片山杜秀のレビュー一覧
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ネタバレ日本の戦後を、「戦争と平和・安全保障・アメリカ」という切り口で、論敵であったり、明らかに対極的であったり、始めは近かったのにずれていったりする人達を対比させています。
著者の人物の対比の妙、そしてその洞察力には舌を巻きます。
① 南原繁と小泉信三
講和条約をめぐる南原の全面講和論と現実主義の小泉の多数講和論の考え方の相違。
現代から振り返れば、小泉の方が正しい判断だと思います。ただ全面講和の主流派の考え方は非武装中立論とセットになっていますが、南原は武装中立なのが異色で面白い。
② 山本七平と会田雄次
山本は一兵卒の目からみる日本の軍隊の非合理性を訴え、会田はイギリスのアーロン収容所での捕虜になった体験から。会田はアングロサクソンは捕虜に暴力を振るうような事はしないが、内側からでなければ見えない差別(有色人種を猿や犬と同じように人間と見なさない、また非欧米人は合理的な判断ができない等)の凄さを訴える。
③ 福田恒存と清水幾太郎
講和条約問題や60年安保では非武装中立論のオピニオンリーダーであった清水が核武装論に転じる背景(現実のソ連の侵略政策や、60年安保で丸山真男は岸を退陣させたことで成功だとするのも清水からみれば裏切りであった)と、保守として一貫して揺るぎない福田が、それを一刀両断に切り捨てる凄さと清水への思いやり。
④ 石原慎太郎と江藤淳
終戦時にともに12歳であった両者で、戦後の混乱期、そして高度成長期に青春期を過ごす。若くして頭角を現した二人の思想は共に保守だが、作家と批評家という違いだけでなく、性格も全く違う二人の共通項はアメリカからの自立。その背景を浮かび上がらせる。
※追記〈三島由紀夫vs石原慎太郎〉
この章で、脱線した話だが三島と石原の比較は一つの章ができるほど面白かった。
著者の見立ては三島は石原にコンプレックスを抱いており、常に石原の後追いで対抗しようとしている(スポーツ・映画出演・監督等々)。
これについての別途述べます。
⑤ 大江健三郎と吉本隆明
共に左派だが心情左派の大江と極左の吉本の違いが際立つ。吉本の心情左派への批判の凄さも見ものです。
別の本ですが極左の吉本と保守の論客である江藤は、お互いにリスペクトし5回の対談を行っています。「吉本隆明 江藤淳 全対話」(中公文庫)もお薦めです。 -
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新書といえども、さすが博覧強記の片山杜秀氏らしいところが遺憾なく発揮された好著に仕上がっています。
敗戦後日本の論壇を席巻した人物を対比しながらこの国の戦争と平和、安全保障、アメリカという切り口から、どういう議論をしてきたのかが見事に整理されています。
しかも一方的に断定するのではなく、ふんだんに原文を引用しているところが、わかりやすい論証となっているのです。
素材は①南原繁-小泉信三、②山本七平-会田雄次、③福田恒存-清水幾太郎、④石原慎太郎-江藤淳、⑤大江健三郎-吉本隆明です。
特に力が入っているのが四番目で、三島由紀夫まで引きずり込んで、最も紙数を費やしています。
文章は、片山杜秀氏の軽妙な語り口をそのまま文字に置き換えた感じで、非常に読みやすいものになっています。
あたかも喋ったもののテープ起こしをして、肝心なところは書き加えて仕上げたような感じです。
後期高齢者の私には、同時代に活躍した人たちばかりですので、引用された文章の半分ほどは目にした記憶がありますが、同時に記憶も曖昧で、ここまで見事に整理して解説されると、そういうことだったんだと、今頃になって気づくことだらけです。
ただし、書名はダサ過ぎます。
編集者のセンス?おおい -
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本書の内容と関係無いことを書きます。
片山杜秀先生については、「英雄たちの選択」(NHK BSプレミアムの教養番組)で、コメンテータとして出演した時の片山先生を見て好感を持ったのが最初です。その時の片山先生が紳士然として足を組み、穏やかな笑みを湛えて話している様子に、好感を持ちました。
『歴史は予言する』(新潮新書、2023)の帯の写真でも、片山先生はとても柔和なオジさんです。笑顔の目はほとんど開いていません。
それが、この度、本書のカバー写真での片山先生は従来とは異次元の表情をしておられる。これもなかなかよいと思います。凛々しく眉を吊り上げて、カッと見開いた双眼は一体どこを睨んでいるのだろうか?と少し気に掛かりますが、大丈夫、とても誠実な人という印象を受けます。佐藤 優 ・片山 杜秀『平成史』(小学館、2018)のカバー写真でも、よく見ると、片山先生は同傾向の表情をしておられる。
いやはや、どのような表情であれ、片山先生は面白そうな方とお見受けします。もちろん片山先生の友人になることは難しいので、ご著書の易しいものを選んで讀もうと思います。
よろしくお願いします。 -
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日露戦争を経て、第一次世界大戦で日本は何を学んだか?軍人はなぜ精神主義に陥り、大敗にみちびいたのか。意外と語られない第一次世界大戦の日本軍の動き、学びから第二次世界大戦までを紐解く良書。
最新の戦を学び、一部ドイツ領青島戦では物量戦で勝利を収めるも、陸軍が変われなかった要因。
第一次世界大戦のドイツ軍の失敗した、シェリーフェンの短期決戦思考のうち部分的に成功したところだけを都合よく解釈して、なんと補給を考えないと言う愚策を統帥網領とする。勝つ算段を立てられなければならない立場とはいえ、海軍や外交、経済政策とセットで国防を考える視点が全くない…
持てない国を自覚して、勝てる相手しか戦わない暗黙の前提から殲滅戦即決を考えた皇道派。持てる国になるまで力をつけようと満州事変から泥沼の太平洋戦争へ行ってしまった統制派。結局いずれの信条もなかったのに戦争遂行内閣を組閣した東條英機…
明治までの国防のための戦略が、ずるずると拡大のための戦略になった。総力戦に対応するための国防のつもりだったのだろうが、占領地を増やせば統治コストもかかる。
後半はややまとめに苦労されている感じはするが、第二次世界大戦を振り返るには日露戦争後から出ないと難しい。
総力戦のためのファシズムをするには明治憲法は向いていなかったと言う制度論も学びだった。軍とシビリアンコントロールは昭和憲法で改善されているが、官僚の縦割りは解決していない。そこがサステナビリティやサーキュラーエコノミーで問題になるのかもしれない。 -
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インフォーマティヴな対談であり、大いに参考になる。
まだよく理解していないが、ファシズムとナチズムは違うものらしい。
このことは、山口 定(著)『ファシズム』(有斐閣選書71、1980)にも書いてあったと思う(カン違いかもしれない)。
正直言って、ご先祖様に申し訳ないが、日本のことは、何だか悲惨過ぎてあまり読む気がしない。
次のような箇所が目にとまった(引用文は編集した)。
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佐藤(S):経済が良いときは隠されてきたヨーロッパの地が見え始めてきた。日本ではアメリカとヨーロッパが同じイメージで語られがちだが、文化や習慣はまったく違う。第二次世界大戦後、物流の発達でアメリカの商品がヨーロッパ各国に輸入されるのと同時に、アメリカ型の自由と民主主義も浸透していった。この自由と民主主義は、ヨーロッパ各国の文化に根ざしたものではない。
片山(K):第二次世界大戦まで自分が食つなぐために互いに侵略を繰り返した国々だから。そして世界中に植民地を広げていった。メッキが剥がれ落ちると、そんな野蛮な地が露わになっても不思議ではない。
S:1975年に東欧を旅したとき、私はヨーロッパの地を見た気がした。陸路でルーマニア、ハンガリー、チェコ、ポーランドと移動していくと、国境の管理が西側とは比べものにならないくらい厳格である。しかも、ハンガリー人はルーマニアをバカにしているし、ルーマニア人はロシア嫌い。隣国を互いに見下している。
また、イギリスや東欧では、自分の一族がどんな階級に属していたか大へん気にして、家系図を大切にしている。中産階級の家でも調度品や銀の食器などを代々受け継いでいる。
ふだんは見えにくいが、階級社会が脈々と根付いている。そこがヨーロッパの本質なのではないかと思った。だから、いまだに差別的な構造が残り、下の階級の人は上昇志向を持ちにくい。
K:第二次世界大戦の敗戦を受け、深い反省をしたはずのドイツですら、極右政党「ドイツのための選択肢」が野党第一党に躍進した。経済が低迷して国内がおかしくなると、一定数が排外主義的な極右を選択する。『我が闘争』を読んで影響を受けたから排外主義に走るのではなく、経済が行き詰ると、自分の暮らしを守るために自然にそうなってしまう。その延長線上にあるのが侵略だ。フランスもイギリスも、そこは変らない。切羽詰まったら隣国を支配して生き延びようとしてきた歴史があるし、今その地が顕わになりつつある。高邁な近代的政治思想がいかに無力か、その証左だ。
S:今のご指摘に関係するのがイタリアの作家ウンベルト・エーコが書いた『永遠のファシズム』だ。人間が動物である以上、ファシズムを求めるのは生き物だからどうしようもない。だとしたらマイナスのミニマム化をしていくしかない、とエーコは言う。
K:人間も縄張り争いをする動物と同じということだ。人文主義の終焉と言えるかもしれない。
S:そう。私なりにエーコを乱暴に解釈するとこうなる。ファシズムを阻止するのはムリだ。なぜなら人間は、ライオンが肉を食うように、不寛容で、他者を排除する動物だから。あとは教育によってどこまで抑制できるかだ、と。
K:18世紀くらいまでなら人間には「真善美」があるというカントの言説も成り立った。しかし動物の段階まで退化したら、人間は何をしでかすか分からないということになる。そうすると最低限の秩序を守るためには何をすべきかかんがえなければいけない。虐殺はしない、暴力的な革命は起さない、強制収容所は作らない・・・。
S:その前提に立ち返っていくしかないのかもしれない。
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今、TACOが中心になって弱いイランを攻撃し、それをサポートしているEUの、経済が良いときは隠されてきた地(本当の顔)が見え始めてきた。
あのエプスタイン問題に関係する約800人の中に、日本人ですら60人もいるから、EU上層部はもっといるだろう。
みんな暴露を恐れて、日々戦々恐々としているだろう。
他人事ながら、その気持ちはよくわかるつもりだ。
「ソエジマ」なる自称「狂人」のご説によると、エプスタインの背後にネタ国がいるらしい。
それが正しければ、TACOもEUもネタ国に弱みを握られている、と勘ぐるのが普通であろう。
もしそうであるならば、TACO&EUがほとんどネタ国を批判しないのは納得できる。
こういうバカ話は、1000回テレビを観たって、想像できないだろう――報道するわけがないから。
いよいよ世界はディストピアに入りつつあるのかもしれない。
人間が「動物の段階まで退化したら、人間は何をしでかすか分からない」、「経済が行き詰ると、自分の暮らしを守るために自然に極右になってしまう。その延長線上にあるのが侵略」、「ファシズムを阻止するのはムリ」とは、まさにTACOが大暴れしている今のことではないか。
大々的にTACOがファシズムに突入してしまったようである。
ウクライナに殴り込んだ「ロシア無頼」プーチンどころの話ではなく、TACO&ネタ国にEUが加わって、「武力による現状変更」つまり「侵略」を始めているではないか。
「あとは教育によってどこまで抑制できるか」にかかっていると言うが、今更どれだけの効力があるだろうか。
「大ネタ国」構想から推測すると、イランの次はサウジアラビア、トルコだろうか。
今後、TACOは何をするだろうのか。
出たとこ勝負のTACO自身がわかっていないようだから、世界にわかるわけがない。
TACOが暴走を止めないと、世界は一気にカタストロフィへ突き進み、やがて焼けただれて静かになるかも。
Herr Wolf(ちょびヒゲ、絨毯嚙み)やDuce(ドゥーチェ)の末路も酷かった。
杞憂に終われば結構。
お終い -
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なるほど。ファシズム体制にしたかったけど、できなかった。そんな各思想人や軍人のジレンマ、本音と建前、顕教と密教が本人たちのコントロール下を超えて世論に押し流されて暴走していった。
根本的にムッソリーニ政権下のイタリアとナチスドイツとは異なる「未完のファシズム」のまま、英米との戦争に誰の意思もなく突っ込んでいった日本。
読み応えあるのに、非常に読みやすい良著。
日本の近現代史を勉強したいなら欠かせない本。
素晴らしかった。。。
合理主義だったからこそ精神論に走るしかなかった哀しい帝国の末路。
もてはやされている幕末の志士たちは、維新後に元老院として権力を振るった。権力にしがみついた。
しかし後継者を決めなかったし、制度化もしなかった。その結果、彼ら亡き後、誰も権力を振るえない機能不全が慢性化した異常な帝国となってしまった。
常に権力の空白地帯が存在し、誰もビジョンを持って戦争を避けることも、やめることもできなくなっていった。
明治維新の罪。
超法規的集団の元老院が権力を振るう明治、彼ら亡き後機能不全に陥った昭和。 -
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バッハからストラビンスキーに至る(諸説あり)クラシック音楽を中心に、音楽と社会の関わり、時代時代で主流となった音楽と社会体制との関連と、その変遷について碩学2人が語り尽くした本。
改めて提示されてみると、思想同様にいろいろな束縛から自由なはずの音楽が、時々の社会体制と密接に関わっていることに驚かされる。
バッハが活動したライプツィヒはカソリックと対立したルター派の総本山であり、バッハは神の秩序を自ら音楽に表現しようとしたプロテスタンティズムの象徴。
貴族に庇護されサロン中心に演奏したヘンデル、ハイドンと異なり、ナポレオンの出現により国民国家が生まれ育つ中で交響曲や協奏曲などの形式を確立し「クラシック音楽株式会社」を創業したベートーベンと、その狭間に位置するモーツァルト。
ロマン派のありとあらゆる要素を呑み込み総合した、ブラックホールのようなワーグナー。
ベートーベン、ワーグナーに対抗しようとして力尽きたシューベルト、ブラームス、マーラーなど数多の作曲家と女子供が求める小品に走ったショパン、シューマン。
ヘンデルはロンドンの印象が強いが、出身はドイツ。
ガーシュイン、バーンスタインはアメリカと言われるが、出自は東欧のユダヤ人。
歴史に残る著名な作曲家たちが、歴史の時間軸の上で容赦なく相対化されていく。
大戦後、西側社会で作られなくなった交響曲が共産圏で作り続けられたのは、自由主義社会への対抗だったか。
ロシアによるウクライナ侵攻後に出された本書では、偶然か意図的かロシア音楽も詳しく触れられる。
話題はクラシックから現代音楽を経て、ジャズ、ポップスまで拡がり、ストリーミング再生が主流となった現在に音楽を聴くことの意味も語られる。
著者の一人は語る。
「クラシックもポップスも、自分が「音楽」と考えてきたものは18世紀以来の啓蒙思想のツールとしての音楽のことだった」
「好きな音楽を好きに聴けば良いのだが、音楽の背後の頑強なイデオロギーに対して無自覚でいることは危うい」
「クラシックを聴くということは、近代世界の欺瞞と矛盾を理解すること」
「その象徴はベートーベン第九対ショスタコーヴィチ第五」 -
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タイトルの通り『義公』徳川光圀に始まる『水戸学』の始まりから終わりまでをまとめた一冊。
内容は加筆修正されているものの、初出の雑誌連載時のものをまとめているため、同じことに対して説明が繰り返されたり等、冗長に感じる点もあります。
しかし、その冗長に感じたことも、何せ400年という長いタイムスパンの物語であること、そして登場人物が多いということから、前のページを繰り直さなくてよいということに気付き、逆にありがたさを感じます。
最初からボタンを掛け違い、自己矛盾に満ちたまま、それを自己批判できずに進んでしまった悲劇というのが読後の正直な感想。
徳川御三家の中で重要な位置を占めながらも、常に最も資力がなかった水戸徳川家の行き着いた先は、現代の日本が抱える課題にもつうじることがあるのではないかと多いながら読んだり。
それにしても幕末から維新までを扱う物語は、敵味方というか立場がコロコロ変わってしまうので、頭の中を常に整理しないといけないというのが大変です(^_^;) -
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宗教とは何かを考えるうえで参考になる名著を、4人の有識者がそれぞれ1冊ずつ紹介している本です。
どの章も非常にわかりやすく、宗教(的な考え方)の大事さも恐ろしさも感じさせてくれる作りになっています。
別の本で半分ファンみたいになっている釈徹宗氏の著作だったため購入。認知的不協和や自我防衛機制、成熟した宗教的人格について述べている同氏の章は、読んでいるだけで何だか安心感を覚える内容です。
―宗教はどうしても信じている人と信じていない人との境界を生み出します。その境界ができないようであれば、生きる力にもならないことでしょう。しかし、その境界を超える回路がどれだけ多様にあるか、そこが大切です。(釈徹宗)
―そこから見えてくるのは、「信じる/信じない」という境界がはっきりあるわけではないということです。それはどこまでもグラデーションになっていて、人はその狭間で揺れ動き続けるのでしょう。信仰は揺れ動く。しかし、それでも自分はそこから離れられないと思ったときに、信仰は「本物」になっていく。(最相葉月)
―宗教は倫理や道徳ではありません。かくかくしかじかだからこうなるのだと合理的に納得させられるとしたら、それは科学であって宗教ではないのです。言い方を変えれば、科学ではないから宗教と呼ばれ得るのです。信じるか信じないかです。(片山杜秀)
―「自分の意志で選んだわけではない」という思いが、彼にとっての神という存在の根本にあるのではないかと思うのです。大津にとって信仰とは、「私が信じる」といった主格的なものではなくて、「私に信仰がやってきてとどまっている」といった与格的なものだったのではないでしょうか。(中島岳志)
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(2024/10/10 2h)
最相葉月『証し』を読み終え、著者について調べたら本書が出てきました。
2024年1月のNHK放送分をまとめたもののようです。
釈徹宗「人間と宗教のメカニズム」(『予言が外れるとき』)★★★☆☆
最相葉月「信仰に生きるということ」(『ニコライの日記』)★★★★★
片山杜秀「絶対的な「信じる心」と戦争の時代」(『大義』)★★★★☆
中島岳志「神はどこにいるのか」(『深い河』)★★★☆☆
宗教にまつわる書について、さまざまな視野から選ばれ、解説されています。
新興宗教と信者と信仰のメカニズムについて、正教の伝導について、天皇信奉(絶対観念)について、与格としての信仰について。
特に『大義』のほうは意外性もあり、面白い選書と思います。
4冊の解説を100余ページで読めるお得感がありました。 -
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本編約345ページのうち、260ページほどが伊福部音楽の原点となる北海道時代の話。
いろいろと靄がかかってうっすらとしか理解していなかった部分が、この本を読むことでとてもクリアになり、伊福部昭の音楽の成り立ちに対する理解が、より深まりました。
二中時代に手元にあったバイオリン
北海道の都市部には珍しくなかった白系ロシア人の飲食店
豆景気で沸く音更で聴いた日本各地の民謡
近所の人が趣味で弾く楽器が漏れ聞こえてくる昔の札幌山鼻の住宅事情
片山杜秀氏の伊福部愛も溢れていますが、客観的に色々書かれているので、大変貴重な一冊であると思います。
北海道には、伊福部昭さんゆかりの場所も各地にあるので、そのうち訪ね歩いてみたいです。