萱野稔人のレビュー一覧
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萱野稔人と雨宮処凛の対談本。
何回かの対談をまとめているので,重複するやり取りが多く見られる。
編集して,重複する部分を省いてもよかったと思う。
右傾化とか左傾化とか,リストカットとかODとか,いじめとか,
空気を読むとか,まぁ,色んな事象があるけど,
コアなところにあるのは, 自己承認欲求なのでしょう。
皆が繋がれば空気を読むのにシンドくなるし,
孤独になれば誰にも承認されずにシンドくなる。
どちらに振れても,生きにくいことに変わりはない。
ならば,もう,いっそのこと,
承認を求めるのをやめてしまえばいいのでは?
と暴論的なことを思ったりもする。
まぁ,そんなことができるほど人はタフ -
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一人のインタビューアが、リフレ反対派の3人に一人づつインタビューをしていくという形式。この点の本は主張がバラバラとアチコにに書かれていてポイントがわかりづらいという特徴がある。
一人目の藻谷浩介氏はリフレ派に否定された大ヒット作『デフレの正体』で言わんとすることを再度主張。数年前に読んだ時には、日本の『現役世代を市場とする商品の供給過剰による値崩れ』の原因は『15歳から64歳までの生産年齢人口の減少』にあるという氏の主張の分かりやすさに大いに納得したものだ。ただその後多くの『リフレ派』に、その主張が経済学的検知から間違っている、『デフレ』の定義を勘違いしている、高齢化が進んでいる他国でもデフ -
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「生きづらさ」に対する共感によって社会的弱者の状況を読みあさり、下には下がいることに安堵して自尊心を満たす。
山の高さではなく谷の深さに目を向けて、今いる場所に納得する。それは極めて利己的な納得であり、心地よい居場所を求めてしまう本能的なものでもある。
その場所まで登ってきたのではなく、ただ降り立ったのがその場所であっただけで、私と彼らは何が違ったのかと自問して、それは自己決定とか自己責任の範疇には収まらない至って先天的なものなんだと思い至り、それが先天的なものゆえに、何かの弾みで転げ落ちることを恐れ登ることを躊躇する。
つまるところ、登るという行為を知っているかどうかの違いにすぎない。 -
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面白い部分もあったが、本当に超マクロな展望であり、なんかふわふわした感じがした。
現在のデフレは構造的な問題である、だとか、もう先進国の経済成長は望めないというった事を資本主義がどのように発展していったかを踏まえながら説いている。
産業革命によって資本主義が発展していったという認識があったので、それよりも、植民地主義やイギリスの海賊が果たしている役割が大きい点などは面白かった。
ただ、やはり思うのは、現在の資本主義はもう限界に来ていて、新興国がこれからも経済成長を目指して発展してくるのであれば、それに対抗して経済成長を目指すのではなく、経済成長がない状態での新しい世界のあり方を率先して目 -
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今ままで表層的な日本の人文系論壇の、更に表層しかなぞっていなかったので、ナショナリズムに関して深く考えたことが無かったが、萱野氏の論はわかりやすく、納得しました。自明性を解明されました。
社会の産業化の過程で、意思決定とそれの完遂のための共通言語というナショナリズムの条件が基盤となり、国民的暴力装置としての国民国家が成立した歴史を踏まえると、国境無きグローバル社会は夢想でしかない。
ナショナリズムを(可能ならば、相互調和的に?)改変または、拡張していくしか道はない。
共通言語といえば、英語?と考える人は多いでしょうが、大多数の日本人にとっても英語など不要のまま実生活を送っているのだし、
世 -
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ナショナリズムの定義として、第一義的には政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。この定理に基づき、国内の問題はナショナリズムによってしか解決できない。よってナショナリズムは必要であるとする。
さて、このナショナリズムの定義基づいて論は進むのだが、そもそもナショナリズムの定義が一般的には「国家主義・民族主義」から「排外主義・国粋主義」に変化しているのではないかと思うのだ。昨今特にそう思う。前に「市民社会」という言葉は時代、語る人によって意味を変えてきた。
ゆえに、自分はナショナリズムから距離をおきたい。あとは、後半で「国家の本質は暴力である」と出 -
Posted by ブクログ
対談なので多少冗長な感は否めないが,問題を考えるヒントは散見される。特に,第3章「認められることの困難とナショナリズム」は示唆に富む。日常生活で承認を得られない弱者が,日本人でさえあれば受容されるコミュニティとして右翼を見出すというのは,ありうる話だと思う。フリー=どこにも所属しないという定義付けも有用だろう。どこにも所属しないからこそ,徹底的に自己責任に追い詰められる。他者からの承認を過度に要求される社会において,承認を得られないことは,厳しい疎外感を生むことは身をもって感じている。ただ,そこから生まれる「連帯」は,常にナルシスティックなものに堕する危険を孕むのではないだろうか。僕が,インデ