あらすじ
「さまよえる良心」と「終わりなき日常」をキーワードに、今最も活発な発言を続ける著者が、オウムと現代社会を分析する。社会が成熟し、幻想が共有されなくなった時代、人はそれぞれの物語を生きるようになっている。その後の事件、状況分析を加えたあとがきを新たに付す。
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Posted by ブクログ
あの震災の日、津波で流されゆく建物や燎原の火に焼かれていく家々を、遠い九州の地からワンセグで見ながら抱いた妙な感情。明らかに「日常ではない」光景に対する、恐怖にもワクワクする気持ちにも似た気持ち。
その後様々な言論誌で見た、「『終わりなき日常』が終わった」という言葉。
例えば東浩紀は、「震災で僕たちはばらばらになってしまった。それは、意味を失い、物語を失い、確率的な存在に帰られてしまったということだ。」という(思想地図βvol.2 11頁より)。
その意味するところは、私にはわからなかった。しかしその言葉には、強烈に引きつける何かがあった。
震災以前に私がなんとなく過ごしてきた「終わりなき日常」って何だろう。そんな疑問にかられて、私はこの本を手に取った。
宮台真司は本書で、共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常こそが「終わりなき日常」であると主張する。
自分の生き方が肯定されない、何が正しいのかが分からないという、空洞となった良心には、「ハルマゲドンによる救済」という使命をオウムに植え付けられてしまう。だからサリンをばらまかないためには、何が良いことなのかという問いを一旦棚上げにして(深く考えすぎずに)、「まったり生きる」ことが必要なのだと言う。
なるほど、わかったようなわからないような。
本書を読んで、別の疑問も生まれた。
宮台が本書でその存在を喝破したような、「共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常」と、近年流行した日常系アニメの描写に見られるような、何の変哲もないぼんやりした日常とは、本当に同一なのか、ということである。
両者に同一性がない場合、震災後の問題に「終わりなき日常の終焉」を引き寄せて立論するあらゆるサブカルチャー言論は、一種のこじつけの操作を行っていることに他ならないのではないだろうか。
結局、「終わりなき日常」という言葉をアドホックに運用すると、私のように混乱する人が出てくると思う。
(余談)
自己同一性について浮動的な若者は現代に多い。そんな若者が、終わりなき日常の断絶を奇貨として、自らを社会の中に定位させようと試みる。
多くの学生が被災地ボランティアに向かうのも、そういうところに意図があるのかもしれない、といえばあまりに斜に構えた見方であろうか。
(抜粋)
『私たちに必要なのは、「終わらない日常を生きる知恵」だ。「終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」だ。その知恵を探るために、私は「終わらない日常」に適応したブルセラ世代を調べてきた。その私を「不道徳だ。非倫理的だ」と批判してきた「倫理的な」あなた。あなたのような知恵のない人たちが、「偽物の父親」を登場させ、サリンをばらまかせるのだ。』(114頁)
Posted by ブクログ
宮台先生のM2で宮台教に入信
触発されて、これまでの読書で引用が多かった(批判的な引用)この本を読んだ。
副題の通りオオム真理教・サリン事件の社会学的考察
時代的な系譜学としてサリン事件を位置づける。連赤から新人類〜ブルセラ〜オウム〜酒鬼薔薇聖斗
そしてその原因を社会学者・若者フィールドワーカーとして、宗教学等の豊富な知識を引っ張ってきて説明している。
今の所それらは説得的に思える。
本書に対する反対する本もあるし、余裕があったら読んでみようかしら。。
僕は何故彼に憧れるのか??
彼が僕の人生を知るのに役立ちそうだから?天才という超越の香りするからか。それ以上にもありそうである。言葉の端的さに惚れてるのかもwwww
あと僕の論理トレーニングとしても読んだ、途中で寝たり、中華食いに行ったりして、断絶したけど最後まで読めた。しかし、僕の国語能力は低いな。この書物から知識を得たい、これが知りたいと心から思って読書した事ってないな〜
宮台氏的に言う「試行錯誤の身につけさせる」教育が僕の国語教育では決定的に失敗してるな。。
まあ、いいや
内容は
最初に事件のキーワード「終わらない日常」「さまよえる良心」の提示
第一章で これまでのオウム分析批判 (宮)連赤との差異・オタク文化が要因となる条件にこそ注目すべきだ(ここは流石!!唸った)・宗教学者がオウム>幸福科学だったのは自我が弱かっただけ。
第二章
「さまよえる良心」:善き事をしたいという良心への志向が強ければ強い程、「何が善き事なのか分からない」という不透明感が切迫し、透明な真理への希求が高まる
↓
「善きこと」が不透明な理由
内面的な「倫理」がもともと存在しない日本に置いて、共同体的な「道徳」が共同体とともに喪失。 「良心」の空洞化・・・(良心ー(倫理+道徳)=?)
↓
神政政治の出現
世代問題
第三章
「終わらない日常」と「核戦争後の終末性」という終末観
前者:輝かしい進歩もおぞましき破滅もない、日常のかでの永遠なる戯れしかない。→ディストピアに映る
後者:廃墟の中での団結や共同性というファンタジー
革命→輝かしき未来→脱力→
終わらない日常を生きる知恵という解決策の提示
第四章
終わらない日常が一番堪えるのは?
①外部がより必要な人②コミュニケーションスキルのより無い人
恋愛も宗教の代替物足り得ない
↓
全体的包括要求を放棄
「まったり」生きる これが「終わらない日常」を生きる知恵・・・農村的な自意識の自足時給
あとがき
社会比して無我複雑になればななるほど、コストの低い認識方法を人々(各人各システム)は選ぶ
予言的中:①援助交際②AC(エヴァ)③親父(マッタリ生きられない)の迷走(失楽園、歴史教科書?)
酒鬼薔薇聖斗は反社会ではなく「脱社会的」。
Posted by ブクログ
アダルトチルドレンが良い子になるのは家の中にセキュリティがないから
失敗しても帰るところがないので予測可能なことをやる
オウム信者は失敗したり薄汚れた自分に耐えられない<アダルトチルドレンぽい
幸せになれるかどうかは個人のコミュニケーションスキルにかかってくるのは難しすぎる
勉強できてもコミュニケーションスキルがないと生きていけないということか…
(勉強もできないが)
恋愛はアダルトチルドレンをリカバリーする 子供の頃からやり直せる
より多くの人間が等身大のコミュニケーションを享受するようになれば、それが出来ないものは、そのコミュニケーション「からの」自由を求めるようになる<だから自分は人と関わりたくないのだろうか?
お金もなく勉強もできないから不幸だと思うよりも、お金もあり勉強もできるがコミュニケーションスキルがなく一人だというほうが追い詰められるほどに不幸
コミュニケーションスキルがなくても、そのままで大丈夫と言ってくれるのが宗教と恋愛
永久に輝きを失った終わりなき日常でそこそこ腐らずまったりと生きていく修行が必要
終わりなき日常を生きるとは何が良いのか悪いのかもわからない世界で腐らず生きること