萱野稔人のレビュー一覧
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対談本なのですっと読み切れてしまうがなかなか面白い指摘が多い
長いスパンで日本史(といっても有史より前も含むが)を見ると大災害が歴史的変換点の起点になっている、ということか。
日本では革命の代わりに大災害が起こっている感じが近いのか。
大災害にさらされてきた日本人はその無力感により基本的に反権力であるとの指摘が結構説得力があった。
それと何故アジアの人口密度が高いかについての指摘で単位面積当たりの米と小麦の収穫量(カロリーベース)が6倍あるとの指摘もおもしろい。
もう一つ、4大文明のうち中国文明を除く3つは滅亡したがこれの原因は資源収奪のための自然破壊(森林伐採)による砂漠化が原因との指摘に納得。 -
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地震や火山活動、台風などによって日本の統治システムが瓦解していくことは、実は珍しいことではない。江戸幕府が倒れたのも、黒船よりも安政の大地震によって既存の統治機構の信頼性が揺らいだからと言われている。
果たして、東日本大震災後の日本社会はどうだろうか。誰も今の政府の言うことなんか信じちゃいない。それでも世の中を覆う漠然とした不安に、我々は向き合っていかなければいけないのだ。
文明論においても、経済成長という幻想は戦後のたった40年程度のものであると結論づけている。それでも現代社会は、経済成長という至上目的を守るために、年間3万人もの自殺者を生み、数十年後には空き家率が40%に達するというのに35年ローンを組んで新築住宅を売り続ける。
文明は没落する。この崩壊プロセスにおいて、次の創造が生まれていく。 -
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ネタバレ1970年代前半から先進国では交易条件が悪化し資本利潤率が低下してきている。高度経済成長が止まり、資本投下によるリターンも得られなくなる。実物経済から金融経済へと舵を切るも2008年の金融危機は金融経済化の方向も息詰まらせることに。定員15%の近代資本主義が新興国の隆盛によりバランスが崩れ、今、世界の資本主義の構造が大きな転換期にさしかかっている。現在のデフレは一時的な不況などではなく構造的なものであり、金融施策で克服できるようなものでは決してない。今こそ低成長時代の制度設計の立て直しをと著者は訴える。このほかバブルのしくみ。イラク戦争の真相。ヘゲモニー移転など興味深い内容が次から次へと繰り出される。
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景気循環だとか、資本主義の限界だとか言われている今日この頃ですが、
そんなスケールの話ではなく、
今の化石燃料をベースとした文明の終わりを
我々は、今まさに経験しているのだということを、
萱野氏と神里氏が対談で確認している。
萱野氏の超マクロな視点と
神里氏の科学史的視点が、
今まさに転換点であることを示していくのが、
逐一納得させられる。
多くの人は、この転換点を生きることは、
不安に思うだろう。
だが、それはこの上のない経験なのだ。
道を誤らないように適切に判断して、
行く末を見届けたいと思う。
自分が生きてる内に大転換できるかどうかは、
わからないが、
子供たちが、路頭に迷わないように
自ら考え、判断する力は、つけさせたい。 -
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見えにくく隠されている問題点を具体的に引き出し、わかりやすい。
人間の社会的支えである経済性あるいは精神性の貧困状態を現象面で具体的にとらえ、てその構造の矛盾を指摘している。
貧困の詳細を社会(政治・行政・司法・企業・)と個人のギャップから見つめて実名で開示していることが、わかりやすい内容にしているのだろう。
しかしその反面ドップリと入り込んでいる文体には、一般に通じにくい単語が多く、読者を狭くしているようにも思える。
プレカリアート・ネオリベ・ガテン系・・・などなど。
コミュニケーションなど、対談している二人の中でさえ単語の意味がずれているように思えるものもある。
賃金の格差や最低賃金の意味についてなど、現象面だけで結論付けることなく、もう一歩踏み込んで矛盾の根源に迫ってほしかった。
小手先の解決ではなく一歩一歩確信を得ながら生きて行くには、本質をとらえた上で手順を踏まえることが大事なように思える。
例えば、物価と賃金は社会の両輪なのだから、最低賃金が生活可能賃金でなければその意味を失うということを掘り下げて欲しい。
更に、社会が責任転嫁している個人責任についても、企業がつぶれるのは別の浪費原因があるからに他ならないということを示して欲しい。
昔は個人経営・自営業が社会の多くの部分を支え、社会はその自営業の流れで成り立ち政治はその流を円滑にすることに力を注いできた。
しかし企業が肥大化し、数の暴力で社会の前面に出てしまった現在は、まるで独裁のように横暴になり、基本であるはずの個人が運営する自営業とそれに順ずる中小企業を使い捨ての奴隷化と見下し、政治と大型企業が結託することで脅かしている。
こうした支配体制は社会の目的を見失って、共食いの如くに自分の足を食べようとしている結果の現れである。
社会と個人の関係をまともに戻すには、金の卵を産む鶏を殺してしまう童話を思い出して、欲張った社会が目先の利益に我を忘れている現状の矛盾に気付く必要がある。
ブッシュと共に政治に組した小泉純一郎とそれをバックアップした竹中平蔵たちが推し進めた構造改革は、我欲を達成するための詐欺的手腕であって、社会の底辺を救済する自営組織である暴走族などの共同体の相互扶助までも突き壊した。
生きやすい社会というのは左翼でもなく右翼でもなく、生活に根ざした家族を単位にして成り立つ。
けして数のリンチ的責任不在や物量のベニスの商人的価値観や知識の机上の論理的暴力で成り立つものではない。 -
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[ 内容 ]
いま多くの人が「生きづらさ」を感じている。
一九九八年以降、自殺者数は毎年三万人を超え、毎日のように練炭自殺や硫化水素自殺のニュースが報じられている。
鬱病など、心を病む人も増える一方だ。
これらの現象は、現代社会に特有の「生きづらさ」と無縁ではない。
その背景には、もちろん経済のグローバル化に伴う労働市場の流動化が生んだ、使い捨て労働や貧困、格差の問題もあるだろう。
他方で、そういう経済的な問題とは直接関係のない「純粋な生きづらさ」もあるだろう。
本書では、さまざまな「生きづらさ」の要因を解きほぐしながら、それを生き延びていくためのヒントを探っていく。
[ 目次 ]
第1章 「生きづらさ」はどこからくるのか?(「生きづらさ」と現代 空気を読んで自殺する ほか)
第2章 貧困とアイデンティティ(いろんな意味で状況が変わってきた 盛り上がるフリーターや反貧困の運動 ほか)
第3章 認められることの困難とナショナリズム(「希望は戦争」論争 格差とルサンチマン ほか)
第4章 「超不安定」時代を生き抜く(二〇〇八年インディーズ系メーデー ニートや引きこもりは労働問題 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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この本は「週刊ブックレビュー」で2009年1月に紹介されました。
映画監督の佐藤忠男さんが取りあげました。
著者の雨宮処凛さんはNHKの「私の1冊 日本の100冊」や「派遣切り」の問題を扱ったテレビ討論番組にも出演しています。
佐藤忠男さんは敗戦後の貧困を経験していますが、当時の貧困は「努力すれば乗り越えることが出来た」と言います。
貧しくても誇りに思うことが出来たといいます。
いまは、競争社会で負けたものが、正社員になれずにフリーターになるという見方があります。
「自己責任にしてはいけない」と著者は言います。
中江有里さんも「次のチャンスが訪れない閉塞感は恐ろしい」と言っていました。
「フリーター」という言葉が肯定的にとらえられていた時代もありました。
仕事のために好きなことを犠牲にする必要がなく、夢を追える、そうしたポジティブな意味が消えたのは2003年頃でしょうか。
フリーターは、風邪を引くとそのまま失業することになります。
正社員は風邪を引いてもクビにならないと聞いてびっくりしたと雨宮さんは言います。
フリーターに住宅ローンを組ませてくれる銀行はないとも言います。
いまのコミュニケーション重視型の競争社会の中では、共同体は避難所の役割を果たしていると言います。
親子という共同体では、優れているから認められるわけでなく「無条件に認めてくれる居場所」になります。
「おまえのおかげだ」「おまえじゃないとダメだ」と言われることは生きる支えになります。
正社員は休日のない長時間勤務に喘ぎ、非正規社員は低賃金と不安定な雇用にさらされているという閉塞感、何とかならないのでしょうか。 -
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哲学書など読んだことのない私が読んでみた。
本書の「はじめに」では、インターネットが軍事目的で開発され民間に転用された例として(しかも当然誰もが知っている事実であるかのように)挙げられているのが、まずとても引っかかる。Wikipediaを見ると、1994年7月の米タイム誌の記事が俗説・流言として(騒ぎたがる一部のネット住民の間には)広まってしまっているらしい。この文章が「煽り」でないことを期待したいところだが。
本書全体の感想としては、カントの考え方の部分部分の論をわかりやすく説明していると感じる一方、それら各論が順序だてられていない印象がある。これはカントの原著の記述の順序に従って説明するせいかもしれないが。内容の繰り返しや後戻りがあったり、現代の教育を受けた者にとっては、至極当たり前な常識的内容にも字数を割いていると感じた部分もあった。その結果、読み進めるに当たって、いくつもの部分部分の理解を、整理し、まとめて理解するのが難しく感じた。
本書のカント哲学で画期的かもしれないと思うのは、
1. 人間は戦争を避けられないという本性を認めたことと、
2. 人間の性質に共通する正しい道徳が存在すると認めたこと、
3. 人が従うべき道徳を、「形式」的な(条件を付けないそぎ落とした形の)道徳と定義したこと、
だろう。
1. は否定したくても、歴史を見ると否定できない。このように割り切って考えることで平和論が進められる。
2. はほんの少しの項目にはあてはまると思う。殺人の忌避と嘘の忌避だけかも。しかしそれ以外の、意見が分かれる項目が多すぎるのではないか。
3. 大胆に割り切った考え方だと感心した。この前提があることで平和論が進められる。
文化を共有する集団は、国家でなく民族と呼ぶべきもののはず。そして異なる民族が同じ国家に属しながら抑圧されている民族集団が多数ある。多くの国の数えきれないほどの国家内少数民族、大きい民族集団にも中国内のウイグル族、チベット族、モンゴル族。逆に民族が別々の国家により(非公式に)望まずして分断されている例がある。モンゴルと中国の内モンゴル自治区。
カントの考える国家は民族集団と重なって論じられているので、現実の国家と民族の対立問題を考えると、カントの平和には非常に重要な考察すべき問題、もっと言えば哲学すべき問題が残されていると思う。そうはいってもこの問題は平和論にまとめるのではなく、独立して考察せざるを得ないほど難しすぎる問題なのかもしれない。
特に21世紀の現実世界になってからというもの、カントの哲学を当てはめられてはいられないような事象があふれてしまっている。
カントの原著を読まずに本書を読んだだけで言うべき言葉ではないかもしれないが、私の未熟な印象としては、カントの哲学が著者が言うように理想論ではないにしても、まだ理想的な事柄に立脚しているように思わざるを得ない。すなわち、カントの努力目標である、人間が本来持っているはずの「自然」の(善の)道徳、「誰もが正しいと認める普遍化」された道徳に沿った国際法の策定は、期待や希望にはなりえても、それが実際の現実世界へと発現させることができるのか。
本書である程度具体的に述べられている「自分だけは法の適用をまぬかれられる」ことのない国際法の策定の実現を考えてみると、例えば国連憲章やいくつもの(大国が加わろうとしない)国際法や、戦争回避・難民救済・核兵器廃絶のような相当な程度で普遍化された(と私が思う)道徳に対して、悪意を持つ為政者は、そもそも知っていながら知らないふりをする、もっと言えば、もっともらしい理屈をつけてこれを平気で無視している人(国家)が多数いることに、どう対応すればいいのか。カントは努力目標を掲げるだけで、結局、ある程度具体性のあるような問題の解決手段は示せておらず、実現の道筋も見えてこないというのが正直な感想だ。
私のこの感想からは、カント哲学が未熟だと考えることもできるが、ただカントが期待するような永遠平和のための「国際法」の成立に必要な時間がまだ経過していないだけなのだ、つまり世界はまだまだ未熟で徐々に良くなるはずなのだ、と考えられるのかもしれない。しかし後者が正しいとすると、いまだはるか遠くにあるカントの哲学と、現実とを埋める別の哲学が必要になってくるのではないかと思う。
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ネタバレ最近よく目にする「下流」。いまや老人ではなく中年も入る。
私はいわゆる就職氷河期世代なのだが、当時は友達もなんだかんだと就職していて(地方の公立大学、文系)、実感としてそんなに氷河期だった覚えはないのだが、当時就職した人たちはだいたい5年の間に職を変えている。派遣で就職してうから試験受けて公務員に移行した子もいた。みんな留学したりと方向性を変えて、25年経った今、みんなそれなりに生活はしているが、50歳ともなると子供がいたら学費、独り身なら仕事できなくなったらどうしようなどという不安が重くのしかかってくるのである。自分の子供たちが成功できるように地ならしをしてあげるような余力は私にあるんだろうか・・・と思うが、実際、ないです。
そんな不安を抱きつつ、こんな本を読んだら、正直、深刻すぎて気が塞ぐ。「転落」なんて、たとえば事業に失敗するとか薬に手を出して依存症になるとか大事故に合うとか、ドラマで使うことばじゃないか。それがいまや普通に生きてる普通の人に適用される「転落」。真面目に生きてればなんとかなる、ということはない。
筆者ひとりの文筆家赤木さんは、人生を川の流れに例えて、そこには水の取り入れ口があるという。時代によって水の取り入れ口が広くなる時と狭くなる時があり、60年代の高度成長期は就職が容易だった時、つまり取り入れ口が広かった時、就職氷河期は狭くなった時だった、という指摘をしており、全くその通りだなと思った。取り入れ口は歴史的・経済的な状況によって決定されるので、私たちには選択権なんてない。努力しても取り入れ口に吸い込まれないことがある。そして、流れてしまったらもう戻ることができない。あとになってから、「自己責任だよね」と言うのは残酷なことである。
最近は人手不足なので仕事自体はできるのであろうが、AIの登場などで労働環境が激変する可能性もあり、仕事があってもそれがいつまで続くかわからないという不安は大きいと思う。
世界的にも社会の不安定さが増しており、日本では日本人ファーストを掲げる政党が躍進したりして、少ないパイを取られたくない、という気持ちがとくに中流階級に広がっているようだ(ヨーロッパも同じ)。みんな下流には落ちたくないのだ。これが排他主義の源泉になると思う。そして、排他主義が跋扈するといいことはない。 -
Posted by ブクログ
最近よく萱野さんの著作を読んでいる。
歯に衣を着せぬ語り口に惹かれている。
この本では何冊かの哲学書を読みながら、様々な「〇〇とは何か」を考えて行くという構成。
なるほど…と思う部分。何で?と思う部分。まだまだ自分では思考についていけない部分。色々とあったけれど読み通してみました。
引用から説明に入る部分で飛躍を感じる所が少し多めだったのが残念。答えが先にあって、それを説明する為に無理して引っ張って来てる感があるので致し方ないのかな。一寸強引な書き方な感じを受けました。
もう少し萱野さんの著作を読み続ける予定。強引過ぎる分引いて⭐️3個。