「ヒューマン・ファクター」。人間的要因、とでも訳しますか。
これは、大人の男性には堪らない小説でした。
手に汗握る、スパイ小説。紛れもないスパイ小説なんですが、そういう状況に置かれた男性の心理描写。葛藤。
銃の撃ち合いやら車の追っかけっこなんか、ゼロです。
後半は物凄い緊迫感。やめられないとまらない
...続きを読む、でした。
1978年にイギリスで書かれた小説です。
書いたのは、グレアム・グリーンさんという人です。
グリーンさんは1904年生まれのイギリス人さん。1991年に亡くなっています。86歳くらいまで生きたんですね。
で、1930年代、つまり30歳前後にはもう、小説家として成功していたみたいですね。
そして、20代で共産党に入党。
この辺で、誤解してはいけないなあ、と思うのは。
1950年代くらい以降、スターリンさんが、隠しようもないくらい、相当な虐殺や警察国家をつくるまでは、
共産主義、というのは、世界中のインテリさん、理想主義者、ロマンある知識人的な若者たち、にとって、ある種の期待を込められる希望だった、ということですね。
で、第2次世界大戦が1945年に終了して、数年内に東西冷戦が始まるまでは、共産主義というのは、そんなに蛇蝎のように否定されるものではなかったはずです。
一方で、子供の頃からスパイ小説好きだったグリーンさんは、第2次世界大戦前から、MI6に入って、諜報活動、スパイをやります。
マジで、007の世界な訳です。
で、終戦直前くらいに辞職してます。
この辺、僕も不勉強ですが、若い人気作家が、同時にスパイでもあった訳ですね。
その後は、人気小説家として、不動の地位、死ぬまで続きました。
とは言え、一部の「スパイ小説ファン」「ミステリー愛好家」「イギリス文学ファン」以外には、そんなに知られてないですね。
名作映画「第三の男」の原作者でもありますが、これはグリーンさん本人が、「映画は素晴らしいけど原作はそうでもない」と発言しているそうです。
今回、読んでみたのは、大した理由でもなくて。
「娯楽小説読みたい気分だなあ。ミステリーっていうか、犯罪モノとか」
という気分と、
「丸谷才一さんが、褒めてたなあ。グリーンさん」
そして、
「読んだことのない作家を、外れるかも知れないけど、読んでみないとなあ」
という感じで。
で、外国文学は、翻訳が命。
これはほんと。
ぱぱっと調べて。
代表作らしく評判が良い。そして割と最近に新しい翻訳が出ている。電子書籍にもなってる。ってことで、「ヒューマン・ファクター」。
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主人公は、どうやら50代らしい男性の、カッスルさんです。
イギリスの情報部で働いています。
現場と飛び回るわけじゃなくて、ロンドンのデスクワークです。
アフリカなどの情報の受けや、その整理をやってます。
割に地味な仕事、地味な風貌、地味なブ男な感じ。
年下の部下デイヴィスと、実質ふたりの部署っぽい。
郊外に、妻と子と住んでいます。これがなんと、黒人妻、黒人の子。
カッスルさんは、諜報部員として南アフリカにいたんですね。
そのときに、スパイとして使った黒人女性に恋をして。
南アフリカですから。アパルトヘイトですね。白人が黒人と愛し合うなんて、えらいことなわけです。
色々あって、なんとか彼女を逃がして、自分も脱出。その辺りは全て、上司組織にも隠さず報告済みな訳です。問題なし。
さてこの、カッスルさんの部署の情報が、どうやらソ連側に漏れている、ということになります。
誰かが、スパイなんじゃないか?
って・・・みんな仕事がスパイですから、つまり、「二重スパイ」がいる・・・隠れている・・・。
さあ、それは。カッスルなのか。部下デイヴィスなのか。
罠。監視。不審。不信。不安。嘘。猜疑心。恐怖。
物語は、疑い迷う、上司たちの視点の章と、
疑われている一人である、カッスルの視点の章で描かれて。
#######ここからは、ネタバレです#######
上司たちは、部下デイヴィスが犯人、と状況証拠で判断、デイヴィスを暗殺しちゃう。
だけど、二重スパイは、カッスルだった。
カッスルは、妻をアフリカから脱出するときに世話になった友人がいた。
その人に本当に世話になった。
その男性は、共産主義者だった。
その人への友情義理から、ソ連側に情報を流していた。思想としては、全く共産主義じゃないけど。
そして、カッスルは恐れる。いつバレる。もうだめか。バレてるのか。バレてないのか。
デイヴィスが死んだ。もうこれ以上、情報を漏らしたら、自分が犯人だとバレる。引退しよう。
そんなときに、MI6の仕事で入った情報。
それは、そのまま許すと、アフリカの黒人たちに大変不利になる、米英の陰謀だった。
苦悩したが、それを、ソ連側に流すんですね。
もう、カッスルさんは、祖国も思想も大義名分も、その欺瞞性に倦んでいます。
ただ、黒人の妻と自分との、愛の共同体だけが、彼にとっての祖国なんですね。
それには、アフリカを、黒人を、見殺しにはできないんですね。
その情報を出した後で。
周辺の「連絡網」に異常が起こります。
もうダメか。妻子は、母の実家に、喧嘩したことにして去らせる。
さり気ない尋問に、職場の人が来る。ダメか。殺されるか。東側の救出は、あるのか。
結果、ぎりぎりタッチの差で、東側に救出、脱出、亡命。
モスクワで何とか無事暮らす。
だが、妻と子とは別れたまま。それが辛い。それが辛い。妻子もいずれモスクワに呼ぶ、と東側は約束してくれたのに・・・。
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と、言うお話です。
なので、ほとんどは、サラリーマン的な暮らしをしているカッスルさんの日常。
そして、サラリーマン的な暮らしをしながらも、二重スパイが誰なのか、考える、上司たち。
という、地味な状況。
全体の1/3くらいを過ぎて、多分そうだろうな、と思っていたけど、「カッスルが二重スパイ」と分かる。
●もう、そこからの、心理サスペンスが一級品。
●それから、敵味方を問わず。
諜報に生きて暮らす人々の、神経の疲れ具合。孤独感。不信感。寂寥感。この描写がまた、絶品で。
これは、ある意味、何の仕事をしていても、愛無き暮らしに忙殺されていれば、同じように当てはめれる心理。
●そして、そんなにクドくなく、語られ、展開される、世界観。
共産主義が正義でもない。
でも資本主義陣営が正義でもない。
黒人、という立場を通した時に見える風景。
仁義なき戦いの中で、主人公と妻が、守らなければならない、人としての最後の砦というか。
ヤクザ映画風に言うと、それでも捨てられない義理というか。
そして。
そんな主人公の周りで行われる、なんだかもう、手段と目的が数回転くらいこんがらがったような、
諜報戦。ゲーム。
いやあ、このジリジリした心理描写、圧巻です。脱帽です。
神なき孤独な街を往く男の背中、という意味では、男性のハードボイルド・ミステリー娯楽作なんですが。
とてもそれでは収まりきらない。
小説ならではの心理描写、サスペンス。
確かに、原作を手がけた映画「邪魔者は殺せ」「第三の男」に通じるテンション、焦燥感。
女性向きではないでしょうが、えらく、面白かったです。
丸谷才一さんの「快楽としてのミステリー」で確か知ったんですけどね。さすが丸谷氏。
ちなみに。
「半分、実話小説じゃないか」、という噂があるらしいですね。
キム・フィルビー、という名前でネット検索するとわかるんですが。
雑に言うとグリーンさんがMI6時代に、仕えていた上司さん。
この人が、MI6でかなーり偉くなったんですけど、実は共産主義者で、ソ連の二重スパイだった。
1950年代の英米のスパイ戦略は、モスクワに漏れまくっていたそうです。
で、ばれて、1960年代かな?にソ連に亡命したんですね。
その後は、モスクワでKGBで働いていた。
1988年か、そのへん、冷戦終結直前に逝去。
この人と、グリーンさん。
ゴルバチョフの雪解け時代にですね。
グリーンさんは何度かモスクワに行って。
再会してるんですね。
相当、仲が良かったみたいです。
面白いですね。
グレアム・グリーンさん、大人の味わいのある作家さんですね。
渋いです。
ジョルジュ・シムノンさんの、イギリス版っていう感じですね。
次々続けて読みたいわけではないですが、うん、四〇代から読み始めるくらいで、正しい作家さんだと思いました。
お子様にはね、渋すぎて。面白くないだろうなっ・・・と(笑)。
そんな、歳を取ることの旨み、を、味わえるのも、読書の快楽ですね。