【感想・ネタバレ】小説 太平洋戦争(6)のレビュー

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Posted by ブクログ

レイテ島での戦いでの敗北で、フィリピンを失うことが確実になった日本軍。ルソン島での極限の闘い、そしてマニラ市街戦の悲劇。また、フィリピンの闘いでは、初めて神風特攻隊が出撃する。

山岡荘八は従軍記者として関わった立場もあり、日本軍が一方的に犯罪者扱いされる戦後の意見に反対し、日本の行動にも理があったという主張を繰り返します。本巻では、陸軍の山下大将の将としての兵や市民に対する気遣いの細やかさ、責任感の強さを指摘し、マニラ市街戦を避けられなかったのは、彼の一方的な責任ではないといいます。

フィリピンに住みながら読むこの巻は、身近な地名も多く登場することもあって、読後に強い印象を残しました。現在、フィリピンは親日国といわれはしますが、それが決して単純な語れるような事項ではないことを否が応でも思い知らされます。

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2013年08月25日

Posted by ブクログ

ネタバレ

6巻の初めは,神風・新雷特別攻撃隊だ。神風は”かみかぜ”ではなく,”しんぷう”と読む。神風特攻隊は,豪胆で聞こえた大西司令長官が最初の声をあげたわけだが,果たしてこうした必死必中の非常手段を神々が許すものであろうかと,大西は自責の念にたえずさいなまれていた。この特攻隊の編成は,事実は命令ではなく,司令長官である大西中将とその指揮下にあった人々の凄まじいまでの愛国心が期せずして一つの火柱になって吹きあがったものであろう。大西中将は,ただそのおりの悲しい長官であったに過ぎない。その隊員24名が決まった。指揮官は関行男海軍大尉だ。これに,10月25日までにフィリピン島沖の敵機動部隊を殲滅すべしという命令が出た。そして,関らはその25日に5機で突撃,目的を果たした。アメリカ側の発表では,護衛空母1隻,空母3隻,軽巡1隻の5隻が撃沈したということだった。すなわち,1機で1隻を沈めたことになる。この神風特別攻撃隊は日本国内でも衝撃を与えたが,アメリカに及ぼした精神的な打撃の方がはるかに大きかった。

このころ,敵は既に全力をフィリピン島の進攻に賭けている。フィリピン島を敵の手に渡すと,日本の本土と南方資源地帯を完全に中断されることになる。中断されると本土は自滅,例え艦隊を温存してみてももはや用を成さない飾り物になってしまうのだ。結局,大本営は,作戦の無理な事は重々承知の上で,座して死を招くよりも,戦果はひとまず問わず,艦隊に死所を与える気になったのに違いない。そこには,海軍主力の覆滅と言う厳しい現実から,終戦に持ち込むのでなければ,本当に日本民族は滅びかねないという考え方が潜んでいたに違いない。しかし,海軍側としては,これほどの大艦隊に,輸送船や上陸用舟艇を撃って死ぬなど釈然としないものが残ったのは言うまでもない。敵はレイテ島に1週間も前から上陸作戦を決行している。ということは,湾内の船は空であり,陸に上げられた武器弾薬,食料に猛砲火を浴びせ,これを焼き払うのが上等だろう。しかし,この陸地には味方も上陸しており,味方撃ちになるかもしれないから止めてくれと陸軍に頼まれたのである。訓練に訓練を重ね,日本が世界に誇る大艦隊を,空になった船を沈めるために使い,そして,敵の集中放火を浴びて死ねという命令に従わなければならないのか。しかしながら,命令は絶対である。命令が実行されないような軍隊はもはや軍隊とは言えないただの暴力兵器を持ったテロ集団と化す。こうして遂に,規定どおりの捷1号作戦は発動されていった。

捷1号作戦は作戦というよりは,日本帝国海軍の遺書のようなものではなかったか。武蔵や大和といった最新鋭の戦艦はいたものの,圧倒的な数量差により,戦の結果は決まっているというものだった。しかしながら,なぜ,この作戦を遂行せざるを得なかったのかということを考えなくてはならない。栗田艦隊をレイテ湾に送り込んで砲台化し,帝国海軍の持てる全てを投入して陸軍に協力する。そうすれば,陸軍も納得して,終戦による事態収拾を決意するに至るであろう。勝算は絶無である。戦争継続が不可能であることはもはや決定的となっている。と言って,それを口外してよい時期ではない。海軍は皆黙って死ぬのだ。死んで民族の結束を将来に祈りだすのだ。その決意に立つと,世界一の戦艦も,苦心粒々の武器も惜しむに足りない。艦艇があって民族があるのではない。民族あっての艦艇であり,民族あっての海軍なのだと自分達に言い聞かせた。

話は,陸軍側になる。レイテ島への上陸部隊の指揮は山下奉文大将だ。山下はマレーの虎と異名された赫々たる武勲をあげていながら,東条英機と不仲であったため,マレーから満州に飛ばされて,天皇陛下の拝謁さえ許されなかったといわれている。その東条はサイパン失陥によって退陣し,後の小磯首相が,山下ならばこの戦局をどうかしてくれるだろう,という深い信頼で,再びこの重大な任務につかされた。しかし,山下が現地にやってくると,もはやどうにも彼の手腕のふるいようがない状態であった。戦局の切迫だけでなく,彼が苦言を呈しては嫌われていた総軍司令部が,ここでもまた,マレーと同様,彼の頭上に重苦しく覆い被さっていた。レイテ決戦以降のフィリピン島の言語に絶した敗戦は,決して日本の将兵の勇敢さや忠誠心の欠如によるものではなかった。むしろこれは,アメリカと日本の両軍総司令官の才能と闘魂の差であった。むろんここでも,第一の原因は国力の差ではあったが,いかに国力の差があったにせよ,寺内元帥の掌握している地位と権力がもっと有効に活用されていたら,このように惨めな犠牲は積まずに済んだと考えられる。マッカーサーのレイテ島上陸作戦が,合計730余隻という史上空前の大船団であったし,それにハルゼー提督の大艦隊を加えると,859隻という大勢力となり,上陸軍は一挙にして10万を数えた。またフィリピン人は,他の東南アジア諸国と違い,皮膚の色への親近感は問題にならなかった。タイやビルマやマレーでは,侵略者は白色人種であって,日本人は解放者であった。ところが,フィリピンでは,逆にアメリカ人が解放者で,日本人は侵略者だったのだ。この事が,フィリピン島全体でどれだけの犠牲者数を増やしていったかは想像以上のものがある。現地人達の諜報,内通に悩まされ,ゲリラにも苦しめられた。要するにこれは,占領軍の宣撫工作の拙劣さによる大きな失敗の一つであったのだ。

軍の規律は”命令”によって保たれる。この命令に絶対性を持たせて服従させるのでなければ,戦争という非常事態の運営遂行は成立しない。これは作戦面や技術面だけでなく,精神面において最も重視されなければならない。十分に練り上げられた作戦ならば,兵士の一人一人の忠誠は,そのまま一糸乱れぬ威力を発揮してゆくことになるのだが,一旦それが知識不足の上層部による実情を無視したままに下達されると,残酷無残な命令地獄を描き出す。理想からすれば,一兵の意志はそのまま大本営に上通さるべきであり,大本営の命令の意図は,そのまま一兵士の闘魂に直通するほどのものでなければならない。むろん中間の,総軍も,方面軍も,軍も,師団も,それを補佐して充分戦わせるための機関だと言ってよい。したがって,理論的には,どうして一兵の忠誠心をよりよく活かすかが,実は中間機関の存在理由であり,任務なのである。その理想例は,ガダルカナルの引き上げの際と,終戦のおりの陛下のご英断に現れている。これが残念ながら,レイテ戦の折にはみられなかった。敵の急迫が,完全にわが方の頭脳を引っ掻き回して,一兵の戦いを補佐するための中間の存在が,命令の執行だけを強要するという結果になっていた。むろん悪意があってのことではなく,すべてが敵状を確かめる方法を持たない軍隊の当然の帰結であった。

当時のレイテ島での日本軍の勢力は,わずかに1個師半の兵力約2万,大砲36門。対するアメリカ側は6個師の兵力約12万,大砲250門以上。これに10倍以上の航空勢力が敵には加わっている。第1師団の13,423名のうち,戦死者12,960名,生存者はわずかに463名に過ぎなかった。このような状態にもかかわらず,あろうことか,更に第26師団を上陸させたのだ。上陸の際は,充分な食料,弾薬を揚陸できず,こうして第26師団も総員12,000名中,無事帰還した者はわずかに16名と信じられない結果となった。このことは,結果から見ると,1週間分の食料と130発の弾を持たせて,1万名の兵隊を,陸海協力・苦心惨憺して,わざわざ死地へ追い込んでやったということに他ならない。しかもまだあるのだ。そのうえ,更に更に,第68師団についても,第26師団以上にほとんど丸裸でこのレイテの戦場近くに投げ出されたと言ってよい。彼らは,食いついて離れない敵機をかわしながら,かろうじてレイテ島にたどりついたので,重砲や戦車,軍需品は,ことごとく揚陸の際に海中に進呈してしまっていた。そんな彼らに対し,あろうことか,方面軍から自戦自活の名が下ってしまった。わざわざこの島に捨てられに来たようなものであった。途中であらゆる苦心を重ねながらやってきて,決起上陸し,裸で腕を撫しているところへ,『もうお前たちは,お前たちの才覚で戦いながら生きなさい』そうした意味の自戦自活の命令が下ったのである。こうした事実を,親や妻子が知ったら,どんな気持ちがするであろうか。それが目を向けてはならない,”戦争”の中の一つの事実なのだ。終戦後二十年近くも当時の戦場に居残って,いかに終戦を告げても降伏しようともせず,ジャングル内に出没して戦意を捨てなかった日本人の存在は,こうした悲しい自戦自活の命令の遵奉者たちにほかならない。補給も出来ないし,連絡も出来なくなるだろう。だが降伏してはならぬ。永久に抵抗を継続せよ・・・・この命令の底にあるものは,戦後二十余年,もはや日本人にはほとんど理解のできない残酷物語になってしまった。戦うだけ戦ったのだ。負けたと決まった以上降伏してもよいではないか。そのために世界共通の捕虜の取り扱いも法規化されている。というのが当時も世界の通念であった。そのなかで日本人だけは断じて降伏したり捕虜になったりはしてはならないと教えられ,それが一兵の末までに及んでいた。天皇は神であった。神の軍隊が不正の戦をするはずがない。それゆえ捕虜となって助かろうとは思うようないい加減な戦はしてはならない。このときレイテ島に残された日本軍は約2万7千ほどと推定される。

レイテの決戦は日本軍の完全な敗北に終わった。その原因の第一はアメリカ軍の実力を過小評価していたところにあった。それはある意味では,レイテの敗戦は,日本陸軍の自信過剰に下された鉄槌であったともいえる。『自戦自活の下に”永久”に抵抗を継続し,もって国軍将来の反攻の支柱たるべし』とはっきり命令され,終戦の命が下る昭和二十年八月十五日まで生き残った人々のほとんどが,飢餓とゲリラの渦中にあって,降伏のない悪戦苦闘を続けてきたという事実を忘れることは出来ない。フィリピン全域にわたって死屍をさらしていった日本人の総数は約47万人という膨大な数字となっている。いうまでもなく,この戦場で命を落としているのは,日本人だけではない。フィリピン人もそれ以上に命を落としていると著者はフィリピン島の軍人の友人に聞いてたという。なぜ,このように悲しい自戦自活の生活を,執拗に,かつ頑強に繰り返すことが出来たのか。そうした人々の闘志を支えたものはいったいなんなのであろうか。それは一口に言うと,アメリカ軍の東京への道に立ちふさがろうとする,ひたすらなる同胞愛であったのであろう。フィリピンにある将兵達はすでにアメリカ軍がやがて日本の本土へ上陸して行くであろうことを本能的に探り当て,その日を1日でも,1時間でも遅らせなければならないとする,凄まじいまでの意志であった。『死ぬものか。いや死んでも本土へは上陸させないぞ!』と幽鬼のような姿で,餓死線上を彷徨いながら,彼らは果てていったのであろう。いや,自分が果てた事もわからないまま,東京に向けて立ちふさがる支柱となっていったのだ。

フィリピン島を失うことは,これまでの南方の戦果の全てと絶縁させられることであった。次に攻撃される地点は,台湾・沖縄・本土の進攻戦と,サイパン・硫黄島・小笠原を経て東京に達する2つの線を残すのみとなり,足に火が着いた状態になった。マニラが陥落するころは,アメリカ側は,日本本土爆撃のためになくてはならないB29の前進基地として,小笠原諸島南端にある硫黄島への上陸作戦を開始していた。その硫黄島に敵が上陸戦を開始して来たのが,昭和二十年二月十九日だった。すでに太平洋上では,硫黄島の攻防戦が開始されていたが,マニラ陥落後のフィリピン島の終末戦は,終戦の日まで続いていったのである。降伏はあくまでこれを否定して,統一指揮も出来なくなった時は山下と武藤は自決するが,他の者はなるべく生き残って,ゲリラに転ずるようにと方針を決めて,徹底抗戦を続け,そのうちに,戦争は終結したのである。こうした徹底的な山下軍の抗戦のために,マッカーサーは最後までルソン島から手を引くことは出来なかったのだから,山下大将以下のアメリカ軍の拘束作戦は見事に成功していたといってもよい。こうして生き残った山下大将だが,終戦後はマニラに護送され,絞首台の人となった。この山下大将以下の人々を,日本を死ぬまで守り続けた人であると言って何が悪いのであろうか。そのように思えない人は,この日本の土を踏んで生きる資格はないのだと思うのである。

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2012年05月18日

Posted by ブクログ

中央からの無理な命令を伝える者、それを受ける現場の将、それを更に伝えられる現場の兵隊。三者三様で、誰も幸せにならない辛い戦争です。そして『人間抹殺の悪業を認めるほど立派なイデオロギーなどがあるはずないのにそれがあたかも正義であるかの如く妄想して愚行を演じ合っている』戦後24年時点で著者が書いているこの一文が、この巻では印象的でした。

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2023年04月01日

Posted by ブクログ

レイテ島、ルソン島での戦い。圧倒的な物量差に日本軍の勝ち目はなく、しかしなお祖国東京を守るために死闘する兵たち。山下大将の挙動が際立つ。2018.10.16

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2018年10月16日

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