片山杜秀のレビュー一覧
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「坂の上の雲」解説本の体。「坂の上の雲」も司馬作品も読んだことがない方が、読んでみたくなるかはよくわかりません。私は高校の時に読みましたが「坂の上の雲」も「竜馬がゆく」も司馬代表作とはとても思えず、国民小説かと言われれば・・・という感じ。確かに日露戦争開戦までは面白いんだけど、新聞連載らしい全くまとまっていない小説。なのでもう一度読んでみようとは全く思わなかったが、この対談で書かれている内容は作品関係なく、なかなか面白い。「司馬史観」とまで言われるように、如何に司馬作品が良い意味でも悪い意味でも歴史解釈に影響を与えているかがよくわかる、という意味では優れた解説本。
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幕末維新のイデオロギー的原動力となった水戸学の原理と歴史的進展を考察する一書であるが、そうした学問を動かす現実的背景となった史実を、どこにこの話はつながるのだろうといった関心を惹起させつつ、良い具合いに織り交ぜて叙述が進んでいく。500ページ近い大作であるが、読物としても面白く、最後まで飽きさせずに読ませる力技はスゴい。
本書でも登場する三島由紀夫や梶山静六のご先祖のように直接当事者ではないが、両親が茨城生まれだったので、幕末水戸の天狗党・諸生党の内乱のことは子どもの頃に少しは聞かされた。水戸の自虐ネタだが、茨城は幕末の内乱で有為な人材がいなくなってしまったので、明治になって全く浮かばれなかった、出るとしたら、憂国を気取ってテロリストになる、と。
本書は、1823年、文政6年、茨城の沖合いで、捕鯨漁をしていたイギリス人と漁民の接触や簡単な交易が行われていた史実の紹介から始まる。そして、翌1824年、茨城大津浜に捕鯨船船員が上陸。その取調べを命じられたのが相沢正志斎。まともな通訳もない中、正志斎は、夷狄に日本侵略の意図ありとの信念を抱く。そうした危機意識を背景として書かれたのが、尊皇志士を鼓舞した著作『新論』。
こうして、『大日本史』編纂を思いたった光圀以来の"尊皇"に、"攘夷"が結び付く。
なお、本書前半、第三章までは、光圀と伯夷・叔斉、明の遺臣朱舜水と中華、南北朝正閏問題、楠木正成と忠臣といったトピックが続く。
後半は、ロシア、そしてイギリス、アメリカといよいよ波高くなってきた江戸後期。
新藩主となった斉昭がやろうとしたことについても、攘夷=単純な守旧派ということではなく、反射炉を建設したり、能力のある者であれば大工を士分に取り立て、他藩の者に藩の重要事業を任せるなど進んだ面のあったことを、本書で初めて知ることができた。
しかし、ネックになったのは、水戸藩の貧しさ。江戸定府で経費がかかる上に格別の産業もない。そこに高度国防国家を目指した事業に要する経費。なぜ水戸藩一藩がそんな負担をしなければならないのか。そういった不満を持つ層も出てくる。
ペリー来航時に、時の老中阿部正弘は、幕府の意思決定に当たって、大名からの意見聴取や朝廷への説明といった、従来からの逸脱とも見られるプロセスを取る。そこには斉昭の阿部への働き掛けが功を奏したためと、著者は言う。それを異常状態と捉えて、元に戻そうとしたのが大老井伊直弼。安政の大獄は、元々は斉昭を中心とした水戸藩がターゲットだった。しかし、桜田門外の変で、幕府中心に戻そうとする動きは頓挫した。
一方、水戸学を奉じる層も、天皇の意思を帯して即時攘夷を主張する言わば左派と、時機を待つべしとする斉昭、正志斎の正統水戸学=水戸学右派に分裂していく。
そして、これら藩政の主導権を握っていた水戸学右派、それに対して、水戸藩、幕府を中抜きして天皇に直結しようとする水戸学左派=天狗党、斉昭路線の軍事化を良しとせず、これまで藩政の実権から遠ざけられてルサンチマンが溜まっていた諸生党、これらが三つ巴となって、血で血を洗う戦いになってしまう。
このなかで、藩命に服さなくなった天狗党、諸生党鎮撫のために、藩主慶篤の名代となって水戸入りをした水戸藩支藩、宍戸藩主松平頼徳が、幕府も交えた政争に巻き込まれる形で、大名としては極めて稀な死罪に処せらたことも初めて知ることだった。
正に、ホンの数年、数ヶ月の違いにより、誰が主導権を取っているかが変わってしまう時代だったのだなあ、と改めて思う。
そして最後、孝明天皇の死という偶然的事情によりリーダーシップ獲得の道を封じられた、慶喜(斉昭の子)によって、形式的な意味での"尊皇"が貫徹されることになったのが、明治維新であったと言えよう。
実際政治にこれほどの影響力を与えることとなった水戸学、少し本格的に勉強したくなった。
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この本の内容はカルチャーセンターでの講演だという。
ラジオでの、あのバカ丁寧な(失礼!)、でも前のめりになって迫ってくるような、独特な語り口が彷彿とする。
それは今、「クラシックの迷宮」を聴いているから?
それはともかく、企図は音楽史を政治史に関わらせて読み解くことだろう。
モーツァルトのトルコ趣味も、墺土戦争、オスマントルコのウィーン包囲の影響があること。
ベルリオーズの幻想交響曲や、ベートーヴェンの第九にも、フランス革命や、その後の自由主義思想が反映していること。
オーケストラの楽器編成(特に金管楽器)にも、国民国家の軍隊が出来上がる時代の要請に応じたものだというところは特に面白かった。
そうか、それでスラブ諸国やロシアの作曲家の曲であんなに金管がバリバリ鳴るのか。
こういったお話だったが、断片的には今までにも片山先生の番組で聞いてきたことかも。
番組や講座だと、ここは実際に音源があったのかな、と想像されるところもある。
「ジャンジャカジャン」は片山センセイ、歌ったんだろうな、とか。
逆に文字だと、複雑な近代史を何度も確認できていい、ともいえるかな。 -
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著者はラジオ「クラシックの迷宮」の解説をしており、その独特な切り口と番組構成には、毎回驚かされる。そこで選曲された曲は珍しい曲、マイナーな曲が比較的多く、曲自体の魅力に気づかされることが少なくない。他方、曲の合間で加えられる講釈も楽しい。本書はいわばその解説パートに特化したものといえる。
一読してわかったことは、市民革命が先行し、新しい聴衆となる層が多くなると、その層に好まれる曲想や曲の役割が付与されていった、ということだ。ベルリオーズの幻想は、フランス革命後の貴族でない市民に受け入れ、ラ・マルセイエーズを歌った軍隊は強くなった。またベートーベンの曲と種々の革命は密接に関連している。今年はベートーヴェン生誕250周年であり、例年より彼の曲を聴く機会が多い年となる。当時のそうした社会情勢を意識し、新しい響きを求め続けた音楽上の革命に注視してみたい。 -
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日本が戦勝国として関わった第一次世界大戦を起点に「なぜ日本が勝てるはずもない戦争に飲めりこみ滅びたのか」を読み解く。
未完のファシズムという意味は、明治日本は天皇中心の国家を築こうと試みたにもかかわらず、天皇以外にはリーダーシップをとれる仕組みがなかったこと。
確かに日本のヒトラーと言われる東條英機も独裁者だったか?というとNO。この「本気で意見が一致してひとまとまりになり誰かの指導や何かの思想に熱烈に従うことは、いついかなるときでも、たとえ世界的大戦争に直面して総力をあげなくてはならないときでも、日本の伝統にはない」「幕末維新は尊皇派も佐幕派も開国派もいたからこそかえってうまく運んだ。いろんな意見をもつ人々が互いに議論したり様子を見合ったりして妥協点を探る。一枚岩になれない。逆にぎくしゃくしながらすすむ。・・・のが日本の伝統だ」
今のコロナ禍の日本にも通ずるところがあるな!
勇猛果敢な突撃で大国ロシアを打ち破り世界を驚かせた日本は、第一次世界大戦での欧州の戦闘から時代は砲兵・工兵の時代と見抜く。そこから「持たざる国」日本がどのように世界で生き残るかの模索が始まる。
持たざる国を持てるに国変えようとした石原莞爾ら統制派、タンネンベルクの戦いや桶狭間のように寡兵でもって大軍を打ち破る短期決戦を目指す皇道派。しかし結局いずれもできない泥沼の日中戦争・対米戦争へと走り出してしまう。
最後に残ったのが「精神で勝つ」ほとんど宗教的狂気に感じられる中条末純の「戦陣訓」。
この物凄く不合理な飛躍を丁寧に読み解いているのだが…それでもやっぱりここの狂気への跳躍は理解できない。
しかし…理解できないが…。アッツ島での玉砕、米軍従軍記者が恐れた日本の滅びの美学には、同意できないと100%言い切れないところが怖い。自分の心のどこかの片隅に、えも言われぬ誇らしさのようなものがあり、恐ろしい。絶対に繰り返してはならない悲劇なのに。命令に従わざるを得ず母や妻、子供のことを考えながら死にたくなくても死なざるを得なかった祖父のような人たちがいっぱいいたはずなのに! -
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説明不要なこの二人の対談本、ということで同時代史として一読の価値は十分すぎるほどある。
ただ、片山杜秀氏の他の著作の圧倒的な面白さに惹かれて手に取った私にとっては、片山氏の佐藤氏への遠慮(忖度)がかなりの残念感(それが象徴的に出ていたのが、片山氏の「シン・ゴジラ」への評価。他の文章ではあれだけ絶賛していたじゃないですか、片山先生!!)。
佐藤氏は、間違いなく頭の明晰な整理されたトークのうまい人であるが、それだけにその瞬間の分析が速報性が高い、というか、都度都度上書き更新されていく印象が強い(雑誌の連載などでそれが顕著)。それは官僚として必要な資質だとも思うので批判しているわけではない。
そこにより巨視的、アカデミックなアプローチの片山氏がぶつかることでのケミストリーを期待していたのに、佐藤氏の長広舌のうなずき役になってしまっていたように思えるのだ(一年近く前だが、このお二人のトークショーを新宿で聴いたときも同じような印象を持った)。
こういうアドリブ企画物みたいな読み物もいいが、お二人の(とくに片山氏の)腰を据えた本を改めて味読したい。 -
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クラシック音楽は他の芸術とは違い、作り手よりも受容先の状況が重要となる演奏する人と聴衆がいなければ成り立たないので、死後評価される画家、文学者のような人はほとんどおらず、異端の音楽家というのもクラシックの世界ではほぼいない。
元々教会音楽から始まった受容は王侯貴族、大都市のブルジョアと受け継がれる。グレゴリオ聖歌は、もっとも神の作り出したものに近い人間のみで奏でる音楽であるが、それに宗教改革を経て、ラテン語から現地の言葉、歌いやすいメロディといった世俗的な要素が加わっていき、王侯貴族のオペラや室内楽になっていった。バッハは教会に所属して音楽を作っていったが、どちらかというと後世に評価された作曲家である。モーツアルトの頃には王侯貴族から市民への富の移転が進み、需要家としてのシフトもおこる。ヘンデルはロンドンに行って成功したが、モーツアルトは失意のうちになくなる。ベートーヴェンは、市民階級に受け入れられるようなシンプルなメロディーの繰り返しを用いて、わかりやすく、うるさく、新しい音楽を作っていった。市民階級の成熟とともに、精緻化が進み、クラシック音楽の中での差異化がすすみ教養としても分化が進む。 -
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教会音楽?クラシック音楽?バッハ?ベートーヴェン?ワーグナー?なにが違うの???
…と、音楽的素養のない私にはそう感じられるのだが、この本を読んで、世の中や教会の権威、音楽の受け取り手の世界史の中での変容に応じて(またはあらがう形で)、音楽が歴史を紡いできたことを知ることが出来た。当時の世の中の受け取り手に向けて、こういう意味合いで作られた音楽…という作品の背景を知り、敷居の高い音楽、全く分からない音の羅列を、理解するヒントが得られたような気がする。
ベートーヴェンの運命の、覚えやすい冒頭のメロディーは、なぜそうなっているのか、が分かる。 -
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第3章までは、普通の音楽史に書かれている普通の進行だが、第4章の「ベートーベンの時代」から面白くなってくる。
市民の時代において、市民と向き合うことで生まれてきたのがベートーベンの音楽である。
キーワードは、①わかりやすい(簡易・単主題) ②うるさい(刺激・エネルギー・力) ③新しがる(資本主義・驚き)
ちょっと強引に作曲家と時代を関連付けすぎていると感じる部分もあるが、代表的作曲家が存在した時代背景についての認識を持っているのと、持たずにいるのでは、聴こえてくる音が全く違ってくるだろう。
ベートーベン以降はシェーンベルクに至る(ロマン派から近代)、社会と音楽の変遷が非常分かりやすくまとめられている。この様な説明を受けると、それぞれの作曲家が出てきたのは偶然ではなく必然だったのだと思わされる。
この本で直接的に書かれているわけでは無いが、ワーグナーとヒットラーが台頭してきた背景があまりにも似ているのにビックリ。