山岡荘八のレビュー一覧
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ネタバレジャワ攻略を予想以上の成功に導いたのは,ジャングルへの備えと今村均中将およびその命令下の将士の冷静かつ果敢な行動,それに陸海軍の緊密な協力にあった。今村中将の逸話を聞くに従い,これが太平洋戦争全体を包んでいたらという思いを強く持つ。
今村中将は,インドネシアに侵攻しつつも,常に現地人への被害に対する反省がつきまとっていたに違いない。このため,オランダの降伏後は,民政に力を入れ,インドネシアの現地人の独立を助けるように支援した。そんな占領初期の日本人に対しては,現地人は非常に好感を持ってこれを向かえ,惜しまない協力をくれた。インドネシアは,どこの占領地域よりも明るく,活気があり,みな伸び伸びと生活していた。しかし,一方で,日本国内の窮乏は日に日に深刻の度合いを深め,このような明るい姿に嫉妬しだし,臥薪嘗胆主義者達の感情に触れた。中央から派遣された武藤章軍務局長が東条の意を携え飛来して来た。威令に満ち・厳しい統治を進めよということだ。今村は決して日本の方針を踏み外すことはなかった。ただ,今村の言う日本の方針とは,唯一,天皇陛下の決定された統治要綱であり,『戦略物資の確保,国際法の厳守,現地の人心安定』の3つであった。その3つを厳守するためには,威令でも鞭でもなく,現地人に常に希望の光を灯しておく,つまりは,独立の夢を支援してあげる事こそが,インドネシアを統治し,うまく運営して行く要となると武藤に懇々と説いた。今村から言わせると,この度の中央からの命令は,天皇の意に沿ったものではなく,陸軍省の感覚や,一部の秀才が勝手に天皇の統治要綱を変更したものだと。ただ,残念ながら今村中将の統治から,軍政当局者による統治に変わるにつれ,現地人には威風で臨めといった空威張りが横行するようになり現地人も暗澹としていく。
ミッドウェー海戦は,日本側からいえば大敗北であり,これまでの必勝の自信と誇りを失う痛恨事であった。当時の海軍は,名実ともに世界のトップクラスであった。ゼロ戦の戦闘力や魚雷の射程距離などは世界随一であった事は明白である。そんな帝国海軍がミッドウェーでは信じられない敗北を喫する。その原因として,今日あげられる最大のものは,連戦連勝の成果に酔った指導部の慢心であったとされる。確かに,それは外れていないが,その背景にあったものを全て理解した後に語るべきものであり,軽々しく,無謀で狂気の沙汰の海戦であったと済ませてはならない。それでは,失われた日本兵の死が全く無意味な犬死に成り下がって行くではないか。歴史上,全く無意味な犬死などは存在しない。それは後世の人々が,その意味するものを探り出そうとする努力を怠り,その過去の事実から反省の資を摂取する才能を持たない人々の,まことに不遜な片付け方ではないかと思うのである。著者としては,この部分を,少なくとも読者には知ってもらいたい,理解してもらいたい,教訓にしてもらいたいと思って,おそらく大げさではなく,命を削ってでも後世に文字として残したのだろう。
本来,海軍は戦争を長引かせることは不可能だと言ってきた。山本は1年ぐらいは十分暴れられるが,その後は自信がないと言っているし,海軍軍令部総長の永野も対米戦争は1年か2年は持ちこたえられるが,それから先は分からないといっている。石油の貯蔵量を使い果たすと,世界一の艦隊も軍港に抑留しなければならなくなるためである。このため,太平洋での防衛的な戦略戦術は取りえない。速戦・即決で如何に早く戦争を有利なうちに終結させるかということに尽きるのであった。まずはハワイを襲撃し,太平洋の制海権を確保し,続いて東南アジアの海域からインド洋を制圧し,陸軍の行動を助けて戦略物資の調達路を確保し,そして,ハワイ奇襲により打撃を与えたアメリカの超大海軍の再建完成を最も効果的に妨害して行くことであった。ただ,アメリカ本土を攻撃して,生産設備を破壊する力まではない。このため,再建艦隊の大きくならないうちにこれをいずれかの海域に誘い出し,艦隊決戦に挑んで行くほかなかった。再建できたアメリカ艦隊がこちらを圧倒するほどの大勢力にならないうちに,どこかの海域へ引っ張り出して叩くこと,これがギリギリで考え出された山本戦法の根幹を成すものであったろう。南は豪州から北はアリューシャン列島まで,広大な作戦規模は,わざと巨大なくもの巣の網を張り,そこへ誘き出し,ひっ包んで撃沈してゆく,そしてその間に好機を捉えてこの戦を終息に導かせるという構想だ。こちらがその意気込みでアメリカ軍を射ち沈めていこうにも,向こうはそれに優る生産力を持っている。それに反して味方は小艦艇一隻を失っても,それはもはや今次の戦争中に補充される見通しはないという,絶対のマイナスに繋がってゆくギリギリの戦だったのだ。アメリカは『日本海軍は石油という動力源のパイプを閉ざしておきさえすれば,両3年の間には乾上る海軍だ』といった蔑視の上に立って,石油の禁輸を断行し,日本はあらゆる面から挑発した。それに対し,日本は従来の戦略戦術をもってしては全然勝ち味のない戦ながら,止むなくこれに突入して来ているのであった。利害を計算したら開戦すべきではなく,はじめから米英のなすがままに任せておく方がよかったのだ。そういった思考のもとから,ミッドウェー作戦を決定していったのは,やむを得ない成り行きだったと思うのである。
真珠湾,シンガポール占領,フィリピン攻略などは,米英は出鼻を挫かれただけで,全然立ち上がってはいないのだ。それなのに,これ以上戦局を拡大し,進むのは不当である等,陸軍出身の東条の考え方もあり,これ以上学生は召集しないという声明が発せられた。連戦連勝の経験がひどくタガを緩ませ,山本の『今度の敵は我が国始まって以来,最大最強の敵である』と言う主張を理解する人間は少なかった。また,情報戦・索敵戦については,アメリカに大きくひけをとっていた。索敵による敵機発見が1時間差があるだけで,運命を決してゆく,言いようもなく大切な差になってしまったのが,ミッドウェー海戦である。この海戦で,日本軍は最新鋭艦4隻を失ったが,それはこの戦争中の日本の実力では取り返しのつかない損失である事を海戦に臨んだ艦長や司令官は認識しており,そのために,自艦沈没の折には,責任をとって,艦とともに沈んだ者が多かった。
山本五十六が三国同盟には徹底して反対していながら,太平洋戦争には徹底的に反対しなかった理由として,『日本の革命』があった。もし太平洋戦争に海軍をあげて反対したら,陸軍の少壮将校は必ずクーデターをやるに違いない。そうなると,国家社会主義やら共産主義やら,判然しない革命政権が出現するだろう。そして,彼らは現在よりも数倍混乱した能力で,昂然とアメリカに挑戦していくにちがいない。その結果,日本は現在の力で戦うよりはるかに惨憺たる亡国になってゆくに違いない。そこで歯を食いしばって開戦に賛成する。賛成するが,早期決戦で講和に持ち込まなければ勝ち味はないことを常に中央に忠告しなければならない。その忠告が届かぬと見た時に,海軍は平素の教育信条のとおり,最後の一兵に至るまで厳しく戦って滅んでゆこうと考えていた。ミッドウェーでは敗北したが,これはミッドウェーと言う局地戦での敗北ではなく,太平洋戦争という大きな視点でも日本海軍は敗北したと言ってもいいだろう。
海軍敗北の一ページはミッドウェーであったが,それと相対する陸軍敗北の第一歩は,ガダルカナル島争奪戦であった。当初は,日本陸軍はガダルカナル島を重視していなかった。というより,このような島はしらなかった。アメリカは逆に,アメリカと豪州の生命線を守る城砦として,日本軍をこれ以上南に進出させないために,絶対欠くことの出来ない拠点であった。その意識においても,守るアメリカ方と攻める日本方では,緊迫度合いも違い,それに輪をかけるように,日本軍の驕りがあった。
ガダルカナルの戦況が悪化して行くにつれ,日本軍の驕り,無謀は輪をかけて増していった。『こうなったら日本軍の面目に賭けてもアメリカ軍を殲滅してやる』と,満々とした考えが中央にも現地軍にもあった。ただ,次第に要塞化され,軍備も充実していくアメリカ軍を冷静な目で捉え,深入りせず,こちらも戦略をもう一度練り直すべきだといったような後ろ向きな意見もあったが,これは一蹴された。そこへ,カノン砲や砲弾とともに,11名の参謀陣と派遣参謀も3名を加え,大兵団を送り込み,一大決戦をしようという動きを陸軍中央部がとるのである。1万5千人の軍隊を送り届けるには,空海上から,それなりの援護が必要になる。しかし,このような隙間は現時点ではほとんどなく,無理に上陸しようとして敵機に見つかり,人員・軍資の大半が海の藻屑に消えてしまったのである。辛うじて上陸した部隊には,10日を養うほどの食料もなく,弾薬は半日で尽きるぐらいしか残っていなかった。これに,マラリヤや赤痢などに多くの兵士が感染し,兵士達は骨と皮ばかりになっていた。引き返すにも船もなく,まさに,行くも死,留まるも死であった。大挙やってきた若い参謀達は大きく狂っていたが,反面,その他の将士や兵士達は責任感があり,再起の可能性がほとんどないと悟った時,この際残っている精力をふりしぼって一寸たりとも前進し,もって後続部隊のために道を拓いておくことが最後の奉公となると考えて,散華していった。2回もの総攻撃に失敗した日本軍は,アメリカ軍に負けたと言うより,これら若き参謀達の稚拙で無謀で全く理解に苦しむ戦略による犠牲となったとも言えよう。
既にガダルカナル島が敵の反抗の第一拠点となったことは明瞭である。ここに,陸軍がこだわればこだわるほど,犠牲は陸軍だけでは済まず,その護衛・輸送に協力する太平洋上の主戦力である海軍勢力の大消耗を来たして,戦争全体の敗色を深める結果となった。2回もの総攻撃に失敗した日本軍だが,子供の喧嘩のような面子にこだわり,意地にもなって,第3次の総攻撃に突撃していったのは,後世の私達から見れば,何故という疑問を超えて,腹ただしくもあり,またそこで亡くなった士卒のことを思うと,やるせない気持ちになるのである。
これらの太平洋戦争では,帝国陸軍の異常なまでの意地や,開戦初期は幸運にみまわれただけのことなのにそれを当たり前のように感じ驕りに変わっていったことが不運な結果を引き起こす大きな要因になったのである。この教訓から,我々は,勝っておごらず,敗れても狼狽しない冷静さをつねに堅持していかねばならないと肝に命じなければ,散っていった将士達に申し訳が立たなくなる気持ちに襲われる。
ガダルカナル島では,第2次総攻撃で生き残った兵達が,飢餓に近い状態で取り残されている。彼らが今戦っているのは,アメリカ軍ではなく,病や飢えに対してであった。川という川には魚一匹いなくなり,森からはトカゲも一匹もいなくなったという。見つけ次第にとる人間の数が多すぎるので,さしものトカゲの群れも食い尽くされてしまったのだ。そんな異常な状態を引き起こすのも,戦争の一情景であることを心しておかなければならない。ある時には,立派な美点として通る日本人の『頑張り』が,ある時には欠点となって,悲劇の波紋を拡大して行ったのだ。第3次総攻撃のため,輸送船団は編成され,魔の海域に乗り出したが,結局これも敵の猛襲に会い,食料の不足している飢餓の島へ,十分な食料の補充も行い得ないまま,人員の補充のみが行われ,悲劇の上塗りをしてしまった。輸送船団の被災により,アメリカ軍との軍備の差が更に増すとともに,原料調達力と生産力の差がいよいよ激しく日本側を圧迫していった。
退きたくても意地でも退けない,そんな陸軍の状況をみかねた山本五十六は,『撤退断行のほかに結論なし』と大本営に具申した。正直なところ,その山本の具申には陸軍首脳部も,ほっとしたのではないか。でも,そこに至るには余りにも多くの犠牲が出すぎた。そして,このような状況において,現地の兵員達は撤退を良しとするのかも問題であった。ここまできたら,飢え死にか,玉砕覚悟の特攻か,そんな選択を迫られているギリギリの状態で,撤退という言葉に飛びつき得ないというのがこれまでの犠牲者と,陸軍参謀達に対する無言の抗議であったのではないか。
投入総員3万3千人のうち,戦死1万4千600人,戦病死4千300人,行方不明2千400人という同胞の犠牲がガダルカナルという一小島で起こった事実である。ここは,日本陸軍の哀しい墓地の一つであった。 -
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ネタバレ山本は『戦争にせよ,賭博にせよ神様が喜ぶことでは決して無い。したがって正義がこちらにある時は,止むにやまれぬものとして天佑があるだろう。その天佑も信じられないような戦ならば全作戦を放棄するのが良い』と考えていた。逆にこのように考えた上で,大艦巨砲主義の思想が中心だった日本の作戦から抜け出し,航空機が海戦の勝敗を決定するような戦のやり方に日本の戦争のやり方を変えていくべきだと主張し,そうした技術を短日月の間にマスターすることを本部に求めた。
山本は決して無謀を強いるような人ではなかった。青年士官が特殊潜航艇での真珠湾強襲を申し出た時,その内容を一目見て却下した。それは航行時間は五時間だったからだ。これでは襲撃した後,帰って来れない。これは必死兵器だった。山本は戦争だから人の道を踏み外してよいというものではないと考えている。生と死はそれぞれの覚悟の上では紙一重かもしれないが,戦争は断じて自殺であってはならない。指揮者として,そのようなことをさせたら,武士道に反する。故に,『それを命じることは出来ない』と,何度も退けたが,航続時間を十六時間に増大させたことと,青年士官の純真一途な真剣さに負け,これをようやく許した。当然,帰還可能という計算の上での許可であった。
明治維新を成し遂げた子孫として,この戦争を起こしたことは決して褒められるものでもなく,戦争に踏み切ったこの子孫達は彼らから見てとても懸命な子供たちではなかったかもしれないが,維新以来の国防国家的な特異性の中で育てられて来た子供たちが,白人文明のゆがみに腹を立て,まなじりを裂いて決起したとしても,それを責めることは決して出来ないだろう。一切の不正と戦い,正しさのためには敢然死を恐れるな,と教えてきたのが明治維新を成し遂げた彼らの祖父母・父母であったからだ。その子孫たちに対し,宣戦の詔勅は昭和16年12月8日午前11時45分に発された。
戦争の勝利国から,日本の戦争指導者たちは,ことごとく人道の敵という名を冠せられて裁かれたが,それを裁く側の国民の中にも,それはおかしいという人も当然あった。その証拠に,米国内からもルーズベルトやハルのとった日米外交について多くの批判がなされているし,この裁判に臨んだインドのパル判事は,ハル・ノートを『こんなものを突きつけられたら,モナコでもルクセンブルクでも宣戦せずにはいられなかったろう』と酷評し,日本の無罪を主張している。
真珠湾攻撃と同時に,陸軍はカンボジア国境からタイに進攻した。バンコクでのタイ人の日本人に対する感情は親近感を示すというものだった。それは,彼らも長い間,白人優越の世界に住み慣らされ,白人には敵しえぬものと劣等感を脳裏に刻み付けられていたものに対し,黄色い皮膚の日本人が白い皮膚に勝ったのだということからだった。東南アジアでは,ハワイに勝ち,マレーでイギリス軍を追い払った日本人に対し,現地人の見せる笑顔は底抜けに明るかった。著者自身もマレーに渡ったらしいが,そこでは限りない友情を示してくれたという。
そんな日本の進出をイギリスも黙って見ていたわけではない。不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号を,イギリス海軍中,最も有能の誉れ高いトム・フィリップが率いてやってきた。1分間に6万発の火器を装備しており,それがこの巨艦をつつみこみ,飛行機は近づけないという対空砲火の装備を誇っているのだ。しかし日本軍もこれを海上に誘い出し,爆撃機隊が狂ったように食い下がり,誰もが生命の危険など全然考えることもなく,ただ,白人許すまじという思いを胸に弾幕の中に急降下していった。それにより,ウェールズ号は海底へ沈んでいった。マレー沖海戦である。
シンガポールはイギリス軍が過去一世紀にわたって東南アジア経営の策源地として利用して来た大要塞であった。ここがある限り,香港につながる中国大陸も,マレー諸島も,ビルマ,インドも英国を敵として立つことは思いもよらなかった。これに戦を挑んで,占領するものが現れようとは思いもよらなかったろう。当のイギリスも,そして,現地人もだ。そのシンガポールを目指して,日本軍は南下して行く。
途中ではイギリス・インドの混合部隊と衝突し,これを破りつつ進む。英兵2割,印兵8割の混合部隊であり,インド兵は続々と投降した。これらの降伏兵は,後にインド解放軍を組織した。日本軍がイギリス兵を破ったと知ると,ニコニコと日本兵に笑いかけてきたという。
マレー上陸から,シンガポール対岸のジョホール・バルの占領までに要した日数は55日。東京下関間に相当する1100kmの距離を突破するまでに,92回の激戦を繰り返し,破壊されていた250の橋を架けなおしている。これは毎日2回の戦闘をしながら,5つの橋梁を修理して勝ち進んだということだ。ただ,マレーの占領だけでは戦略的な意味を成さず,ジャワ・スマトラの南岸一帯の石油・ゴム・すずその他の戦略物質の確保が目的であった。
山下奉文というマレーの虎と言われた男がいる。マレーの虎は別にいたマレーのコタバルの残留邦人の谷豊という青年親分のことだったが,いつしか,山下の呼称に変わっていた。山下は総司令部とは反りがあわず,戦場を転々とさせられていた。山下は皇軍として,常に厳しい軍紀と犠牲を指揮下の部隊に要求し,同時に自分にも課していたにもかかわらず,そんな山下を司令部は変わり者の頑固者とでも考えていたのだ。
シンガポールは東西38km,南北22kmで淡路島より小さい。その島が近代設備で完全に武装化しており,島への橋も一箇所のみだ。ジョホール・バルとシンガポールの間を隔てる水道の幅は700m程度。そこには蟻一匹も通さぬほどの厳しい監視がついている。したがって,ここは奇襲などはありえず,水際の血闘にどれだけの犠牲を投入して闘魂を競うかにかかっていた。山下は霧の中,弾雨の中,そして夜間絶えまなく猛攻を加え,そして猛攻にも堪え,遂に無条件降伏を勝ち得た。それは,奇襲でもなんでもない戦いで,初めて有色人種が白色人種に刃を向き,屈服させた時でもあった。ただ,これに勝ちを得たときも山下は勝利に酔いしれることはなかった。また,シンガポールへの入城式はせず,主力部隊はシンガポール市街地へは入れなかった。兵たちからは不満が出たが,順次,市街地見物をさせてやり,これを抑えた。憎悪の生々しいうちに勝者を市内へ入れると,必ず大騒動がおこってゆくことを封じたのである。この時の山下の頭の中には,いつこの戦の終止符をうてるのだろうかということのみが占められていた。それは,現場指揮官の山下が考えることではなく,司令部が考えることだったが,山本五十六も同様に感じていたことであった。支那事変を終わらせるにも,米英からの援蒋路を断つ事が必要であり,そのためには,重慶からタイ,ビルマの方向を日本が封じることとが必須だった。
フィリピンも宣戦布告からすぐに戦場となった。12月10日には島北部から上陸が開始され,首都のマニラに向けてひたすらに南下した。航空部隊と連携し,制空権を開戦3日で得て,意気揚々としていた。が,ここで思わぬ戦略的なミスを司令官の本間がしてしまう。本間は山下のような猛将型ではなく,理論的な,欧米型の文化的知的司令官であった。師団同士の競争があることもしらず,お互い協力せよといった,聞けばすごく真っ当な命令をして,2方面からマニラに向けて出発させた。しかし,師団同士は,お互いに我先にと一番槍を目指して,他の師団を頼る事などしないのだ。お互いの連携もとれず,結果は無残な全滅となってしまった。マニラを守る敵将はマッカーサーだ。マッカーサーは多方面から攻められることを恐れ,兵力を集中させ,援軍を待つ体制ををとった。そこに地理的にも全く無知な日本人が,現地人も足を踏み入れたこともないようなジャングルを抜けて攻め立てようとした。が,そのジャングルには未知の生物,未知の地盤,未知の気候など,人間との戦争ではない様々な苦難が待ち構えており,これを抜けることはほぼ不可能で,そのほとんどが,餓死してしまったという。そもそも日本には米英と戦う意志など元からなかったため,敵側の戦力の分析や地理的調査も全くしていなかった。この事は,その後の太平洋の各地の島々で展開された陸軍側の玉砕に多かれ少なかれ必ずつきまとって,悲劇の原因となっている。
進んでも死,止まっても死,退いても死という場面が戦場にはしばしばあった。そうした場合,,不思議なほどに果敢に前進するのが日本兵の常であった。『天皇陛下バンザイ』という時の”天皇陛下”と言う言葉には,指揮官でも,権力でもなく,そんなこととは無縁な宗教的な救いの対象であった。
バターン半島に引き下がり,日本軍に勝利を続けるアメリカ軍は,その他の戦況がよろしくないため,この勝利を最大限に宣伝し利用した。とにかく,日本軍の第1次バターン攻略作戦は失敗であった。しかし,退却を転進などと言い,司令部などは,自分の失敗を認めまいとしていた。それが,次の攻撃に際しては,日本軍の面目に賭けてもバターンの敵を撃滅しようと,たぶんに感情的な戦に導いてしまうのだ。日本としては,各所で勝利ををおさめている現状では,フィリピンの敗北は極めて屈辱であった。そして,日本は,これまで侮っていたフィリピン攻略にようやく真っ当な戦力を投入して行く。人員と銃砲火器を充実させつつ,徹底的にバターンに攻撃をかけていった。すると,戦況もかわり,次々と投降者が出てくるようになったのだ。しかし,その捕虜となった数は,住民も加え,日本軍の4倍までも膨れ上がり,日本軍3万に対し,捕虜12万という様相となってしまった。勝った瞬間から,計15万の人間を養いながら保護して行かなければいけない責任を転嫁されたのだ。日本兵がどんなに知恵を絞っても,その飢えに対処することは不可能に近かった。難民を見ると黙っている事が出来ない日本兵達であり,ある者は乾パンをわかち,ある者は水を,ある者はタバコをとするうちに,日本兵もすっからかんになる。子供たちの頭を兵隊たちは撫でてやっていたと従軍記者は記している。きっと,故郷の事が思い出されているのであろうと。しかし,これが戦後,バターン死の行進と報復喧伝され,善良な兵隊たちまで,残虐な鬼畜であるかのように印象づけられ,責任者である本間中将を銃殺させる結果となった。
従軍記者は,敵側戦力はアメリカ兵とフィリピン兵で7万近くにもなるのに,なぜ戦おうとしなかったのか,武士道として非常に腹ただしい思いに駆られたという。兵隊の勇敢さには面食らうほどの差があったのだ。日本側は兵隊自身が自身の力で戦っているのに対し,アメリカは武器,食料,その他の戦場条件で戦っているということだった。それだけ彼らが近代人だったということかもしれない。これら条件の一つが欠けても戦おうとしなくなるアメリカ兵を,アメリカ側はすばらしい英雄のように宣伝し続けた。日本の将兵達は,必要以上に腹を立てたのもこのためであろう。だが,日本兵は,戦が勝利に終わると,すぐまた人の良い日本人にかえるのだ。過去を水に流してしまうのだ。出来る限りの救済の手段を講じたのに,戦後に至って死の行進と喧伝されたのでは無念を超えて,憎悪にも似た感情を抱く。日本側にいくぶんの落ち度があったとすれば,軍司令部の幹部たちが自ら率先して俘虜をすくおうとせず,次の戦場であるコレヒドール島に向かって激しい戦意を燃やしていたことであったろうが,捕虜を可能な限り,日本人と区別することなく一緒に生きようと歩いた行軍を,死の行軍だとはいったい誰が言いだしたのか。
バターンを失ったアメリカは戦力をコレヒドール島に集中させた。ここも難攻不落と宣伝され,アメリカは意地でも守り抜かなくてはならない橋頭堡となった。バターンはフィリピン人が大半を占めていたが,コレヒドール島はアメリカ人のみが守る島であった。そういう意味では,日本側の闘魂もコレヒドール攻撃に燃えたたさずにはおかなかった。日本側の集中砲火と決死隊による攻撃の前に,アメリカが不落を喧伝していたコレヒドールは,上陸作戦を敢行してから1日足らずで落ちてしまった。フィリピン,タイ,マレーに続き,同程度の武器を持って相対すると,日本側が圧倒的に勝つのだという思いがここでも強くなっていった。
太平洋戦争のそもそもの原因は,日本側に関する限り,アメリカによって禁輸された石油の獲得戦争であり,タイ,マレー,フィリピン攻略もその目的は,攻略と言うより,その地域の安定確保いわゆる,蘭領印度という石油資源地帯への進出確保であった事は言うまでもない。蘭領印度とは現インドネシアであり,ここの軍司令官はフィリピン攻略の本間雅晴中将と同期生であった陸軍大学校の今村均中将だった。今村中将は,坂口支隊を先遣隊として送り込んだ。ボルネオは世界第3位の大きな島で,わが本土の約3倍で,そのほとんどがジャングルだ。これへの用意がされていないと,いざ戦いとなっても,敵と戦わずして敗北を喫することになる。そこで,開戦に先立つこと3週間,坂口は11月19日には門司を出発し,パラオ諸島でジャングル突破の猛訓練をしてからボルネオに向かったのである。兵隊たちは,訓練のおかげでジャングルを恐れなくなり,ボルネオの対岸の島のジャワ島攻略に大きく貢献した。人生では,知ると知らぬの差は,そのまま自信と恐怖の差になることを忘れてはならないだろう。そして,ボルネオ島に渡った坂口支隊は,ジャワ海に面したバンジェルマシン市に到着し,これを落としいれ,ジャワ攻略の橋頭堡を得たのである。
ジャワ島の攻略においても,現地人は日本人に対し友好的であった。どうも日本人を救世主と思っていたようだ。3百年前,インドネシア諸島の王達は,オランダの侵略に対し,独立を失ったわけだが,愛国の志士たちの間で”やがて救いは北からやってくる”という語り伝えが残っていた。それはおそらく,戦国時代に渡航して交易をしていた日本の武士・商人達が吹き残してきた法螺であったかもしれないが,それが幸をそうし,日本軍に非常に好意的だった。このようなことが,オランダ軍の士気にも影響し,また,日本の兵力を見誤ったのも幸いし,インドネシアも日本軍が占領するところとなった。 -
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ネタバレまず,本書を読み始めるのは非常に腰が重たかった。9冊というボリュームだし,歴史小説と言うには余りにも近代は近すぎたためだ。しかし,前書きを読み始めたとたんにそんな考えは吹き飛んだ。現在の太平洋戦争についての常識は,アメリカ人がこしらえたものだ。日本でそのときに何が起こっていたのか,日本人が何を考えて戦争へと突入したのか。現在の日本人として当然知っておくべきことであり,間違った見解を他人・他国の人が言った場合,それはきちんと正して行くことが,日本のことを思い散って行った人たちに対する,残された我々の義務なのだと。それがないと,やりきれない。私の祖父の兄弟2人も太平洋戦争で亡くなった。海軍と陸軍でだ。そんなに近くに戦争の犠牲者はいるのだ。戦争で亡くなったおじいちゃんの兄弟に対し,戦争の真実を知ることが私にとっては義務である,そんな思いに駆り立てられた。通常,私の歴史小説備忘録は,数巻の長編でも一つの備忘録に集約するが,今回は,1巻ずつ丁寧にまとめていこうと思う。
殺人は平時において最大の悪行である。が,戦争では,それが堂々と行われる。それも,殺しあう人々の間では直接何の怨怨もないと言うのに国家の名で堂々とだ。その殺人の量が功績となり,忠誠心を計るバロメーターとなって勝利者が決まってゆく。そのような不思議なルールの現実について,従軍経験のある著者の山岡氏は納得が出来なかった。日支事変を泥沼へ追い込んでいるものは,近衛首相や東条首相でもなければ蒋介石でもない。日支の代表者である両者が握手しそうになると,列強の間の見えざる手が動いたり,原因不明の不思議な事件が突発したりして戦線は思わぬ方向へ拡大する。前者の主役はアメリカとイギリスであり,後者は世界の赤化を目指すコミンテルンの手が動いている。それを解決して行くということは,そのまま,アメリカ,イギリス,ソ連を敵に回して戦わなければならないということと同義であった。
山岡氏は三十四歳の時,徴用令書を受け取っている。家を出るときは,自分の位牌を仏壇の隅に隠して行ったらしい。自分で自分を殺してゆけば気が楽だとでも思ったのだろう。そんな山岡氏が復員した中で一番辛かったのが,占領軍が日々ラジオで語りかけてくる「太平洋戦争の真相はこうだ!」という独善放送だった。日本国民がいかにして巧妙に大本営や軍部に欺かれ,踊らされていた愚民であったかという放送が,これでもかというほど続けられた。連合軍側は全て正しく,日本の散華者はみな犬死という,ありえないような戦争が日本民族の手で強行されたと言っても誰も信じるものはないが,しかし,それに関する反論の仕方さえわからないのではこの独善放送や戦後の誤った史観に対し,批判の仕様がない。山岡氏が十年間に渡りこの小説を連載していったのは,何のためにこの戦争は起こり,どのような結果を辿って敗れたのか,その粗筋だけでも読みやすく書き残しておくことが従軍した責任でもあったと綴っている。
日本と蒋介石が提携し,緊密化して行けば一番困るのは自由主義世界の諸国ではなく,アジア赤化を目指す勢力のはずであった。両者の間に紛争を起こさせるのは赤色革命の常道であった。盧溝橋の最初の撃ち合いは日本側の発砲でも蒋介石側の発砲でもなく,赤化勢力の仕業だった。にもかかわらず,日本側は蒋介石に挑戦されたと勘違いし,蒋介石側は日本軍に挑まれたと誤解した。近衛内閣の外相松岡洋右は,日支事変の解決には3つの大きな障碍があると近衛に語った。一つはコミンテルンの日支赤化方策,一つは日本にも蒋介石にも適当に干渉し適当に威圧を加えながら双方へ軍需物資を売っている米英両国の商人たち,そしてもう一つは,日本の内部における少壮軍人の下克上であると。
ただ,松岡外相も,今となってはアメリカの仲裁によるほか支那事変の解決の手段はないと考えた。アメリカがその気になれば,援助物資を断たれるのを恐れて,蒋介石もいやとはいえないだろうということだ。そして,日本もアメリカに首根っこを押さえつけられている。日本が今まで支那で戦い得たのは,アメリカの供給するくず鉄と石油のおかげだったからだ。松岡の目的の全ては,アメリカの仲裁による日支の和平であり,日米戦争の回避であった。
そんな日本の周りには,ソ連のスターリン,ドイツのヒットラー,アメリカのルーズベルト,イギリスのチャーチル,支那大陸の蒋介石がおり,世界の勝負は5人の男に握られていると言っても良かった。この5人の動向をいち早く・確実に掴むことが,国を存続させていく最低で最大の条件であった。米英は既に,支那事変からはっきりと日本の敵に回っている。米英が蒋介石を援助しなければ,とうに事変は解決していることを誰よりもわかっているのも彼らだ。その意味では,当時の支那軍は,米英とソ連の傭兵のようなものだ。支那軍は,ソ連と白欧主義の武器を持たされて,彼らの戦略のために同種の日本人と殺しあいを演じている。ソ連は日本と支那を戦わせ,双方を疲労のどん底に突き落とし,そこに共産政権を樹立して支那も満州も日本も一挙に赤化併呑しようというのが狙いだった。米英もそうしたソ連の方針は悉知しているし,やがてソ連が米英の前に立ち塞がる敵ということも分かっている。だが,彼らは白欧文明の支配者意識におごりきり,日本がやがて彼らの大切な協力者に育つのだと言う一点に目を塞ぎ,思い上がっている軍部を懲らしめるために正義感を燃やしていたのだ。もし,日本が滅び去ったら,ソ連の赤化は成功し,米英の自由は最大限に脅かされるということを見落としていた。
ルーズベルトの懸念と言えば国内の戦争反対の圧倒的な世論であった。彼は3選という異例の大統領選挙中に,皆さんの子供は戦争に引き出さないと公約もしているのだ。だが,当選後は彼は蒋介石に武器援助を開始した。こんな彼が日本に好条件で握手しようと言う提案を持ってきた。これを松岡外相は,アメリカにそんな意志はなく,単なる時間稼ぎで,出来れば会戦の口実を日本に作らせようとする罠であろうと,提案受け入れに前向きな近衛首相につっかかった。結局彼は更迭され,日本はまんまとアメリカの策略にはまって行く。戦時の指導者と国民ほど皮肉なものはない。誰が巧に国民を欺いて駆使し得るかにかかってゆく。ただ,この場合の国民欺瞞はそれを”勝利”に繋ぎ得れば救国の英雄とされ,”敗北”の側に回ると,哀れな最期を遂げざるを得なくなるのだ。
日本はアメリカに欺かれた。日本はアメリカに屈服すること無しに何事もなしえない属国のようなものだとアメリカはたかをくくっている。彼らはただ日本を激昂させ,日本から開戦の口火を切らせ,アメリカ国内世論を戦争に向かわせれば良いと考えているのだった。
そんな中,ドイツがソ連へ侵攻する。ドイツ軍の快進撃に,陸軍の少壮分子は世界中をドイツに取られてしまうと声を上げる。そんな声に押されて,南部仏印(第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ)に侵攻する。それをきっかけに,アメリカは日本の在米資産を凍結し,石油輸出もストップした。これで,戦争になれば1年から1年半で石油貯蔵がなくなるという事態に陥ったのだ。アメリカと戦って勝算があるのか,天皇が軍令部総長の永野にご下問した。永野は,座して屈服するわけに行かず,ほかに活きる道はないと言ったようだ。天皇も,それではこれは捨て鉢の戦ではないかとおっしゃられたという。天皇は日米開戦に絶対反対なのは明白な事実だった。日本人にとって,天皇と皇室は絶対であり,道徳そのものだった。御前会議でも天皇の意志は戦争に反対なのは明白であったが,専横を恐れ,小心で律儀な政務家の近衛の決断力のなさが,戦争を止めることが出来なかった一因でもあるのだろう。
そんな公卿首相に東条は『人間はたまに清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要ですよ』と言った。この言葉が,後々まで開戦の決意を促したとして,東京裁判でも問題になったが,東条は,必ずしも開戦の決意を迫ったのではなかったのではないか。天皇の意を汲み取り,戦争してはならないときっぱり言うべきだと言いたかったのではないか。
東条は,総理の煮え切れなさに腹を立てて言う。日本軍が満州から退き,防共駐兵を譲ると,支那全土は瞬く間に共産軍に占領される。これはアジアを赤化するかもしれない重大な問題だ。防共駐兵を譲れば交渉が妥結する確証があるなら別だが,確証はないと。東条はここで,開戦も止むを得ずと思うとも発言した。東条は確信していた。開戦を回避することは困難であると。アメリカ側に有色人種も含めて真に平等にものを考えていく習慣はまだ全くない。地球は白人のためにあると。日本がどれだけ良心的であろうと,戦を避けようとしても無駄であると。
その東条は,元首相7人で構成される重臣会議で首相に推薦される。陛下の意志には身を挺して主旨に沿うし,軍部の信用もあり,外交交渉の折に陸軍の少壮分子の主戦論を抑えることが出来ると。東条が首相に推薦された理由は他にもある。それは,責任回避の空気だ。みなが戦争は回避したいと思っている。でも戦争は回避できそうもない。その責任者にはなりたくないのだ。そんな感じだから,政府はあっても無政府状態となり,結局は責任ある行動がとれず,戦争に流れていったのかもしれない。これも開戦となった大きな理由の一つだろう。
しかし東条は天皇の意志が戦争回避にあるなら,それを貫こうとする。首相指名を受け,閣僚の人選に移るが,陸軍内の戦争へ向かって付き進むような閣僚推薦名簿には目もくれず,自分で人事を決めた。そして,陸軍の発言を抑えるために陸軍大臣と,警察権を手中にしておくため内務大臣を兼任した。
アメリカの思いは,日本もまたアジアのヒットラーであるということだ。その中心勢力は軍部であり,最後にはこれを叩きのめして懲らしめてやることが彼ら白人の言う正義のために絶対必要だと言うことだった。従って,日本が絶対服従の答えを出すのでなければ無意味と言うことは明らかだった。日本は様々な外交を駆使し,また,譲歩案も持参し,平和に努力した。中国における日本の地位さえも犠牲に共しかねまじき態度を示した。しかしアメリカは日本を許さず,またただ許さないだけ出なく,まず日本に最初の一発を発砲させることのみに苦心した。こんな状況下におかれて,日本人はどうすればよかったのだろうか。現に,インド,ビルマ,マレー,ジャワ,カンボジアなどは米英の支配の下で見るも無残な奴隷生活を強いられている。日本人はそんな現実を知っており,座してそうなるか,一縷の望みを胸に戦うのか,ぎりぎりの選択を迫られた。そんな極度の緊張を強いられることで,明治人の性根が再び頭を出してきた。日本国内では,直ちに開戦せよという声が国民大衆の声にまで膨らんできていた。
日本が開戦することを決意したのは,ルーズベルトの世界政策であったが,日本側で天皇はじめ,東条,などの平和の希望を一挙に吹き飛ばしてしまったのは,実は白人支配の地上の不合理に気付いて,外交交渉を行う前線と一つになって激怒した民衆の声であった。
ここで,山本五十六という,現連合艦隊司令長官の登場である。山本は日本海軍の使い方としては,独伊への奉仕に使うのでは,米英への奉仕に使うのとなんら変わりはない,白人利己主義から人類解放という全有色人種のために日本海軍は使うべきなのだというのが持論があった。ただそんな思いももはやこんな段階になって言っても仕方がない。挑みかかられれば,職責を果たすのみであった。
黒船来航以来,明治維新の根本には和魂洋才の思想が根を下ろしていた。独立を保持せんがために彼らの文明を吸収するのだと言う強い意志があった。それに対し,はじめはアメリカも同情の念があった。しかし,ロシアの抑え手である日本は好もしいが,アジアの強国になる日本は好もしくなかったに違いない。日露戦争の折にはアメリカは日本を応援したが,日本海海戦における日本軍の大勝利を見たとたん,急にこれを恐れて大西洋艦隊を回航してまで日本海軍を威嚇したりしたことでもそれはわかる。これを見た山本は日米対立は遠からずくるものと想定し,大艦巨砲時代から航空兵力の充実を提唱した。それに伴って飛行機の国産に乗り出し,上昇力・戦闘力ともに世界の目をみはらせた零式戦闘機が開発したのである。ただ,これらが悪循環し,アメリカは日本を,日本はアメリカを仮想敵国とし,太平洋での熱戦を展開しなければならなくなった。ここはしっかりと歴史の教訓として覚えておかなければならない。
一旦開戦となれば,日本陸軍はまず東南アジアに進出して,アメリカの売らなくなった石油の入手を計らなければならない。そのためには,陸軍の策戦海域にアメリカ海軍の出動を許してはならず,それを許さぬためには真珠湾に出てきているアメリカの太平洋艦隊主力に壊滅的な打撃を与えておかなければならない。これは小学生でもわかるようなことである。それをアメリカは予想できず,真珠湾を奇襲されたと言う。おかしなはなしではないか。
1941年12月8日の決戦前夜はどのようであったか。11月27日のアメリカのマーシャル参謀総長は,ハル・ノートに示した白人第一主義とも言うべき要求を日本が受諾する可能性はほとんどないこと,そして,その結果日本から先に敵対行動に出る事を期待していること,その際のアメリカ側の策戦計画も出来上がっていることをカリブ海の基地司令官宛に発していた。また奇襲の2時間余り前にも,ハワイ・フィリピン・パナマその他の前哨基地に特に警戒するよう打電している。これは,もはや奇襲とはいわない。アメリカ側から挑発した戦であり,彼らが日本にまず第一発を打たせる事によって自国の民衆を第2次大戦に参加させようとして,営々と苦心を重ねてきた結果なのである。日本が平和に解決せんがために様々な妥協案を提示したにもかかわらず。
そしてその時はやってきた。まだ世は明け放れず,月も落ちきってはいない時間に戦闘ラッパは鳴り響いた。有色人種の最初の反撃だ。ここ数百年,思うままに地球支配を続けてきて,次第に良心を麻痺させていった白人たちへの最初にして最大の警告だった。ただし,どんな場合にも非戦闘員に銃撃を加えたり,一般市民の頭上に爆弾を落としたりして日本人の名誉を損ずることのないようにという訓示は徹底されていた。結果として,真珠湾攻撃では,真珠湾の隣のホノルル市街地には何の被害も無い。後のアメリカの日本都市の無差別爆撃や原爆投下のような一般市民を巻き込みはしなかった。日本人の誇りとして。
なお,備忘中の言葉は小説の記載によりました。 -
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1・2巻通しての感想を書きます。
維新の立役者で高杉晋作や久坂玄端などの錚々たる志士を門下生としていた松下村塾の吉田松陰。有名すぎるのでほとんど解説はいりませんが、その行動力と意思の強さに感銘を受けました。若くして死罪になっているのに、それほど年の離れていな弟子たちが志を継ぎ、見事に維新を成し遂げているのをみると、とても熱い男だったのだと思います。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という辞世の句に壮絶な決意を感じます。
牢獄で一日二冊の読書をしたという記述があり、囚われの身でありながら一日二冊読めるなら、モラトリアム世代と呼ばれる大学生(当時はそう呼ばれていました)ができないはずがないと、それに倣い、一か月で50冊の本を読んだ思い出があります。
でも内容はとんど覚えていません。オーバーペースは意味がない事に気づき、この時以来あまり読書量にはこだわらなくなりました。
そんなきっかけを与えてくれた本でもあります。 -
Posted by ブクログ
とうとう本能寺へ。
織田信長の人生を描く際、やはり本能寺がよくも悪しくもピークと言える。そこまでの信長の人生をいかに描くか、何故光秀は謀反を起こしたのか。そこをどのようにラストまで持って行くかが作家の技の見せ所だろう。
山岡の描く本能寺は、精神的に追い詰められた光秀側の気持ちの高まり故の行動となっており、天才信長の偉業とのバランスを取っているように見える。信長の癇症や突飛な行動を踏まえても、どちらかと言うと、天下といういつというビジョンのため正当化されている気がする。
戦国武将を現代のリーダー論の中で語る場面を目にするが、その意味では信長の行動はやはり落ち度があったのではないか。部下に裏切られるミスを犯したという観点からは、天下統一への道も戦略ミスだったと思われる。