橋爪大三郎のレビュー一覧
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ネタバレ中国人を妻に持つ中国通の社会学者・橋爪大三郎と、イスラム教に入信したイスラム学者・中田考による、ウイグル問題を端緒とした中国共産党体制をめぐる対談。
中田氏がカリフ制復興を提唱していること、ヨーロッパ・キリスト教に端を発する価値観やアメリカに対して(歴史的経緯を踏まえたうえで)批判的なのが印象的(特に「あとがき」で爆発している)。
以下、印象に残った点。
なぜイスラム諸国がウイグル問題に介入しないのかというのは、イスラム諸国同士で対立していてまとまることができないから。トルコはアメリカやEUとの関係が悪化し、経済状況も厳しくなって、中国への依存が強まっている。そして、現在のムスリムはイスラムの教えから逸脱している。また、ムスリム世界ではパレスチナ問題ほど関心を引かないとも。
(自分は今まで思い至らなかったが、ムスリムは横のつながりが強いことを考えると介入しても不思議ではない)
イスラム学者から見ると、マルクス・レーニン主義もアメリカの自由主義も、どちらも広い意味でヨーロッパ・キリスト教の思想であるというふうに見える。
中国共産党の目的は抹殺でなく思想改造である。新疆ウイグルがウイグル人の土地で、ウイグル人が中国人だから、新疆ウイグルが中国であるという主張を正当化するために絶滅することはせず、生かしたまま言語・思想・信仰を抜き取る同化政策を採っている。このようなプロジェクトは内モンゴルでも並行して行われている。このプロジェクトは台湾の解放でピリオドを打つ。
中田氏は、多民族・多宗教が共存し、仁政・徳治による本来の中華帝国に中国を戻すことを解決策として挙げている。
「ここが肝心なのですが、この国家安全維持法がうまく施行されているということは、共産党の一党支配が正当であることの証明に成功していないということなのです。成功しているなら、香港もウイグルも、弾圧する必要がない。論争すればいいわけだから。論争しないで弾圧しているということは、その正当性に問題があるということ。それを中国共産党自身が自覚しているという意味です。」(橋爪 p.102)
改革開放以後、中国共産党は経済成長を自身の正当性の根拠にしてきたが、成長を続けるのが難しくなるとその正当性が揺らいでしまう。そこで中国共産党は、漢民族に各少数民族も含めた「中華民族」というナショナリズムを創り出し、その根拠に加えようとしている。(共産主義は普遍主義なので、ナショナリズムとは真逆)
「政府のほかに中国共産党がある。そして中国共産党が政府を指導している。どこにその根拠があるのか。階級闘争も革命もないのに、なぜ中国共産党が存在するのか。ちゃんと答えられないからこそ、共産党は腕ずくで、文句あるかと脅すしかないのですね。それが国家安全維持法の正体です。」(橋爪 p.141)
アメリカやヨーロッパ諸国が自分たちの都合で人権概念を第三世界に問答無用で力ずくで押し付けることは、ある意味では自分たちだけが真理を独占しているので独裁が許されると考える中国共産党と同じであり、人権問題で中国を攻撃することに疑問を呈する中田氏。それに対して橋爪氏は、あくまでも国際社会のルールとして人権概念以外に有効な方法はなく、国際社会が団結して中国と対峙すべきだと考える。
「本来、中国文明が非常に優れていたのに、世界の国々はどこもそう思ってくれていない。つまり、この偉大な国に、それ相応の尊敬が与えられていないと思っている。そしてこの状態を、これは相手が悪いんだ、自分は悪くないんだと思い続けることによって、非常に尊大なプライドが形成されてくるのです。それを他者に理解させる唯一の方法は、中国が世界でいちばんだということをみんなが認めること。それが『中国の夢』だと思う。」(橋爪 p.205)
日本にはまともな中国研究機関はおろか、アメリカの研究機関すらない。まず日本はアメリカ研究、中国研究を早急に始めるべき。
香港、チベット、内モンゴル、新疆ウイグルについては、具体的にとれる行動は限られている。まだ選択肢が多い台湾を守ることで、それらの地域によい影響があるかもしれない。 -
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様々な宗教の死に対する見方、死後の世界をどう考えているかが書かれてあって、とても面白かった。一番初めに書いてあった「いよいよ死にそうになった時には、じっくり考える時間がありません。気力も体力もないかもしれない。そうするうちに、死んだらどうなるかもはっきりしないまま、死んでしまう。もったいないことです。せっかく死ぬのに。」という文が気に入った。
もともとは人々は、小さいコミュニティの中で暮らしていて、そのコミュニティの人々は同じように生き、同じようないイメージの中で死んでいった。しかし、社会が大きく複雑になっていく中で、商人、職人、農家など人の営みも様々で、人の生き方も様々になってきた。人々の生き方が何通りもあるということは、人々の考え方も何通りもある。広い場所には、さまざまな文化をもった人々が集まる。死んだらどうなるかの考え方の違くなる。これが「宗教の違い」として意識される。複雑な社会には宗教というものができる。
一神教:被造物はすべて神の命令で存在し、神の管理下にある。それは群れとして、存在し、個別としては存在しない。唯一人間だけが個別としてつくられ、個別のものとして存在する。人間はそれぞれ名前があって、個性あるものとして、神に創られる。
この世界は、神の意志のあらわれである。神の意志で起こる出来事を奇蹟という。自然は奇蹟である。この自分が存在することも奇蹟である。
神が世界を作ったのだから、世界を壊す。それが終末。
反対に、日本の人には、自然がやがて存在しなくなる、という発想がない。中国の人々も、その発想がない。どんな変動があっても自然は変わらぬまま、という感覚府がある。
一神教では、生命は、神が人間に与え、それが取り上げられて死ぬのは、神の下す罰である。一神教では、人間は本来死なない。
一神教の考え方は、裁判は良いものだ、である。裁判は正義を実現し、弱者を守る。人々は、法律や裁判を、信頼する。
一神教を緩くとらえるとき、すべての存在や、この世界は偶然ではなく、必然ととらえる。
「可能性世界意味論」この世界を生きる私と別に、まだ私がいる。どのような可能世界でも、私である。どの可能世界でも、言葉は意味が通じるはずだ、と考えていく。
しかし、この考え方を徹底させると、「この私」がいなくなってしまうかもしれない。例えば、学校を卒業しなかった私。2歳で歩けるようにならなかった私。犬に生まれた私。。。
【インドの文明を考える】
真理を覚るとは、この世界のあるがまま、すなわち因果関係の連鎖のネットワークを確認することである。それは、自然科学と似ている。自然科学も、この世界の因果関係の連鎖を確認しつくすことを目標にするからである。
仏教は、瞑想によって現れる宇宙の実相を「真如」という。真実と大体おなじである。真如は恐ろしくて、言葉にすることができない。言葉は、精神の内側で意味を持つが、その外では有効でなくなるのである。
真理を覚れば、人間(生き物)は人間(生き物)でないとわかる。
【日本人は、死をこう考える】
イザナミの死=神も死ぬ。神を前に死は無力である。神も死の穢れを恐れる。人間は、神に頼らず、自分だけの考えと力で死に立ち向かっていかなければならない。これが日本人の原体験。
平田篤胤は本居宣長の弟子。本居宣長の国学を継承することを意識し、多くの書物を残した。国学の標準的な解釈による神道を復古神道という。それに対して、平田篤胤の解釈による神道を平田神道という。
平田は「英霊」を発明した。平田は禁書であった聖書を読んだらしい。聖書の霊の概念をヒントにした説がある。篤胤は、人間は死んで黄泉の国に行くのではなく、霊となる。特に国のために命をささげた人びとの霊は「英霊」として、この世界にとどまり続ける。
天皇に対する国民の義務を「大義」という。
【死んだらどうなるか自分で考える】
神を信じることは、合理主義のもう一歩進んだかたちになっている。合理主義は、科学を生み出す。そして、合理主義のもとは、神学(信仰)だった。
つまり、キリスト教世界では、神を信じる→神学→合理主義→科学
そのうち神を信じる→神学の部分がどうでもよくなり、世の中が世俗化し、合理主義と科学だけになった。
合理主義者が神を信じるようになるとどう変わるのか?目立った変化はないが、満足感がある。偶然に惑わされず。理性を貫くことができる。自分の考えや行動を検証できる、世界をそのまま引き受けることができる。
世界は、こうあるように起きている。それを偶然とみるか、岐津善とみるか。ささやかだが、大きな違いである。偶然とは、自分と関係ないこと。必然とは、じぶんと関係がおおありなこと。だから生き方が違ってくる。
最終的には、これらの様々な死に対する考え方をみて、自分で実際に調べてみて、一つを選んでみてくださいと言っている。相対主義は良い面もあるが、自分自身の死を考えるとなると一つしか選ぶことができない。
「自分の死を引き受けるには、どれか一つの考え方を選択しないといけない。一つの考え方を選択するからほかの選択のことがよりよく理解できる。」 -
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旧約聖書から、創世記、出エジプト記、申命記、
新訳聖書から、マルコ福音書、ローマ人への手紙、ヨハネ黙示録、の6つに絞った聖書講義録。
申命記の講義中のユダヤの律法に関する説明が滅法面白い。
• 隣人の畑《あなたが隣人の葡萄畑に入るとき、あなたは思う存分葡萄を飽きるまで食べてもよい。しかし、あなたの器のなかに取り入れてはならない。隣人の麦畑に入るとき、あなたはあなたの手で麦の穂を摘んで食べてもよい。しかし鎌を入れてはならない。》
• 挽臼質入れの禁止《挽臼、あるいは上石を質にとることがあってはならない。それは生命を質にとることになるからである。》
前者は、生存権の原型であり、後者は、年金債権を差し押さえてはならない、という現代ルールの原型と思われ、ユダヤ教のコンセプトはキリスト教を経由して、近代西洋ルールとして受け継がれているんだなあ、と感心した。
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読書で教養を蓄え、人生をおもしろくする
が、この本のテーマである。
問題視されている大学生の読書習慣がついていないことについて、子どもの頃は本を読むのが好きなのに段々と少なくなる傾向にある。
読書で深みのある人生にするためには…が第1章で書かれており、2章目以降からは目的に沿った本を紹介している。
紹介される本は歴史的な名著が多い。中には、取っ掛かりにくく、噛みにくい難しい本もあるだろう。しかし、そういった本を読んで「アゴ」の力を強くすることによって次に読む本が噛みやすくなるから、始めは難しい本を読むことをおすすめする。という所に自分もやってみようと思った。
最も印象に残ったのは、我々は東洋人だということ。東洋人としてのアイデンティティをもつことが大切だと感じた。
最近流行りのマインドフルネス瞑想は本来の瞑想からヒントを得て、宗教要素を取り除いたものだ。ビジネス的に使われているものもあるだろう。しかし瞑想の元を辿れば何百年前から東洋の精神文化から受け継がれたものである。我々東洋人であればブッダや孔子といった偉大な人を味方につけるために、東洋人のアイデンティティの確立を目指していくべきだ。
読書習慣を身につけていく点でとても有益な本だった。なぜ読書が良いのか、考えさせられる内容だった。 -
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教養とはなんなのか?
について、優しく答えてくれる本。
若いビジネスパーソンが対象なのかもしれないが、「色々本を読んではいるが、教養が身についたのかどうかわからない」という私みたいな人には、おススメです。
印象に残った点は下記の通り
・本の学びを深めるために大事なのは、正解探しではなく、自分はどう読むか。また、他の人はどう読むかという、他の解釈に関心を持ち、突き合わせて、自分の読み方を発展させる。
・古書はいつ役立つかわからないから、読むときの動機は、読みたいから読む。
・古典の但し書きをしっかり読む。
・知識は人を介すことで、薄まったり歪曲されたりしやすいので、主張が成り立つための前提を押さえる。
・外国語を学ぶ本当の意義は、自分の思考を相対化するため。
・考えないために暗記する。考えるべきことに集中するため。 -
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本書は、著者の『聖書』に関する連続講義を本にまとめたものである。比較的生徒とからの質問を講義途中で受ける形になっていてインタラクティブな感じで進められる。多くの書物からなる聖書の構成から出来上がった経緯、それぞれの内容と相互関係などをやさしく説明した本である。
【概要】
取上げられるのは、旧約聖書から『創世記』、『出エジプト記』、『申命記』新約聖書から『マルコ福音書』、『ローマ人への手紙』、『ヨハネ黙示録』 の六つの書物。これらの内容を生ととのやりとりの形で説明することで、聖書全体の構成や位置づけなどを解説していく。
まず、『創世記』は、「光あれ」から始まる世界創生の物語。原罪の概念のもとになったエデンの園追放の物語やカインとアベルの話、ノアの箱舟の話、アブラハムとその息子イサクの話、イスラエルの民とヤコブ・ヨセフの話もここに含まれる。
『出エジプト記』は、エジプトから出立してイスラエルに入植する物語。紅海が割れて道ができる話もここに書かれている。著者はこれらの話をフィクションとし、モーセも実在の人物ではなかったのではないかという。それはそうだろう。モーセがシナイ山で聞く十戒もここに記されている。これらの戒律が西洋社会に受け継がれてきたことは、現代社会の成り立ちを語る上では結果として重要であった。
『申命記』は、多くの従うべき律法について記載したもので、偶像崇拝禁止、食生活、婚姻、民法、刑法、戦争など細かい規定が明文化されている。これもまた多くの影響を後世に与えた。
新約聖書の『マルコ福音書』は複数ある福音書のひとつで、イエスの物語である。有名な最後の晩餐、ペテロの躓き、十字架と復活、など有名な話がここに含まれている。
『ローマ人への手紙』は、パウロの書いた書簡のひとつ。パウロは実在の人物で、ユダヤ教からキリスト教に回心し、この『ローマ人への手紙』を含めて『コリント人への手紙』など多くの書簡を実際に書いたと言われる。パウロにより、ユダヤ教の律法よりも隣人愛などのイエスの教えを上に置かれた。彼により人類の罪を背負ってイエスが十字架にかかって贖ったという贖罪論など普遍宗教としてのキリスト教の理論が確立されたとも言える。
『ヨハネ黙示録』は、最後の審判について書かれたもの。キリスト教の終末観を形作ったと言える。
【所感】
隣人愛、原罪、復活、最後の審判などキリスト教の教義や物語については常識の範囲では知っていたが、聖書の構造やそこでのキリスト教の教義の取り扱いに関してはほとんど知識がなかったので、勉強にはなった。
現代において非キリスト教徒として一般人が聖書について考えるとき、いくつかの観点があると思う。
① 現代のキリスト教徒にとって聖書の記載
もはや聖書の内容を真正であり、いつ何時でも従うべきものとして信じることは、キリスト教信者にとっても誠実に考えれば考えるほど難しくなると思われる。もちろん、進化論を教えることを禁止しようとするアメリカの少し信じるのが難しい主張を起こす人がいることなどは知っているが、進化論の話はそのことを端的に表しているに過ぎない。そのことは改めて本書を読んでも感じることである。著者もモーセは実在の人物ではなく『出エジプト記』はフィクションであると語っている。
すでに欧州ではキリスト教を信じる人は世代を経るに従い少なくなり、日曜にミサに出かける人は少なくなっているという。そういった世界において西洋社会での行動原理を類推するにあたって聖書に何がどのように書かれているのかを知っておくことは有益だと考える。
② 西洋社会への聖書の歴史的影響を知る
西洋社会を今あるものに形作ることとなったベースにキリスト教の影響は大きい。その西洋社会キリスト教徒のテキストとしての聖書を理解するために聖書を理解することは重要だと思う。
ユダヤ教は、著者が書くように一神教の起源である。またその神を信仰することでイスラエルの民に加わることができるという普遍宗教の素地が聖書の中に含まれている。旧約聖書の律法やそれをベースとしながらも愛や信仰に重きを置くことで普遍宗教化したキリスト教の作りを理解することは、宗教としてのキリスト教の影響力が小さくなった後も、近代人の行動や思考の基盤としてのキリスト教の影響を理解することはまた有益だと考える。
個人的には、キリスト教に限らずもはや宗教的なものを信じることができないと考えている。それは選択の問題ではなく、能力や可能性の問題である。そうであったとしても、もしくはそうであるからこそ、宗教とは何かを理解することは重要だろう。タイトルの『教養としての聖書』というのはそういうことだと思う。本書は少し踏み込んで旧約聖書と新約聖書の内容を理解するのに役立つ、ちょうどいい本だったかもしれない。 -
Posted by ブクログ
祖父が亡くなり、葬儀に参列して「四十九日旅をして、故人は成仏する」という住職の話を聞いていたら、「死んだらどうなるのかな」という思いを抱き、手にとってみた一冊。
キリスト教、ヒンドゥー教、儒教など、世界の宗教の死に対する考え方が解説されている。その中で、日本で行われている仏式の葬儀や死に対する考え方は、本来の仏教の教えとは異なるということなども知る。一神教の考え方については、昔、クリスチャンの友人に「神を信じるってどういうことなの?」と尋ねた時に「神様がいるから大丈夫、っていう感じかな」と答えられた時のことが思い出された。
著者は、様々な宗教の考え方に触れたのち、自分が死について、どの考え方を選択するかは私たち一人ひとりが選択せねばならないと言う。死は自分の経験を超越したものであるため、その瞬間にどう死ぬかは考えられない。死について考えることはよく生きるために大切なこと。
小さい頃は死ぬことはただ怖いことだったけど、それは自分の大切な人が亡くなって残されることが怖かったのかもしれない。そして、自分が死ぬことについて、本書に書かれている通り、経験を超えているからこそ考えにくいことではあるけれど、宗教という視点で考えてみることでよりよく生きられるのかもしれない。死生観ということについて、初めてきちんと向き合うことができそうな、きっかけとなる一冊。命題が書かれていて、読みやすい。