ならず,わずかにインドのアール・ビー・パル判事の判決文だけが,東条はじめ,日本のA級戦犯25名は全部無罪である,と判定した。戦勝国が勝つことによって権力を握り,勝手に法律を作って敗戦国の人民を裁くことができる。勝ちさえすればそれが正義なのだ。そんな不条理な状態を指して,パル判事は『数世紀間の文明を抹殺する思想である』とはっきり述べている。真珠湾の奇襲すら,ルーズベルトが予知していながら,わざと誘いをかけたものであったと判明している現在,この裁判が適正であったか否かは論外としてよいだろう。おそらく,冷徹な合理主義者であり,軍人としては珍しい理想家でもあったマッカーサー司令官がこの不条理に気付いていないはずはない。しかもなお,この復讐の祭典をあえてしなければ幕の降ろしようがないところに”戦争”という野蛮な背徳行為の宿命があったと見るべきであろう。
戦犯者と連合国側が言う者の逮捕や自決が次々に陛下の耳に入っている。陛下は,その事にいたたまれなくなり,マッカーサーを訪れる(マッカーサーと陛下の2人で写った写真があるのがこの時のものである)。マッカーサーはそこで,陛下から,『私(陛下)は,国民が戦争遂行にあたって政治,軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして,私自身を,あなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした』と述べられたという。天皇は戦争犯罪者として起訴されないように自分の立場を訴えにきたのかと考えていたマッカーサーは,この言葉に対し『骨の髄までゆり動かした』と回想している。この陛下の訪問によって,マッカーサー元帥の日本に対する印象が,敵意を超えて,親愛と尊敬に変わっていったことは紛れもない事実であった。ただ,骨の髄までゆり動かされたマッカーサーだったが,戦犯逮捕についてはどうにもならない戦争余後の宿業であった。
このような経過をたどり,昭和21年5月3日に,いよいよ東京裁判の公判は開かれた。判決は昭和23年11月12日だから,2年半に亘る裁判になった。東条大将以下7名は絞首刑,木戸内府以下16名は無期禁固となった。
東京裁判で絞首刑の判決を受けた7人の犠牲者の処刑が行われたのは昭和23年12月23日午前1時ごろであった。東条英機,土肥原賢二,広田弘毅,松井石根,板垣征四郎,木村兵太郎,武藤章であった。ポツダム宣言では通例の戦争犯罪だけが対象となり,これを裁くことだけが適法なはずであった。しかし,人智を持っては補足しがたいような”平和に対する犯罪”だの,”人道に対する犯罪”だのをいうものを挙げて,逮捕・裁いていったのだ。それは,裁く側に恐怖心と憎悪と,日本人を永遠に叩きのめしてやろうという,それこそ思いあがった『人種的理由に基づく迫害』であったにほかならない。つまり,日本人を懲らしめるためには,ポツダム宣言の中に盛り込んで予告し,約束してあった,『俘虜を虐待したる者を含む戦争犯罪者』という従来の国際法の適用では満足できなくなり,これを無視する事に踏み切ったのだ。しかし,この判決に対し,次第にアメリカの弁護人は裁判の中で『こうした最初から結果を決めているような八百長裁判には参加できない』と腹を立てるものが次々に現れだした。彼らが日本人非難の中心においている『真珠湾を忘れるな』というキャッチフレーズが,実はだんだんあやふやになっていったのだ。日本が国際法を無視して真珠湾を奇襲攻撃したというのが,太平洋戦争のそもそもの発端であり,彼らが人道上の優位を誇って『平和に対する罪』を日本に押し付けてくる眼目になっていたのだ。ところが,その中心の眼目が,実はアメリカから仕掛けたものであることが,次第にアメリカ国民達にも明らかになっていったのだ。『ルーズベルトこそ,アメリカを戦争にかりたてた張本人であり,アメリカ国民を欺瞞し,故意に真珠湾の悲劇を招いた責任者である』と。しかし,こうした事実が一切無視されたまま,東京裁判は進行されてゆく。そこで途中からこの裁判には参加できないと,アメリカ人の弁護人は,弁護士としての誇りある職業意識により,日本を去っていった。始めから負けると決まっている裁判など,職業的にも面白くなかったからか,造られてゆく歴史の虚偽を見るに耐えられなかったのか。第2次大戦という戦争の中の,日本に関する部分の最大の原因は,やはり人種的偏見に根ざしてあったのだろう。ルーズベルトやハルにとっては,肌の黄色い日本人を,アジアでのさばらせておけるものかという,理非を超えた白色人種の優越感があったのだ。
とにかく,判決が先に決まっている裁判は,途中から,更に引っ込みのつかない局面を迎えていった。ルーズベルト大統領が,反戦的なアメリカ人を戦争にかりたてようとして,日本人に挑んだ戦争突入のからくりを,何とか見透かされないで済まさなければならないことになってしまった。そこで検察側では必要以上に『日本軍の残虐性』を暴きだし,真実がアメリカ国民に漏れる事を隠蔽しようとした。『真珠湾を忘れるな』が一変して『フィリピン島の残虐』とか,『南京の大虐殺』の誇張となったのだ。戦争と残虐行為は不可分の関係を持っている。残虐でない戦争などない。東京大空襲のおりに積まれたむこの日本人の累々たる死屍の山は何だったであろうか。広島と長崎に投下された原子爆弾による数十万の殺傷は残虐行為ではなかったのか。フィリピン島や南京で残虐行為が全くなかったとは思わないが,裁判のおりに宣伝されたような規模の大虐殺が日本人の手で行われたとは根拠がない。支那の戦場での民衆の虐殺や略奪は,日本人よりもつねに敗走してゆく支那兵の手で行われたことを著者は従軍でよく見たと言う。ここの部分は,私としても今後色々な書物を読み,本当に何があったのかを知りたいし,日本人として知っておかなければならない事だと痛感する。
また,処刑された7人に対する仕打ちにも許しがたいことがある。既に,進んで十字架を背負おうとし,従容として処刑台にのぼっていった人々に,手錠ばかりか褌バンドで股まで縛りあげたまま刑場に送り込んだというのだ。これは日本人に対し,許しがたい侮辱であろう。また,遺体は焼かれて,その灰は取り捨てられるということだった。そのような侮辱を黙って見ている日本人ばかりではない。火葬場長の飛田さんらは死を覚悟して刑場に進入し,見事,7人の打ち捨てられて残っていた遺灰の奪取に成功した。それは,秘事として隠され,昭和35年に殉国七士の墓として愛知県に祀られていった。
アメリカとの関係の他に,ソ連の侵入についても書いておかなければならない。ソ連進入に伴う満州国解体にからむ日本民族の受難は,歴史上,最も悲惨をきわめた大量受難事件であったといえよう。その原因はソ連軍が不可侵条約を一方的に破棄して,8月8日突如として満州に進撃を開始してきたことによる。それにしても,60万以上の関東軍もあれば,満州国軍もあったはずだ。それらが治安維持もせずに,あっというまに雲散霧消し,侵入軍ばかりか,略奪者や暴民の蹂躙に任せ,犠牲となった婦女子の数は,判明しているだけで20万以上だった。200万誓い在留同胞のうち,昭和37年6月までに満州と関東州からの引き揚げ者は127万あまりで,他の70万近い人間は恨みをのんで消えてしまったことになる。200万近い嬰児を含めた老若男女が,国を失い,家を追われて略奪,強姦,暴行,飢餓,疫病,殺人,自殺と至らざるなき迫害に晒されながら,満州・蒙古・朝鮮の大地を彷徨したという悲惨な事実は非常に胸を痛めることであった。
こうなっては,とにかく安全な地帯まで退避させなければならない。そのためには鉄道で輸送するしかないのだが,その第1次の列車に乗り込んだのは,関東軍関係者の家族や一部満鉄社員の家族らだった。このため,居留民や開拓団の老幼家族を後に残して,軍人の家族だけが先に引き上げたと言う事実は何とも申し開きのしようのない世間の指弾と誤解を受ける結果になった。仮にどのような理由があったにせよ,こうした民衆の怒りは簡単に解けるものではない。平素,軍命令に唯々と服従を強いられてきているだけに,それは凄まじい呪詛になった。
連合軍側は,この満州国を日本の傀儡国家と見ていたが,しかし,日本側から見れば,これは『5族協和』の理想の旗をかざした新興国家であった。五族とは,清朝に繋がる現地の満州族と,漢民族,朝鮮民族,日本民族それにソ連を追われた白系ロシア民族である。これらの五族が手を携えて,儒学の王道による楽土を建設しようという,まことにロマンチックな理想を出発点にした国家であった。したがって,白色人種に非ざれば人に非ずの時代でなかったら,アメリカ合衆国にも比すべき,ロマンの香りに充ちた建国とされたであろう。むろん中心は日本人だったが,それまでは狼と虎と馬賊の出没に任せた物騒きわまる荒野であったのだから,この建国はアジアのためには刮目すべき出来事というべきであった。西洋流の自由主義国家,同じくそこから生まれた共産主義国家,それと並んで,東洋流の王道国家が,人類の幸福な生存のためにどのような実績を挙げ得るか。巨視的に競い合ってみたら一つの偉観をなしたであろうが,しかし,そのような事を許容するほど当時はまだ進歩した世界ではなかった。地球上は完全に白色人種の支配下に置かれ,彼らにとって不都合な存在はすべて手厳しい排撃を受けなければならない点では,戦後の東京裁判か,あるいはそれ以上に偏った時代であった。また,明治半ば過ぎまで漢民族を征服して,中国大陸に君臨していた清朝の愛新覚羅家の当主溥儀を探し出して皇帝に頂いたのも拙かった。満州国は,この愛新覚羅を頂点にして,各部の大臣は全て満人だったが,その代わり,次官は各部とも日本の官僚で占めていた。このため,大陸統一を目指す中国国民政府と真正面から衝突することになり,列強はこれを支援して,まず国民政府を日本の前に立ちふさがらせた。一方,極度に貧しかったソ連もまた指をくわえて眺めているはずがない。すぐ目と鼻の先に主義主張の全く相反する王道楽土などが建設されたのでは,ソ連は自壊作用を誘発しかねない。したがって,支那のもう一つの共産勢力である国民政府と結んで,三方から打倒を目指すこととなった。その果てが支那事変であり,大東亜戦争であり,太平洋戦争なのだから,一旦ソ連の侵入を許したとなれば,もはや収拾の方法などありようがない。もともと満州族に独立独歩の気迫などは求めるのが無理であった。漢民族も同様だ。かれらは,他民族の支配下に生きるように慣らされた民衆であり,そんな民衆にとっては,侵略者の実力が問題であり,結局,実力が上でありそうなソ連と結託して行くようになるのである。
終戦後は,満州の難民の救済を日本軍も進めたが,武装解除と同時に,軍籍にあるものはことごとくソ連に拉致され,捕虜としてよりは,奴隷としてかなり長期にわたって酷使された。
在満日本人の受難については,ほとんどの団体が全滅・行方不明となっているので,後世に伝えるのに著者は『空しく消えた』としか書きようがないのが悲しいと語っている。連合国側が,『人道の罪』などとうそぶいて,聖者顔して裁いた『東京裁判』の裏に,どのような非人道ぶりが隠されていたことか,本書には数例だが載っている。それは読むだけでも怒り心頭に達し,血が煮えたぎるような暴虐であるため,ここに記載しがたい。
満州国を日本が『五族協和』『王道楽土』の理想を掲げた建国の歴史は,行き詰まった旧体制打破,新秩序渇望の一事例であり,これは,自由を求めてアメリカ大陸へ押しわたった人々が,アメリカ合衆国を作った事例の東洋版に他ならないではないか。ところが,アメリカ建国の頃には微力でこれを破砕し得なかった者達が,さらにアメリカ合衆国までを味方に語らい,今度は徹底的にこれを妨害し,破壊し去った人種差別の戦いであったと思う。その意味では,ルーズベルトは米国最低の政治家であったと批判されだす日が必ず来るであろう。
著者が最後に言う。
もはや我々は,残虐にして無意味な実態を極め尽くした『戦争』という紛争解決手段に断じて頼ってはならない。といって,日本国内の自衛力まで真っ先に解消せよという夢想家にもなりきれない。仮に,関東軍があのような骨抜きになっていなかったら,満州族の崩壊や一般市民の犠牲はまだ少しは防止できたと思うからだ。第2次大戦のヨーロッパにおける最大の悲劇はナチによるユダヤ人大量虐殺であった。そして東洋における最大の悲劇は,この満州国における日本人も含めた一般良民の受難であった。とにかく戦争は,それがたとえゲリラ戦であろうと,内乱であろうと,一応は筋を通したかに見せかける国際法による戦争であろうと,一般良民にとっては残酷無残,理性や人情は,そのかけらの介入も許さぬものであることを,戦後世代の我々に強く訴えかけている。
戦争は煎じ詰めれば,自己主張の拡大であり,衝突である。それがイデオロギーの相違からであろうと,日常生活闘争からであろうと,闘争そのものが拡大されると,戦魔はそのわずかな間隙から入り込んでくる。我々日本人は幸いな事に,世界稀有の単一民族だ。どの家系も十数代もさかのぼれば,みな血と血の繋がりを発見するという家族国家だ。そうした特殊な我が国の民族性は,他者を侵しもしなければ侵されもしないという,平和に徹して生きていく可能性を持った民族であるのだと思うのである。
天皇陛下バンザイ,と言う彼らの心には,天皇陛下個人に対してと言うより,陛下を全ての日本人の心と同一視し,言い変えるならば,日本人バンザイとでも言うような心境ではなかったか。日本人の心は天皇陛下の心と同じであり,また,天皇陛下の心は日本人民衆の心と同じであると。
この本を読まずして,日本を語ることなかれ! -
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ネタバレそして,戦艦大和の登場だ。当時,世界第一を誇った超弩級戦艦大和が遮二無二沖縄目指して海上特攻を決行し,満身創痍,途中の海上で沈没してしまった。戦死者の数は大和だけで2,740名。行動を共にした第2水雷船隊の981名を加えると,3,721名がこの世から消えてしまった。わずかに戦場を離脱しえた人々もまた大半が戦傷者で,その数も459名だった。
沖縄へのアメリカ軍上陸の責任をとって,小磯内閣は退陣し,鈴木貫太郎海軍大将を首班とする新内閣が成立した。当時,天皇の意志を最も良く体し得る者は,長い間侍従武官長として側近にあった鈴木大将をおいてほかにはない。大将ならば誤りなく陛下のご意志をこの超非常時の政治に活かしてくれるだろうと考えた。すなわち,我々は,大和民族の生命的な中心であり,帰一点である天皇のご意志に従おうということになったのだ。
もはや大和を惜しむべき時ではない。戦力が空に移った近代戦に対し,大和は隆盛日本の象徴でもあり,かつ,重大な荷物でもあったのだ。もしもこれを敵の手にゆだねたら,それこそ子孫は相当期間世界の嘲笑を浴びねばなるまい。おそらく,大和を残したまま終戦を迎えた場合,7つの海を引き回されて,嘲笑の的になりかねない,そういった世界的な存在なのだ。戦艦大和の海上特攻は,一見無謀な出撃に似ているが,その実,終戦と,その後の民族復興のための祭壇に供える帝国海軍最後の悲しい供物の一つであったのだろうと著者は言う。『我々は敗れた,だが,最後の一兵まで戦ったぞ!』というのが,民族復興には絶対必要なのだ。世界に軽蔑されるような敗戦の仕方では,民族復興はありえないと考えたのだ。
そして,大和は海上特攻し,4月7日の12時35分に敵襲来を受け,14時25分にはその雄姿は海底へと消えた。
近代戦では既に日本は敗れているのだ。世界一の戦艦大和をもってしても,沖縄まで辿りつけなかった。ということは,沖縄は一切の補給連絡の方途を断ち切られたということだ。そんな事情の中で,どうして孤立した沖縄軍が勝ち得よう。日本国全体が降伏しない限り,沖縄軍に生き残る余地は全くない。しかも中央では本土決戦を考え,その準備に全てを賭けている。まだまだ降伏などは考えられないし,考えてはならない。とすれば,現実には,沖縄戦においては,進んでも死,退いても死,すなわち死しかないというギリギリの答えになっていた。
沖縄陥落までの期間に本土にも爆撃が加えられている。沖縄上陸戦への援護だ。東京,大阪,名古屋,鹿児島,西宮,浜松,豊橋,今治,宇部,岡山,熊本,門司,下関,延岡と次々と焼きたてられていった。3/17硫黄島陥落後の世界的な出来事を順を追って見てみると,4/1アメリカ軍沖縄上陸,4/5ソ連が日本との中立条約延長拒否,4/12ルーズベルト死去・トルーマン大統領就任,4/22ソ連がベルリン突入,4/28イタリア首相ムッソリーニ処刑,4/30ドイツのヒットラー自殺,5/2ベルリン陥落,5/8ドイツ無条件降伏と,日本の陸軍が高く買っていた三国同盟は完全に崩壊し,第2次世界大戦はヨーロッパでは終わっているということになっている。その事実に対し,ますます日本は孤立し,本土決戦に向けて腹をくくるしかない状況になっていった。6/22戦時緊急措置法公布(軍に全面的な受権を許す法),6/23国民義勇兵法公布(男子は15歳から60歳まで兵役を義務化,女子は17歳から40歳まで),7/11食糧配給1割減と突き進んでいく。本土決戦にはとにかく,戦闘員150万人,兵站要員40万人の人数をどうして掻き集めるかが問題だった。召集しても,軍服や軍靴も武器も食糧もなかった。集められた兵隊は,まず敵が上陸してくる海岸線へ貼り付けられる予定だった。その,はりつけ部隊は,敵が上陸してきたら,それぞれが,爆薬を抱えて敵に体当たりするというものだった。今までの経験からして,これが勝利に繋がるとは思えず,要するにこれは,死ぬまで戦うという,民族ギリギリの意地と決意に過ぎない,そんな準備をしている真っ只中だった。
そんな状況で本土決戦に向けて,着々と準備を進めつつある日本国であったが,6/8に行われた御前会議では,終戦工作を進めていくことも真剣に討議しだした。この御前会議では,陛下から『今日は一同と懇談したい』と仰せられたという。慣行の御前会議では,予定された議事が予定のとおり進められ,予定のとおりの決定事項が奏上されるだけで,陛下のご意見などはお述べになる余地がない。輔弼の責任を持つ者の議決をそのまま承認される形になる慣行なのだ。懇談という形で遂に陛下は万民のために口をお開きになられた。『命令ではないが,本土決戦の用意をすることと同時に戦争をできるだけ早く終わるように工夫もしてもらいたい』と。これは,当時としては絶対に外部に漏れてはならないことだった。一部陸軍の思いつめた若手将校などに漏れると,彼らはただちに同席した長老達の暗殺を企てることだろう。陛下の意見が自分達と異なるのは,君側の奸による明智の曇りと断定するのだ。とにかく,この陛下のお言葉により,強硬な陸軍上層部でも,本土決戦と平行して,和平に向けた検討を行うことともなった。
陛下ご自身が乗りださなければ,終戦どころか,本土決戦は避けられないと判断されて,あえて慣例を破るご決意をされたのだろう。ポツダム宣言を受諾するかどうか,受諾するにしても条件をつけるかどうかについても議論がなされた。このまま本土決戦に突入すれば,民族絶滅の危機を招くと案じているのは誰も同じなのだ。これを唯一救えるのは至上命令による講和という名の降伏である。至上命令が発されたとなれば,軍も国民もこぞってこれに従うであろう。こういった,我が国に特異な国体に根ざす信頼によってのみ,民族絶滅を免れ得るのみだと。しかし,このことは易々と口に出来るものではない。これは,憲法を無視することになるからだ。終戦の決断は,輔弼の重臣の合議によって得た結論を上奏し,天皇はただそれに裁可を与えるだけで,この意味から言えば,まさしく天皇は機関的な存在なのだ。と言って,現実にこの終戦を誰が支障なく実施できる力を持っているかとなると,全く話は別になる。総理大臣が命じても,参謀総長が命じても,始めから生命を捨てた気でいる500万の軍隊と,数千万の国民の自暴自棄を押さえ得るものではない。逆に,こうした危機に,憲法を無視しても至上命令の出せる皇室を持っていたということは,何という民族の仕合せであったろう。それなればこそ,講和の中で絶対に譲れないのが『国体の護持』であって,この個性の価値を無限大に認めているのである。しかし,わが陸軍には大きな難関があった。海外にある270万を超える軍隊は,降伏よりは死を選べと教えてきた誇り高き軍隊である。これに今更,何の面目あって現地で敵の武装解除を受けよとむごい事を言えるのか。国体護持は言うまでもないが,これに加え,武装解除は日本軍の手で行い,国際法に背いた戦争犯罪人は日本人の手で裁くとかいった条件は付すべきだといったような,ポツダム宣言の受諾条件について議論しているうちに,広島へ原爆が投下されてしまった。
原爆をアメリカが完成したのは昭和20年7月16日だ。従って,7/26のポツダム宣言を発表するときには,既にトルーマンはこれを日本の頭上に投下する決意があったのだ。日本の海軍は神風特攻隊を残すのみとなっていたが,陸軍はまだ500万の兵力を持っている。これが国民と一つとなり,本土で決戦体制を整えているということは,日本の上陸戦では連合軍側の犠牲は100万におよぶであろうというのが,硫黄島や沖縄戦の場合を参考にして出した連合軍側の答えだった。そのうえ更に彼らに原爆投下を急がせることになった原因が2つある。一つは,ヨーロッパ戦線から太平洋戦線へ再配置されるアメリカ軍の厭戦気分だ。ようやくドイツが降伏したのに,次はドイツより危険度の高い日本軍が相手なのだ。そしてもう一つは,日本の捕虜の死亡率がヨーロッパとは比較にならないほど高いことだ。ヨーロッパにおいて捕虜の死亡率は1%であるが,日本軍に捕らわれた捕虜の死亡率は30%に及んでいる。これは,日本には当時もはや満足な食糧もなく,地上はすべて焼け野原で,医薬の生産も絶え絶えなのだ。そうした戦場で捕虜になる事は,彼らにとって戦慄すべき事だったのだ。このため,原爆投下によって早く戦争を終わらせたいという考えが,アメリカ軍の中にも多くあり,ポツダム宣言を検討していた日本に対し,アメリカは,日本にポツダム宣言を拒否されたと受け取り,原爆投下に踏み切らせたのだ。階級闘争にせよ,民族闘争にせよ,委託戦争にせよ,革命戦争にせよ,それがエスカレートしていくと,行きつくところは『最高の武器』の威力にすがりつくことになる。問題の根は,人間の愚かな対立感情と憎悪感情の底にある。そして,8/6の広島への原爆投下後,8/8にはソ連の満州侵入,8/9の長崎への原爆投下へと事態は進んでいった。
父祖代々,負けたことはないという誇りを持ち,捕虜になるほどなら死ねと教えられてきた軍隊に,敵から武装解除を申し渡されて,素直に応じるとは思えない。ただし,陛下が直接お声を掛けて下されば,日本の軍人である限り,無条件でこれを奉ずるに違いない。と言って,臣下からこのようなことを陛下に指図出来ることではない。『天皇は神聖にしておかすべからず』という憲法第1条の,その神聖を犯すことになるからだ。この天皇と国民の関係は,他の国家,他の民族には全然類例のない,我が国固有の伝統によるものだ。しかもその憲法の慣行は,天皇おん自らが直接命令を下されるというようなことを厳しく抑制し禁じている。もしもそれを許したら,どのような専制政治が行われるかわからぬことになるからだ。
ところが,8/9の最高戦争指導会議は結論を得ないまま閣議となり,閣議も何事も決定しないまま,御前会議に滑り込んでしまった。いや,御前会議によることでしか,結論は得られないと言うことであり,あえて鈴木首相は,陛下のご聖断・ご裁決を仰ごうというものだった。480万の軍隊と,すでに本土決戦を避け得ない運命と受け取りつつある国民に『降伏』を納得させる力は陛下をおいて誰も持っていない。したがって,御前会議でご聖断を仰ぐだけでは済まず,直接陛下に全国民に呼びかけて納得させていくよりほかに,いかなる方法もなかった,というのがまことに特異な日本の本当の事情であった。
そこで,昭和20年8月10日午前3時,ご聖断により,日本民族は民族の命脈を子孫に託して,ポツダム宣言を受諾する事に決定した。国体の護持・天皇の大権をハッキリと認めるという留保条件を付しての受諾であった。この事は当然,連合国側には理解しがたいことだった。ソ連もイギリスも中国も強硬に天皇制の廃止を主張したが,アメリカだけは日本民族の伝統を良く知っており,極力これを認めるよう説得に努めてくれたと言う。
しかし,このご聖断がハッキリした事によって,かえって2つの流れが表面に出てきた。一つは,涙をのんでこれに従わなければならないとする流れであり,もう一つは,ご聖断は君側の奸が陛下を欺いたものであって,まことの聖断ではないのだと決め付けて是が非でも抗戦に持ち込もうという流れだ。明治時代のように歩調のとれた皇軍であれば,聖断の前には必ず従わなければならないという流れになったであろうが,昭和になると,欧米流の合理主義者もあれば,ドイツやイタリア流のナチズム,ファシズムの信奉者もあり,そうした雑多な思想が,この聖断の前に選り分けられることになったのだ。 -
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ネタバレそして舞台は硫黄島へと移る。この硫黄島には耕された田畑もなく,何よりも水がなかった。そんな島になぜ2万人以上もの兵を進め,司令部まで移したのか。また,アメリカ側も7万の大軍をひっさげてやってきて,一歩も退かずに戦っているのか。アメリカ側がさきに占領したサイパンから東京を爆撃するためには2千7百マイルの長距離を飛行しなければならない。それだけの航続力をB29はもっているが,これを実行するためには,護衛の戦闘機を同伴する必要があるし,燃料を多く積む必要があるので,爆弾の積載量に大きな制限を加える必要がある。それを克服するために,東京とサイパンの中間地点である小笠原諸島がターゲットになったのだ。小笠原諸島の一角である硫黄島を手に入れ,ここに飛行場を造ることで東京攻めの根拠地を一挙に1千3百マイルも縮めることが出来るのだ。従って,硫黄島が敵の手に渡るということは,日ならずして東京がB29の絨毯爆撃にさらされるということだった。
アメリカ軍は,サイパンで行ったのと同様な攻撃手法で硫黄島を手に入れようとたくらんだ。上陸前の徹底的な爆撃である。上陸すれば5日で掌握可能との目論見だったが,日本側の栗林中将が守る硫黄島の抵抗は激しく,結局,2月19日にアメリカ軍が上陸を開始し,日本軍が玉砕したのが3月25日であった。1ヶ月以上に渡って死守したのだ。『ここは東京の表玄関である。死屍を積んで一歩も通すな』という合い言葉のもと,抵抗を続けたのであった。
”玉砕”の真意は決して全滅ではない。降伏によって生き残る以上の人生の意義をそこに認め,進んで死につくのが玉砕と言うものであろう。それが全員の胸にどのような形で浸透してゆくかによって,全兵団の結束ともなれば,収拾できない大反乱にもなりかねない。ところが,硫黄島の日本兵2万3千の将兵の結束は,まことに一糸乱れぬものがあり,その結束の中心は最後の最後まで栗林中将に対する尊敬と信頼であった。
硫黄島で日本軍のとった防御戦略とはどうだったのか。それはサイパンとは違い,アメリカ軍を水際で叩くのではなく,上陸させ,安心させたところを一挙に叩くというものであった。アメリカ軍は上陸前に必ず艦砲射撃と空からの絨毯爆撃を行い,防御側の戦力を著しく低下させたうえで上陸を開始する。この際に,日本軍が徹底抗戦すれば,防御陣地も丸見えとなり,敵の物量攻撃に必ずといっていい程,打ちのめされる。その後,いかに抗戦しようとも,砲弾薬,兵,食料ともに足りなくなるのである。この愚を冒さず,敵に対して日本軍の防御陣地を上陸前にはひたすらに隠し,上陸・油断させておいて,一挙に殲滅するのだ。
アメリカ軍の硫黄島への上陸開始は,2月19日だが,玉砕までの74日間にアメリカ側から投下された爆弾量は6,800tで,21,926発であった。まさに鉄と火薬の新断層作りあげたと言ってよい。しかし,史上空前の猛攻撃にもかかわらず,日本軍にはほとんど損傷らしい損傷を与えなかったというのだ。栗林中将の采配によって築き上げられた地下要塞の頑強さには,恐れ入ると共に,地中を掘るたびに硫黄の吹きだす劣悪な環境下で地下帝国を作りあげた兵隊達の苦労を思うと,防人となって東京を守らんとする意気込みのすごさを感じるのである。名将のもと,強兵たちが屍を積んで果てた硫黄島は,戦後23年,ついに祖国日本の手に還った。
硫黄島の本土戦に続き,沖縄本土戦が始まった。ここでも硫黄島と同様に,サイパン戦の教訓が色々な角度から熱心に検討された。硫黄島では,どんなことをしても勝算は弾き出せず,全部隊が地下にもぐり,徹底抗戦を行い,玉砕までの時間を稼ぐ以外に道はなかった。しかし,沖縄戦では全く事情が違ってくる。ここは九州の一角ともいえ,従ってただの防衛線でもなければ抵抗線でもなく,文字通り,この大戦の勝敗をかけた決戦場でなければならない。このことは大本営もようやく理解し,沖縄に向け,かつてないまでもの質と量の砲弾・将兵を投入していった。
しかしながら,その後,レイテ上陸作戦がこの沖縄への戦力投入に待ったをかけた。最も頼りにしている砲兵隊の中から最精鋭師団を抽出し,フィリピン島方面へ転用するということだった。このため,これまで沖縄決戦として作戦を貫いていたものが,沖縄本土についても硫黄島と同様に戦略持久という作戦に変わっていったのだ。これは沖縄県民にとっては看過できない問題だ。決戦主義であれば,戦ってみて勝つか負けるかは別として,これならば同胞として当然協力しなければならない。しかし戦略持久となると,問題は一変する。硫黄島の戦いのように,勝てる戦ではないのだ。ここでは1日でも1時間でも時を稼いで,敵の本州への進入を遅らせるという戦になる。当然,最後には玉砕だ。そうなると,老幼婦女子の疎開ぐらいではすまない。硫黄島では全住民を全て避難させたのだが,沖縄は人口において硫黄島と同様に論じられない。沖縄県民を九州に移すだけの輸送力は既になかった。そこで,軍は主戦場を南部に限定し,住民はできるだけ北部に疎開させることにしたのだ。
アメリカ側で沖縄攻略戦をどうして決定したのかだが,それは,日本本州と350マイルしか離れていない沖縄本島を攻略して,航空基地を建設し,そこから日本の工業地帯をしらみつぶしに叩き潰そうという構想からだった。その沖縄戦にアメリカが勝算を抱いたのは,レイテ海戦での日本側艦隊の壊滅的打撃にあるのだろう。事実,フィリピン島に続く我方の航空機の消耗は,その生産力との均衡を完全に失ってしまっていた。アメリカは沖縄上陸にあたり,まず,日本本州の飛行場という飛行場を大打撃を与えた。これは,沖縄上陸支援のための航空機動力を削ぐためだ。事実,その後,3週間に亘って,日本側は大挙反撃できなくなったのだ。
ここで,書き落としてはならないことがある。それはこの時期の陸軍と海軍の考えの差だ。陸軍側では,沖縄戦を半ば諦め,別に本土決戦を『決号作戦』として構想し,海軍側では沖縄戦を重視してここに残存勢力の全てを投入しようとする『天号作戦』を考えていた。この両者の考え方の相違を陸海軍の感情的な反目と考えている人が多いみたいだが,そうではない。海軍側には,もはや勝敗は決したのだという考えがどこかにあった。敗れたのだから,我々は責任をとって潔く死ぬべきだとする痛烈な責任感に繋がっていた。海軍の戦には艦艇や航空機のない個人的なゲリラ戦などありえない。したがって,敵が本土に上陸して来たときには彼らの戦は既に終わっているのだ。陸軍側には,戦士としては海軍と異質の環境にあり,異質の訓練を受けている。一隻の艦艇に乗員全ての運命が託されているわけではない。意志さえ強ければ一人になってもゲリラとして戦い得る。したがって彼らは最後まで戦い抜いてみなければ納得できない爆発的なエネルギーを残していた。この両者の意見が,沖縄戦で2つに分かれるのはむしろ当然のことだった。陸軍は本土決戦,海軍は沖縄決戦。したがって,陸軍は沖縄戦よりも,本土における決戦戦力の温存に努めなければならないことになり,海軍は沖縄戦で戦艦大和まで吐き出す結果になってゆくのである。
海軍は沖縄上陸が始まる前に,神雷部隊を投入していく。これは必死兵器である”桜花”を懐に抱いた一式陸攻を母機とする特攻部隊である。これによる突撃を敢行するということは,日本がどういう状況になっているかというのが言わずと知れるわけだが,この特攻も敵船隊にたどり着くことなく,敵の圧倒的な航空戦力により撃墜されてしまった。沖縄は見捨てられたのではなく,沖縄上陸戦に先立ち,このような悲惨な特攻という事実も当然にしてあったのだ。
アメリカ軍の沖縄上陸は4月1日から始まった。前日の31日いっぱいはアメリカ軍は例のごとく,爆撃と艦砲射撃で沖縄本島を叩きまくった。上陸寸前の敵の攻撃の激しさはどの戦闘でも同じだが,この日も例外ではなく,総計10万発の砲弾が一度に撃ち込まれた。それに対する我方の砲撃は,8千発だ。12倍もの砲弾で攻め立てられたのだ。硫黄島の上陸時の砲弾の差は5倍であったので,いかに今回の規模が大きかったか想像に難くない。そして,島の周辺に迫っている敵の艦艇は1300隻。これが夜明けの5時半から上陸に向けた活動を開始した。
当時の日本人はもはや冷静にものを考える余裕などそのほとんどが無くしていた。それが敗戦という事実の前に立たされた時の本当の人間の姿だと思う。硫黄島では,2万3千の将兵は,始めから敵が上陸してくれば死なねばならない事をよく知って団結した。ところが沖縄はそうではない。始めは勝つ気であった。それが兵力を他の戦場に持って行かれ,憤慨し,気持ちと戦略を立て直そうとしている間にぐんぐんと戦局は進んでしまった。つまり,納得する暇もない間に危急存亡の時を迎え,冷静な合理主義による戦略の再構築が非常識なのか,大死一番という玉砕主義が非常識なのか,その識別もできないまま,それこそ紛戦状態に陥ってしまったのだ。
東条内閣とは『勝つことばかりを知って,負ける事を知らない内閣』であり,小磯内閣は『勝って終戦の端緒を掴もうとする内閣』であった。その小磯内閣が,沖縄上陸という事実により倒れた。次に大命を拝したのが,長い間侍従武官長をつとめた鈴木貫太郎大将だ。鈴木内閣は『どうやって最も早い機会に終戦の機を掴むかという任務を負わされた内閣』だった。その鈴木内閣の発足と同時に,戦艦大和もその運命に従って突き進むことになっていく。 -
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ネタバレ6巻の初めは,神風・新雷特別攻撃隊だ。神風は”かみかぜ”ではなく,”しんぷう”と読む。神風特攻隊は,豪胆で聞こえた大西司令長官が最初の声をあげたわけだが,果たしてこうした必死必中の非常手段を神々が許すものであろうかと,大西は自責の念にたえずさいなまれていた。この特攻隊の編成は,事実は命令ではなく,司令長官である大西中将とその指揮下にあった人々の凄まじいまでの愛国心が期せずして一つの火柱になって吹きあがったものであろう。大西中将は,ただそのおりの悲しい長官であったに過ぎない。その隊員24名が決まった。指揮官は関行男海軍大尉だ。これに,10月25日までにフィリピン島沖の敵機動部隊を殲滅すべしという命令が出た。そして,関らはその25日に5機で突撃,目的を果たした。アメリカ側の発表では,護衛空母1隻,空母3隻,軽巡1隻の5隻が撃沈したということだった。すなわち,1機で1隻を沈めたことになる。この神風特別攻撃隊は日本国内でも衝撃を与えたが,アメリカに及ぼした精神的な打撃の方がはるかに大きかった。
このころ,敵は既に全力をフィリピン島の進攻に賭けている。フィリピン島を敵の手に渡すと,日本の本土と南方資源地帯を完全に中断されることになる。中断されると本土は自滅,例え艦隊を温存してみてももはや用を成さない飾り物になってしまうのだ。結局,大本営は,作戦の無理な事は重々承知の上で,座して死を招くよりも,戦果はひとまず問わず,艦隊に死所を与える気になったのに違いない。そこには,海軍主力の覆滅と言う厳しい現実から,終戦に持ち込むのでなければ,本当に日本民族は滅びかねないという考え方が潜んでいたに違いない。しかし,海軍側としては,これほどの大艦隊に,輸送船や上陸用舟艇を撃って死ぬなど釈然としないものが残ったのは言うまでもない。敵はレイテ島に1週間も前から上陸作戦を決行している。ということは,湾内の船は空であり,陸に上げられた武器弾薬,食料に猛砲火を浴びせ,これを焼き払うのが上等だろう。しかし,この陸地には味方も上陸しており,味方撃ちになるかもしれないから止めてくれと陸軍に頼まれたのである。訓練に訓練を重ね,日本が世界に誇る大艦隊を,空になった船を沈めるために使い,そして,敵の集中放火を浴びて死ねという命令に従わなければならないのか。しかしながら,命令は絶対である。命令が実行されないような軍隊はもはや軍隊とは言えないただの暴力兵器を持ったテロ集団と化す。こうして遂に,規定どおりの捷1号作戦は発動されていった。
捷1号作戦は作戦というよりは,日本帝国海軍の遺書のようなものではなかったか。武蔵や大和といった最新鋭の戦艦はいたものの,圧倒的な数量差により,戦の結果は決まっているというものだった。しかしながら,なぜ,この作戦を遂行せざるを得なかったのかということを考えなくてはならない。栗田艦隊をレイテ湾に送り込んで砲台化し,帝国海軍の持てる全てを投入して陸軍に協力する。そうすれば,陸軍も納得して,終戦による事態収拾を決意するに至るであろう。勝算は絶無である。戦争継続が不可能であることはもはや決定的となっている。と言って,それを口外してよい時期ではない。海軍は皆黙って死ぬのだ。死んで民族の結束を将来に祈りだすのだ。その決意に立つと,世界一の戦艦も,苦心粒々の武器も惜しむに足りない。艦艇があって民族があるのではない。民族あっての艦艇であり,民族あっての海軍なのだと自分達に言い聞かせた。
話は,陸軍側になる。レイテ島への上陸部隊の指揮は山下奉文大将だ。山下はマレーの虎と異名された赫々たる武勲をあげていながら,東条英機と不仲であったため,マレーから満州に飛ばされて,天皇陛下の拝謁さえ許されなかったといわれている。その東条はサイパン失陥によって退陣し,後の小磯首相が,山下ならばこの戦局をどうかしてくれるだろう,という深い信頼で,再びこの重大な任務につかされた。しかし,山下が現地にやってくると,もはやどうにも彼の手腕のふるいようがない状態であった。戦局の切迫だけでなく,彼が苦言を呈しては嫌われていた総軍司令部が,ここでもまた,マレーと同様,彼の頭上に重苦しく覆い被さっていた。レイテ決戦以降のフィリピン島の言語に絶した敗戦は,決して日本の将兵の勇敢さや忠誠心の欠如によるものではなかった。むしろこれは,アメリカと日本の両軍総司令官の才能と闘魂の差であった。むろんここでも,第一の原因は国力の差ではあったが,いかに国力の差があったにせよ,寺内元帥の掌握している地位と権力がもっと有効に活用されていたら,このように惨めな犠牲は積まずに済んだと考えられる。マッカーサーのレイテ島上陸作戦が,合計730余隻という史上空前の大船団であったし,それにハルゼー提督の大艦隊を加えると,859隻という大勢力となり,上陸軍は一挙にして10万を数えた。またフィリピン人は,他の東南アジア諸国と違い,皮膚の色への親近感は問題にならなかった。タイやビルマやマレーでは,侵略者は白色人種であって,日本人は解放者であった。ところが,フィリピンでは,逆にアメリカ人が解放者で,日本人は侵略者だったのだ。この事が,フィリピン島全体でどれだけの犠牲者数を増やしていったかは想像以上のものがある。現地人達の諜報,内通に悩まされ,ゲリラにも苦しめられた。要するにこれは,占領軍の宣撫工作の拙劣さによる大きな失敗の一つであったのだ。
軍の規律は”命令”によって保たれる。この命令に絶対性を持たせて服従させるのでなければ,戦争という非常事態の運営遂行は成立しない。これは作戦面や技術面だけでなく,精神面において最も重視されなければならない。十分に練り上げられた作戦ならば,兵士の一人一人の忠誠は,そのまま一糸乱れぬ威力を発揮してゆくことになるのだが,一旦それが知識不足の上層部による実情を無視したままに下達されると,残酷無残な命令地獄を描き出す。理想からすれば,一兵の意志はそのまま大本営に上通さるべきであり,大本営の命令の意図は,そのまま一兵士の闘魂に直通するほどのものでなければならない。むろん中間の,総軍も,方面軍も,軍も,師団も,それを補佐して充分戦わせるための機関だと言ってよい。したがって,理論的には,どうして一兵の忠誠心をよりよく活かすかが,実は中間機関の存在理由であり,任務なのである。その理想例は,ガダルカナルの引き上げの際と,終戦のおりの陛下のご英断に現れている。これが残念ながら,レイテ戦の折にはみられなかった。敵の急迫が,完全にわが方の頭脳を引っ掻き回して,一兵の戦いを補佐するための中間の存在が,命令の執行だけを強要するという結果になっていた。むろん悪意があってのことではなく,すべてが敵状を確かめる方法を持たない軍隊の当然の帰結であった。
当時のレイテ島での日本軍の勢力は,わずかに1個師半の兵力約2万,大砲36門。対するアメリカ側は6個師の兵力約12万,大砲250門以上。これに10倍以上の航空勢力が敵には加わっている。第1師団の13,423名のうち,戦死者12,960名,生存者はわずかに463名に過ぎなかった。このような状態にもかかわらず,あろうことか,更に第26師団を上陸させたのだ。上陸の際は,充分な食料,弾薬を揚陸できず,こうして第26師団も総員12,000名中,無事帰還した者はわずかに16名と信じられない結果となった。このことは,結果から見ると,1週間分の食料と130発の弾を持たせて,1万名の兵隊を,陸海協力・苦心惨憺して,わざわざ死地へ追い込んでやったということに他ならない。しかもまだあるのだ。そのうえ,更に更に,第68師団についても,第26師団以上にほとんど丸裸でこのレイテの戦場近くに投げ出されたと言ってよい。彼らは,食いついて離れない敵機をかわしながら,かろうじてレイテ島にたどりついたので,重砲や戦車,軍需品は,ことごとく揚陸の際に海中に進呈してしまっていた。そんな彼らに対し,あろうことか,方面軍から自戦自活の名が下ってしまった。わざわざこの島に捨てられに来たようなものであった。途中であらゆる苦心を重ねながらやってきて,決起上陸し,裸で腕を撫しているところへ,『もうお前たちは,お前たちの才覚で戦いながら生きなさい』そうした意味の自戦自活の命令が下ったのである。こうした事実を,親や妻子が知ったら,どんな気持ちがするであろうか。それが目を向けてはならない,”戦争”の中の一つの事実なのだ。終戦後二十年近くも当時の戦場に居残って,いかに終戦を告げても降伏しようともせず,ジャングル内に出没して戦意を捨てなかった日本人の存在は,こうした悲しい自戦自活の命令の遵奉者たちにほかならない。補給も出来ないし,連絡も出来なくなるだろう。だが降伏してはならぬ。永久に抵抗を継続せよ・・・・この命令の底にあるものは,戦後二十余年,もはや日本人にはほとんど理解のできない残酷物語になってしまった。戦うだけ戦ったのだ。負けたと決まった以上降伏してもよいではないか。そのために世界共通の捕虜の取り扱いも法規化されている。というのが当時も世界の通念であった。そのなかで日本人だけは断じて降伏したり捕虜になったりはしてはならないと教えられ,それが一兵の末までに及んでいた。天皇は神であった。神の軍隊が不正の戦をするはずがない。それゆえ捕虜となって助かろうとは思うようないい加減な戦はしてはならない。このときレイテ島に残された日本軍は約2万7千ほどと推定される。
レイテの決戦は日本軍の完全な敗北に終わった。その原因の第一はアメリカ軍の実力を過小評価していたところにあった。それはある意味では,レイテの敗戦は,日本陸軍の自信過剰に下された鉄槌であったともいえる。『自戦自活の下に”永久”に抵抗を継続し,もって国軍将来の反攻の支柱たるべし』とはっきり命令され,終戦の命が下る昭和二十年八月十五日まで生き残った人々のほとんどが,飢餓とゲリラの渦中にあって,降伏のない悪戦苦闘を続けてきたという事実を忘れることは出来ない。フィリピン全域にわたって死屍をさらしていった日本人の総数は約47万人という膨大な数字となっている。いうまでもなく,この戦場で命を落としているのは,日本人だけではない。フィリピン人もそれ以上に命を落としていると著者はフィリピン島の軍人の友人に聞いてたという。なぜ,このように悲しい自戦自活の生活を,執拗に,かつ頑強に繰り返すことが出来たのか。そうした人々の闘志を支えたものはいったいなんなのであろうか。それは一口に言うと,アメリカ軍の東京への道に立ちふさがろうとする,ひたすらなる同胞愛であったのであろう。フィリピンにある将兵達はすでにアメリカ軍がやがて日本の本土へ上陸して行くであろうことを本能的に探り当て,その日を1日でも,1時間でも遅らせなければならないとする,凄まじいまでの意志であった。『死ぬものか。いや死んでも本土へは上陸させないぞ!』と幽鬼のような姿で,餓死線上を彷徨いながら,彼らは果てていったのであろう。いや,自分が果てた事もわからないまま,東京に向けて立ちふさがる支柱となっていったのだ。
フィリピン島を失うことは,これまでの南方の戦果の全てと絶縁させられることであった。次に攻撃される地点は,台湾・沖縄・本土の進攻戦と,サイパン・硫黄島・小笠原を経て東京に達する2つの線を残すのみとなり,足に火が着いた状態になった。マニラが陥落するころは,アメリカ側は,日本本土爆撃のためになくてはならないB29の前進基地として,小笠原諸島南端にある硫黄島への上陸作戦を開始していた。その硫黄島に敵が上陸戦を開始して来たのが,昭和二十年二月十九日だった。すでに太平洋上では,硫黄島の攻防戦が開始されていたが,マニラ陥落後のフィリピン島の終末戦は,終戦の日まで続いていったのである。降伏はあくまでこれを否定して,統一指揮も出来なくなった時は山下と武藤は自決するが,他の者はなるべく生き残って,ゲリラに転ずるようにと方針を決めて,徹底抗戦を続け,そのうちに,戦争は終結したのである。こうした徹底的な山下軍の抗戦のために,マッカーサーは最後までルソン島から手を引くことは出来なかったのだから,山下大将以下のアメリカ軍の拘束作戦は見事に成功していたといってもよい。こうして生き残った山下大将だが,終戦後はマニラに護送され,絞首台の人となった。この山下大将以下の人々を,日本を死ぬまで守り続けた人であると言って何が悪いのであろうか。そのように思えない人は,この日本の土を踏んで生きる資格はないのだと思うのである。 -
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ネタバレ話はビルマ戦線に突入する。ビルマでも,初戦を除き,イギリス軍の物量攻撃に苦戦させられることは,先のガダルカナル島やニューギニア島と何ら変わりなかった。ここでは,ひとつ事件があった。それは,戦場の二・二六事件と言われる佐藤中将の抗命事件だ。これは日本陸軍の歴史の中で一大汚点とされているが,真相はどうだったのか。著者はその張本人である佐藤中将と相手方の牟田口中将に戦後実際にお会いして,話を聞いている。
佐藤中将の抗命事件とは,大まかに言うと,牟田口軍司令官の進攻命令を公然と拒否し,兵団を率いて勝手に退却した事件である。これだけ書くと,何たる事かと思ってしまうが,退却までのいきさつを聞くと,どちらが悪いとも言えず,強いて言うなら,このような戦争を起こさざるを得なかった日本国の無謀さだが,それはやむを得なかった時代であるということだろうか。
佐藤は,牟田口に約束していた補給が,約束の日を過ぎてもいっこうに来る気配も無く,逆に,更に無理して進めといった命令を寄越した事に腹を立て,部下を飢えや無謀な突撃で死なすわけにはいかないという理由で,撤退に踏み切った。ただ自分のみが抗命の責任を負うように,退却の電報の草案も自ら起こすなど,周りにも配慮しながら撤退した。戦争下では時には死ぬよりも勇気がいる行動を,部下のために起こしたのである。
補給の話以外にも佐藤には不満が積もっていた。兵隊が痛い足をひこずりながら歩行を続ける中,芸妓や板前等が嬌声をあげて自動車で過ぎていくようなところを目撃していたからである。それを見た兵が何を思い,それがどのように士気に触るか考えただけでも分かりそうなものが,既に,考えられなくなっているほど,上層部は堕落・老衰していたのだ。そもそも慰安婦というのは,日清・日露のころは無く,はじめてこれが現れたのは支那事変が済南附近まで戦線を延ばして来たころだ。むろん初めは兵隊のためのものだった。兵隊の中には何としても欲望が抑えられず,密かに住民を乱暴して行く者が出てきていたからだ。ところがこれが,瞬く間に兵の手から将校の手に移り,さらに前線に戦うものは忘れられて,机の上で作戦し,机の上から命令する人々の公然の魔窟になってしまった。
佐藤は言った。立派な指揮者が,兵隊に死ねと言った伝統などは日本の歴史に断じて無い。最後の一兵になるまで頑張るのは,空疎な掛け声に煽られて頑張るのではなくて,指揮者の平素の労りが,生死を共にせずにはいられない共感,友愛に昇華されているからなのだ。つまり,自分の方から捧げたくなってくるから,一兵になっても頑張る。それが伝統だ。と。このようなことが言える軍人佐藤中将が,果たして,単に補給が届かなかったからと言う理由だけで,抗命し,撤退を図ったか,やはり疑問が残る。この抗命事件は,既に,戦争は負けており,これ以上,上層部の見栄や誇りのために,日本の皇軍を死に追いやってはならないという,大本営に向けたメッセージではなかったのではないか。とすれば,戦争とはいったい何であろうか。現地部隊に命令を下す司令部の存在は,戦争とは全く無縁の場所で忙しそうに命令遊びをしているに過ぎないことになる。佐藤中将が抗命になろうと,銃殺されようと,断固としてこの滑稽な錯乱遊びと戦わなければならないと感じたのであろう。犠牲をいといたくないというわけではない。犠牲はどこまでも意味のある捨石でなければならない。その捨石をどこで活かすつもりなのか,それさえハッキリと腹に入ったら,士気は全く違ってくるのだ。佐藤は罷免された後も,部下にあてて激励電報を打っている。大東亜戦争を通じて,兵を愛し,兵と共に泣き,兵と共に死んでいった将聖は無数にいる。しかし,戦場でこれほど強く兵のために闘った将軍はいなかったのではないかと著者は言う。
ビルマと同様に悲劇の島となったのが,サイパンである。ここは絶対国防圏の中心拠点であった。というのも,サイパンは東京から2400kmの距離であり,ここを敵に占領されると,日本全土がB29爆撃機の爆撃圏内に入ってしまうからだ。サイパンは小豆島より少し大きい程度の島である。この島の在留邦人の数はおよそ2万3千人いた。在留邦人と現地人との間もいさかいはなく,協力体制ができあがっていた。ここは第1次世界大戦以来,日本の委任統治領となり,海軍もしばしばこのあたりで演習を繰り返している。このため,既にこの時期には難攻不落の大要塞が出来上がっている,と誰もが思っていたが実際は違っていた。このように大事な拠点であるにもかかわらずだ。このため,敵の艦砲射撃をまともにくらい,島の形を変えてしまうほどの攻撃受けてしまった。ここで日本海軍がアメリカ海軍を追い払ってくれれば良かったのだが,フィリピンの泊地にいるため直ぐには現場に行けず,しかも,サイパンに着く前に,空母3隻のうち2隻も魚雷により沈没させられてしまった。サイパンでは,後少し待てば,味方の海軍が来て,敵を追っ払ってくれると思い込んでいたため,悲報を聞いて,絶望し,突撃,自決の不の連鎖が起こる悲劇の島と化してしまった。この島で死んだ日本軍の戦死者は2万3千人。また,在留邦人の2万3千人のうち1万人も死んでしまった。軍人の戦死者の多くは,砲弾,爆弾を浴びながらの激戦によるものだが,在留邦人の死者の多くは自殺であり,餓死であり,狂死であった。バンザイと叫びつつ,手榴弾を手にアメリカ軍の中に踊りこんで,銃剣をもって暴れ,自爆したり,バンザイ,バンザイと叫んで断崖から身を躍らせたりした。このバンザイ突撃は,アメリカ兵を戦慄させた。島の洞窟には軍人と一般人が混じって退避し,赤子の鳴き声で敵に居場所がばれる事を憂慮し,赤子を抱えた母に出てゆけと暴言を吐く軍人もいた。母親は仕方なく赤子をつれて出ていき,共に海に身を投げたりした。戦闘員と非戦闘員の入り混じった戦場にはこうした悲劇が必ずつきまとう。戦争もまたギリギリの人間の所業なのだ。温かい人情の発露もあれば,醜い剥き出しの利己の跳梁も避け得ない。それゆえ,戦争は永遠に呪われる悪行中の悪行なのだ。サイパンは結局,アメリカに占領されたが,アメリカ側もこの島の攻略だけで1万7千人の死者を出していた。この小さな島にささげた犠牲者の数はあまりに大きかった。
戦争には前線の戦闘部隊と後方の補給部隊のバランスが欠くべからず条件である。そのバランスが崩れると,どのように勇敢な兵士でも,闘い得ない。ニューギニアにせよインパールにせよ,繰り返し展開された日本軍最大の敵は,実はアメリカ軍ではなく,この補給の無力さであり,混乱であり,不器用さであった。玉砕していった人々はただそれを口にしなかっただけである。インパール作戦とサイパンの失陥で戦の勝負は決定し,ここからは戦争そのものの収拾に政治的な手が打たれなければならない時期に来ていた。しかし,ここで誰がいったい,東条に辞職を勧告するのか。そこで登場したのが,岸信介であった。ある時期の東条は不思議な魅力を持っていた。ところがその魅力の元をなしていた誠実さも,忠誠心も,努力も,不退転の信念も,今はみな見逃しがたい欠点に変わっている。東条が変わったのではなく,時局が全く別の物を要求しだしているのだ。ところが東条はそれに気付かない。少しでも彼の意に反するものは遠ざけ,彼の信念に近い者だけを近づける。そうなると内閣そのものが東条の過ちなり,欠点なりの塊になってしまった。しかし,これに敢然と意見したのが岸信介であった。今の東条に意見する事は,死を決しないと出来るものではなかった。全ての権力を東条が握っているからだ。しかし,東条も決して悪人でもなく,陰謀家でもなかったので,岸やそれに呼応する大臣の意見も入れ,東条内閣は19年7月18日に総辞職した。これで実は太平洋戦争は終わったのだ。岸の功績は大きい。既に負けている戦を,負けているぞとして終戦の方向へ向きを変えさせたのだ。それはサイパン玉砕の大本営発表と同じ日であった。
この時期,アメリカ側の大船団はレイテ島を目指していた。日本側はこれに気付かず,フィリピン沖のアメリカ陽動海軍にひっかかり,マッカーサー率いる海軍にレイテ島上陸を許してしまう。このように戦局が不利になるにつれて,不思議な形で愛国心が燃え上がり,それが,神風特別特攻隊の芽になっていった。山本五十六は,必死という,何ほどかの生還率の無い作戦は実施すべきものではないと厳重に戒めていたが,サイパンの失陥のあとでは,この海軍上層部の自戒は激しく揺れだした。敵に日本本土の攻撃基地を与えてしまったのだ。生産力の差からいって,応戦するに足るだけの飛行機や艦艇の補充が出来る状態ではない。そうなるとわが方にあるのは,異常なまでに昂まっている純真な人々の愛国心以外には何ものもなかった。この事に気付いて,真っ先に必死必中の特別攻撃を考えたのは,大西滝次郎中将であったと言われている。一機をもって一艦を沈める程の体当たりをやらなければ絶対に勝ち目は無いということだった。しかし,この戦術は易々と決断して良いものでもない。戦争にも下命してよい事の限界はあり,その限界を超えると果てしもない暴挙になる。陸軍はこの時期,まだ気負い立って闘っている。海軍もまた,最後の一兵になるまで徹底して闘って死ななければならない。その意味では,この特攻により神風を吹かせるということより,この特攻により,徹底して責任を全うしたいという,そして,その責任を全うする事で,神風は子孫の上に吹くであろうという考えからであったのだろう。
特攻隊の出現は,この時期,日本に起こるべくして起こったものであり,その行為に至った神聖なる気持ち,子孫への願いを鑑みると,その行為自体を批判する事は私には出来ない。でも,そんな限界ギリギリの心境にさせてしまう戦争というものの恐ろしさを,子孫である我々はよく考えなければならないと思うのだ。 -
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ネタバレガダルカナルの敗北は太平洋戦争における峠であったと言ってもよい。ここで失った人と物と時はその後の日本軍に与えた影響は無限大の大きさであった。艦艇や航空機の喪失は日本側だけでなく,アメリカ側も同様もしくはそれ以上に出ていたが,費やされた”時”の与える影響は両国で全く違ったものとなっていた。アメリカ側の工業生産高は日本のおよそ13倍であった。これを航空機にとれば,日本が1機生産する間にアメリカは13機生産するという事だ。したがって日本はアメリカの12機を無損害で撃破しなければ均衡が崩れていくという事になる。鐵鋼の生産量でもアメリカ側の1億トンの供給量に対し,日本側は400万t。これは,日本の艦艇1隻が,25隻の敵を撃沈するのでなければやがてはバランスが崩れるということだ。こういう前提のもと始めた戦だということを肝に命じておかなければならない。
ガダルカナル攻略の後は,西ニューギニアの攻略に進むものと考えていた日本軍は,ガダルカナルの敗北前に,既にニューギニアにも兵を投入していた。ガダルカナル攻略後,その兵をニューギニアに投入するものだったため,まず,上陸させたのは,工兵が3分の1を占める部隊だった。その部隊が全く気付かないままに,マッカーサーは10倍の兵力をもって大飛行場をニューギニアに整備し,日本の陣地に向けて進撃して来た。寡少かつ戦闘部隊で無い日本軍は,敵が猛射を浴びせてくると,日本はただじっと待ち,猛射が止むのを待って突撃して行くしかなかった。この突撃だけはアメリカ兵の最も苦手とするところだった。アメリカにとっては,物は決して惜しんではならない戦争の必需品であって,戦争とはそうした消費・浪費を惜しんでゆくと,より貴重な人命の消費に振り返られねばならないことを良く計算している。日本側は物量が足りないので,ついに人命をもってこれに代える考え方に馴らされていた。このため,アメリカは日本兵の突撃を警戒し,弾雨の中に日本兵の闘魂を閉じ込めようとした。射ち止めたら突撃してくるので,突撃させないためには,つねに弾丸を射ち続けて,壕の中へ日本兵を閉じ込めておくに限るのだ。そうすれば,やがて空腹もあり,飢餓もある事を冷静に計算に入れた攻撃方法であった。いうなれば,これこそ真の『人と物との戦い』であった。こうすれば,いかに頑強な日本兵も降参するに違いないとマッカーサーは踏んだのだ。
中央では常に地図をにらみ数字を並べて作戦を立ててゆく。無傷の3個師を送るには,何ほどの船舶を必要とし,何ほどの武器・糧食を必要とするか,そうした数字による兵力比の計算だけで容易に勝算をはじき出し,そうした根拠から実戦部隊を叱咤し,命令して行くのだが,実際の戦場ではそうはいかない。戦場は常に敵の出方に応じ,思いがけない突発事や変化が連続的に待ち構えている。逆に,実戦部隊の現実的な要求を,どうして中央が満たしてやれるかに本当の勝敗はかかっているのに。
山本五十六は十八年五月の開戦から1年半にあたっている時期に,起死回生の”い号作戦”を立案する。1年半の間にミッドウェーの蹉跌はあったが,とにかく,タイ,インドネシア,ガダルカナル島までは互角の戦いをしている。ガダルカナル島を撤退して,勢いづかせた敵に,ニューギニアでもまた手も足も出なかったとなっては戦いはもはや終わりではないかという思いがあった。開戦から1年半から2年になると戦いには自信が無いと言っていた,開戦当時の山本の言葉を踏まえると,この時期は既に山本としても最後の手段を講じる時期だという認識であった。しかし,山本の乗った飛行機が撃ち落され,日本海軍は戦略的,心情的な柱である山本を失ってしまう。陸軍にとっても,よき理解者たる山本の死は非常に大きな影響を与えた。
ニューギニアでは,ガダルカナル島と同じように,アメリカ軍の武器・人の供給量が飛躍的に増加し,もはや完全に人対人の戦いではなく,アメリカの物量と,生き残った日本兵の戦いになってきた。敵の5万発を超える砲撃に対し,日本は10発ぐらいを打ち返すといったぐあいだ。こういった状態の日本軍に対し,アメリカは更に包囲の輪を縮めてくる。日本軍は,前進するも退却するも,その包囲網を突破しなければならなかった。そんな強行軍について来れないような傷病兵は,戦友達の足手まといになるのを恐れて律儀に自決の道を選び,死んでいった。日本軍が撤退する時には,どこの戦場にも,必ずそうした自決があった。ニューギニアでは富士山よりも高い4500m級の山を縦走して敵の包囲網を交わしたり,30kmにも亘る湿地を,10日間もずっと立ったままで進んで行かなければならなかった。日本陸軍の第51師団はこのような信じられない行軍を実際にしてきたというのだから,そんな話を聞くにつれ,何ともいえない申し訳なさや感動や哀しみが入り混じった感に襲われるのは私だけだろうか。
参謀本部でも大本営でも,こうしたニューギニアの悲劇を全然知らずにいるはずはなかった。国民の前にこのみじめな実情の報道こそなかったが,自分達の招いたこの大失敗を痛いほどよく知っていた。しかし,時すでに遅く,もはやどうすることも出来なかったというのが実情ではなかったか。このため,十八年の秋ごろからは,本部でもソロモンとニューギニアの前衛戦線を放棄し,退却せよという意見がしきりに出だしてきた。しかし,現地では退却すら出来ない包囲網の中にいる。とにかく,進むも死,退いても死の絶対絶命の窮地に立たされている。援助物資も届かないとなれば,当然,現地での食料調達となる。しかし,ニューギニアでの現地調査の結果,兵達に加え原住民をもまかなう程の食料が無いとわかった。いかに皇軍の兵士達といえども,極限状態でどのようになるかわからない。いや,原住民や味方になっているインド兵も交えた大暴動になりかねない。人間がいったん食をめぐって争いだしたら,それはもはや何者もこれをさえぎりえるものではない。しかし,そうなってはこれまでの忠烈さも,名誉も一度に吹き飛んで,民族永遠の汚辱が刻印されることになる。そこで遂に,ニューギニア包囲網にある安達二十三(はたぞう)第十八軍司令官は,熟慮の上”我々は皇軍なのだ”という誇りを胸に,玉砕覚悟で進撃していった。原住民との食料争奪戦になるよりも,名誉ある死への突進を選んだのである。しかし,この玉砕覚悟の進撃戦も,自給自足生活をしながら長期に亘り,結局,昭和20年の終戦までに頑張り続けたのだから凄まじい。終戦時,第十八軍の生き残りは,第20師団2千名,第41師団1300名,第51師団400名という酸鼻を極めたものであった。
南太平洋のガダルカナルとニューギニアの戦いは,その最初からあまりに悲惨すぎるものであったが,アジア地域内のビルマはその2者と違って,緒戦当初はまことに輝かしい勝利と栄光に飾られた戦いであった。日本はビルマに進出して,イギリス軍を追いはらわなければ,マレーからインドネシアの石油地帯を確保出来ないし,ビルマは日本軍進出の間に自国民の義勇軍を結成して,長い間の植民地的抑圧から独立を図るという点で完全に両者の利害は一致していた。タイも中立を守っていたが,日本軍大勝の報が続々と入るに及んで,日本軍の国内通過も許容してくれることになった。日本軍が常に誇称していた”皇軍”としての面目を占領地域で遺憾なく発揮したのは,今村軍司令官のインドネシア掌握時代と,このビルマにおける緒戦当時だけだったような気がする。成功の原因としては,両者の利害一致の他に,両者がいずれも仏教徒であったということがあるのではないか。一人一人が故郷を偲びながら合掌する姿は,このうえなく親しい身近なものに見えたに違いない。それが日本軍に協力したいという感情的な部分に強く訴えたのではあるまいか。
そんなビルマにおいても,現地部隊の苦労が大本営には理解されない。現地の兵隊の生命を投げ出しての善戦敢闘が,逆に上層部の人々に戦争を安易に考えさせる原因にもなった。
ビルマ方面軍のインパール作戦については,現地軍がやれるというのならやらせるがよい,というのが中央部の意見の大勢であった。しかし,ニューギニアの戦局が悪くなっていくに従い,ビルマのインパール作戦は,起死回生の一撃にと,その戦略的な意義が当初とは違ってきた。インパール作戦を主導したのは,現地の牟田口中将だった。従来ならば,一個大隊の兵力をもって密林に包囲圧縮して行けば,支那の一個師団はただちに潰走するのが例であったが,彼らには大きな変化があった。今までの包囲は,そのまま補給路の遮断を意味していたが,敵の補給は一切が空からに変わってしまっていたのだ。こうなると,日本軍がどんなに突撃を敢行しても,日本側は補給は無く,少しづつ減って行く一方なのに対し,敵はいつでも補給が受けられ,逆に益々増加して行く一方であった。つまり,空からの補給という新戦術を採用されると,日本軍独特の肉弾攻撃ではどうにもならないということであった。そんな困難な状況であっても,日本軍は牟田口中将の激のもとインパールを目指すしか生き延び,戦線を収拾していく方法はなかったのが現実であった。ビルマ戦の初戦では敵を蹴散らしたものの,次第に負け戦の色が濃くなっていった。そうなってくると,このインパール作戦に凄まじい執着を示している牟田口中将への反感が軍内に充ちはじめ,そこからビルマの戦局についても悲劇が始まっていったのだ。