宮台真司のレビュー一覧
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東日本大震災と福島原発事故をきっかけとしてこの国は変わる、いや変わらなければならない、とあのとき思った。そして東浩紀の「一般意志2.0」を読み、未来に対して希望を持った。しかし2年が経ち、日本の恥部の一部が露呈しただけで一向に変わる気配がない。どうもおかしい。
本書によると「たかだが地震ごとき、たかだが原発事故ごときで変わるはずがない」、それほどまでに深刻な状況に陥っているという。近代化への努力を怠った愚民、田吾作、土人が今更何を言うか!という痛烈な批判。
暗くなる未来予測だが、「今いる『土人』たちはどうしようもないが、次の世代までそのことにつきあわせる必要はない」という大塚氏のあとがきに、ほ -
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正直、余り内容の濃い本ではなかったが、読みやすく、今の私にはそれなりに示唆的な本。
また、宮台氏の著作や思想は比較的好きだったが、今回は、彼の限界のようなものを感じた。
東氏との対比で浮かび上がったものだが、宮台氏は非常に鋭く、分析的で構造的なのだが、人間に対する洞察が深くないような気がする。早い話が頭の良いおぼっちゃん、という印象。
子どもを捉える視線が、我が子であってもただの観察対象でしかないような気がしてしまう。
もちろん、本人は子どもを愛している、というのだが、自己愛の延長線上にある愛のような気がする。
一方の東氏は、歯切れが悪い。だが、そこには、自身にすべてを委ね、そして日々新た -
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ネタバレアダルトチルドレンが良い子になるのは家の中にセキュリティがないから
失敗しても帰るところがないので予測可能なことをやる
オウム信者は失敗したり薄汚れた自分に耐えられない<アダルトチルドレンぽい
幸せになれるかどうかは個人のコミュニケーションスキルにかかってくるのは難しすぎる
勉強できてもコミュニケーションスキルがないと生きていけないということか…
(勉強もできないが)
恋愛はアダルトチルドレンをリカバリーする 子供の頃からやり直せる
より多くの人間が等身大のコミュニケーションを享受するようになれば、それが出来ないものは、そのコミュニケーション「からの」自由を求めるようになる<だから自分は -
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平易に書かれている雰囲気なんだけど。。。分からない事は、調べることにして、いっそガイドブック的に。
2009年に書かれたもの。2012年が終わろうとしている現在でも、ここに書かれている日本の問題がさっぱり減っていないような気がして、少しさびしい。
現代の日本社会には、何かと問題がある、かどうかはわからないが、少なくとも、多くの人がそう認識している、ということは言える。そういう世の中で、学問の世界の人々は、どういう理論に基づいて、何を考えているのか。そんなことに興味を持ったら読んでみると良いかも知れない。
ただ、ある程度社会学などの素養が無いと、そもそも何を言っているのか分からない箇所があ -
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前に読んだ堀江さんの本と同様、贅肉をそぎおとして、とんがった表現にて、「父として考える」ディスカッションを実施し、Twitter導入後の社会変革なども両者の独自の主眼にて論旨展開。異論反論は、あるだろうが大変面白かった。一つ残念なのは、後半はこども論的なトピックから離れてしまい、論段が難解になり少なくとも僕はついていけなくなってしまった点。引用を二件、
社会システムにおいてはオフラインの欠落をオンラインでは埋められない。「現実」にダメなやつが「ネット」で回復できるのは自意識においてだけで、社会の枢要な領域では「現実」にダメなやつは「ネット」でどうあろうが永久にダメだということです。
こども -
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タイトルになっている「終わりなき日常を生きろ」というフレーズはとても共感するし、素晴らしいものだと思う。ただ、本の内容からすると、筆者はこの「終わり無き日常」に永遠の若さが前提となっているような気がして違和感を感じる。
終わり無き日常が本当に何も変わらない日常であるならば、そこから抜け出すためにハルマゲドンを願う人がいるのは想像の範囲内だろう。しかし実際の「終わり無き日常」は毎日少しづつ変わってゆき、数年もすれば多くの場合すっかり様変わりしているものだ。なぜなら、時は公平に流れてゆくものだから。その中で多くの人は変化に翻弄されながら生きてゆく。「終わり無き日常」が実は同じもののように見えて少し -
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何かにすがって生きていかなければならないという状況自体は、特に珍しい現象ではない。むしろ、資本主義というある種のイデオロギーで生きて行き易い人たちの存在も居るだろう。特に、この本で描かれているようなブルセラ少女、ナンパ族とは、一体何処の誰で、どういう属性を持ち合わせているのかが重要になってくるだろう。例えば、援交少女という現象を一つ取っても、それ自体には、「少女」や「女性」といったような集合的な主語を使う事は無意味だろう。なぜなら、いくら学校制度が、外部の学者によって、その制度が批判されようとも、幾分かの生徒には、その制度に適応し、無事平穏な生活を営む事が出来るだろうからだ。つまりは、この本で
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