【感想・ネタバレ】終わりなき日常を生きろ ──オウム完全克服マニュアルのレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ 2021年05月04日

一見、オウム事件についての本かと思いきや…良い意味で裏切られました。地に足つけて、現実見据えて泥臭く生きる、そんな「かっこいい」生き方マニュアル。

0

Posted by ブクログ 2014年06月23日

『14歳~』を借りた時に隣にあって面白そう♪と思い背表紙借り。
よって、家に帰って初めてオウムと知った(^^;
あとがきに、緊急声明的な本…と書かれてたけど、充分普遍的。とっても興味深く読んだ。
『透明な存在の不透明な悪意』に先に出会ってる自分としては文庫版あとがきが、特に面白く感じた。

0

Posted by ブクログ 2014年03月30日

ポストモダン的な90年代解釈。終わりなき日常は戦後を通じた日本全体の前提として存在していたが、世代によりその対処方法が異なっていた。高度経済成長、全共闘世代、しらけ世代、新人類、オタク、そしてオウムなどの宗教、ブルセラ。
日本の大きな物語は東西冷戦構造共に崩壊したのではなく、戦後常にそこに存在し、個...続きを読む人をより小さな物語へと突き動かしつつあった。

0

Posted by ブクログ 2013年02月26日

とても面白くて読みやすかったです。
永久に輝きを失った世界のなかで、将来にわたって輝くことのありえない自分を抱えながら、そこそこ腐らずにまったりと生きていく知恵を身につける……酷だなぁ。私たちニート世代はどうなんでしょね。でもFBやTwitterで承認欲求を満たしてるひとは多いんじゃないかな。。

...続きを読む宮台さんが、後半の対談の中で「ひとは大人になっていく過程でそこそこの自分とそこそこの世界に耐えていくことができる。それを阻む装置を、観念であれモノであれ制度であれ、徹底的に破壊しつくすことが、僕の目的なの。」って言ってるのがカッコいい。

3.11は、ハルマゲドンだった?

あと、「コクリコ坂から」を観たときに抱いた憧れのような、もう永遠に手に入らないような気がしたものが一体何だったのか良くわかった。全てが暴かれてしまう前の、あの希望に満ち溢れたかんじ!まだムラ的な共同体が根付いているかんじ!全てが羨ましい。

0

Posted by ブクログ 2011年03月23日

 オウムの問題を切り口に、当時の社会を分析する。共同幻想が崩壊した後のどのように生きていくかを述べている。要所々々で挟まれるコラムは意味不明だけど、当時の空気をよくあらわしている・・・ように思える?

0

Posted by ブクログ 2009年10月04日

90年代の時代の指南書として良くも悪くもまとまってる本。これとポストモダンを押さえれば現代がいかなる時代か俯瞰出来ると思う。むしろこれよりも「まぼろしの郊外」の方にまとまった記述があるのでそちらもぜひ

0

Posted by ブクログ 2023年03月30日

■ 生き生きとした生命の実感をもたらす決戦のときもない世界。
過ちは永遠に記憶され、絶望は希望に変わらず、未来は単なる今日の延長。

■ 全面的包括要求そのものを放棄

■絶対的な善悪がわかりづらい(存在しない)昨今、相対的に善く、まったりと生きる。

■私たちの課題は、社会の内側で見捨てられる人た...続きを読むちに対して、どうやって承認していくか。
そして、論理なき自由な社会で、共同体的コミュニティを復活させていくか。

 

0

Posted by ブクログ 2020年03月21日


僕が今生きる地平はどのようになっているのか。
とりわけ戦後からの日本。現代日本とは何なのか?

失われた30年
日本が停滞していたことしか経験として知らない僕にとって過去の世代の断念がどのようなものなのか

オウムに魅せられた当時の若者
全共闘の終わり、シラケ世代、60年代生まれ

終末思想
...続きを読む アニメや漫画で描かれる終末後の共同体
あるいは現代の終わりなき日常

80年以降の生まれは世代としての断念を知ることなく、ゆっくりと衰退していく日本で終わりなき日常を生きている。

積極的な未来の希望があるわけではない。
むしろ未来をしっかり直視するのであれば、日本の将来は不安だらけだ。しかし、なまじ今の緩くて悪くない生活を感受していると、わざわざ大それたことを考えなくもいいと思えてしまう。

断念という経験すらないのだから、それは悲劇には成り得ない。共同体も最初から存在しない。あるのは学校や職場で作られる人間関係とSNSだけだ。

かつての若者がオウムに共振したのは、共同体の破壊と、未来への断念、終末思想、そうした背景があったからだろう。オウムの教えにあったような、破滅からの救済。
リセット願望。

追記
オウム以後。酒鬼薔薇聖斗事件についても触れられている

再びオウムのように宗教団体が力を持つかは分からないが、今の日本を見渡せば、失われた共同体、将来への不信、それらは何一つと解決されていない。

私たちが問題に慣れすぎて、むしろ問題を問題として十分に捉えることはなくなった。

終わりなき日常の適応化を果たしたといっても、将来は暗いばかりだ。いずれテロは起きるだろう。湯は冷めるのだから、ぬるま湯にいつまでも使ってはいられない。

社会の変化は水面化で起こり、私たちがそれを実感する時は急激な変化として見える。

それがテロによって引き起こされる可能性は無視できない




0

Posted by ブクログ 2014年02月11日

表現が理解できてない部分が多々あったものの、なかなか楽しく読めた
でもオウムを肯定することはできないし、自分がオウム側の立場に立つ可能性、これに限っては絶対にないと断言できる

0
ネタバレ

Posted by ブクログ 2013年03月01日

あの震災の日、津波で流されゆく建物や燎原の火に焼かれていく家々を、遠い九州の地からワンセグで見ながら抱いた妙な感情。明らかに「日常ではない」光景に対する、恐怖にもワクワクする気持ちにも似た気持ち。

その後様々な言論誌で見た、「『終わりなき日常』が終わった」という言葉。
例えば東浩紀は、「震災で僕た...続きを読むちはばらばらになってしまった。それは、意味を失い、物語を失い、確率的な存在に帰られてしまったということだ。」という(思想地図βvol.2 11頁より)。
その意味するところは、私にはわからなかった。しかしその言葉には、強烈に引きつける何かがあった。
震災以前に私がなんとなく過ごしてきた「終わりなき日常」って何だろう。そんな疑問にかられて、私はこの本を手に取った。

宮台真司は本書で、共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常こそが「終わりなき日常」であると主張する。
自分の生き方が肯定されない、何が正しいのかが分からないという、空洞となった良心には、「ハルマゲドンによる救済」という使命をオウムに植え付けられてしまう。だからサリンをばらまかないためには、何が良いことなのかという問いを一旦棚上げにして(深く考えすぎずに)、「まったり生きる」ことが必要なのだと言う。

なるほど、わかったようなわからないような。

本書を読んで、別の疑問も生まれた。
宮台が本書でその存在を喝破したような、「共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常」と、近年流行した日常系アニメの描写に見られるような、何の変哲もないぼんやりした日常とは、本当に同一なのか、ということである。
両者に同一性がない場合、震災後の問題に「終わりなき日常の終焉」を引き寄せて立論するあらゆるサブカルチャー言論は、一種のこじつけの操作を行っていることに他ならないのではないだろうか。
結局、「終わりなき日常」という言葉をアドホックに運用すると、私のように混乱する人が出てくると思う。


(余談)
自己同一性について浮動的な若者は現代に多い。そんな若者が、終わりなき日常の断絶を奇貨として、自らを社会の中に定位させようと試みる。
多くの学生が被災地ボランティアに向かうのも、そういうところに意図があるのかもしれない、といえばあまりに斜に構えた見方であろうか。


(抜粋)
『私たちに必要なのは、「終わらない日常を生きる知恵」だ。「終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」だ。その知恵を探るために、私は「終わらない日常」に適応したブルセラ世代を調べてきた。その私を「不道徳だ。非倫理的だ」と批判してきた「倫理的な」あなた。あなたのような知恵のない人たちが、「偽物の父親」を登場させ、サリンをばらまかせるのだ。』(114頁)

0

Posted by ブクログ 2012年02月09日

アダルト・チルドレンと宗教の関連性はもっと掘っていきたい。例えば八王子に創価学会があるのもその関係と言えるのだろうか?

0
ネタバレ

Posted by ブクログ 2011年05月11日

宮台先生のM2で宮台教に入信
触発されて、これまでの読書で引用が多かった(批判的な引用)この本を読んだ。

副題の通りオオム真理教・サリン事件の社会学的考察
時代的な系譜学としてサリン事件を位置づける。連赤から新人類〜ブルセラ〜オウム〜酒鬼薔薇聖斗
そしてその原因を社会学者・若者フィールドワーカーと...続きを読むして、宗教学等の豊富な知識を引っ張ってきて説明している。

今の所それらは説得的に思える。
本書に対する反対する本もあるし、余裕があったら読んでみようかしら。。

僕は何故彼に憧れるのか??
彼が僕の人生を知るのに役立ちそうだから?天才という超越の香りするからか。それ以上にもありそうである。言葉の端的さに惚れてるのかもwwww

あと僕の論理トレーニングとしても読んだ、途中で寝たり、中華食いに行ったりして、断絶したけど最後まで読めた。しかし、僕の国語能力は低いな。この書物から知識を得たい、これが知りたいと心から思って読書した事ってないな〜
宮台氏的に言う「試行錯誤の身につけさせる」教育が僕の国語教育では決定的に失敗してるな。。

まあ、いいや
内容は
最初に事件のキーワード「終わらない日常」「さまよえる良心」の提示
第一章で これまでのオウム分析批判 (宮)連赤との差異・オタク文化が要因となる条件にこそ注目すべきだ(ここは流石!!唸った)・宗教学者がオウム>幸福科学だったのは自我が弱かっただけ。
第二章
「さまよえる良心」:善き事をしたいという良心への志向が強ければ強い程、「何が善き事なのか分からない」という不透明感が切迫し、透明な真理への希求が高まる

「善きこと」が不透明な理由
内面的な「倫理」がもともと存在しない日本に置いて、共同体的な「道徳」が共同体とともに喪失。 「良心」の空洞化・・・(良心ー(倫理+道徳)=?)

神政政治の出現
  世代問題

第三章
「終わらない日常」と「核戦争後の終末性」という終末観
前者:輝かしい進歩もおぞましき破滅もない、日常のかでの永遠なる戯れしかない。→ディストピアに映る
後者:廃墟の中での団結や共同性というファンタジー
革命→輝かしき未来→脱力→
終わらない日常を生きる知恵という解決策の提示

第四章
終わらない日常が一番堪えるのは?
①外部がより必要な人②コミュニケーションスキルのより無い人
恋愛も宗教の代替物足り得ない

全体的包括要求を放棄
「まったり」生きる これが「終わらない日常」を生きる知恵・・・農村的な自意識の自足時給

あとがき
社会比して無我複雑になればななるほど、コストの低い認識方法を人々(各人各システム)は選ぶ
予言的中:①援助交際②AC(エヴァ)③親父(マッタリ生きられない)の迷走(失楽園、歴史教科書?)
酒鬼薔薇聖斗は反社会ではなく「脱社会的」。

0

Posted by ブクログ 2011年03月24日

オウムのような新興宗教にハマる人たちは、いったい何に惹かれているのか、自己啓発やヒーリングといったブームも根底は同じであり、終わりなき日常を生きる知恵を持たないものが引き寄せられる。
70~90年代のSFの変遷などと絡めた内容は、10年前の著作ながら、
今でも十分な説得力をもっていると思う。
現在の...続きを読むスピリチュアルブームも同じように理解できそうだ。

0

Posted by ブクログ 2009年10月07日

厄介なことに、私の中にある宮台さんのイメージっていうのは彼の著作からではなくて、ゴー宣とかで小林よしのり氏が批判的に語ってたような宮台さん像が強固であって(ああ小林さんの漫画の持つ影響力・インパクトって、中高生にとって、でかかったんだなあ・・・って今更ながら思いますが・・・)宮台さんの著作にちゃんと...続きを読む目を通す度に、そんな自分を猛省しています。
私はこの『終わりなき日常を生きろ』が、連赤とオウムの比較を試みていることなんて、本開くまで全く知らなかったので、自分の勉強不足を恥じています。

0

Posted by ブクログ 2009年10月04日

一時期この言葉が自分の中の合い言葉になっていた時期があった。
「終わりなき日常を生きろ」
そうやって世界の端っこからものを見ている感じに憧れていた。
だけど、終わりなき日常はもう乗り越えた。
日常はそんなに、泣きたくなるほど空虚ではない。

日常は終わらない。
だけど「生きろ」というほどの未成年的な...続きを読む激しさを乗り越えた。あるいは乗り越えてしまった。

制服少女にいい本だ。

0

Posted by ブクログ 2009年10月04日

『そのような過剰な単純化や一般化は、実は、現実にはありえないような架空の条件を夢想することを抜きにしては、ありえないものだ。確かに、認識ににもコストがかかる。環境を認識するとき、できるだけ低いコストで認識したいというのは、理由のあることである。(中略)ところが、社会システムが複雑になればなるほど、そ...続きを読むうした環境認識を前提にしてふるまうことは、自分や他人を危険にさらす確率を高めることになる。』

0

Posted by ブクログ 2012年06月25日

何かにすがって生きていかなければならないという状況自体は、特に珍しい現象ではない。むしろ、資本主義というある種のイデオロギーで生きて行き易い人たちの存在も居るだろう。特に、この本で描かれているようなブルセラ少女、ナンパ族とは、一体何処の誰で、どういう属性を持ち合わせているのかが重要になってくるだろう...続きを読む。例えば、援交少女という現象を一つ取っても、それ自体には、「少女」や「女性」といったような集合的な主語を使う事は無意味だろう。なぜなら、いくら学校制度が、外部の学者によって、その制度が批判されようとも、幾分かの生徒には、その制度に適応し、無事平穏な生活を営む事が出来るだろうからだ。つまりは、この本でいわれているような「終わりなき日常」という集合的な主語の使用による、二次的な暴力性が露呈する事もあり得るという事だ。この本でいわれているような「終わりなき日常」とは、何処にあるのだろうか。この本に登場する人物達の素性は、何処までが、その汎用性という観点に置いて、有効性を発揮するのだろうか。終わりなき日常という現象自体は、珍しい事ではないように思われる。歴史を見渡してみれば、そもそも仏教や、その他の宗教にも、個人という閉鎖された場所からの解放や、他人という異世界との結合、そして、「頭」という器官から生み出される、「無間地獄」という概念も、「終わりなき日常」を模写したような意味合いを含意しているような気がするからだ。では、なぜ、「終わりなき日常」という現象が、一部の人には、苦しくて辛いものなのだろうか。それは、既存社会という「集合的な主語」的な環境によって、社会から弾かれ、裸身になった事による寒さに耐えられないという事態が引き起こすものではないか。つまりは、「繋がり」や、「安堵」「居場所」の喪失により、自分という存在を相対化出来ずに、自己の絶対性から逃れられない、そういう事態が、辛く堪えられない現象を生み出すのではないだろうか。自己を絶対化する事によって、無限の自我の連鎖を生み出す。無限の自我という現象は、いわば、「不動」という固持を意味する。何処まで行っても何も見えないのは、逆にいえば、その部分から、一歩も進歩していないという事である。人間は、物理概念的に、思考を「空間」として、認識してしまう癖がある。それは、人間という生物が、三次元の物の見方をする所からの、一種の癖である。それを、意識的に、思考的にも「三次元」的な見方をしてしまうのだろうと思う。本来思考や、思想というのは、ある意味での「自己完結性」なのだと思う。そこに意味を見いだすのも、救いを見いだすのも、総ては、ベクトルを持たせるという意味に置いて、三次元的であるといえる。そもそも、何かに意味を見いだしたり、救いを見いだすというのは、それに置いても「自己完結性」である筈だ。しかし、その自己完結性が、総てを統括する「全体性」になってしまうとすれば、本来の意味で「自己完結性」という、「個人」または少数に分類されていた概念が、「暴力的な汎用性」を生み出す事になる。この暴力的な汎用性の被害者が、この本で描かれているブルセラ少女達なのではないか。

1

Posted by ブクログ 2020年07月06日

面白かったが、20年以上も前になると忘れ去れたら古い理論やアイデアに感じた。アカデミズム、社会学的なものにもある時を機会に断絶があるように感じた。

0

Posted by ブクログ 2015年09月21日

著者は、もはやユートピアを思い描くことが不可能になった「終わらない日常」を生きるために自意識を持たない道を選んだ女子高生たちの実態を解明した社会学者です。本書では、「終わらない日常」の閉塞感から逃れるためにオウム真理教にのめり込んでいった信者たちの軌跡をたどることが試みられています。

速水由紀子の...続きを読むコラムや、オウム真理教の村井邦夫と著者の架空の対談などもあって、興味深く読むことができました。ただ、著者が長く考察をおこなってきた女子高生の「終わらない日常」を生きる戦略とオウム信者たちの姿を対比させるという構成に、最初から結論が決まっているのではないかという印象もあります。

0

Posted by ブクログ 2013年03月26日

ここではないどこかを求めて煮詰まっちゃうと、現状への不満に対してその原因と解決策をぽんと出してくれちゃう宗教にはまっちゃいやすい、今楽しけりゃイイじゃん的なちゃらんぽらんはそういうのに絶対はまらない、みたいなはなし

0
ネタバレ

Posted by ブクログ 2013年03月03日

アダルトチルドレンが良い子になるのは家の中にセキュリティがないから
失敗しても帰るところがないので予測可能なことをやる
オウム信者は失敗したり薄汚れた自分に耐えられない<アダルトチルドレンぽい

幸せになれるかどうかは個人のコミュニケーションスキルにかかってくるのは難しすぎる
勉強できてもコミュニケ...続きを読むーションスキルがないと生きていけないということか…
(勉強もできないが)

恋愛はアダルトチルドレンをリカバリーする 子供の頃からやり直せる

より多くの人間が等身大のコミュニケーションを享受するようになれば、それが出来ないものは、そのコミュニケーション「からの」自由を求めるようになる<だから自分は人と関わりたくないのだろうか?

お金もなく勉強もできないから不幸だと思うよりも、お金もあり勉強もできるがコミュニケーションスキルがなく一人だというほうが追い詰められるほどに不幸

コミュニケーションスキルがなくても、そのままで大丈夫と言ってくれるのが宗教と恋愛

永久に輝きを失った終わりなき日常でそこそこ腐らずまったりと生きていく修行が必要

終わりなき日常を生きるとは何が良いのか悪いのかもわからない世界で腐らず生きること

0

Posted by ブクログ 2013年01月29日

読んだきっかけは、「東日本大震災、そして原発事故によって、『終わりなき日常』はもう終わった」という記載を読んでいたから。何で読んで気になったかを忘れてしまったのが残念…

その後もたびたび「終わりなき日常」という表現を見かけたこともあり、そもそもの定義、どういう本なのかを知りたくて、手に取った。

...続きを読むオウム、連赤、SF、コミュニケーション・スキル…
今読んでも、古くないと思う内容。

もう1年か2年くらいしたら、また読み返そうかな。

0

Posted by ブクログ 2012年11月22日

タイトルになっている「終わりなき日常を生きろ」というフレーズはとても共感するし、素晴らしいものだと思う。ただ、本の内容からすると、筆者はこの「終わり無き日常」に永遠の若さが前提となっているような気がして違和感を感じる。
終わり無き日常が本当に何も変わらない日常であるならば、そこから抜け出すためにハル...続きを読むマゲドンを願う人がいるのは想像の範囲内だろう。しかし実際の「終わり無き日常」は毎日少しづつ変わってゆき、数年もすれば多くの場合すっかり様変わりしているものだ。なぜなら、時は公平に流れてゆくものだから。その中で多くの人は変化に翻弄されながら生きてゆく。「終わり無き日常」が実は同じもののように見えて少しづつ流転してゆくものだと感じながら。もしかすると「終わり無き日常」を本当に終わりのない繰り替えしとして生きたがるのはオウムのような集団なのではないだろうか。
オウム後を生きる我々には、このようなメッセージが必要なのではないだろうか。
「終わり無き日常を生きろ。なぜなら、日常はかわってゆくものだし、その中には美しいものもきたないものも色々あるけど、その日常を自分の人生として生きることができるのは自分だけなのだから」

0

Posted by ブクログ 2011年08月09日

15年後の今だから分かることもあったり。終わりなき日常という概念はイマイチ感得できなかったのだが、コミュニケーションを全面的に背負わされる環境というのはやはり卓見だったと。テレクラ、ブルセラ、援交という宮台の初期の仕事は、出会い系にSNSそしてツィッターという流れのなかで、読み返してみる価値があるの...続きを読むかないのかw

0

Posted by ブクログ 2011年06月29日

僕らの生きている日常は決して終わりそうにない(それにたぶん、近々終わることはないと思う)。
そこから逃避することは各々の自由だが、それによって救われるかどうかは人それぞれである。しかし、逃避したくなる気持ちや、何らかの救いを求める想いは、多かれ少なかれ僕たちの中にあるのだろう。人がそんな心境にあると...続きを読むき、社会(=私たち)はどんな反応を示すであろうか。「あの時代」を振り返るとともに自分を見つめ直すのにはよい本かもしれない、と思う。

0

Posted by ブクログ 2011年04月16日

オウムを知るというより、オウム真理教の構成員の中でとりわけ人数の多かった、
新人類またはバブル世代が、どうしてこの「神秘主義」主体の宗教に惹かれてしまったのか。彼らの生まれ、育った時代背景の雰囲気がよく描かれている。
流行の宗教の背景には、かならず時代の持つ特有の雰囲気があり、
今でこそ、宗教学の流...続きを読むれでは、新しい「分類」にわけれられるオウムだが、
16年前の著作である本書は、まだ生々しさを残しながらも、適切な分析をしていると感じる。この時代に宗教にハマッってしまった人は多いのではないかと思う。
オウムに限らず、この世代を理解するのにはとても判りやすいと感じる。
☆が3つなのは、もう少し掘り下げた内容でも充分読み応えがあったとおもう、という残念票。

0

Posted by ブクログ 2010年05月23日

いまさらwwwですが読んでみたい。
「終わりなき日常」そうなんだよねー。そんな気分ですよ。
でも、その中を生きてゆかなければならないのであって。
世界は多分、変わらないんだと思っています。

0

Posted by ブクログ 2009年10月04日

高2の夏に初めて見た…井上嘉浩(オウム真理教最年少幹部)の中学校3年のころの詩が偶然載ってた…。
宮台さんの言うとおり、終わりなき日常の中で漠然と「正しいこと」を考えてたら、いたずらに逡巡して、迷走を繰り返すだけなのかもしれない。
人って学ばない。ただあまりにも可塑的なだけ。

0

Posted by ブクログ 2009年10月04日

95年のオウム事件、今となっては相当古いテーマだなぁ、と思ってしまいがちだが、その内側にある、「反社会性から突き抜けた脱社会性」というテーゼは、現代においても用いることのできる図式であるように思う。

しかし、上祐とか、懐かしいな。

0

Posted by ブクログ 2009年10月04日

宮台氏の一連の著作は読んでいたのでこれはいらなかったかな。

「まったり革命」を叫んでたころの意図が読み取れる。

今後、女子高生は一部メンヘラ化したらしい。

0

「学術・語学」ランキング