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ユーザーレビュー よみがえる天才1 伊藤若冲 辻惟雄 935 多摩美術大学学長が書いた本ですごい分かりやすかった。著者の辻さんは1990年代以降の若冲ブームの立役者の人でもあるらしい。長谷川等伯→尾形光琳→伊藤若冲→鈴木基一だから尾形光琳と江戸琳派の間の人か。琳派良く見るけど、若冲展あったら見に行きたいな。 辻惟雄(つじ・のぶお) 1932年生まれ...続きを読む。美術史研究家。若冲復活の立役者として名高い。千葉市美術館館長、多摩美術大学学長、MIHO MUSEUM館長などを歴任し、現在東京大学名誉教授、多摩美術大学名誉教授。2017年、朝日賞受賞、文化功労者に選出される。2018年瑞宝重光章受章。著書に『奇想の系譜』(美術出版社 1970年、ちくま学芸文庫 2004年)、『若冲』(美術出版社 1974年、講談社学術文庫 2015年)、『奇想の図譜』(平凡社 1989年、ちくま学芸文庫 2005年)、『日本美術の歴史』(東京大学出版会 2005年)、『岩佐又兵衛――浮世絵をつくった男の謎』(文春新書 2008年)、『辻惟雄集』(全6巻、岩波書店 2013-14年)など多数。著書『奇想の系譜』などで、従来の美術史ではあまり評価されていなかった岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳などを「奇想の画家たち」として取り上げたことで江戸絵画の再評価を促し[3]、日本の美術史に大きな影響を与え[3]、特に1990年代以降の若冲ブームの立役者となった[9]。 しかし、じつは若冲は、生前から高い評価を得ていた画家でした。そうとうな売れっ子で、若冲の絵をほしがる人は大きなお寺から一般の人びとまで数多く、晩年には何人もの弟子を使って数多くの注文をこなしていたぐらいです。ふつうに考えれば、「自分の作品が理解されるまでに、あと一〇〇〇年もかかる」などと嘆く必要のない立場にあったといえます。 江戸時代の文化といったとき、多くの人がまず思い浮かべるのは元禄時代(一六八八─一七〇四年)だと思います。この時代、農村では農業生産力が増大し、都市部では地方の豊富な産物を流通させることによって経済的に豊かになっていきました。経済的に繁栄すると、文化も栄えるものです。食べていくので精一杯という状態でなくなれば、人は、生きていくためには必ずしも必要がないかもしれないようなことも楽しみ、そこにお金を使うようになるからです。 表現や創造の分野において、型があること自体は、必ずしも悪いことではありません。たとえば、私たちが浮世絵を見たとき、どの時代のどの絵師の手によるものを前にしても「これは浮世絵だ」と思うことができますが、それは独自に様式化され、浮世絵ならではの共通の型をもっているからです。浮世絵に限らず、江戸時代の美術においては、根っこに共通の「型」をもちつつ、その上にさまざまな個性が花開いていく──という図式が成り立っていました。 型と個性の関係については、歌舞伎やいけばななどの日本の伝統的な表現を思い浮かべるとわかりやすいと思います。歌舞伎にはセリフ回しやポーズなどに、何百年も伝承されてきた「型」があり、役者たちはまずはそういった型を徹底的に叩き込まれます。しかし、実際に役者たちが芝居を演じているのを見ると、たとえ同じ役を演じたとしても、演じる役者それぞれによって、その人ならではの個性が醸し出されているのがわかります。同じ悪党であっても、豪快さが際立つ場合もあれば、にじみ出る愛嬌が印象に残ることもあります。そのように、型をベースに個性を花開かせるという表現のあり方は、江戸時代には(江戸時代のみならず、東洋の技芸には比較的共通して、といえるかもしれませんが)一般的なことだったのです。 そういった個性的な画家たちのなかでも、とくに「変わっている」のが伊藤若冲です。ぱっと見には、《群仙図風》などを描いた曾我蕭白のほうがよほど強烈で奇矯に見えるかもしれません。若冲が描いているのは基本的に花鳥画で、蕭白の描く人物のようにニカッと笑っている不気味な表情もなければ、大げさなほどダイナミックな動きの表現もありません。しかし若冲は、より本質的な、より根っこのところで異質な画家なのです。そして、そのようなところこそが、若冲の絵の特異性、すなわち若冲絵画の魅力につながっていると私は思っています。 では、若冲のどのようなところが、他の画家たちと大きく異なるのでしょうか。 それは、おそらく若冲が、自分のことを「芸術家」だと認識していたところです。私には、自分のことを「芸術家」だと思っていた日本でもっとも早い人物の一人が、ほかならぬ若冲だった、そのように思えます。 そして、若冲です。若冲は誰に絵を学んだのかということもほとんどわかっていません。狩野派や土佐派に学んだ経験はあるようですが、元や明、あるいは清の絵画の模写を通して、ほぼ独学で絵を描いていたと考えられます。それに起因するある種の素人っぽさは、画家として名声が高まった晩年になっても残っており、若冲絵画のひとつの特徴にもなっています。そのような画家の心中にあったのが、自分はただの画工ではないという、おそらく当時は誰に言っても理解されがたいような思いだったということです。 風変わりで奇抜であること、エキセントリックであることは、芸術においてはプラスに評価されるところがあります。たとえば、ゴッホは芸術に没頭して精神を病み、共同生活を送っていた画家仲間のゴーギャンとの関係にも行き詰まって自分の耳を切り落とすという事件を起こします。ゴッホのそのような度を越した一途さ、激しさを示すエキセントリックさが、ゴッホの激しい筆致や独特の色づかいをもたらしているということができますし、そのエピソード自体の特異さに対しても、私たちは「さすが芸術家」と、驚きとともに、ある種の賞賛めいた思いも抱いたりするでしょう。 現在、若冲はブームといってよいほどの人気を博しています。若冲展に若い方々の来場がとても目立っているのも、ほかの江戸絵画展とは異なる大きな特徴です。二一世紀の我々がここまで若冲の絵に惹きつけられるのはなぜかを考えたとき、いま、ようやく若冲の待ち望んだ時代が到来し、若冲の精神や作品の本質が理解されるようになったからだ、ということもできるのかもしれません。 そういった裕福な商人の家に、父親の宗清が二〇歳、母親が一七歳のときに生まれたのが若冲です。両親についてくわしい資料は残っていませんが、さまざまな野菜がごった返している狭い店で育ったことが、あれこれと要素が詰めこまれた若冲の画風の形成に影響を及ぼしているのではないか、という説もあります。 その「藤景和画記」に描かれた若冲の像といえば、「少シテ学ヲ好マズ、字ヲ能クセズ、凡百ノ技芸、一モ以テス所ナシ、凡ソ声色宴楽、人ノ娯シム所、一モ狗ムル所無シ」というもの。つまり、勉強が嫌いで、字も下手で、世の中に技芸はいろいろあるけれど一つも身につけることがなかったと、ある意味さんざんな書かれ方をしています。何でもこなす器用さは持ち合わせていなかった上、歌舞音曲の類など、娯楽に関心を示すこともない、ある種の堅物だったことがうかがえます。 しかし、絵については別でした。同じく「藤景和画記」の「丹青ニ沈潜スルコト三十年一日ノ如キナリ」という一文がそのことを物語っています。絵を熱心に描いて三〇年、ということですね。この文章が書かれたのは若冲が三五歳のときなので、字義通りにとると五歳から絵を描いていたということになります(年齢は以下すべて数え年)。しかしこれはあくまで、幼いときから絵が好きでよく描いていた、というぐらいの意味だと考えればよいでしょう。 家業を放棄して山にこもったのが正確にいつのことだったかはわかっていませんが、若冲の三〇歳代には、それほどの孤独癖と関連して鮮やかに浮かび出てきた二つの要素があります。一つが仏教、とくに禅への傾倒で、もう一つが絵画への熱中です。 「若冲」というのは本名ではなく、出家せずに(つまり、正式に僧となることはなく)仏門に帰依する男子に与えられる「居士号」です。「老子」第四五章の「大盈は冲しきが若きも其の用は窮らず」という一節に由来し、「最も充満したものは空虚のようにみえるが、それを用いてもいつまでも尽きることがない」という、いかにも若冲の人柄にふさわしい意味の号です。これも大典顕常が彼に与えたと考えられますが、「若冲」という号は三〇歳代半ばに描かれた作品にすでに入っており、そのころに居士号をもっていたということは、その時点で禅への傾倒は相当なものになっていたと考えてよいでしょう。 若冲と大典が知り合ったのは、残された文章から、三〇歳代の半ばから後半にかけてのことだと推察されます。孤独癖、人嫌いという自身の性格について悩んでいた若冲は、仏教に救いを求めたところもあるのかもしれません。彼の仏教への傾倒は大典との交流を通して強まり、若冲という号を得てからは、僧侶のように頭を剃り、肉食を避け、まるで禁欲僧のような生活をしていたことも記されています。ただ、生涯独身を通したことについては、私には宗教的な理由だけだったとは思えません。第2章で紹介する《動植綵絵》の作品を見ても、女性に対する何らかのコンプレックスがあった可能性も否定はできないと思います。 日本美術の二大流派で学んだ後、若冲の関心は中国の絵画に向かいます。当時の日本は鎖国中なので、いつでもどこでも外国の文化に触れられたわけではありません。おそらく若冲は、お寺で元や明の絵画を見たと考えられます。親しかった大典のいたお寺が、海外の絵に触れることのできる場であったかもしれません。そして、元や明の絵画をひたすら模写して勉強を続けました。そのかず数千枚ともいわれていますが、現在残っている作品はそれほど多くはありません。数千枚とはいささか大げさですが、つてを求めて熱心にあちこちの寺を訪ね歩いたことでしょう。 情報というものは必ずしも大量にあればよいわけではありません。芸術の場合にはとくに、不完全な情報がもたらす誤解が、新たな別の価値の創造につながる場合もままあります。江戸時代の絵師たちは断片的な情報に感覚を研ぎ澄まし、直感と想像力を働かせてそこから本質を受け取りました。そして、知らないがゆえの大胆さもあって、その情報を意外な表現として結実させることができました。若冲ももちろんその一人でした。 若冲の仏教への傾倒と絵画への耽溺は、三〇歳代を通じてともに深まっていきますが、若冲はなぜここまで仏教に向かい、同時に絵画制作に深入りしていったのでしょうか。もちろんそれは、ひとつのわかりやすい理由に収まるものではなかったでしょう。考えられることのひとつは、屋の主人としての世俗の務めを厭わしく感じ、そこから脱したいという潜在的な気持ちがあったということ。そしてもうひとつ、唯一の楽しみだった絵が好きで好きでしかたがなく、どうしても絵を極めたいという、止むに止まれぬ欲求が生まれていたと考えられること。 しかし、写生ということを意識していた画家は、なにも応挙だけではないわけです。若冲だって写生をとても意識していました。若冲はおそらく大典から、中国の花鳥画における伝統的な「写生」の理念を教えられたと考えられます。同時にまた、中国の花鳥画を大量に模写することを通して、若冲は実際のものに即して描くことの意義を痛感するようになりました。 若冲は、過去の名手たちにならって自宅の庭に鶏を飼い、その形態や生態を熱心に観察したのです。鶏は若冲の画題として頻繁に登場する動物ですが、いつでも目にできる身近なところにいた生き物だったことが、その大きな理由のひとつだと考えられます。 現在でも四〇歳になって新しいことを始めることについて、「いまさら遅いのでは」とためらう人がいるかもしれません。しかし、彼が職業画家としての人生をスタートさせたのは、不惑の四〇歳のときでした。「人生五〇年」という意識がまだ一般的だった時代のことです。実際には若冲は八五歳まで長生きしますが、残された年月がそれほど多くはないと思っていたからこそ、この先はやりたいことをやって生きるのだと、決断できたのかもしれません。 相国寺には、若冲が作品を寄進するときに添えた「寄進状」が残っています。そこにはどのようなことが書かれていたのでしょうか。文面の大意は次のようなものです。 私は常日ごろ丹青に心を尽し、草木や羽虫の形状をことごとく描こうとして、あまねく題材を集め、それらによって画家として一家をなしました。また、かつて張思恭が描いた釈迦・文殊・普賢の像が巧妙無比なのを見て、なんとかそれに倣いたいと思い立ち、ついに三尊三幅を写し、動植綵絵二四幅を作りました。もとより、世俗的な動機でこれをなしたのではありませんので、相国寺へ喜捨いたし、寺の荘厳具として永久に伝わることになればと存じます。ちなみに私自身も一〇〇年の形骸を終にこの地に埋めたいと心から念願しますので、そのための手筈として、いささかの費用(祠堂金)を謹んで投じ、香火の縁を結びたいと思います。ともに御納めいただけることを伏して望みます。 若冲は、鶏というモチーフを自分のトレードマークのように定め、生涯を通じてもっとも多く鶏の絵を描きました。《動植綵絵》でも、三〇幅中八幅に鶏が登場します。 大典の碣銘によると、若冲が鶏を描くようになったのは、彼が中国の名手たちの絵の模写をやめ、自分自身の絵を探索するようになった辺りからのようです。人が描いた絵をいくら上手に写したところで、実際のものをじっくりと見て、真に迫ろうと描いた画家の境地に及ぶわけがありません。では、自分はさしあたり何を描けばよいのだろうか。雲上を飛ぶ麒麟や中国の故事に出てくる人物は対象になりませんし、山水にしても、自分が見ているような日本の風景を描いた絵は見たことがありません。 百鳥図 ところで、私には、なまめかしい切れ長の目、妖艶なハート模様の羽をもつこの純白の鳳凰に、なんともいえない若冲の感情が込められているように感じられます。若冲は生涯独身を通しましたが、それは僧侶になりたいと思っていたほど仏教に傾倒したから、というだけではないと思うのです。この絵には若冲の屈折した性的な願望が託されている、そのように思われてなりません。 端正に描かれた蝶に対し、芍薬がなんとも妖しげであるのも、この作品の見どころだと思います。芍薬の花弁は半透明で蠟のような質感をしており、その縁は胡粉でくま取られて、官能的な光沢を放っています。そして、赤い芍薬の花蕊は、うごめく触手のように妖しげな気配をかもし出しています。対象を正確に描いているようで必ずしもそうではないというのは、若冲のさまざまな作品に見られる要素です。 若冲のおもしろさはこのような表現そのもののおもしろさにありますが、こういった手法の根幹にあるのは、やはり明から清にかけての花鳥画でした。前にもふれたように、日本ではそれは長崎派、あるいは南蘋派と呼ばれており、広い意味では若冲もその一員に含まれます。しかし、絵をたんに写すのではなく、そこから自分のイメージを引っ張り出していたという点で、南蘋派のなかで、若冲がもっとも毛色の変わった画家であることは確かです。 若冲の絵画には幾何学的な形態がよく出てくると指摘する人もいます。フラクタルという言葉を聞いたことがあるでしょうか。ある図形の全体と、その一部を拡大した部分が、同じような形になっている図形のことで、山や、枝分かれした樹木、雪の結晶など、自然界にはこの構造がよくあらわれることが知られています。これは二〇世紀に出てきた幾何学の考え方ですが、若冲の絵にはフラクタルの要素がたくさん含まれるとして、その視点から《動植綵絵》を徹底的に検証した人もいます(赤須孝之『伊藤若冲製動植綵絵研究 描かれた形態の相似性と非合同性について』誠文堂新光社、二〇一七年)。そのような視点で作品を見ると、また新しい発見があるかもしれません(「コラム2」「コラム3」を参照)。 尾羽をピンと立ててカーブさせる、若冲の水墨略筆の雄鶏図(図32)は、彼のパテント・デザインとして人気があります。晩年に数多く描かれましたが、《動植綵絵》制作にとりかかって間もなくの鹿苑寺襖絵に、この原形が見られるのは意外です(図38)。首の羽毛を膨らませて相手を威嚇する雄鶏の姿を、若冲は溢れる遊び心で戯画化しました。 芍薬群蝶図 全精力を傾けた《動植綵絵》が相国寺で公開されたことで、若冲は京都の人びとの間で、画家としてとても高い名声を得ることになりました。《動植綵絵》の完成直後には、京都の名士録『平安人物志』で池大雅、与謝蕪村の前の三位にランクインしていますし、その数年後、若冲が六〇歳のときには、円山応挙に次いで二番目に記されるに至っています。若冲は異端で孤独だったというイメージがあるかもしれませんが、これは後世になってからついたイメージで、実際の若冲は京都で尊敬を集める名士でした。装飾とリアリティを独特の視覚のなかに収めた、若冲ならではの「真意」あふれる表現は、京都の人びとに違和感なく受け入れられていたのです。 若冲は、できることなら僧になりたいと思っていたようなところがあります。しかし実際は最後まで「居士」として過ごし、結局僧にはならなかった。そのように私は考えています。とはいえ「革」というのは僧号です。そのような僧号を萬福寺の住職から与えられたということは、若冲はこの時点で僧になったのではないか、と考える美術史家もいます。その辺りはあまりはっきりしていませんが、若冲がそこまで仏教に接近していたことは確かだといえると思います。 樹花鳥獣図屏風 若冲本人はぜいたくな着物にあまり関心はなかったかもしれませんが、それこそ「富裕な町人」ではあるわけですから、当然、美しい西陣織を目にしていたと思います。 マンデルブロらフラクタルを追求する学者たちは、自然のみならずアートにも目を向け、北斎の《富嶽百景》その他の版画や、ダリらシュールレアリストの絵画のなかにフラクタルがあるとしています。また、アメリカ・オレゴン大学教授の物理学者リチャード・P・テイラーは二〇〇二年の著書で、抽象表現主義の画家ジャクソン・ポロックの作品がフラクタルであることを明らかにしています。それらに対して赤須氏は、若冲はマンデルブロの提唱に先立つこと二〇〇年前に、《動植綵絵》のなかで自然のフラクタル構造を認識していたことは間違いない、と断じています。 若冲は西福寺にそうとう長い間──おそらく半年ほど──滞在して、これらの作品を描いたと考えられます。かねてから親交のあった大坂の薬種商・吉野寛斎が、火事で財産も家も描く場所もなくしてしまった若冲のために、この仕事を斡旋してくれたようです。西福寺の檀家でもあった吉野家の代々の当主はいずれも風流人で、とくに四代目の寛斎は、日ごろから文人墨客との交流を盛んに行っていました。商才にも長けた人物で、薬種の販路を東北や九州まで広げ、蓄えた財で、当時渡来した珍獣や珍鳥を買い集めていたことも伝えられています。 吉野家には若冲の描いた鶏の水墨画が、裏打紙のほどこされない状態で残されていたといいます。焼け出された若冲に支援の手を伸ばしてくれたのが、吉野寛斎だったのでしょう。若冲は西福寺に滞在する前、吉野家にも逗留していたと考えられます。 学生時代に若冲研究を始めた私ですが、実物を見る機会は訪れないままでした。 その後、私は大学院を出て東京国立文化財研究所に勤めるようになったのですが、しばらくすると気になる噂が耳に入ってきました。プライスというアメリカの若い金持ちの御曹司が、「若冲はないか」と東京や京都の画商をたずねてまわり、すでに二幅の彩色画を手に入れたというのです。私はさっそくその店を探し、どんな絵なのか見せてもらいました。 伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)ってアスペルガー!?若冲の絵の緻密さと躍動感は驚異的な記憶力 若冲の《鳥獣花木図風》は、合わせて八万六〇〇〇個の升目の一つ一つに、さらに何色かを描き込むという気の遠くなるような反復作業で描かれたもので、私はこれまで、この作品は若冲の指導による工房作だと考えてきました。しかし、AS者若冲という観点に立てば、山下氏の写経説が当たっている可能性もありそうです。 若冲は孤独を好み、絵画の自習に没頭したと大典は記録していますが、そこに述べられた彼の並外れた絵画自習能力は、AS特性がもたらしたものといえます。 一方、実家のある錦小路市場が奉行所により営業停止を迫られたとき、若冲は町年寄として粘り強く対処し、錦小路の危機を救っています。じつはAS特性を持つ人のなかには、大統領、首相、大企業のCEOなど、優れたリーダーシップや実務能力を発揮する人が少なくなく、若冲がその能力を発揮しても不思議ではありません。 Posted by ブクログ ごまかさないクラシック音楽(新潮選書) 岡田暁生 / 片山杜秀 面白かった!!!きちんと音楽史として眺めることで、自分の中にある諸々の言語化を突き付けられ、そうですよね、ハイ…となっていました笑 序章 バッハ以前の一千年はどこに行ったのか ポスト・ヒューマン時代には… (片山)そうなると、ベートーヴェン的な音楽は「虚偽」に聴こえてくると思うんです。だって、かつ...続きを読むては≪第九≫一曲に「世界」のすべてが入っていて、それを聴いたり演奏したりすればユートピアに至るーというつもりで聴いてこそだった。…しかし幻滅する。ベートーヴェンを聴くこと自体が、バカバカしくなってくる…。(p.36) (岡田)環境音楽ーたとえば、ひたすらサラサラと流れるせせらぎの音を聴いても、それで世界全体が見渡せることなんてありえないわけです。せせらぎの音もミニマル・ミュージックも、仮に一時間半つづいたとしても、それが世界全体を表していることにはならない。やっぱりフーコーの『言葉と物』の最後がいやでも思い出される。「賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」。もしかしたら人間とは、せせらぎの音を聴きながら、人間には到底見渡すことなどかなわない全宇宙を、少しだけ垣間見たような気になるのが精一杯という程度の存在なのかもしれない。この間書くって、中世ヨーロッパ音楽と通じるところがあると思うんですよね(p.38) (片山)要するに交響曲とは四つの楽章がワンセットとなって何らかの全体性が表現されているのだという考えでしょう。…アダージョ楽章だけを抜粋で聴いていいんだと提案したわけです。まさに全体性の解体であり、ミニマル・ミュージックやアンビエントや古楽につながる雰囲気を感じさせます。『アダージョ・カラヤン』こそは、ポスト・モダン、ポスト・ヒューマンになっていく九〇年代を象徴するCDであり、まさに冷戦終結の象徴でもありました。 第一章 バッハは「音楽の父」か? バッハ=「神に奉納される音楽」 (岡田)…そして一つの長い物語というよりは、どこからでもランダム再生できるばかりか、聴きおえてもグルリと円形を描いて元に戻る円環のイメージすらある。それは近代のロジックではない。どこからでも始められるし、どこでも終われる。(p.78) グールドがバッハを演奏する理由、グールドが見ていた未来。バラバラになる人間と音楽… SF(映画)と音楽!!なんとここでSFの話が盛りだくさんになるとは…やはり繋がっているんですので… ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』:≪われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ≫BWV639 (岡田)…地球の終わり、あるいは人類が死滅したあとの世界のイメージですね。人間がもういないのに流れている音楽。こんな場面で流せる音楽は、確かにバッハ以外には絶対ありえない。(p.80) (岡田)…例えばグレゴリー・ペックが主演したSF映画『渚にて』や、小松左京の『復活の日』『日本沈没』などにも、バッハがピッタリ合うような気がしていました。… (片山)ベートーヴェンは、人間の「相手」がいないとうまくいかないでしょう。一人だったら、やはりバッハですね。 (片山)…(『幼年期の終り』)一つの「全体」になったような表現でした。これ、音楽でいったら、まさにバッハ的なポリフォニーの実現ですよ。それまでモノフォニーで一声部だった音楽が、ポリフォニー=多声部で一つの世界を表現できるようになったのですから。 もう『幼年期の終り』も『渚にて』も大好きなわけで、確かにそこで流れる音楽がどんなものかは考えたことがなかった。バッハ、なのだとすると、私が朝・夜と聞くときにはたった一人、自分と向き合っているのだろうか。。まさに「(岡田)やっぱりバッハの音楽は「本当はこわい」」… (片山)つまり、個物の相克を乗り越えると、完璧なポリフォニー、そして別々の旋律が同時にからみ合う対位法に行き着く。しかし、そこまで行くには、大きな痛みや犠牲を伴う。…それは、もしかしたら核エネルギーのことかもしれないけど、とにかく人間がやることを全部やってこそ、その先に開けるものがある。これがまさしくバッハの≪マタイ受難曲≫でしょう。みんなで血を流して、ルター的な狂気に駆られて、行くところまで行ったら、進化して違ったものになっちゃう。そういうことまですべて引き受けるのが、たぶんバッハなんです。(p.82) 第二章 ウィーン古典派と音楽の近代 1. ハイドン (岡田)…イギリスはポピュラー音楽の世界では有力なんですよね。ビートルズとかローリング・ストーンズとかレッド・ツェッペリンとか。対するにクラシック音楽の「本場」のドイツやオーストリアの世界的なロック・グループなんて想像もつかない笑。…ビートルズの旋律やハーモニーは、スコットランド民謡の末裔です。…スコットランド民謡的なものは、クラシック音楽の語法より、ポップスに向いていたのかもしれない。 (片山)ミュージカルが多く生まれるのも、似たような論理かもしれません。(p.92-93) 英語が覇権言語であることも、勿論あるだろうけれど。 2. モーツァルトの浮遊感と根無し草 3. ベートーヴェン (片山)…ひたすら駆り立てられて、爆発して、それが人間の感情や魂の解放だということになる。しかも愛を貫くことにも関係してくる。熱量が高まると、お見合い結婚じゃなくて、恋愛結婚になる。 ⇒そしてそんな女性がブリュンヒルデだと…。やばい、ブリュンヒルデになりたいと思っていた私笑 (片山)…ベートーヴェンを超えるには超人類になるしかない。ベートーヴェンを超える何かがあるとすれば、ワーグナーでもシェーンベルクでもなく、美的・思想的にはスクリャービンかもしれません。(p.130) ・スクリャービンの≪焔に向かって≫、≪プロメテウスー火の詩≫ (片山)…それでも人間はさみしいから、たまにはお酒を飲んで、芝居を見ましょう、音楽を聴きましょう、そうやって、楽しく生きていましょうとなるわけです。…それに見合った文化芸術のキャラクターとして必要だったのは、もうベートーヴェンではなくて、モーツァルトだった。 (岡田)日本の経済力がピークに到達して、もうベートーヴェンのように悩んでがんばる必要がなくなったんだな。… (片山)…しかし、バブルの崩壊とともにセゾン・グループも解体されてしまい、ポスト・モダンとモーツァルトの時代も過ぎ去ってしまった勘があります。まさに諸行無常の響きありますね。(p.140) 第三章 ロマン派というブラックホール 2. ロマン派と「近代」 (岡田)ロマン派の本質的なところがほぼ出そろったと思います。ポスト・ベートーヴェン世代の悩み、内面への逃避、狂気の演出、フランス革命以来の軍楽隊、「遠くへ行きたい」という欲望と鉄道と観光、植民地支配とエキゾチシズム、ホールの登場、音楽批評の誕生…こうやって考えると、ロマン派ってまったくキメラというか、ごった煮ですね。…ところで、ロマン派を語る際に避けては通れないテーマがあると思うんです。…たとえばワーグナーの≪ニーベルングの指環≫におけるブリュンヒルデとジークフリートのような「命がけの愛」もとい「バカップル」(p.176) (岡田)人口生産の手段としての愛自体は、いつの時代にもあっただろう。じゃあどうしてロマン派になって、愛があそこまで焦点化されたのか?僕は資本主義が関係してたんじゃないかと思っているんだけど… (片山)…資本主義が回るためには、とにかく労働力が必要だからです。…新たな労働力として子どももどんどん作ってもmらわなければならない。その際に必要になった概念が「愛」ということですね。好き同士になったら、経営者と労働者だろうが、ブルジョワジーと下層労働者だろうが、どんどん子どもを創らせる。そのために生み出されたのが「愛」というイデオロギー装置だった。(p.180) これは西洋的にはそうなのだけど、日本はやはり万葉集があり源氏物語があり…と考えると、すごく不思議ですね。 (岡田)…「国民楽派」という言葉には、悲哀のようなものも感じてしまうんですよ。「自分たちは二等国ではないぞ」と言うために、地元の民謡などを取り入れた「国民楽派」的な音楽を一生懸命に作るわけですが、でも結局は、ヨーロッパ中央の音楽業界で認められて初めて一人前。ウィーンとかパリとかロンドンとかね。でも彼らは国民楽派をしょせんエキゾチシズムとして消費するだけ。決して「本流」にはなれない。本流にしてもらえない。ものすごいコロニアリズムです…(p.195) 3.ワーグナーのどこがすごいのか (岡田)…比較的小ぶりの≪タンホイザー≫でさえ、三時間超だから、ほとんど宗教儀式の世界です。洗脳イニシエーションですね。…ちなみにコアなクラシック通には、「長いものこそ本格的だ」と思う心性がありますよね。(p.208) それな~~~笑という。 (片山)…長らくヨーロッパを支配していたキリスト教文化が崩れていくプロセスの中で、階級の崩壊や流動化が起きる。そうなると、ある種の不安とか刹那主義のような感情がどんどん表に出て、人間の感情が揺れ動くようになる。すでにモーツァルトの音楽などに、そういう不安定な人間の感情が表れていると思います。…ところが、、市民社会、労働者社会になると、「愛」によるカムフラージュが必要になってきた。…でも「揺れ動く」ことは、人間としての重要な感情なんだけれど、やっぱりずっと揺れ動いていると、くたびれるんですよ。その果ては、死に至るしかない。そこで今度は、感情をなだめるというか、ごまかす何かが必要になる。あとでまた「揺れ動く」ことになるとしても、とりあえず、一時的な安静を得て、安らぎの中から、また始めてほしい。この揺れ動きと安静の往還を音楽で表現したのがワーグナーの「三時間文化」ではないでしょうか。で、もう一時的な安らぎだけでいいじゃないかというのが、ショパンの「三分間文化」(p.209-210) (岡田)宗教泣き時代にいかに宗教的恍惚を体験させるか。それがワーグナーだな。 (片山)そして、この長い時間の中で、最終的には神に成り代わって全人性、トータルな一個の人間としての完成が目指されている…マリア様とイエス・キリスト、あるいは幼子イエスの絵が描いてあって、アイドル写真みたいに拝む。こういうアイドル感覚が「三分間」だとすると、そうではなく、聖書を全部読み切ったような全人的な完成、その疑似体験版として、「三時間」の大交響曲や、大ピアノ・ソナタの集中的鑑賞がある。 (岡田)長い難しいものを最後まで読み通すのは、「立派なこと」なんですよ。ワーグナーはそういう教養主義イデオロギーにそのものずばりはまる。あれだけ長くてややこしいのに、あれだけ人気があるというのは、ワーグナーが教養主義者、つまりは俗物に「受ける」コツを知り抜いていたからだと思う(p.212-214) 俗物が私です!!いやーまさにこれっていうか、私だって聖書全部読みました派だもんね、絶対………耳が痛すぎ マイアベーア! 第四章 クラシック音楽の終焉? これからのクラシック音楽をどう聴くか (片山)クラシック音楽が、今更趣味以上の意味はないとも思いたくない。やっぱり世界を知る、歴史を知る、人間を知るツールであってほしいです。 (岡田)「音楽」の背後の頑強なイデオロギー性に無自覚に、グルメよろしく美的にのみ消費する、というのはやっぱり危うい。あまり無邪気に「音楽って、いいですねぇ」とは言いたくない。…その背後にやっぱり神学的なものが隠れているということを忘れたくない。政治的・宗教的・思想的にニュートラルな音楽なんて存在しない。…「ファンになる」とは、その音楽が求めている絶対倫理を受け入れることに等しいんです。…(p.335-336) (岡田)「クラシックを聴く」とは「近代世界の欺瞞と矛盾を理解する」ことにほかならないのかもしれないですね 引き続き考えながら聞いていきたい。 Posted by ブクログ 西洋音楽史 「クラシック」の黄昏 岡田暁生 クラシック音楽が辿ってきた道を、時代背景も含めて俯瞰して見られる名著。文中に登場する数々の曲をYouTube再生しながら読み進めると、格段に理解も深まり最高に面白いのでオススメ。 大好きなバッハについての言及が少なかったことだけが寂しかったですが、、素晴らしい本に出会えました。 Posted by ブクログ ごまかさないクラシック音楽(新潮選書) 岡田暁生 / 片山杜秀 音楽評論家と音楽学者が繰り広げるクラシック音楽の深い話。 まるで酒を飲み爆笑しながら「あいつはあーだこーだ」と言っているようでとても痛快。 小説に繋がったり、政治に繋がったり、楽器を演奏したりクラシック音楽が好きで聴いているだけでは知り得ないことが満載。 ちょっとダークな部分もあるが、時代背景から...続きを読む仕方ないことも理解できたり。 特にベートーヴェン株式会社が何をどうして作り出したものは何か…是非読んで知ってほしい。 アッセンブリーするだけでなく一つ一つ部品を作る、そんな想像をしながら新しい気持ちで聴きたくなるベートーヴェン。 Posted by ブクログ 音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉 岡田暁生 さまざまな音楽批評の事例から,音楽の聴き方および語り方について解剖する本。主張自体は無難なものが多いものの,巻末の読者案内を始め単純に勉強になる内容が多い。 Posted by ブクログ 岡田暁生のレビューをもっと見る