紫陽花さんのレビュー一覧
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「侍女の物語」について
この物語は、ギレアデ政権の間、バンゴア市と呼ばれていた場所から発掘された、およそ30本のカセットテープに吹き込まれていたものを文章に起こしたものという設定。
語り手の女性は、出産を目的に集められた女性の第1陣のうちの1人。ギレアデ政権は、その後、様々な粛清と内乱を経て崩壊したようですが、まだまだその初期段階にあり、日々の監視が厳しく、違反者は容赦なく処刑されていた時代です。
各個人からその個性を奪い取るには、名前と言葉を取り去るのが効果的なのですね。
単なる出産する道具である侍女たちの名前は「オブ+主人の名」。
この物語を語っているのは「オブフレッド」と呼ばれる女性です。
侍女たちはくるぶしまで届く赤い衣装を纏い、顔の周りには白い翼のようなものが付けられて、周囲とは遮断されています。日々決められた通りに行動し、侍女同士での挨拶ややり取りも決められた通りの言葉。
もちろん私物と言えるようなものは一切ありませんし、自殺や逃亡に使えそうな道具は慎重に取り除かれています。
侍女たちにはもちろん自由もなく、その存在に人間性などこれっぽっちも求められていません。まさに「二本足を持った子宮」。
一見荒唐無稽な設定なのですが、しかし、よくよく考えて見れば、これは十分あり得る未来。それが恐ろしいです。
いつどこでこのようなことが起きてもおかしくありません。
この作品は1985年に書かれた作品なので、それから40年経ったことになるのですが、世界的な状況はますます悪化するばかり。
ここまで極端ではなくとも、ここに書かれた現実が近づいているような気がします。
既にどこかでこういった類の洗脳が行われているかもしれませんね。
それでも、子供や夫を奪われて「侍女」となった女性たちは、そうなる以前の暮らしを覚えているのです。
それに対して、次世代の「侍女」たちは、元々そのような自由な世界が存在していたなど知る由もなく、それがまた恐ろしいところです。
子供ができない夫婦にとって侍女はありがたいはずの存在なのですが、そこは人間。
人間の感情はそう簡単に割り切れるものではありません。
単なる行為に過ぎないとはいえ、主人の妻には嫉妬されることになりますし、水面下では様々な感情が入り乱れることになります。
その辺りも面白かったですね。
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本格的なパニック小説
巨大な甲殻類が襲ってくるという怪獣映画的な設定には驚きましたが、福井晴敏さんの作品を彷彿とさせる、本格的なパニック小説作品。
しかしこの作者の有川浩さんはライトノベル出身の方だったのですね。
デビュー作の「塩の街」が電撃文庫から出ていたとは驚きました。
物語は主に潜水艦の中の15人の視点、そして県警や派遣幕僚団、機動隊の視点から交互に描かれていきます。
県警や機動隊の側では烏丸参事官と明石警部が良かったですし、軍事マニアの掲示板もリアルで面白かったのですが、やはり軸となっているのは潜水艦でのドラマでしょうね。
夏木と冬原はとても良いコンビで彼らの会話も楽しく、次々と起きる出来事に対するそれぞれの反応の違いも面白かったです。
おそらく有川さんという方は、こういった集団からはみ出したような人物を描くのがとても上手い方なのでしょうね。
彼らの川邊艦長への思い、そして大人社会を反映した子供たちの確執が濃やかに描かれていて、子供たちの成長ぶりも読み応えがあります。
特に森生望と遠藤圭介の変化がいいですね。ただ欲を言えば、夏木と冬原と艦長の絆を深めるようなエピソードがもっと読みたかったです。
最後の自衛隊の活躍は少しあっけない気がしてしまいましたが、エピローグまで十分に楽しめました。本格的なパニック小説ですね。 -
繊細さと透明感のある作品
リョウはコールボーイ。たとえ彼がVIPクラスの相手をする「特別な男の子」になったとしても、やっていることが売春であることには変わりありません。
売春という行為は、私には考えるだけでもとても抵抗がありますし、それをする人を認める気も全くないのですが、それでもこの作品を読んでいると、その価値観を人に押し付けるのも、どうなのだろうと考えさせらました。
リョウに仕事を辞めさせたがった彼女の気持ちはとても良く分かりますし、その行動もきっと間違ってはいなかったと思います。
それでも、彼女の正義感の押し付けが、まるで言葉の暴力のように感じられてしまったのです。
何が「普通」で、何が「混線している」かなどということは、人の数だけ違った答があるのでしょうね。
一応世間では、大多数が支持する答が「普通」ということになっているのでしょうけれど、それが本当に「普通」なのかどうかは誰にも分からないこと。
VIP相手の「特別な男の子」のアズマくんは自分のことを「混線している」と言い切っていますが、彼の想いは限りなく純粋です。
それを「普通じゃない」と切って捨ててしまうことは、私には到底できません。
その上、静香に「あなたのいいところは全部、自分のなかで閉じている」とまで言われたリョウが、この仕事によってやりがいと感動を知り、人間的に大きく成長することになるのです。尚更どうこう言えるわけがありません。
主人公の職業柄、当然、艶っぽい場面もとても多いのですが、まるで淫靡ではなく、逆に爽やかさすら感じてしまいました。
きっとリョウが、セックスを通して様々な"人間の本質"を見つめているからなのでしょうね。
読む人を非常に選びそうな作品ではありますが、この繊細さと透明感は格別。
この作品を読んでいると、まるで水の中を浮遊しているような、なんとも言えない感覚があり、それがとても心地よい作品です。
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「リセット」について
この「リセット」は、北村薫さんの「時と人の三部作」の第3弾で、これで完結ですね。
「スキップ」では未来へのタイムスリップ、「ターン」では同じ時の繰り返しが描かれたのですが、この「リセット」はどうなるのだろうと、とても楽しみにしていた作品です。
しかし、開いてみると、戦前のお嬢様の生活描写がつらつらと続き、さらに時代は戦争に突入。
北村薫さんの文章なので読みづらいということはなかったのですが、正直この手の話は苦手なので、最初はどうなることかと思いました。
ごく普通の淡々とした日常が描かれ、恋の予感などはあるものの、特に何も起こりません。
さらに第2部に入ってみると、私だけかもしれないのですが、今度は一体誰の話をしているのかもよく分からないのです。
しかし、第2部の終わり間際からは、いきなり話が進み始めます。
それまでの淡々とした描写は、すべてその必要があってのことだったんですね。
それらの細かい描写が伏線として後半に生かされて、じわりじわりと効いてきます。
そして読んでいる側は、何時の間にか自分のことのようにすっかり感情移入してしまう。
北村薫さんの筆力をまざまざと感じさせられてしまいます。中でもホットケーキのシーンは凄いですね。
小道具の使い方もさすがです。上手すぎます。
「想いは時を越える、希いはきっと、かなえられる-----」ラストはお見事ですね。
切なさが一転して幸福感に包まれます。
読みながら途中ずっと、「リセット」という題名は、一体何を意味するんだろうと思っていたのですが、全てが腑に落ちた時、これ以上の題名はないと分かります。
とても素敵な物語でした。
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「権力と栄光」について
この作品は、グレアム・グリーンの代表作の1つで、遠藤周作の「沈黙」に大きな影響を与えたと言われている作品。
メキシコの共産主義革命という実際に起きた出来事を背景に書かれています。
逃亡中の神父は、逃亡する以前に既に祭日や断食日、精進日といったものに心を煩わすこともなくなっていますし、妻帯や姦淫を許されないカトリックの神父であるのに、マリアという女性との間に6歳になるブリジッタという娘がいます。
そして、逃亡途中に聖務日課書を失くし、携帯祭壇(オールタ・ストーン)を捨て、通りすがりの百姓と自分の服を交換。
残っているのは、司祭叙任十周年のときの原稿だけ。
そこまで堕ちた神父であるのに、彼の存在は依然として神父でしかありえないのです。
この極限状況の中で、神父であり続けるということ、そして信仰を持ち続けるということに一体どれほどの意味があるのか、神父自身も分からなくなっていたはず。
それでも、きっぱりとやめるという主体性もないまま、彼は逃亡を続けています。
自分の罪を告解したくとも、彼は自分の罪の結晶である娘を愛しているのです。
そのため彼の最後の祈りはどうしても娘へと向けられてしまいます。
その揺れ動きが、そのままこれまでの彼の行動を象徴してるのでしょうか。
「権力と栄光」という題名の「権力」とは当然、国家権力のことだと思い、国家とカトリックの対比なのかと思っていたのですが、訳者あとがきによると「神の力と光」というのがただしいい意味合いなのだそう。
この題名が既に定着しているとはいえ、これではかなり印象が違ってしまいますね。
そして、さらに訳者あとがきでは、この神父とキリストの生涯との共通点を挙げていて、これはかなり面白いですし、説得力があると思うのですが、「そうした読み方はあまりほめたものではないし、慎むのが当然だと思われる」とあります。
なぜ慎むべきなのでしょうか。グレアム・グリーンという作家を読む上では、それは正しくないことなのでしょうか。
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「ブラフマンの埋葬」
この小説は、人にも場所にも名前がないおとぎ話だ。年代不詳、どこかの国の、山と海と川と沼に囲まれた村。
芸術家の桃源郷「創作者の家」で管理人を務める若者の僕は、森で親とはぐれた小動物を「ブラフマン」と名付けて飼い始める。
よそ者の男とつきあう雑貨屋の娘への僕の恋心。
ひと夏が過ぎ、季節風が死の気配を運んでくる。
この得も言われず愛らしい生き物がなんという動物なのか書かれていないが、そこが限りない夢想を誘って効果的だ。
読み手に具体像を思い描かせない力があり、それがこの小説をファンタジー以上のものにしているのだ。
映像文化に押されている小説だが、この小説を読むと、今もって言葉だけに成し得る魔術がある事を再認識させられた。
ブラフマンとは何者だろう? 象徴的な解釈はいろいろあるだろうが、読み終えて、ほーっとため息をつくしかなかった。
小川洋子の小説は、いつも余韻がとりわけ素晴らしいのだ。
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「花闇」について
闇というのは、やはり役者の世界のことなのでしょうね。煌びやかに、艶やかに舞台を演じながらも、役者たちは同時に色子として存在します。
それは家格の良い家に生まれても同じ。
田之助自身、10歳の頃から上野明王院の高僧に買われるようになります。
しかし、それもまた芸のこやし。田之助の女形としての色気に一役買うことになるんですね。
しかも、それらの贔屓筋が落としてくれる金がなければ、役者としての膨大な費用を賄えません。
そんな彼らの身分は卑しく、時には人間扱いもされないほど。しかし同時に、蔭の世界では役者は貴人。
芝居を観に来る人々は、役者に魅了され、夢中になるのです。何とも一筋縄ではいかない入り組んだ世界ですね。
しかも、その狭い世界の中は、お互いの出自や実力、妬み嫉みによって常に愛憎で渦巻いており、まさにぬっとりとした闇を感じます。
しかし、この闇があるからこそ、舞台の艶やかさが一層際立つのでしょう。
そんな中でも、田之助の艶やかさは群を抜いています。
時には美しく可憐に、時には崩れた色気を感じさせ、観客を魅了します。
この作品を読んでいると、そんな田之助の魅力に飲み込まれてしまいそうになります。
血が薄いと自覚する三すじをも興奮させるように、一歩距離を置いているはずの読者をも引きずりこむ魅力がありますね。
そして、田之助が足を切断し、それでも執念で舞台に立つ時、肉でも果物でも腐る寸前が一番美味しいと言われるように、滅びる寸前の田之助の放つ光の鮮やかさには魅了されます。
実在の人物が何人も登場しますが、その中でも、月岡芳年の作品にとても興味を引かれました。
彼の「澤村田之助が脚を切った。その年に,徳川幕府は滅びたのだな」というセリフが、とても効いていますね。
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「夜の国のクーパー」
伊坂幸太郎がまさか「吾輩は猫である」でくるとは思わなかった。語り手は人の言葉がわかる猫のトム。
舞台は毒塗りの防壁が巡らされた小さな国。鉄国が侵入して来て、国王の冠人が射殺され、国が支配される。
トムは生まれて初めて馬という動物と銃という武器を目の当たりにする。
そんな占領された国の様子をトムは「私」に語りかける。
仙台の公務員の「私」は妻に浮気をされ、趣味の釣りに逃避して海に出たら時化に遭い、気付いたら見知らぬ場所で横たわっていたのだ。
恐らく伊坂幸太郎の愛読者なら、彼のデビュー作「オーデュボンの祈り」を思い出すだろう。
人間の言葉を喋る案山子が存在する異世界を舞台にしたファンタジーを。
その案山子という存在は、作者が愛する丸山健二の「さすらう雨のかかし」のシンボルと響き合うし、この本では大江健三郎の「同時代ゲーム」の登場人物に刺激を受けていると思われる。
伊坂幸太郎はミステリ作家としてデビューしたが、純文学的なテーマをミステリ的な手法でスリリングに見せる作家だと思う。
そのために寓話の手法が使われるのだが、この本ではより象徴的な意味合いが濃い。実際、戦争を巡る対話がほとんどを占めている。
「魔王」で全体主義の危険性を捉えた伊坂幸太郎にとっては、戦争をテーマに据える事は、当然の帰結と言えるだろう。
崩壊した体制、権力の委譲と旧権力者の処遇、占領下における支配と被支配の問題などに、移動する樹木の化け物(クーパー)を退治するための出征兵士たちの伝説を絡めて、異空間の国の過去と現在が様々に語られるのだ。
とはいえ、物語巧者の作者の事だから、隠された秘密を用意し、巧妙に張られた伏線の回収と共に、一つ一つ明らかにするのだ。
謎が解かれるのではなく、当事者が一方的に告白する点など、物足りないと思うけれど、それもこれも終盤で判明する叙述トリックのためである事がわかる。
小説としての味わいにやや欠けるものの、寓話性に富む物語の興趣は十分に備わっていると思います。
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「凍える牙」について
この乃南アサさんの「凍える牙」は、その他の強力な候補を破り、第115回直木賞を受賞した作品ですね。
30代で離婚歴のある音道貴子。離婚の原因は夫の浮気。そして、今回彼女と一緒に組むことになったのは、かつて女房に逃げられた経験のある中年刑事の滝沢。
男社会の中で認められずに孤軍奮闘する女刑事と、女刑事の存在を認めたくない叩き上げの頑固者の刑事の構図ですね。
この2人が、渋々ながらも一緒に捜査活動を続けるうちに、徐々にお互いを認め合っていくことに-----というのは、言ってみればありがちなパターンなのですが、しかし、なかなか読ませてくれますね。
しかし、滝沢の愛想がないのは、実際には貴子のことが嫌いというよりも、どう扱っていいのか分からないからではないでしょうか。
そして面倒くさいからというのもあるのでしょう。
そして、貴子の方も決して自分の弱みを見せようとはせず、だからといって頑張っている姿を主張したくもないという頑固さから、必要以上に愛想がありません。
女刑事としては、柴田よしきさんの「RIKO」シリーズに登場する緑子の方が迫力があると思うのですが、この貴子の無表情な感じもいいですね。
この物語では、貴子と滝沢の視点が交互に描かれ、この2人が実は似たもの同士だったということが、次第に分かってきます。
無理に相手のことを理解しようとはせず、単なる傷のなめあいの関係にはならないところがいいですね。
ただ、事件の方は、時限発火装置と犬の咬傷の両面から捜査されることになるのですが、これがどうも中途半端な印象を受けました。
せっかくの時限発火装置という設定が生かしきれていないような気がします。
貴子と疾風のシーンがとてもいいのですから、初めから時限発火装置など使わず、そちらに的を絞った方が良かったのではないかと思いました。
それにしても、貴子と疾風の魂の触れ合いの描写には、思わず目頭が熱くなりました。
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恩田陸さんの「象と耳鳴り」は、裁判官を退官し、悠々自適の生活を送る関根多佳雄が主人公。
散歩とミステリが好きな彼が、身の回りに起こった、ちょっとした出来事を推理する連作短編集ですね。
はっきりとした白黒をつけずに、曖昧なグレーゾーンで終わる話もあれば、「待合室の冒険」のように、その場ですっきりと気持ちよく決着がつく話が混ざっており、なかなかバリエーションに富んでいますね。
そして、どの話も、ミステリとしてだけでなく、恩田陸さんらしいファンタジー的な雰囲気や映像的な美しさも楽しめますね。
例えば、「曜変天目の夜」に出てくる茶碗。
実際には見ることも触ることもできなくても、情景はありありと思い浮かびますし、茶碗の中の密度までしっかりと感じることができるような気がします。
「ニューメキシコの月」の絵葉書の写真やそこに書かれた宛名、「廃園」の色とりどりの薔薇とその香りなども、まるで実物が目の前にあるようです。
論理的なパズルを楽しめる「机上の論理」ですら、4枚の写真が目の前に浮かんできます。
このような描写は、恩田陸さんならではですね。
その情景故に、どの話も謎が解かれても余韻が残ります。
それが物悲しい余韻のことも多いのですが---------。
多佳雄と妻の桃代、彼らの息子の春と娘の夏の関係もとても素敵ですね。
「六番目の小夜子」に出てきた関根秋は、この家の末っ子なんですね。
多佳雄と桃代の会話はのんびりとして微笑ましく、ミステリ抜きでも十分楽しめますし、一見のんびり者に見える春が出てくる話は、意外なことに論理的なパズル系の推理が楽しめますね。
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「夏空白花」につぃて
日本人の多くが熱狂し、感動する全国高校野球選手権大会。
公共放送が試合を中継し、球場の名前である"甲子園"が通称になるほど多くの人に親しまれ、学生スポーツの中では屈指の人気を誇っている。
十代の限られた時期にしか立てない球児の夢の舞台に、こんな歴史があったとは知らなかった。
須賀しのぶさんの「夏空白花」は、戦争によって失われた甲子園の復活に燃えた男の物語だ。
夢の甲子園の陰の一面も描き、ただ気持ちよく読者を泣かせてくれる感動秘話で終わらないところが、実にいい。
まず主人公の新聞記者の神住が、元甲子園球児なのに、「野球は愉快だが、そこまでたいしたものではない」と思っている男なのだ。
戦時中は、軍部の言いなりになって紙の爆弾としての新聞を作り、敗戦後は平気で米軍の美談を取り上げた記事を書いている。
目的も矜持もない彼が、甲子園の復活に挑むのは、アメリカ人と日本人が共に好む野球の大会を成功させて、存続が危ぶまれる会社と居場所がなくなりそうな自分を救うため。
それでも、大会の実現に向けて奔走するうちに、かつての情熱は甦ってくるが、球場は米軍に接収され、ボールすら満足に手に入らない。
野球が新生日本の希望になるというスタンスも、関係者に批判される。
特に安斎という写真部員の「なぜ未熟な少年たちのプレーこそが日本野球だと言うんだ?」や「体を壊すほど必死にプレーする彼らを見て、それを感動という言葉に置き換えるあんたたちが、俺は時々怖くてならない」という指摘は痛烈だ。
これは現代の甲子園をめぐる状況にも、そのまま当てはまるのではないかと思う。
著者は、日本野球をこよなく愛しているが、その弱点から目をそらさない。
日本という国の過去を断罪せず、擁護することもなく、史実をできる限り冷徹に見て、希望を模索する。
終盤に描かれる奇跡の試合、夏空に咲く美しい白い花は、フェアネスを重んじる精神から生まれているのだと思います。
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「わたしを離さないで」について
ノーベル賞作家のカズオ・イシグロが端正な筆致で綴る、ある女性の人生の物語。
提供者を慰める介護人の職に長くついていた女性。彼女が職を辞めるにあたり、自分のこれまでの人生、特に生まれ育ったヘールシャムで仲間と過ごした日々を回顧する。
提供者、介護人など説明なく出てくる言葉の意味が、女性の回想から次第に明らかになってくるにつれ、世界の残酷な姿が浮かび上がってくる。
この世界の真実は、SF小説のファンならばすぐに見当がついてしまうだろう。
読みどころは、むしろ小説としての巧さ、人間描写の厚みの部分だ。大きな状況に翻弄される主人公たちが、小さな人間関係にすがる姿がなんとも哀しく映るのだ。
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「螢川」「泥の河」について
「螢川」
宮本輝の芥川賞受賞作「螢川」は宮本文学の永遠の傑作だ。この小説の舞台は富山。
主人公は中学三年生の竜夫。昭和三十七年三月から物語は始まる。
この物語において、竜夫の父の死や竜夫の友人・関根の死が主人公の人生に陰翳をもたらす。
同級生の英子に想いを寄せる竜夫の恋心にすら、友人の死の影が伸びてゆき、そこに思春期の複雑な心理の綾が描き出される。
宮本作品では登場人物がどんなに若年であろうと、厳然とした死が突きつけられる。
しかし、惑いながらも死を受け止め前を向いて生きてゆく登場人物たちに、私は読みながら知らぬ間に心が鼓舞されているのだ。
この「螢川」では四月に大雪に見舞われると、螢の大乱舞が見られるという老齢の銀蔵の言葉が、神秘的な光を放ちつつ、物語は螢狩りに収斂されてゆく。
ラストシーンの妖光を纏った、圧倒的な人間讃歌とも解釈できる光景は、一体何を伝えようとしているのだろうか?
銀蔵の「-----これで終りじゃあ」というセリフの裏にある、新たな「始まり」なのかも知れません。
「泥の河」
宮本輝の太宰治賞受賞作「泥の河」の舞台は昭和三十年の大阪の街。ポンポン船が行き交う川筋に暮らす八歳の信雄が主人公だ。
いまだ戦争の影を引きずった、川筋の住人の貧しい暮らしぶりが描かれ、信雄の澄んだ瞳に克明に映し出される死の場面は、胸の奥の深い部分を震わせられる。
戦争で命拾いした男の、その運を使い果たしたかのような死。沙蚕採りの老人の死、鳩の雛の死、生きながら油に浸され燃える蟹など、死の影を通して切々たる生が浮き彫りにされてゆく。
それらの生死に、信雄の友となる廓舟に住む喜一とその姉の銀子との交友が重なり、人生の深みが静かに描かれてゆく。
私が何回読んでも泪を湛えるのは、喜一が軍歌を歌う場面とラストのお化け鯉の場面だ。
この「泥の河」は少年の繊細で真っ直ぐな心を描いた小説として、時を超えて輝き続けると思います。 -
「熱帯」について
現代日本版の「千夜一夜物語」は、古川日出男の「アラビアの夜の種族」や星野智幸の「夜は終わらない」などの名作がありますが、森見登美彦の「熱帯」もその系譜に繋がる作品だと思う。
語り手は作者の分身である「モリミン」。小説が書けず、スランプ気味のある日、謎の本をめぐる物語を思いつく。
「汝にかかわりなきことを語るなかれ」という警句から始まる、「熱帯」という本の記憶が甦ったからだ。
見るからに、虚実の境があやしくなりそうな危ない設定だ。この本を最後まで読んだ者は一人もいない。
語り手は奇妙な「沈黙読書会」で本に再会し、「学団」がその内容の全貌をつかもうと研究を重ねている事を知るが、「熱帯」にはどうしても切り抜けられない「無風帯」がある。
謎の追求は、アラビアンナイト風の入れ子構造をもって、とんでもない展開になっていく。
因みに、作中に出てくる「虎」は作者に言わせると、自分が頭でコントロールできない何かだとか。
本は幾多の本を呼び込む。書物とは一体、誰が書くものなのか? 作者ではないかもしれません。
このモリミーの「熱帯」は、壮大な本の冒険であり、創作論でもあり、時を超える蠱惑の語りにゆったりと身を任せられるのです。