したがって、私たちが力を濫用するのは、各自の心理のせいではない。なにしろ人間は、傲慢さや強欲や残虐さだけでなく、愛や思いやり、謙虚さ、喜びもまた持ちうるのだから。最悪の部類の人間は、たしかに強欲と残虐性に支配され、力の濫用へと導かれる。だが、人間社会はなぜ、よりによって最悪の者たちに権力を託したりするのか? たとえば、一九三三年のドイツ人のほとんどは、 精神病質者ではなかった。それなのに、なぜ彼らはヒトラーに票を投じたのか?
自分の手に余る力を呼び出す傾向は、個人の心理ではなく、私たちの種に特有の、大勢で協力する方法に由来する。人類は大規模な協力のネットワークを構築することで途方もない力を獲得するものの、そうしたネットワークは、その構築の仕方のせいで力を無分別に使いやすくなってしまっているというのが、本書の核心を成す主張だ。というわけで、私たちの問題はネットワークの問題なのだ。 さらに具体的に言えば、それは情報の問題ということになる。情報はネットワークの一体性を保つ、 いわば接着剤だ。だが、サピエンスは、神や魔法をかけた簪、AI、その他じつに多くのものについての虚構や空想や集団妄想を生み出して広めることによって、何万年にもわたって大規模なネットワークを構築し、維持してきた。一人ひとりの人間はたいてい自分や世界についての真実を知ることに関心があるのに対して、大規模なネットワークは虚構や空想に頼ってメンバーを束ね、秩序を生み出す。たとえばナチズムやスターリン主義も、そのようにして誕生した。両者は並外れて強力なネットワークであり、並外れて妄想的な思想によってまとまっていた。ジョージ・オーウェルの有名な言葉にあるとおり、無知は力なり、なのだ(「一九八四年」)。
ここで強調しておくべきだが、情報とは物事の表示であるという素朴な見方を退けたからといって、 真実という概念を退けなければならないわけではないし、情報は武器であるというポピュリストの見方を受け容れなくてはならないわけでもない。情報はつねに人や物事を結びつけるものの、科学の書物から政治の演説まで、一部の種類の情報は、現実の特定の面を正確に表すことで人々を結びつけようと努める。だが、それには特別な努力が求められる。そして、ほとんどの情報は、そのような努力を伴わない。だから、より効果的な情報テクノロジーを創り出せば、必ず世の中をより忠実に理解できるようになると考える、素朴な見方は間違っている。真実をもっと重視するために、さらなる措置を取らないかぎり、情報の量と速度を増しても、比較的稀で費用のかかる忠実な説明は、それよりもはるかにありふれていて安価な種類の情報に圧倒されてしまう可能性が高い。
したがって、石器時代からシリコン時代までの情報の歴史を眺めてみると、接続性は着実に上がっているものの、それに伴って真実性と知恵が増す様子は見られない。素朴な見方が信じていることとは裏腹に、サピエンスが世界を征服したのは、情報を現実の正確な地図に変える才能があるからではなかった。成功の秘訣はむしろ、情報を利用して大勢の人を結びつける才能があるからだ。不幸にも、 この能力は嘘や誤りや空想を信じることと分かち難く結びついている場合が多い。だからこれまで、 ナチスドイツやソ連のような、テクノロジーが発達した社会でさえ、妄想的な考えを抱きがちだったのであり、そうした妄想によって、必ずしも弱体化しなかったのだ。それどころか、人種や階級といったものについての、ナチスのイデオロギーやスターリン主義のイデオロギーのような集団妄想は現に、何千万もの人々に足並みを揃えていっしょに進ませる上で役に立った。
物語が語られるようになる前からあった二つの次元の現実は、客観的現実と主観的現実だ。客観的現実は、石や山や小惑星といったもの――私たちがそれらを認識しているかどうかに無関係に存在するもの――から成る。たとえば、地球に向かって突進してくる小惑星は、誰一人それがそこにあるのを知らなかったとしてさえ、存在している。それに加えて主観的現実というものもある。痛みや快感や愛などで、「そこ」にはないが、「ここ」、つまり自分の中にある。主観的なものは、それらについての私たちの自覚の中に存在する。「感じられない痛み」などというのは言葉の矛盾だ。
だが物語のうちには、第三の次元の現実である、共同主観的現実を創り出せるものもある。痛みのような主観的なものは、一人の人間の心の中に存在するのに対して、法律や神、国民、企業、通貨といった共同主観的なものは、大勢の人の心を結ぶネクサスの部分に存在する。より具体的に言えば、 それらは人々が互いに語る物語の中に存在する。共同主観的なものについて人間が交換する情報は、 その情報交換の前にすでに存在していたものは何一つ表していない。むしろ、情報の交換がそれらのものを創り出すのだ。
上層部の人間なら知っているのに、核物理学者がいつも気づくとはかぎらないことがある。それは、 宇宙についての真実を語るのが、大勢の人間の間に秩序を生み出す最も効率的な方法には程遠いということだ。E=m²、すなわちエネルギーは質量と光速の二乗の積に等しいというのは正しいし、宇宙で起こることの多くをこの式で説明できるが、E=m2であるのを知っていても、政治的な意見の相違はたいてい解消できないし、人々を奮い立たせて共通の大義のために犠牲を払わせることもできない。人間のネットワークを維持するのは、虚構の物語、特に、神や貨幣や国民といった共同主観的なものについての物語の場合が多い。人々を団結させることに関しては、もともと虚構には真実よりも有利な点が二つある。第一に、虚構は好きなだけ単純にできるのに対して、真実はもっと複雑になりがちだ。なぜなら、真実が表しているはずの現実が複雑だからだ。国民についての真実を例に取ろう。自分が所属している国民という集団が、自分たちの集合的想像の中にしか存在しない共同主観的存在であることを理解するのは難しい。政治家が演説で、国民とは共同主観的存在であるなどと言うのを、 私たちが耳にすることはめったにない。自分の属する国民は神に選ばれた人々であり、創造主によって何か特別な使命を託されていると信じるほうが、はるかに易しい。この単純な物語は、イスラエルからイランまで、そしてアメリカからロシアまで、無数の国の政治家によって繰り返し語られてきた。
第二に、真実はしばしば不快で不穏であり、それをもっと快く気分の良いものにしようとしたら、 もう真実ではなくなってしまう。それに対して、虚構はいくらでも融通が利く。どの国民の歴史にも人々が認めたり思い出したりしたくない暗い出来事があるものだ。イスラエルの占領下にあるパレスティナの一般市民にどれだけ悲惨な思いをさせているかを、イスラエルの政治家が選挙演説で詳しく語ったら、票が集まりそうにない。逆に、不愉快な事実を無視し、ユダヤ人の過去における栄光の時に焦点を当て、必要に応じていつでも遠慮なく粉飾を行なって国民神話を築き上げる政治家は、圧勝して政権に就くだろう。これはイスラエルだけの話ではなく、あらゆる国に当てはまる。イタリア人やインド人のなかに、自分たち国民についてのありのままの真実を聞きたがる人がどれだけいるだうか? いっさい妥協することなく真実を堅持するのは、科学の進歩にとっては不可欠だし、精神的な慣行としても見上げたものだが、勝利をもたらす選挙戦略ではない。
情報はどのように流れるか
というわけで、近代後期の新しい情報テクノロジーが大規模な民主主義体制と大規模な全体主義体制の両方の台頭につながったことがわかった。だが、これら二つの体制が情報テクノロジーをどのように使ったかには、きわめて重要な違いがあった。すでに指摘したように、民主制は中央を通ってだけではなく、多くの独立した経路を通って情報が流れるのも促し、多数の独立したノードが自ら情報を処理して決定を下すことを許す。情報は、大臣のオフィスをまったく経由することなく、民間の企業や報道機関、地方自治体、スポーツ協会、慈善団体、家庭、個人の間で自由に流れる。
一方、全体主義はすべての情報が中枢を通過することを望み、独立した機関が独自の決定を下すことを嫌う。たしかに全体主義には、政権と党と秘密警察という三つ組の機関がある。だが、これら三つを併存させるのは、中央に楯突きかねないような独立した権力が登場するのを防ぐためにほかならない。政権の役人と党員と秘密警察の濃報員が絶えず監視し合っていれば、中央に逆らうのははなはだしく危険になる。
対照的な種類の情報ネットワークである民主主義体制と全体主義体制には、それぞれ長所と短所がある。中央集中型の全体主義ネットワークにとって最大の強みは、極端なまでに秩序立っていることであり、そのおかげで素早く決定を下して情け容赦なくそれを実行に移せる。戦争や感染症の流行のような緊急事態のときには特に、中央集中型のネットワークは分散型のネットワークよりもはるかに迅速で踏み込んだ措置が取れる。
だが、極度に中央集中型の情報ネットワークは、いくつかの重大な短所も抱えている。公式の経路を通してしか情報がどこへも流れることを許さないので、その経路が遮断されたら、情報の代替の伝達手段がまったく見つからない。そして、公式の経路はしばしば遮断される。
他の多くの活動分野でも、同じような傾向が見られた。たとえば、ソ連の工業は一九三○年代に数多くの事故に見舞われた。大部分は、モスクワにいるソ連の幹部たちのせいだった。彼らは実現がほぼ不可能な工業化の目標を立て、その目標に到達できなければ叛逆と見なした。野心的な目標を達成しようと努めるために、安全対策や品質管理検査が行なわれなくなり、慎重に事を運ぶように助言した専門家は、懲戒されたり射殺されたりすることが多かった。その結果、次々に労働災害が起こり不良品の山が築かれ、労力が浪費された。モスクワの政権は責任の転嫁を図り、これはソ連の事業を頓挫させようと意気込む妨害活動家やテロリストによる、トロッキー主義・帝国主義者の世界的な陰謀のせいだと決めつけた。幹部たちは、工業化のベースを落として、さまざまな安全基準を採用したりはせず、いっそう厳しい粛清を行ない、さらに多くの人を射殺した。