若松英輔のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
石牟礼道子の『苦海浄土』(1969年発行)の本は、読もうとしても、はねつけられる。それでも、苦労して読んでも、レビューが書けなかったが、ユージンスミス、桑原史成、石川武志の写真集をみながら、やっと自分の中にも理解できて、レビューを書いた。ただ、どうも本の芯がつかめないでいる。本の芯がつかめないと、レビューも薄っぺらくなる。
100分で名著は、実にいい企画である。若松英輔による『苦海浄土』の100分で名著があったので、読んだ。「悲しみのなかの真実」この本は、ノンフィクションではない。水俣病の患者たちが本当の語り部であって、自分、石牟礼道子がその言葉をあずかっただけなのだ。石牟礼道子は、真の作者じゃないと思っている。『苦海浄土』は、生きることを問い、生きる意味を問う。
水俣病の人たちは、五感で感じているが、言葉を奪われている。そのためには、現代の詩の枠組みを超えた新しい「詩」のつもりで書いたと著者に語ったという。浄瑠璃と言われるより、わかりやすい。言葉を奪われた人々の物語。『苦海浄土』は、既存のどのジャンルにも当てはまらない、全く新しい文学の姿と可能性を持って現れた。
ただ、石牟礼道子は、言葉を持たぬ水俣の人々だけではなく、豊穣なる不知火と水俣の自然の語り部たろうとする。1000年以上の豊かな海の恵みの中で、生きてきた。水俣の人たちは、自然の中に生きてきた。それは、古の世界であり今でも続いている。海に支えられ、海の果実を食べることで、豊かさを味わってきた。それが光の部分である。高度経済成長のもとで、公害、その代表的な水俣病が発生した。そして、そこに経済を優先する近代の産業が入り込んできたことへの悲劇が生まれる。工場は、排水の中に毒があることを知りながら、排水を流し続けたのである。そのことを隠蔽しようともした。さらにその会社によって、作り出されているプラスチック。それを近代の人たちは使っている。宇井純は「第三者はいない」という。水俣と関わり合っている。
近代産業の発達によって、海を汚し、そして、人間を破壊した闇の部分。光と闇を、石牟礼道子が語ろうとした。言葉を奪われた人々の心の奥にあるものを、白日のもとに暴き出した。石牟礼道子は「語らざるものたちの口」になり、見る、読むという世界から、感じる世界をつかみとる。
『苦海浄土』は、石牟礼道子にとって長大な詩だった。詩は時に叫びであり、嘆きであり、また呪詛の言葉であり、祈りでもあった。
『苦海浄土』は、第三章の「ゆき女きき書」から書き始められたという。ゆき女は、ぼんのうのふかかけん人間。人間に生まれ変わることができるかと悩む。生きることの愛おしさ。
きよ子は手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、わが身を縛っている。きよ子は、桜の花びらがちる頃に、縁から落ちて、花びらをとろうとした。ただ、つまむこともできず、地面に押し付けているだけだった。きよ子の母親は、「何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった1枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。それであなたにお願いですが、文ば、チッソの方々に、書いてくださいませんか。いや、世間の方々に」というのが、『苦海浄土』を描くことになったのだ。
そして、水俣病の人たちは、行動を起こす。
「東京にゆけば、国のあるち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなぁ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。むごかもんばい。見殺しにするつもりかも知れん。おとろしかところじゃったばい、国ちゅうところは、どこに行けば、俺家の国のあるじゃろが」と痛烈にいう。
「近代産業の所業はどのような人格としてとらえられねばならないか」。国がやった。会社がやったというが、特定の人間がいないようになっている。あくまでも人間の仕業なのだ。人格をなくすことに、石牟礼道子は憤りを感じているのである。
そしてさらに、いのちの問題に金銭で解決できるような暗黙の認識自体に疑問を呈する。
緒方正人は、私はチッソだという。木材の船を浮かべ漁に出る。認定申請を取り消す。もし自分がチッソだったらと考えることで、チッソさえも許す。水俣病事件は、解決の方法はない。自然の中に生きていくしかないと考える。魚を獲って魚を食べる昔からの生活で、魚を食べるなというのは空気を吸うなというのと同じだという。水俣の民の在り方を指し示す。
けっして過ぎ去ることのない永遠につながることが、この世にはある。生命は滅びる。しかし万物のいのちは朽ちることはない。『苦海浄土』を書いているときの心境は「荘厳されているようだ」という。「荘厳」は、仏教の言葉で、仏の光によって深く照らし出されることを意味する。人間の感覚を超えた響き、香り、輝きが広がり、また何かに包まれるような語感がある。闇の閉じた世界のかなで、光をともすような想いを表していく。うーん。100分で名著は本をよく読むためのガイドになる。 -
Posted by ブクログ
若松英輔(1968年~)氏は、慶大文学部卒、「三田文學」編集長(2013~2015年)等を歴任した批評家、随筆家、詩人。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。2016年以降、NHK番組「100分de名著」で、 石牟礼道子の『苦海浄土』、内村鑑三の『代表的日本人』、神谷美恵子の『生きがいについて』、西田幾多郎の『善の研究』などの解説も担当している。
本書は、古今東西の14人を取り上げて、それぞれにとっての「哲学」をひとつの「動詞」に関連付けて捉え、洞察した随筆をまとめたものである。尚、初出は、月刊誌「文學界」の2013年6月号~2014年7月号。
なぜ、「動詞」が「哲学」なのか。。。著者は、序章で池田晶子の思想を引いて、「分るということは変わるということだ。ある出来事にふれ、真に分かったとき人は、どこかで変貌しているのである。これは素朴な理法だが、ときに厳しく迫ってくる。変わっていないのであれば、じつは分かっていないことが露呈してしまう。」と語り、須賀敦子の章で「本論を「生きる哲学」と題した。ここにおいての「哲学」は、・・・状態である。人間が自身を超える何ものかにむかって無限に開かれてゆく在り方を意味している。「哲学」とはそもそも、机上で学習する対象であるより、私たちが日々、魂に発見するべき光のようなものではないだろうか。人生の岐路に立ったとき、真剣に考え、誰に言うでもなくひとり内心で、これが私の哲学だ、とつぶやく。そうしたときの「哲学」である。」と書いている。
そして、「万人のなかに、「哲学」が潜んでいることを思い出させてくれる人物」、「迷ったとき、自らの進むべき道を照らす光は、すべての人に、すでに内在していることを教えてくれる人」として、14人を選んだのである。
その14人は、歩く~須賀敦子、彫る~舟越保武、祈る~原民喜、喪う(うしなう)~孔子、聴く~志村ふくみ、見る~堀辰雄、待つ~リルケ、感じる~神谷美恵子、目覚める~ブッダ、燃える~宮沢賢治、伝える~フランクル、認める~辰巳芳子、読む~美智子皇后、書く~井筒俊彦である。また、それぞれの章で、池田晶子、和辻哲郎、デカルト、ヴァレリー、高村光太郎、小林秀雄、白川静、ゲーテ、遠藤周作、マルクス・アウレーリウス、石牟礼道子、柳宗悦らについても語られている。
そして、著者は「あとがき」でこう締めくくる。「哲学を研究、勉強することなくても、深遠なる哲学を有する人は世の中に多くいる。この本で取り上げた人々にとって何かを語るとは、そうした市井に生きる無名の人々に宿っている、本当の意味での「哲学」の代弁者になることだった。・・・ここでの「哲学」は、哲学者によって語られる言説に限定されない。それは、人間が叡智とつながりをもつ状態を指す。このことは、「生きる」ことが不断の状態であることと深く呼応する。同時に、「哲学」とは、単に語られることではなく、生きることによって証しされる出来事だとも言える。」
一篇一篇がとても深い随筆集である。私はこれまで、取り上げられている少なからぬ人たちの著作を読んできたが、著者の洞察の中には消化できるものもあれば、消化しきれないものもあった。本書を頼りに、改めてそれぞれの著作に戻り、それぞれが体現した「哲学」とは何だったのかを考えてみたいと思う。
(2020年11月了) -
Posted by ブクログ
ネタバレ「悩む」と「考える」のは、違う。そんなことは、分かっている。
多くの人は、そう思っているだろう。
私自身も、「悩む」と「考える」のは違うと思っている。
違うと思っていても、悩むことを辞めるのは難しい。
悩むのではなく、考えるへ切り替えるのも難しい。
若松英輔さんの「考える教室 大人のための哲学入門」は、
自分の考えを深めていくためのヒントが詰まっている。
本書の中に、次の指摘がある。
『人は誰も、迷っているとき、早急に答えを得たくなるものです。すると人は、その答えに多少の毒があっても、それを飲み込んでしまう。哲学の力をつけるには、喉が渇いたからといって毒を飲むのではなく、その渇きに耐えることを学ばなければなりません。
心の渇きを真に癒すのは、世に流布する「甘い」言葉ではありません。
自分の手で掘り出したコトバです』
著名な学者や作家の言葉
SNSなどで多くのフォロワーがいる人の言葉
それらの言葉を見聞きして、腑に落ちたり、賛同したりすることがある。
そのことが悪いわけではない。
ただ、上記の指摘を読んだ後で、
自分が答えだと思ったことや、腑に落ちたこと、共感したことについて、
それらが、本当に自分自身のものなのか。疑ってみる必要がある気がした。
「悩む」と「考える」のは違う、と言う時、
「考える」ことは、目的がハッキリしていて、
答えを出すというゴールに向かって、進んでいくことであるように思う。
答えを出せない状態は、「悩んでいる」ように思い、
答えを出せない状態が続くと、「考える」のではなく、「悩む」に陥ってしまいそうで、不安になる。
しかし、答えを出せない状態は、「考えている」時にも存在することを忘れてはいけないだろう。 -
Posted by ブクログ
哲学って、硬いイメージが強い。20代までそれに触れることを無意識に避けてきたと思う。
いろんな人と話をしたり、テレビや映画を見たり、音楽を聞いたり、本を読んだり・・・その中で感じたことや考えたことと、いわるゆ哲学はそんなにかけ離れたものではないと、30代になってようやく気づいた。
初めて哲学に触れるとき、難解すぎる本では挫折してしまうだろう。だとするならば、この本はちょうどいい塩梅だ。この本から気になったキーワードや人物について、他の本にステップアップするように深めていったらいい。
個人的には”考えること”と”働くこと”について深めていきたい。
「旅とは、どこかに行く行為ではなく、ここに帰ってくるために出かけるための行為だ。」