片山杜秀のレビュー一覧
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「しかし、私は伊福部研究者でもなければ伊福部批評家でもなく、とどのつまりは単なる伊福部信者なのである。」(86頁)
愛ある伊福部狂信者の片山杜秀氏が、図々しくも伊福部私邸に入り浸って交わした問答を中心にものした、余りに貴重な資料本になっている。もちろん片山杜秀氏の解説的な部分もふんだんに盛り込まれている。
片山杜秀氏が伝記を書くつもりで膨大な会話メモを残してあって、そこからテーマごとにまとめていったのだろう。あとがきにもあるとおり、伊福部さんが吐いた毒の部分は書き切れていなさそうなので、関係者がいなくなるまで、もう少し時間の経過が必要なんでしょう。
読んでて楽しかった。 -
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凄い本ですね、ゴジラ映画のあの音楽、ドシラ、ドシラにハマった、著者、片山杜秀(自称、幼少の頃からの伊福部教信者)による伊福部物語。著者によれば、若き日に、伊福部のお耳係だった折、伊福部の自宅(尾山台)で直接伺った様々な物語を織り込んでの一冊とか。数年前に読んだ、立花隆の武満徹の評伝を思い出しつつ、興味深く、読み進めております。それにしても、戦前という時代に、北方の大地で、アイヌ、白系ロシアの方々の音楽に触れつつ独学で音楽を学び(北大オーケストラのコンマスだったとか)、交響曲を書いて海外に送り一席を得るとは、なんとも凄い方であります。その北の巨人の人生の片鱗がうかがえる良い本であります、著者の熱意に★五つです。
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ネタバレ面白かった!!!きちんと音楽史として眺めることで、自分の中にある諸々の言語化を突き付けられ、そうですよね、ハイ…となっていました笑
序章 バッハ以前の一千年はどこに行ったのか
ポスト・ヒューマン時代には…
(片山)そうなると、ベートーヴェン的な音楽は「虚偽」に聴こえてくると思うんです。だって、かつては≪第九≫一曲に「世界」のすべてが入っていて、それを聴いたり演奏したりすればユートピアに至るーというつもりで聴いてこそだった。…しかし幻滅する。ベートーヴェンを聴くこと自体が、バカバカしくなってくる…。(p.36)
(岡田)環境音楽ーたとえば、ひたすらサラサラと流れるせせらぎの音を聴いても、それで世界全体が見渡せることなんてありえないわけです。せせらぎの音もミニマル・ミュージックも、仮に一時間半つづいたとしても、それが世界全体を表していることにはならない。やっぱりフーコーの『言葉と物』の最後がいやでも思い出される。「賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」。もしかしたら人間とは、せせらぎの音を聴きながら、人間には到底見渡すことなどかなわない全宇宙を、少しだけ垣間見たような気になるのが精一杯という程度の存在なのかもしれない。この間書くって、中世ヨーロッパ音楽と通じるところがあると思うんですよね(p.38)
(片山)要するに交響曲とは四つの楽章がワンセットとなって何らかの全体性が表現されているのだという考えでしょう。…アダージョ楽章だけを抜粋で聴いていいんだと提案したわけです。まさに全体性の解体であり、ミニマル・ミュージックやアンビエントや古楽につながる雰囲気を感じさせます。『アダージョ・カラヤン』こそは、ポスト・モダン、ポスト・ヒューマンになっていく九〇年代を象徴するCDであり、まさに冷戦終結の象徴でもありました。
第一章 バッハは「音楽の父」か?
バッハ=「神に奉納される音楽」
(岡田)…そして一つの長い物語というよりは、どこからでもランダム再生できるばかりか、聴きおえてもグルリと円形を描いて元に戻る円環のイメージすらある。それは近代のロジックではない。どこからでも始められるし、どこでも終われる。(p.78)
グールドがバッハを演奏する理由、グールドが見ていた未来。バラバラになる人間と音楽…
SF(映画)と音楽!!なんとここでSFの話が盛りだくさんになるとは…やはり繋がっているんですので…
・タルコフスキーの『惑星ソラリス』:≪われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ≫BWV639
(岡田)…地球の終わり、あるいは人類が死滅したあとの世界のイメージですね。人間がもういないのに流れている音楽。こんな場面で流せる音楽は、確かにバッハ以外には絶対ありえない。(p.80)
(岡田)…例えばグレゴリー・ペックが主演したSF映画『渚にて』や、小松左京の『復活の日』『日本沈没』などにも、バッハがピッタリ合うような気がしていました。…
(片山)ベートーヴェンは、人間の「相手」がいないとうまくいかないでしょう。一人だったら、やはりバッハですね。
(片山)…(『幼年期の終り』)一つの「全体」になったような表現でした。これ、音楽でいったら、まさにバッハ的なポリフォニーの実現ですよ。それまでモノフォニーで一声部だった音楽が、ポリフォニー=多声部で一つの世界を表現できるようになったのですから。
もう『幼年期の終り』も『渚にて』も大好きなわけで、確かにそこで流れる音楽がどんなものかは考えたことがなかった。バッハ、なのだとすると、私が朝・夜と聞くときにはたった一人、自分と向き合っているのだろうか。。まさに「(岡田)やっぱりバッハの音楽は「本当はこわい」」…
(片山)つまり、個物の相克を乗り越えると、完璧なポリフォニー、そして別々の旋律が同時にからみ合う対位法に行き着く。しかし、そこまで行くには、大きな痛みや犠牲を伴う。…それは、もしかしたら核エネルギーのことかもしれないけど、とにかく人間がやることを全部やってこそ、その先に開けるものがある。これがまさしくバッハの≪マタイ受難曲≫でしょう。みんなで血を流して、ルター的な狂気に駆られて、行くところまで行ったら、進化して違ったものになっちゃう。そういうことまですべて引き受けるのが、たぶんバッハなんです。(p.82)
第二章 ウィーン古典派と音楽の近代
1. ハイドン
(岡田)…イギリスはポピュラー音楽の世界では有力なんですよね。ビートルズとかローリング・ストーンズとかレッド・ツェッペリンとか。対するにクラシック音楽の「本場」のドイツやオーストリアの世界的なロック・グループなんて想像もつかない笑。…ビートルズの旋律やハーモニーは、スコットランド民謡の末裔です。…スコットランド民謡的なものは、クラシック音楽の語法より、ポップスに向いていたのかもしれない。
(片山)ミュージカルが多く生まれるのも、似たような論理かもしれません。(p.92-93)
英語が覇権言語であることも、勿論あるだろうけれど。
2. モーツァルトの浮遊感と根無し草
3. ベートーヴェン
(片山)…ひたすら駆り立てられて、爆発して、それが人間の感情や魂の解放だということになる。しかも愛を貫くことにも関係してくる。熱量が高まると、お見合い結婚じゃなくて、恋愛結婚になる。
⇒そしてそんな女性がブリュンヒルデだと…。やばい、ブリュンヒルデになりたいと思っていた私笑
(片山)…ベートーヴェンを超えるには超人類になるしかない。ベートーヴェンを超える何かがあるとすれば、ワーグナーでもシェーンベルクでもなく、美的・思想的にはスクリャービンかもしれません。(p.130)
・スクリャービンの≪焔に向かって≫、≪プロメテウスー火の詩≫
(片山)…それでも人間はさみしいから、たまにはお酒を飲んで、芝居を見ましょう、音楽を聴きましょう、そうやって、楽しく生きていましょうとなるわけです。…それに見合った文化芸術のキャラクターとして必要だったのは、もうベートーヴェンではなくて、モーツァルトだった。
(岡田)日本の経済力がピークに到達して、もうベートーヴェンのように悩んでがんばる必要がなくなったんだな。…
(片山)…しかし、バブルの崩壊とともにセゾン・グループも解体されてしまい、ポスト・モダンとモーツァルトの時代も過ぎ去ってしまった勘があります。まさに諸行無常の響きありますね。(p.140)
第三章 ロマン派というブラックホール
2. ロマン派と「近代」
(岡田)ロマン派の本質的なところがほぼ出そろったと思います。ポスト・ベートーヴェン世代の悩み、内面への逃避、狂気の演出、フランス革命以来の軍楽隊、「遠くへ行きたい」という欲望と鉄道と観光、植民地支配とエキゾチシズム、ホールの登場、音楽批評の誕生…こうやって考えると、ロマン派ってまったくキメラというか、ごった煮ですね。…ところで、ロマン派を語る際に避けては通れないテーマがあると思うんです。…たとえばワーグナーの≪ニーベルングの指環≫におけるブリュンヒルデとジークフリートのような「命がけの愛」もとい「バカップル」(p.176)
(岡田)人口生産の手段としての愛自体は、いつの時代にもあっただろう。じゃあどうしてロマン派になって、愛があそこまで焦点化されたのか?僕は資本主義が関係してたんじゃないかと思っているんだけど…
(片山)…資本主義が回るためには、とにかく労働力が必要だからです。…新たな労働力として子どももどんどん作ってもらわなければならない。その際に必要になった概念が「愛」ということですね。好き同士になったら、経営者と労働者だろうが、ブルジョワジーと下層労働者だろうが、どんどん子どもを創らせる。そのために生み出されたのが「愛」というイデオロギー装置だった。(p.180)
これは西洋的にはそうなのだけど、日本はやはり万葉集があり源氏物語があり…と考えると、すごく不思議ですね。
(岡田)…「国民楽派」という言葉には、悲哀のようなものも感じてしまうんですよ。「自分たちは二等国ではないぞ」と言うために、地元の民謡などを取り入れた「国民楽派」的な音楽を一生懸命に作るわけですが、でも結局は、ヨーロッパ中央の音楽業界で認められて初めて一人前。ウィーンとかパリとかロンドンとかね。でも彼らは国民楽派をしょせんエキゾチシズムとして消費するだけ。決して「本流」にはなれない。本流にしてもらえない。ものすごいコロニアリズムです…(p.195)
3.ワーグナーのどこがすごいのか
(岡田)…比較的小ぶりの≪タンホイザー≫でさえ、三時間超だから、ほとんど宗教儀式の世界です。洗脳イニシエーションですね。…ちなみにコアなクラシック通には、「長いものこそ本格的だ」と思う心性がありますよね。(p.208)
それな~~~笑という。
(片山)…長らくヨーロッパを支配していたキリスト教文化が崩れていくプロセスの中で、階級の崩壊や流動化が起きる。そうなると、ある種の不安とか刹那主義のような感情がどんどん表に出て、人間の感情が揺れ動くようになる。すでにモーツァルトの音楽などに、そういう不安定な人間の感情が表れていると思います。…ところが、市民社会、労働者社会になると、「愛」によるカムフラージュが必要になってきた。…でも「揺れ動く」ことは、人間としての重要な感情なんだけれど、やっぱりずっと揺れ動いていると、くたびれるんですよ。その果ては、死に至るしかない。そこで今度は、感情をなだめるというか、ごまかす何かが必要になる。あとでまた「揺れ動く」ことになるとしても、とりあえず、一時的な安静を得て、安らぎの中から、また始めてほしい。この揺れ動きと安静の往還を音楽で表現したのがワーグナーの「三時間文化」ではないでしょうか。で、もう一時的な安らぎだけでいいじゃないかというのが、ショパンの「三分間文化」(p.209-210)
(岡田)宗教無き時代にいかに宗教的恍惚を体験させるか。それがワーグナーだな。
(片山)そして、この長い時間の中で、最終的には神に成り代わって全人性、トータルな一個の人間としての完成が目指されている…マリア様とイエス・キリスト、あるいは幼子イエスの絵が描いてあって、アイドル写真みたいに拝む。こういうアイドル感覚が「三分間」だとすると、そうではなく、聖書を全部読み切ったような全人的な完成、その疑似体験版として、「三時間」の大交響曲や、大ピアノ・ソナタの集中的鑑賞がある。
(岡田)長い難しいものを最後まで読み通すのは、「立派なこと」なんですよ。ワーグナーはそういう教養主義イデオロギーにそのものずばりはまる。あれだけ長くてややこしいのに、あれだけ人気があるというのは、ワーグナーが教養主義者、つまりは俗物に「受ける」コツを知り抜いていたからだと思う(p.212-214)
俗物が私です!!いやーまさにこれっていうか、私だって聖書全部読みました派だもんね、絶対………耳が痛すぎ
マイアベーア!
第四章 クラシック音楽の終焉?
これからのクラシック音楽をどう聴くか
(片山)クラシック音楽が、今更趣味以上の意味はないとも思いたくない。やっぱり世界を知る、歴史を知る、人間を知るツールであってほしいです。
(岡田)「音楽」の背後の頑強なイデオロギー性に無自覚に、グルメよろしく美的にのみ消費する、というのはやっぱり危うい。あまり無邪気に「音楽って、いいですねぇ」とは言いたくない。…その背後にやっぱり神学的なものが隠れているということを忘れたくない。政治的・宗教的・思想的にニュートラルな音楽なんて存在しない。…「ファンになる」とは、その音楽が求めている絶対倫理を受け入れることに等しいんです。…(p.335-336)
(岡田)「クラシックを聴く」とは「近代世界の欺瞞と矛盾を理解する」ことにほかならないのかもしれないですね
引き続き考えながら聞いていきたい。 -
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音楽から政治思想まで守備範囲の広い片山杜秀氏が「あの」週刊新潮に「夏裘冬扇」というコラムに書き続けたものをまとめた新書です。
氏の音楽評論はあちこちで見かけておりましたが、本業の政治思想で「未完のファシズム」を拝読し、プロの学者の凄みを感じさせてもらいました。ビジネスの世界で生業を立ててきましたが、本当にわかっている人は、どんな難しいことでも優しく説明できるという特徴があります。この本は、その見本のようなもので、よくよく読めば背後に膨大な知識量があるのに、実に平易に説明されています。さらに読者層に合わせて脇道の話題も取り込んで、過去の歴史を軽妙な文体で書かれているので、歴史認識の薄い若者たちに有益な本ではないかと思います。冒頭の天皇制度の論考は、憲法の成立事情を含めて明治の先人たちの視野の広さには、改めて尊敬の念がわきます。 -
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題名の「トッド」とは、フランスのエマニュエル・トッドのことである。独自な研究で世界を語るという感のエマニュエル・トッドである。近年『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』という人類の歴史を鳥瞰しながら、幾分掘り下げて行くという、長きに亘る研究の集大成的な本を上梓している。日本語版も登場して然程の時日が経っていない。この本の内容を念頭に、片山杜秀、佐藤優の両氏が「トッドの論点」で最近の話題等も掘り下げて論じるという感の一冊である。
本書は、トッド自身のインタビュー、トッド、片山杜秀、佐藤優の3氏による鼎談、片山杜秀、佐藤優の両氏による対談というような体裁の各部、5つの纏まりから成っている。各々に興味深い。が、個人的には「ウクライナ戦争と西洋の没落」、「第三次世界大戦が始まった」という部分に殊に引き込まれた。
「ウクライナ戦争と西洋の没落」、「第三次世界大戦が始まった」という部分に在る論点は、これまでにエマニュエル・トッド関係の本で論じられているモノに触れている内容と被る。それに佐藤優関係の本で論じられているモノも加わり、鼎談として内容が交差しながら掘り下げられている。
色々な経過を辿った人類の経過の中、現在に至って「第三次世界大戦」とでも呼ばれるようになって行くかもしれない事態に「踏み込んでしまっている?」ということに「気付かなければならない?」ということが本書では示唆されていると思う。
ウクライナの戦争に関して、本書の中では「思いも掛けぬ長期化」という見立てが色濃いかもしれない。他方に、1年程度の期間で何らかの収束が図られるかもしれないという見立ても在るのかもしれない。「あんた個人が如何思おうと、何ら関係無い…」とでも言われてしまうかもしれないが、それでも個人的には「人々の生命が擦り減らされるようなことを少しでも早く停めて頂きたい…」というように思いながら、この事案に纏わる情報に触れている。
そしてトッドの研究の出発点でもあるような「家族」という問題を論じた部分も興味深い。表層的に然程の影響が無い様で在りながら、しぶとく影響力を行使し続けるような文化を「ゾンビ〇〇」と本書の中では呼んでいる。「ゾンビ儒教」とでも呼ぶべき、深く浸透した儒教の影響を免れ悪い地域の国々では、「子どもの面倒を」、「親の面倒を」と何でも背負い込むような感が在り、現に要る老いた親の面倒を見る関係で、未来を担う子どもに関する事柄を推し進め悪い側面が否定出来なくなるという論が展開されていた。日本もここで言う「ゾンビ儒教」という域内に入ってしまう。少し考えさせられた。
初出が雑誌という部分が殆どなのだが、本書は何か「読み応えが在る記事を集めて一気に通読」という感じでもあると思う。本書のような、大著の内容を念頭に、その「触りの議論」へ一般読者を誘うような本は、なかなかに好いと思う。 -
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才気煥発だけど、「俺は他人とは違う」ところを見せたがる目立ちたがり屋の片山杜秀少年の音楽遍歴をベースに15人の音楽家について好き放題に、極めて主観的に喋りまくるというスタイルでまとめた、たいへんに面白く楽しめる本です。
自分の本なら付箋を貼って起きそうなところは
わたしが未だに馴染めないモーツァルトを「刹那の芸術」とといい、ベートーヴェンの受容は戦後大衆教養主義の産物であったとするあたりは、納得感が溢れます。
マーラーは、それなりの再生装置で大音量で聞かないと真価を理解できないというのには、膝を打って納得です。個人的な体験でも、15インチの大スピーカーで広めの社宅で朗々と流していたときにはやたらマーラーを聞いていました。
フルトヴェングラーは、音の悪いほうがいいというのは、やたら高音質をネタに音盤を求め、再発売する風潮の揶揄でしょうか。
アンチ・カラヤンを徹底していた片山少年は普門館コンサートのチケットを断ってしまい、結局カラヤンのコンサートは一度も聞かずに終わるというのは、ちょっともったいなかったのでは?
バーンスタインの項は比較的長い。なんか作曲家としては恵まれなかったところへの同情を感じます。
多くを聞かない古楽からカール・リヒターの晩年の不遇を解き明かそうとする推測?には、ちょっと悄然としました。
最後、吉田秀和のところではコバヒデ(小林秀雄)との対比が面白くて笑いどころがいっぱいです。
ついでに竹中平蔵の名前を明かさず揶揄しているところでは大爆笑しました。
クラシックと呼ばれる音楽をお好きな方にはおすすめ本です。 -
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玉砕する軍隊こそが、「持たざる国」の必勝兵器だったのです。
世界大戦時の歴史に無知すぎるので勉強。
第二次世界大戦の日本といえば、物資がない国なのに、長期戦争する、過剰な精神論、命と補給の軽視、アジアを広範囲に侵略、戦争のゴール設定がない、ファシズムといいつつ誰が束ねていたのかよく分からない…と、あとから見ると全く理論的に見えないのだが、この本によると、意外と当時の軍人は他国の戦争を視察したり、物資がないから物資「持てる」国との戦争は無理だね…等、その時その時で現実的な考察をしていたことに驚いた。そしてあまりにも「持たざる国」である点を見つめた結果、もう精神論しかないから玉砕で勝利するしかない、補給が必要なほど長期間戦争しないから大丈夫(でもゴール設定がないから長期間になって餓死)という恐ろしい方向性に次第に傾いていったと解説している。
現実を直視した結果、非現実的な精神論に至る…一見変なようにも見えるけれど、総理大臣が育休中も休みだからリスキリングできるよね?少子化対策は社会の”雰囲気”を変えることだよね、と発言する等、最近も起きてる気がするのがなお怖い。 -
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音楽はそもそも教会、王侯貴族、ブルジョア階級の権威を表す手段であったから、今日でもなんとなく権威があるように捉えられている。
古代以前の音楽は楽譜が残っていなため詳細不明。判明している起源は教皇が編纂したグレゴリオ聖歌であり、9世紀頃の成立。ネウマ譜に残されており今日の楽譜の起源。単旋律(モノフォニー)、声楽のみが特徴。
12世紀ルネサンス後複線律(ポリフォニー)が盛んとなる。伊のパレストリーナが代表格。科学発展による神の世界の秩序の複雑化が背景にある。宗教改革を機に教会権威は落ち、ポリフォニーから独唱の時代となる。
ルネサンスと宗教改革を経て音楽の主要舞台は教会から世俗へ移行。王族や富裕層がパトロンとなる。バッハはモノフォニー時代に逆行しポリフォニーに拘り厳格厳密な音楽を構築。当時は流行らなかった。
モーツァルトの頃には宮廷財力が低下。就職活動に苦労しフリーの音楽家として生計立てる。当時は軽薄とされ評価が高まるのは19世紀後半以後である。
ハイドンはハンガリー大貴族付の楽団長として活躍後、ロンドンでも活躍。交響曲の父とされる。その弟子ベートーベンは市民にわかりやすく覚えやすいメロディーを追求。成り上がりの小金持ちを退屈させないため。
ポストベートーベンのロマン派はシューマン、ショパン、シューベルトなど。ワーグナーは民族主義を追求。19世紀後半以降は資本主義の加速と機械化、グローバル化に伴う市民の不安感が作曲のテーマとなり、無調楽曲など作成される。 -
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昭和が終わり平成が始まる1989年を象徴する音楽として取り上げられたのが、
カルロス・クライバー:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団:ニューイヤー・コンサート。
このCDは発売されてすぐに買いました。
このあとカラヤン(1989.7)とバーンスタイン(1990.10)が相次いで亡くなっています。
天安門事件が6月、ベルリンの壁崩壊が11月、
ビロード革命でチェコが民主化され、1990年「プラハの春」音楽祭でクーベリックが凱旋帰国しスメタナの《わが祖国》を力強く演奏します。
平成の始めは、クラシック界も世界情勢も変化し始めた時代だったのですね。
クーベリック、ショルティ、クライバー、アバド、アーノンクール、その他巨匠たちが次々と亡くなってしまいました。
そして、現在のクラシック界を盛り上げている指揮者とオーケストラとして、
ドゥダメル:シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ、
クルレンツィス:ムジカエテルナ、
ロト:レ・シエクル、
などを挙げていました。(確かに私も最近よく聴くようになった指揮者とオケです)
いろいろと好き勝手に語り合って、平成の30年はどうだったかのまとめが、
「マーラーに始まり、佐村河内を経て、またマーラーに戻って来る」だった。(これが平成音楽史の結論か!?)
佐村河内守(新垣隆)の交響曲第1番《HIROSHIMA》は、当時いろんな著名人が素晴らしいと推していたのだが、いいと思わなかった。
本書で、マーラー的な曲と言っているので、聴き直してみたら確かにマーラーの雰囲気がある。だから好きになれなかったのだな。
マーラーは山田一雄が世界最高。ブルックナーは朝比奈。という感性の人達の思いつくままの雑談で面白く読めました。 -
Posted by ブクログ
タイトルを見て面白そうだったので衝動買い。
でも、これは良かった。
読みやすい。
そして的を得た指摘。
およそ芸術と名の付くものに共通する点も多い事柄。
その作品は誰のために作られたのか。歴史の流れに於ける聴く側と作る側の関係の変遷を概観する事で新たな視点が加わった。
多くの場合、今までは作品をそのまま1つの存在として観たり聴いたりしていて、その背後にある事柄・歴史をほとんど意識して来なかった。
耳を凝らして聴いても聴こえて来ないもの、幾らじっくり観ても見えてこないものには無頓着だつた。
他の本を読んでそういうことの重要さは理解していたつもりだったが実践を伴っていなかった。
この本を読んで背後に、ある何かを考える際の指針を得た気がする。
今後は面倒でも作品の背景も調べて観たり聴いたりする様に心掛けたい。 -
Posted by ブクログ
数年前から全体主義について、ボチボチ読んでいるところ。きっかけは、トランプ大統領の就任とか、移民問題とか、ヨーロッパでのポピュリズム的な動きとか。
まずは、全体主義が一番徹底していたと思われるナティスドイツを学んで、その後、共産主義国を経由して、日本にたどり着く予定だったのだが、ナティズムを読むなかで、アーレントにハマって、アーレントの翻訳書をかたっぱしから読んだり、ホロコースト関係の本はヘビーなので時間がかかったりして、日本にはたどり着かない状況。
でも、コロナ後の世界で、もう一度、全体主義を学ばなきゃという意識が高まり、また日本のオリンピックやコロナ対応を通じて、あらためて性差別、人種差別、ジェンダー意識、人権軽視、そして優生思想などなどのディスコースが明らかになり、まだまだナティズムもよくわからないなかではあるが、日本型の全体主義も読んでいこうと思って、手にとってみた。
日本のファシズムに関する本で最初に読むにはちょっとニッチかなと思いつつ、帯の「日本人はなぜ天皇陛下万歳で死ねたのか」という言葉にひかれて読んでみた。
多分、これまでの解釈だと、「日露戦争くらいまでは日本は欧米諸国にまけないように、植民地化されないように、謙虚にがんばっていた。だが、日露戦争に勝って一安心して、慢心してしまった。また、乃木大将の旅順攻略における精神主義的な(?)戦術で結果として勝利したことが、その後の精神主義的な傾向を強めることになった」みたいなものかと思うけど、この本は、そこに異論を唱える。
日本軍、しかも(精神主義が強いと思われる)陸軍は、日露戦争を通じて、物量の重要性をちゃんと教訓として学んでおり、それを活かして第一次大戦時の青島攻略では、当時の欧米諸国より進んだ新しい形の戦争を実行していたのだ。
さらには、第一次大戦時には、ヨーロッパの国に多くの優秀な人材を派遣しており、そこで、新しい形の戦争をじっくりと学んでいた。そして、彼らが学んだのは、これからの時代の戦争は、総力戦であること。平時の経済力、生産力が、戦時に、戦争にむけての生産力に転換されるということ。ゆえに、経済力を高めること、そして、それを戦時に集結できる仕組みが、これからの戦争の勝敗を決めるということを身に染みて学習していたのだ。
にもかかわらず、どうして、陸軍は精神主義になってしまったのか?
著者は、経済的な国力の差が重要だと分かれば、分かるほど、日本は戦争できない「持たざる国」であるということが身に染みて、ある種の絶望に陥った、と主張する。
そこで、あるものは、自分より弱い国を相手にした戦争しかしないとか、強い国との場合は限定的な戦争にして短期決戦に持ち込むしかないと考えた。また、あるものは、近隣の資源が豊かな地域(=満洲)を占有し、数十年かけて経済力が高めるまでは戦争はしないようにすると考えた。
が、いずれも「戦争はしない」とか、「戦争をすると負ける」とは、軍事上、言えないので、「精神主義的なディスコース」をとりあえず、公式には語っていたという。
しかしながら、軍は、政府ではないので、経済政策を担当するわけではないし、戦争をするとか、しないとかを決定することもできない。「戦争しろ」と命ぜられたら、戦争するしかない。また、自分はしたくなくても、敵が攻めてくることもある。
ということで、当初は「外向けの建前としてのディスコース」だったものが、支配的なディスコースになって、玉砕賛美、天皇陛下の神格化を哲学的?に基礎付ける方向での理論化が進んだというのだ。
なんと。。。。。
この本は、陸軍における「戦争思想」とでもいうものの変遷をまとめたもので、陸軍以外の軍や政府、国民などの意識の変化のなかで考える必要はあるのだが、これはこれまでにない新しい視点で、長年のなぞの一部が解けた気がした。
現実を明確に理解したがゆえに生じる精神主義。これはかなり痛い視点だな〜。 -
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石原莞爾 「持たざる国日本の世界戦略」満州国を育て世界最終戦争に備える
満州でソ連経済をモデルに高度成長を実現 日本の資源・産業基地
明治政府の制度設計の誤り
元老による属人的な国家運営 組織ではなく個人に依存
兼務体制 伊藤博文 東條英機
シェリーフェン戦略(独参謀総長) 短期決戦主義→早期講和に持ち込む
ロジステックは必要ない 長期戦になれば敗北 国力の小さい方が不利
山本五十六の真珠湾攻撃・早期空母艦隊決戦を求めたのも同じ考え
その時代のロジックがあった
それをきちんと整理しないと反省も教訓も得られない 誤りを繰り返す
日本の風土 官僚主義・無謬主義