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中学しか出てない西村賢太の文章のかっこよさと面白さって自主的な読書で得たものだから、ほんと才能を磨くのに学校教育は関係ないんだろうなと思う。
西村賢太は父親が性犯罪者だからそうなりたくないからその父親が好きだったものの逆を趣味にしてたらしい。
西村 賢太(にしむら けんた)
一九六七年七月一二日、東京都江戸川区生まれ。中卒。二〇〇七年、『暗渠の宿』で第二九回野間文芸新人賞を、二〇一一年、「苦役列車」で第一四四回芥川龍之介賞を受賞。著書に『どうで死ぬ身の一踊り』『二度は行けぬ町の地図』『小銭をかぞえる』『廃疾かかえて』『随筆集 一私小説書きの弁』『人もいない春』『寒灯・腐泥の果実』...続きを読む 『西村賢太対話集』『一私小説書きの日乗』『棺に跨がる』『歪んだ忌日』『けがれなき酒のへど 西村賢太自選短篇集』『一私小説書きの日乗 憤怒の章』『薄明鬼語 西村賢太対談集』『随筆集 一私小説書きの独語』『やまいだれの歌』『下手に居丈高』『一私小説書きの日乗 野性の章』『無銭横町』『痴者の食卓』などがある。
東京者がたり
by 西村賢太
とは云え、それも父親の起こした性犯罪で夜逃げしてからは状況が一変した。母親から、後楽園にゆくことを一切止められてしまったのだ。万が一、その同級生と鉢合わせになることを恐れていたようであったが、しかしこれは余りにも気を廻し過ぎのきらいはあった。だが肝心の球場までの交通費を貰えないのだから、どうにもならない。しばらくは、たまさか中継されるラジオのナイター放送で渇をいやしていたが、次第に私の興味は横溝正史や大藪春彦の小説世界の方に傾き始め、比例して野球熱も冷めてゆく塩梅となった。
私の生まれ育った町は荒川を渡り中川を越えた、新中川と江戸川に挟まれる位置に在していた為か、これで川と云うものに対する愛着は人一倍強くできている。 が、川ならば何んでもいいと云うわけでもない。それはどこまでも、自身の地元の川に限られているようだ。 たとえば私はこの十数年間、大正期の或る私小説家の墓参の為に、能登の地にしばしば赴いている。その墓所のある七尾には、 御祓 川 と云うのが流れている。帰路に立ち寄る金沢には、犀川と浅野川と云う有名な川がある。
十五で家を出た私が、最初に独り暮しを始めたのは鶯谷の三畳間だった。その頃は扇風機一台持てず、日雇い仕事にゆかぬ日なぞは室内の暑さに辟易し、二十分程歩いた浅草の三本立映画館によく避難した。そして冷房の利いた館内で夜までを過ごしたのちに、また蒸し暑い部屋に帰る段には、必ず吾妻橋の真ん中辺に佇んで、小一時間程も暗い 川面 を眺めるのが常だった。
毎々繰り返しのように云うが、何んと云っても私の父は、とんでもない性犯罪者である。すでに他人として、現在まで三十五年が経っているとは云い条、その遺伝子を受けついでいる事実までは変えようがない。だからこそ私は、父親の趣味嗜好とはことごとく逆をゆくことを心がけていた。 私が車の免許を持たないのは、かの父親が外車マニアであり、零細運送店を経営していたことと無縁ではないし、趣味としてはカントリー・ミュージックを好み、夥しい数の洋楽レコードを収集していたそのせいで、私は音楽に殆ど興味を寄せなくなった。かわりに、先方が好まなかった小説世界に没頭するようにはなった。で、煙草や酒もこのデンと云うことになる。
だが、そんなにして心ならずも足止めを食らった格好になりつつ、住めば都とはよく云ったもので、英光の要素を抜きにしても、この旧花園町は案外に居心地が悪くないのである。 何しろ、どこへ出るのにも利便な地だ。そして充分都心であるわりに、田舎者が好むような浮わっついたところが不思議とない。旧青線地帯の 残渣 を漂わせつつ、数十メートルも進めば新宿二丁目に紛れ込むデンジャラスな感覚は、そこに棲む者に程良いデカダン気分も喚起せしめてくれるのだ。 よく、書き手の中にもこの界隈に在住することを述べられるかたがいるが、確かにその独得の雰囲気ゆえに、ちょっと誇りたくなるような町ではある。 私もまた、一面では一つの目標をなくした喪失感を抱えつつ、それだけにこの些か非日常的な小空間の、闇に紛れるような起居には安寧を覚えて、 結句 ズルズルと棲み続けることになってしまった。
いったいに私はサブカルと云うのと、それを好む人間が大嫌いである。そして小演劇と云うのと、それを好む人間が大嫌いである。 ともに、概して田舎出の者が多いのが不思議だが、つまるところ東京に来て調子にのっている田舎者が、本当に不愉快でならないのだ。アングラ芝居の関係者がその地のバーで、朝まで演劇論を闘わせ、ときには摑み合いにも発展するとか云う、自己満足の猿芝居はまことに〝臭い〟と思うし、その街を闊歩していっぱしの東京人を気取る百姓と、それを許容する周囲との甘えた馴れ合いは気味が悪くて仕方がない。まったくもって、人も街も安雑貨だ。
そうだ。これは別段下北沢に限らず、どうも私は世田谷区全体が嫌いなのだ。
拙作『苦役列車』では、主人公である私の分身、北町貫多が上京して、ムヤミと世田谷か杉並(阿佐ケ谷、高円寺、荻窪辺)に住みたがる手合いを罵倒する場面がある。そして下北沢の小劇場だの、ニューアカ、サブカル系のトークショーに露骨に拒否反応をあらわす場面もあった。
元来が横溝正史の小説から読書好きとなった私は、その七〇年代にまきおこったブームの先鞭たる『横溝正史全集』を二度に亘って刊行し、「犬神家の一族」や「女王蜂」の掲載誌である『キング』発行元の同社には、妙な云い方だが一方的にインチメートな感じを抱いていた。
中学を出て一人暮しを始めて以降、種々のアルバイト業で生計を立ててきた──なぞと云えば、何かいっぱしの苦労人ででもあるかのような言い草にもなろう。 また、或る新人賞を得た拙作が「苦役列車」なる題名の私小説で、その内容も性犯罪者を父に持つ十九歳の中卒青年が、港湾の日雇い人足に従事しつつ一杯のコップ酒を心の支えとし、夢も希望もない日々を送って云々、との紹介をされることが多いとなると、これはもう、尚更のことにかような苦労人風のイメージを持たれがちである。
いつかのこの欄でも述べたが、蒲田には馴染みの深かった一時期がある。母方の菩提寺への最寄り駅であった故だが、しかしその隣りの大森となると、これは全く無縁の地だ。
当然、蚊の襲来も激しいものがあり、明け方に、ようやく暑さが僅かに収まった間隙にまどろんでも、耳元へその羽音が近付くと条件反射的に起き上がって、これを両手で叩き潰すことを繰り返さざるを得ぬ。 だから夏場の私のその 室 での睡眠時間は、平均して二、三時間と云ったところであったから、この時期はしばしば母親の住むエアコン付きの町田のアパートへ、金の無心も兼ねた、眠りの補給の目的の〈帰省〉を行なっていたものである。
で、このときの私は三十一歳になった直後だったが、相変わらずの独り身で、相変わらず恋人も友人もいなかった。 それが故、かの大病院を出た私は、取りあえず一度、宿に戻った。当時は新宿一丁目の豚小屋──本連載の〈旧花園町〉の項で述べたところの宿に棲んでいたが、身の廻りのものと数冊の本を紙袋に詰め、それから改めて、目と鼻の先の新宿通り沿いの中病院へと赴いたものである。