あらすじ
破戒しても司祭の聖職性は在るのか?──カトリック教会が追放された革命時のメキシコを舞台に、様々な波乱を巻き起こしながら明日なき逃亡をかさねる呑んだくれ司祭の運命を描く、著者の代表作!
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「権力と栄光」について
この作品は、グレアム・グリーンの代表作の1つで、遠藤周作の「沈黙」に大きな影響を与えたと言われている作品。
メキシコの共産主義革命という実際に起きた出来事を背景に書かれています。
逃亡中の神父は、逃亡する以前に既に祭日や断食日、精進日といったものに心を煩わすこともなくなっていますし、妻帯や姦淫を許されないカトリックの神父であるのに、マリアという女性との間に6歳になるブリジッタという娘がいます。
そして、逃亡途中に聖務日課書を失くし、携帯祭壇(オールタ・ストーン)を捨て、通りすがりの百姓と自分の服を交換。
残っているのは、司祭叙任十周年のときの原稿だけ。
そこまで堕ちた神父であるのに、彼の存在は依然として神父でしかありえないのです。
この極限状況の中で、神父であり続けるということ、そして信仰を持ち続けるということに一体どれほどの意味があるのか、神父自身も分からなくなっていたはず。
それでも、きっぱりとやめるという主体性もないまま、彼は逃亡を続けています。
自分の罪を告解したくとも、彼は自分の罪の結晶である娘を愛しているのです。
そのため彼の最後の祈りはどうしても娘へと向けられてしまいます。
その揺れ動きが、そのままこれまでの彼の行動を象徴してるのでしょうか。
「権力と栄光」という題名の「権力」とは当然、国家権力のことだと思い、国家とカトリックの対比なのかと思っていたのですが、訳者あとがきによると「神の力と光」というのがただしいい意味合いなのだそう。
この題名が既に定着しているとはいえ、これではかなり印象が違ってしまいますね。
そして、さらに訳者あとがきでは、この神父とキリストの生涯との共通点を挙げていて、これはかなり面白いですし、説得力があると思うのですが、「そうした読み方はあまりほめたものではないし、慎むのが当然だと思われる」とあります。
なぜ慎むべきなのでしょうか。グレアム・グリーンという作家を読む上では、それは正しくないことなのでしょうか。