萱野稔人のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
[ 内容 ]
いま多くの人が「生きづらさ」を感じている。
一九九八年以降、自殺者数は毎年三万人を超え、毎日のように練炭自殺や硫化水素自殺のニュースが報じられている。
鬱病など、心を病む人も増える一方だ。
これらの現象は、現代社会に特有の「生きづらさ」と無縁ではない。
その背景には、もちろん経済のグローバル化に伴う労働市場の流動化が生んだ、使い捨て労働や貧困、格差の問題もあるだろう。
他方で、そういう経済的な問題とは直接関係のない「純粋な生きづらさ」もあるだろう。
本書では、さまざまな「生きづらさ」の要因を解きほぐしながら、それを生き延びていくためのヒントを探っていく。
[ 目次 ]
第1章 「生きづらさ」はどこからくるのか?(「生きづらさ」と現代 空気を読んで自殺する ほか)
第2章 貧困とアイデンティティ(いろんな意味で状況が変わってきた 盛り上がるフリーターや反貧困の運動 ほか)
第3章 認められることの困難とナショナリズム(「希望は戦争」論争 格差とルサンチマン ほか)
第4章 「超不安定」時代を生き抜く(二〇〇八年インディーズ系メーデー ニートや引きこもりは労働問題 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
この本は「週刊ブックレビュー」で2009年1月に紹介されました。
映画監督の佐藤忠男さんが取りあげました。
著者の雨宮処凛さんはNHKの「私の1冊 日本の100冊」や「派遣切り」の問題を扱ったテレビ討論番組にも出演しています。
佐藤忠男さんは敗戦後の貧困を経験していますが、当時の貧困は「努力すれば乗り越えることが出来た」と言います。
貧しくても誇りに思うことが出来たといいます。
いまは、競争社会で負けたものが、正社員になれずにフリーターになるという見方があります。
「自己責任にしてはいけない」と著者は言います。
中江有里さんも「次のチャンスが訪れない閉塞感は恐ろしい」と言っていました。
「フリーター」という言葉が肯定的にとらえられていた時代もありました。
仕事のために好きなことを犠牲にする必要がなく、夢を追える、そうしたポジティブな意味が消えたのは2003年頃でしょうか。
フリーターは、風邪を引くとそのまま失業することになります。
正社員は風邪を引いてもクビにならないと聞いてびっくりしたと雨宮さんは言います。
フリーターに住宅ローンを組ませてくれる銀行はないとも言います。
いまのコミュニケーション重視型の競争社会の中では、共同体は避難所の役割を果たしていると言います。
親子という共同体では、優れているから認められるわけでなく「無条件に認めてくれる居場所」になります。
「おまえのおかげだ」「おまえじゃないとダメだ」と言われることは生きる支えになります。
正社員は休日のない長時間勤務に喘ぎ、非正規社員は低賃金と不安定な雇用にさらされているという閉塞感、何とかならないのでしょうか。 -
Posted by ブクログ
哲学書など読んだことのない私が読んでみた。
本書の「はじめに」では、インターネットが軍事目的で開発され民間に転用された例として(しかも当然誰もが知っている事実であるかのように)挙げられているのが、まずとても引っかかる。Wikipediaを見ると、1994年7月の米タイム誌の記事が俗説・流言として(騒ぎたがる一部のネット住民の間には)広まってしまっているらしい。この文章が「煽り」でないことを期待したいところだが。
本書全体の感想としては、カントの考え方の部分部分の論をわかりやすく説明していると感じる一方、それら各論が順序だてられていない印象がある。これはカントの原著の記述の順序に従って説明するせいかもしれないが。内容の繰り返しや後戻りがあったり、現代の教育を受けた者にとっては、至極当たり前な常識的内容にも字数を割いていると感じた部分もあった。その結果、読み進めるに当たって、いくつもの部分部分の理解を、整理し、まとめて理解するのが難しく感じた。
本書のカント哲学で画期的かもしれないと思うのは、
1. 人間は戦争を避けられないという本性を認めたことと、
2. 人間の性質に共通する正しい道徳が存在すると認めたこと、
3. 人が従うべき道徳を、「形式」的な(条件を付けないそぎ落とした形の)道徳と定義したこと、
だろう。
1. は否定したくても、歴史を見ると否定できない。このように割り切って考えることで平和論が進められる。
2. はほんの少しの項目にはあてはまると思う。殺人の忌避と嘘の忌避だけかも。しかしそれ以外の、意見が分かれる項目が多すぎるのではないか。
3. 大胆に割り切った考え方だと感心した。この前提があることで平和論が進められる。
文化を共有する集団は、国家でなく民族と呼ぶべきもののはず。そして異なる民族が同じ国家に属しながら抑圧されている民族集団が多数ある。多くの国の数えきれないほどの国家内少数民族、大きい民族集団にも中国内のウイグル族、チベット族、モンゴル族。逆に民族が別々の国家により(非公式に)望まずして分断されている例がある。モンゴルと中国の内モンゴル自治区。
カントの考える国家は民族集団と重なって論じられているので、現実の国家と民族の対立問題を考えると、カントの平和には非常に重要な考察すべき問題、もっと言えば哲学すべき問題が残されていると思う。そうはいってもこの問題は平和論にまとめるのではなく、独立して考察せざるを得ないほど難しすぎる問題なのかもしれない。
特に21世紀の現実世界になってからというもの、カントの哲学を当てはめられてはいられないような事象があふれてしまっている。
カントの原著を読まずに本書を読んだだけで言うべき言葉ではないかもしれないが、私の未熟な印象としては、カントの哲学が著者が言うように理想論ではないにしても、まだ理想的な事柄に立脚しているように思わざるを得ない。すなわち、カントの努力目標である、人間が本来持っているはずの「自然」の(善の)道徳、「誰もが正しいと認める普遍化」された道徳に沿った国際法の策定は、期待や希望にはなりえても、それが実際の現実世界へと発現させることができるのか。
本書である程度具体的に述べられている「自分だけは法の適用をまぬかれられる」ことのない国際法の策定の実現を考えてみると、例えば国連憲章やいくつもの(大国が加わろうとしない)国際法や、戦争回避・難民救済・核兵器廃絶のような相当な程度で普遍化された(と私が思う)道徳に対して、悪意を持つ為政者は、そもそも知っていながら知らないふりをする、もっと言えば、もっともらしい理屈をつけてこれを平気で無視している人(国家)が多数いることに、どう対応すればいいのか。カントは努力目標を掲げるだけで、結局、ある程度具体性のあるような問題の解決手段は示せておらず、実現の道筋も見えてこないというのが正直な感想だ。
私のこの感想からは、カント哲学が未熟だと考えることもできるが、ただカントが期待するような永遠平和のための「国際法」の成立に必要な時間がまだ経過していないだけなのだ、つまり世界はまだまだ未熟で徐々に良くなるはずなのだ、と考えられるのかもしれない。しかし後者が正しいとすると、いまだはるか遠くにあるカントの哲学と、現実とを埋める別の哲学が必要になってくるのではないかと思う。
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Posted by ブクログ
ネタバレ最近よく目にする「下流」。いまや老人ではなく中年も入る。
私はいわゆる就職氷河期世代なのだが、当時は友達もなんだかんだと就職していて(地方の公立大学、文系)、実感としてそんなに氷河期だった覚えはないのだが、当時就職した人たちはだいたい5年の間に職を変えている。派遣で就職してうから試験受けて公務員に移行した子もいた。みんな留学したりと方向性を変えて、25年経った今、みんなそれなりに生活はしているが、50歳ともなると子供がいたら学費、独り身なら仕事できなくなったらどうしようなどという不安が重くのしかかってくるのである。自分の子供たちが成功できるように地ならしをしてあげるような余力は私にあるんだろうか・・・と思うが、実際、ないです。
そんな不安を抱きつつ、こんな本を読んだら、正直、深刻すぎて気が塞ぐ。「転落」なんて、たとえば事業に失敗するとか薬に手を出して依存症になるとか大事故に合うとか、ドラマで使うことばじゃないか。それがいまや普通に生きてる普通の人に適用される「転落」。真面目に生きてればなんとかなる、ということはない。
筆者ひとりの文筆家赤木さんは、人生を川の流れに例えて、そこには水の取り入れ口があるという。時代によって水の取り入れ口が広くなる時と狭くなる時があり、60年代の高度成長期は就職が容易だった時、つまり取り入れ口が広かった時、就職氷河期は狭くなった時だった、という指摘をしており、全くその通りだなと思った。取り入れ口は歴史的・経済的な状況によって決定されるので、私たちには選択権なんてない。努力しても取り入れ口に吸い込まれないことがある。そして、流れてしまったらもう戻ることができない。あとになってから、「自己責任だよね」と言うのは残酷なことである。
最近は人手不足なので仕事自体はできるのであろうが、AIの登場などで労働環境が激変する可能性もあり、仕事があってもそれがいつまで続くかわからないという不安は大きいと思う。
世界的にも社会の不安定さが増しており、日本では日本人ファーストを掲げる政党が躍進したりして、少ないパイを取られたくない、という気持ちがとくに中流階級に広がっているようだ(ヨーロッパも同じ)。みんな下流には落ちたくないのだ。これが排他主義の源泉になると思う。そして、排他主義が跋扈するといいことはない。 -
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最近よく萱野さんの著作を読んでいる。
歯に衣を着せぬ語り口に惹かれている。
この本では何冊かの哲学書を読みながら、様々な「〇〇とは何か」を考えて行くという構成。
なるほど…と思う部分。何で?と思う部分。まだまだ自分では思考についていけない部分。色々とあったけれど読み通してみました。
引用から説明に入る部分で飛躍を感じる所が少し多めだったのが残念。答えが先にあって、それを説明する為に無理して引っ張って来てる感があるので致し方ないのかな。一寸強引な書き方な感じを受けました。
もう少し萱野さんの著作を読み続ける予定。強引過ぎる分引いて⭐️3個。 -
Posted by ブクログ
2023/12/22
気になっている萱野稔人さんの著作ということで購入してみたが、読み進めている今の段階では論理の飛躍や意味不明な説明が目立つ。
いたずらに残虐な殺人事件の詳細を述べたりするワイドショー的なノリ。
「宅間」という特殊な事例を一般的な事例に適用しようとしている。演繹法にしてもあまりにお粗末過ぎる。
「国家とはなにか」「カネと暴力の系譜学」で見せていた強烈な論理的流れはこの中には見られない。
まだ1/4(78/318)ほど読んだだけだが非常に残念な気分である。
今後の展開に期待して⭐️2個に。
2023/12/29
前半の非論理的に見える部分が前振り。論理の流れを優先したために非論理的になっていたということらしい。
道徳論の展開を読んで少し納得。⭐️は3個に。
2024/01/01
読み終えた感想を。
中盤カントの定言命法の説明あたりから冤罪を問題として取り上げている部分は説得力があるし惹きつけられる。
公権力の下では冤罪が必然であるから死刑を廃止すべきという論理も良くわかる。
ただ、宅間守にこだわり過ぎた感あり。
著者も説明する通りの人物であるこの死刑囚が言うことを全て真に受けるのはどうかと思う。死刑になるため。自分以外の人間を苦しめるため…本当に事件前からここまで考えてから犯行に及んだのか?
『死刑になりたいが故に殺人を犯す者が相当数存在する』という前提で話の骨格が形成されているが、そこに違和感を感じる。罪を犯した本人にしか分からない動機。全面的にその本人の弁を信じて良いのか大いに疑問に思う。可能性としては存在することではあるが。
統計データの引用も逆に説得力が無い。この時たまたまこういうデータが出ただけかも知れない。一般化するには無理がある。
勉強になった部分も多々あったので⭐️は3個のままにします。
著者のデリダ嫌いはよく分かった^^;
2024/01/02追記
「責任という虚構」(小坂井敏晶)をもう一度読もうと思った。 -
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テーマと前書きはめっちゃくちゃいい(そこだけに星3つあげたい)けど大学生の論文なのでリアリティがないというか、ニーズにあってないというか。
私個人の好みの影響もあるかなとは思う。
このタイトルの本を読むのはおそらく「女子力」にもやってる人で、それがゆえに結婚とか出産にももやってる人もいて、そんな人が読むであろう本の最初の章が「早期出産のすすめ」(意訳)て!!!喧嘩売ってる?!?!晩婚や閉経を動物と比べるなよ!!!失礼だろ!!もう笑っちゃったよ。
早く生むことも遅く生むこともできる大学生にはわからないでしょう、この気持ち。
社会にでてないからデータでしか語れないのもなんか足りない感じがしてもやもや。仕方ないけどね!わかってるけどね!
同じテーマでちゃんとした研究者やエッセイストがかいたらめちゃくちゃ面白かっただろうな… -
Posted by ブクログ
死刑制度について、廃止と存続、双方の立場の議論をざっと俯瞰した本。
コンパクトにまとまってる感じ? 著者の独善がやや気になるけど。それに死刑の歴史的経緯についてまったく触れられてなくて現在だけを論ってるのは物足りなくもある…けど、それでは紙幅が足りなくなるかな。
著者は大衆の処罰感情を尊重しろという。でも感情論を正当化すると、政治テロや私刑だって、正当化されちゃわない? 特に、「相手を殺して自分も死ぬ」タイプの殺人とかさ?
著者は、死刑の存続の論拠に、遺族の復讐感情を挙げるのは難色を示す。殺人事件の被害者遺族(死刑判決出るのはまあ殺人事件に決まってるし)といっても皆が皆同じように死刑を望むわけでもない。むしろ「遺族感情」が体よく利用されてる、てのは、ワカル。(被害者遺族でありながら死刑に反対する人の意見…「被害者の死と犯人の死ではとても釣り合わない」というのも重い)
一方で、人道的見地、温情主義からの廃止論を無意味と切り捨てるあたり、身内に厳しいインテリの所以だろか?
著者は、死刑廃止の唯一の論拠を、冤罪の可能性とする。それは単に手続き上のミスではなく、司法制度そのものに起因するので、完全に無くすことはできない、と。確かにそれは正論だ。現にイギリスでは冤罪事件を契機に死刑制度が廃止されたのだし。(「冤罪の余地のない現行犯ならどうなんだ」って意見にもちゃんと反論されてるのでご安心を)
ちょっと疑問なのが、著者は、「人を殺したくない」という人間の本能を丸っと無視してる点。大衆の処罰感情を肯定するなら、逆に、殺人の忌避という本能だって尊重されるべきじゃなかろか? 兵士や犯罪者や司法関係者など、実際に人を殺した経験のある人たちの意見では、「人を殺したくない」という本能はとても強烈なものだというけれど。(このへんはデーヴ・グロスマンの研究が興味深い。彼が参照しているマーシャルのデータは胡散臭いにしても、彼は現代の人たちからも意見を聞いてる)
そして、「なぜ人を殺していけないのか?」という命題について、カントまで持ち出して「合理的な理由はない、ダメなものはダメ」という。このへん読んでふと気付いたのは、この命題になかなかスッキリした答えが出されない理由は、そもそもこれは順序が逆なんじゃないかと。「人を殺してはいけない」のではなくて、「殺していい動物」と区別するために、「人」が定義されてきたのではないだろか? 特に西洋では伝統的に、動物は魂がないから殺して食ってもいい、人間は魂があるので殺してはいけない、とするしね? ニュアンスの違いはあってもどこの文化圏でも同じ。だから「なぜ人を殺していけないのか?」という問いはトートロジーになるのではなかろか?