井沢元彦のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
10年以上前から愛読している、逆説の日本史の最新単行本が出版された(2017.11)ようですが、本屋さんの店頭で迷った挙句、この本を先に読むことにしました。
というのも目次を見て、秀吉が織田家からどのような手順で天下を取ったのかが、この本では詳細に解説されていると思われたからでした。久しぶりの大阪南部への出張で新幹線の乗車時間も少し長め、往復で楽しく読むことができました。
信長の失敗を秀吉が修正して引き継ぎ、秀吉の失敗を参考にして家康が引き継ぎ、家康自体も失敗をしてそれが明治維新へつながった、歴史は一つに繋がっていることを改めて感じさせられた本でした。
以下は気になったポイントです。
・織田軍の最大の特徴は、その多くがお金で雇った傭兵だった、農民兵と違い季節を問わず軍を動かせるメリットはあるが、同時に主君に対する忠誠心が薄い。本能寺の変の時、傭兵たちはわれ先にと逃げ出した(p22)
・幸運は恵まれることより、きちんと活かすことの方が、実は何倍も難しい。それをやったのが秀吉(p27)
・秀吉は自身が足軽出身だったので、足軽の辛さがわかっていた。そこで装備は外して別便(船便)で送り、自分たちは可能な限り身軽になって走る、という普通の武将には思いつかない方法を思いついた(p29)
・光秀が思った以上に兵を集められなかったのは、信長の死んだ証拠である「首」をあげられなかったこと、信長の三男・信孝が秀吉についてしまい、大義名分が秀吉にあったことにある(p32)
・秀吉は、京都の名刹・大徳寺で信長の豪華絢爛な葬儀を行った、このときの喪主は信長の四男で秀吉の養子となっていた、於二丸秀勝であった(p46)
・秀吉は、次男の信雄が三男の信孝に対して、清須会議で決めたことを速やかに履行しないのは約定違反だと言わせて、秀吉は信雄の命を受けるというかたちで岐阜城を攻めた。長浜城に柴田勝家がいれば、このようなことはなかっただろう。岐阜城はあっけなく落とされ、三法師は奪われ、長浜城をも取り戻した、柴田勝豊を寝返らせることで(p50)
・賤ヶ岳の戦いでは、前田利家の戦線離脱により拮抗していた戦いのバランスを崩し、佐久間盛政軍を敗走へ追い込んだ、東大の敷地を提供した大名が前田家であり、東大と前田家は深いつながりがある(p56、63)
・賤ヶ岳の戦いで負けた柴田勝家の妻と、浅井長政三姉妹は、秀吉が救っている話は有名だが、実はこのとき、この機に乗じて織田信孝を死に追いやっていることはあまり知られていない。このとき秀吉は、信雄の命令だ、というかたちをとって信孝に切腹を命じた(p64)
・大坂城の初代城主は織田信長、二代目は池田恒興、秀吉は三代目である(p68)
・信雄の家老・重臣達3名を秀吉に内通しているとして殺してしまった、これは信雄軍は1万五千の兵を動かせなくなったことに相当する、これは信雄が動かせた兵(三万)の半分に相当する(p75)
・関白とは、藤原氏が天皇家から実権を奪うために創設した地位であり官職ではない、摂政という役職は朝廷にあtった。天皇の代理ができる権限を天皇が成人した後も行使できるとしたのが関白であった。関白は五摂家の嫡男は皆なれた、終身ではないので二年程度で次の家に位を譲るのが暗黙の決まりとなっていた(p93)
・猶子(ゆうし)とは、養子の一種である、財産を継ぐ権利を持たない養子であるが、地位は継げる(p92)
・姓は自らの血筋を示すもの、苗字はもともとは住んでいる場所を示すものであった、五摂家は「近衛・鷹司・九条・二条・一条」と異なる苗字で区別されるが、彼らの姓はすべて同じ「藤原」である、秀吉は「豊臣」姓を天皇から賜り、既存の姓「源」「平」「藤原」「橘」よりも上位の姓に位置づけることで、関白につけるのは「豊臣」に限るとした(p93)
・太政大臣までは天皇の臣下なので「閣下」であるが、関白は準皇族的地位なので「殿下」となる、太閤殿下となる(p93)
・日本ではふんだんに取れる硫黄は、中国では貴重品であった、キリシタン大名は硫黄を輸出して、貴重な硝石を得ていた(p98)
・征伐という言葉を使えるのは、野蛮な悪い奴らをやっつけるという意味があり、使えるのは天皇のみ。しかし関白も天皇の権限をすべて代行できるので使える(p99)
・信長のイベントは「見せてやるぞ」という公開型イベント、秀吉のイベントは、一般参加型を目指している。初めてのイベントが、北野大茶湯と呼ばれるもの(p115)
・以前と比べて秀吉の天下が良かったと思わせた源泉は、庶民に楽しみを与え、使える人々にはお金を惜しみなく与えるという秀吉の政治手法である。金と楽しかった思い出が、秀吉のやった悪辣なことを全て覆い隠してしまった(p119)
・北条を滅ぼした後、家康の地(三河・遠江・駿河)を与え、尾張を返納させようとした、これを断った信雄は大名の座から追放され、剃髪した後に秀吉の相伴衆となった(p124)
・江戸が都市に向かない理由として、1)防衛上の問題(江戸エリアは意外にデコボコ)、2)大きな川がすくなく水が少ない、このために歴代の政権が江戸に本拠を置かなかった、そのため小石川(神田)、玉川、本所、青山、三田、千川と6つの上水がつくられた(p129、130)
・秀勝という名前は、石松丸の正式名である、最初に養子にした信長四男、その後の養子にした秀吉甥が「小吉秀勝」、長浜時代に秀吉に実子がいて、早世したその子の名前が「秀勝」だったと考えられる(p140)
・辻斬りは、一種の基礎訓練、試し斬り、であった、こうした辻斬りに対するイメージが大きく変わったのは、実は秀吉の時代から。大名同士が直接武力で問題解決をすることを禁じる「惣無事令」が出された。しかし殺生行為が罪悪だという意識が浸透したのは、五代将軍・綱吉による「生類憐みの令」が出されてから(p146)
・秀次は多くの妻を娶っていたが、ほとんどが大名の子女であった、その一族が全て殺されたので、その恨みは忘れられなかった、関ケ原の戦いのときに下された東軍西軍、どちらにつくかの判断に大きく影響した、この事件は豊臣政権を弱体化させた(p147)
・秀吉は、朝鮮国が日本の対馬を治める大名、宗氏の支配下にあると思っていたが、実際は宗氏は昔から日本と朝鮮半島の仲介をしていたのみ(p151)
・秀吉は唐入りを行ったのか、答えは天下を統一して平和になってしまったから、仕事がなくなってしまった40万もの専業兵士に対する雇用対策(p154、157)
・世界史を見れば対外侵略戦争はめずらしくない、アレキサンダー大王、ローマカエサル、モンゴル・ジンギスカン、ナポレオンも同様(p156)
・秀吉は、この「唐入り」で、豊臣政権の最大の弱点である「徳川家康」の存在感を小さなものにしようとしていた、勝った時のことを考えて、まだ領地の大きくない、加藤清正・小西行長を中心に遠征軍を組織した(p159、161)
・実行段階で、兵站線をきちんと確保していなかったのは失敗の原因、さらに徳川家康・黒田官兵衛という日本最強部隊を使わなかったことも敗因の一つ(p164)
・文禄の役や、唐入りの過程で余儀なくされた戦いであったが、慶長の役の目的は、裏切った朝鮮を懲らしめるための報復戦であった(p169)
・高台院(ねね)が家康に西の丸を明け渡したということは、秀吉のつくりあげた政権の後継者として秀頼よりも家康を支持したことになる(p178)
・大谷吉継が指摘した三成の欠点、1)言葉遣いが横柄、2)大将としての人望や器がない、3)決断力のなさ(p184)
・西軍最強部隊とは、筑後の国・柳川の領主である、立花宗成率いる軍、唐入りの時も何万もの明軍を相手に大活躍している(p193)
・軍事才能がなく、経験も少なかった三成は、戦局を見て引くべきタイミングを判断することも、素早く引くという決断もできなかった(p206)
・家康は関が原の戦いにおいて、奥平貞治という目付け役を小早川隊に派遣していた、かつて織田信雄と組んだときに目付を置かなかったことで、むざむざと講和を結ばれた経験があるため(p213)
・長門の国に首府があることから長州藩と名乗るようになるが、萩藩が正式名称、人間の心理は不思議で、4分の1(120→36)にされるよりも、いっそゼロにされた方がまだ諦めがつく。石高が4分の1になったことで、皆が恨みをもった、初代藩主を悪く言えないので、すべては家康が悪いことになった、この恨みが幕末における倒幕エネルギーとなった(p223)
・同様に島津藩も、本領を安堵されたが、島津家として的中突破のときにさんざん叩かれた恨みは忘れなかった、毎年旧暦9月15日に敵中突破した日を記念する行事を行ってきた。現在は10月の第四土日となった(p224)
・秀吉が家康を潰せなかったことが豊臣家滅亡に繋がったように、家康が毛利・島津を潰せなかったことが、江戸幕府滅亡に繋がった。ライバルを徹底的につぶせなかったことが大失敗(p225)
・秀吉は関白という権威を得て織田家の天下を乗っ取った、家康は鎌倉幕府以来の伝統、武家の棟梁の立場である「征夷大将軍」になる道を選んだ。これは天皇が武家の棟梁であることを認めた職である(p230)
・関ケ原の戦い後に、家康は豊臣秀吉の直轄地を取っている、そこは金山・銀山、貿易港で、石高には反映されない「金の卵」が含まれていた(p233)
・もし大坂夏の陣の前に家康が病死していたら、二代将軍秀忠と豊臣家の間で、何等かの妥協が成立していたかもしれない(p264)
・幕府という名称は、遠征軍が遠征地で設営する仮設基地を語源としている、鎌倉幕府は当初東日本のみで、西は朝廷が治めていた、後鳥羽上皇が承久の乱で敗れて、支配領域が西に広がった(p270)
・織田信長時点までは、支配体制は、朝廷=関白、か幕府=将軍、しかなかった。そんななかで信長は、それらを超えた天下人という概念を考えた(p270)
・天皇が絶対なのは、天皇が神の子孫であるから、本願寺の顕如は阿弥陀如来の代理人であるから強かった、それらを超越する存在として、「天下人」になる必要があった(p273)
・徳川家康が、それを成功させた、東照大権現という神になることに成功した、秀吉は当初「新八幡」として祀られることを望んでいた。明治以降になって「大明神」の称号をもらって、豊国大明神を祭神とする「豊国神社」が再建された(p274、275、276)
・権現とは、仏教と神道が融合した思想で、天台宗の僧侶、天海僧正により主張された(p277)
・天皇家の祖神が「アマテラス大神」なのに対して、将軍家の祖神となった家康の神号は、「アズマテラス大権現=東照大権現」である、アマテラスからアズマテラスへの国譲りという新たな神学が完成している、東海道53次というのは、この世から観音様の住む浄土までに53の宿駅があるという伝説に基づく、江戸という「今の都=この世」と、京都という「過去の都=浄土」を結ぶ道を暗示している、天皇の都である京都は、もはや過去の世界であるという意味がこめられている(p278、280)
・天才とは、それまで誰もやったことがないことを、思いつき、取り合えずやってみる人である、そういう意味では信長は天才であった、あまりにも突拍子のないことを思いつくので失敗した、でもその失敗があったからこそ、失敗をクリアした家康がいた。(p282)
・天皇家という存在を超えられなかったことが、幕末の尊王攘夷運動、王政復古、そして徳川幕府の崩壊につながった(p283)
2017年11月11日作成 -
Posted by ブクログ
ネタバレ世界の平和を考え、世界の民族との協調を望むのであれば、彼らが信じる宗教はどのようなものか、国際問題では何が争点となっているのか、その背景は何かを知らなければならない。同時に日本人の宗教にどのような特徴があるかを知ることは、日本人としてのアイデンティティを確立するうえでも、あるいは世界の宗教を理性的に知る上でも必要である。「宗教音痴」では国際問題は理解できない。国際人の入門書として、本書は有益だ。印象に残った点を纏めると次のとおり。
1.和の世界
日本人の思想は、「和」によって規定されている。これは弥生時代の環濠集落の「環」→「輪」→「和」に由来すると考えられる。また、聖徳太子が作った「十七条憲法」の最初と最後の条文は次のように記されている。
第1条 和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本とせよ。
第17条 ものごとはひとりで判断してはいけない。必ず皆で論議して判断せよ。
この「和の精神」「話し合い至上主義」は、日本特有のものである。仏教や儒教からくるものではない、神道と深い関係の「怨念」を恐れる日本人の知恵である。しかし大切なことは、明確な原則(真理=宗教的教えなど)が共有されない話し合いは、情緒的になり、過ちを犯すことがあるということだ。ここが「話し合い至上主義」と「民主主義」の大きな違いであることを認識しなければならない。
2.ユダヤ教の世界
キリスト教の『新約聖書』マタイ伝に、ユダヤ人がイエスを十字架にかける場面がある。ここからくるキリスト教徒のユダヤ人に対する差別意識が、「ホロコースト」生んだ。ホロコーストは、戦時下の非常時に始まったのではない。平時の選挙において正当な手続きを経て政権を握った政党が、ドイツ市民の支持のもとに始めた政策であることに着目しなければならない。「ユダヤ人はキリスト教において罪人」なのである。
そして、ホロコーストが燒結を窮めた理由の一つに、カトリック教会が黙認したという事実もある(2000年になってバチカンは「ホロコーストの際にそれを知っていながらにして、何もしないのは間違いであった」という見解を公式発表する)。ホロコーストを、ナチス政権の犯罪とのみ捉えていると、問題の本質を見誤ってしまう一例である。
3.キリスト教の世界
中世ヨーロッパで聖書の」「解釈権」を持っていたのは、ローマ教皇ただ一人。ローマ教皇を頂点とした解釈権に対し、「私の聖書の解釈を認めろ。弾圧するな」と抗議をした人たちがプロテスタント。プロテスタントが拡大する背景には、グーテンベルグによる印刷革命(1445年頃の活版印刷技術の発明)とそれによる聖書の普及があった。
キリスト教本来の教えからいえば、カトリックのような人間の上下関係はなく、全員が平等。これらの思想(プロテスタンティズム)が、民主主義、資本主義を生み出していく。
その一方、共産主義(マルキシズム)の特徴は「無神論」。キリスト教徒からすると、無神論者や共産主義者の国は、近代人権主義に悖る「悪の帝国」に見えるのだ。東西冷戦も背景に宗教問題があったのだ。実際、ゴルバチョフの「私はロシア正教の洗礼を受けていた」という発言が、両者歩み寄りの第一歩だった。
4.イスラム教の世界
イスラム教の神「アッラー」は、ユダヤ教やキリスト教が信じる神と同じ造物主。信徒は「一神教が完全な形になったものがイスラム教である」と考える。イスラム教からすると、イエスはキリスト(救世主・神)ではなく預言者のひとり。キリスト教は「神の偽物」を信仰しているということになる。
イスラム教徒には、六つの信(イマーン)、五つの行(イバーダート)がある。律法を守り、戒律をきちんと実践しない限りは信じていることにならない。つまり、「内なる人」と「外なる人」の区別を認めない点も、キリスト教徒などと異なる特徴である。
イスラム教は、異教に対しては寛容な態度をとるが、異端に対しては非常に厳しい態度で臨む。異端の方が、アッラー(神)に対して冒涜であると考えるからである。
5.仏教の世界
仏教には膨大な数の経典があり、それぞれが正しい仏の言葉であるとされているから、話がややこしい。根本経典がないのである。
しかし、もともと釈迦(ゴータマ・シッダルタ)が目指したのは、この世は無常であるがゆえに、人間は生老病死という苦しみから逃れることができないという厭世観。だから輪廻転生からの解脱を目指したのである。そのため釈迦は厳しい修行を乗り越えた。
日本の仏教では、禅宗が釈迦の仏教に近い。しかし、平安時代末期以降に広まった浄土信仰(阿弥陀信仰)は、あまりにも、釈迦の仏教からかけ離れている。中国の「観想念仏」(日常のあらゆる機会を捉えて阿弥陀如来のいる極楽を思い浮かべよ)の影響を受け、「南無阿弥陀仏」を百万遍(回)唱えよといった法然、「信」のみでよいといった親鸞、「信」もいらないといった一遍。ここまで来ると、釈迦が目指したものとは異なるし、とても宗教とは思えない。
日本の仏教が、今の日本の社会の中で、宗教としての意味ある役割を果たしているとは思えない。その原因は、江戸時代の檀家制度や明治時代以降の僧侶の妻帯、家督相続制度などがある。日本の仏教界の改革を願う。
6.神道の世界
ここで主に触れられているのは、「言霊」と「穢れ」。
6世紀に日本に仏教が伝えられる以前から、日本では「怨霊」が信じられていた。大陸から百済の王を通して伝えられた仏教の世界には「霊」という発想がないが、日本の天皇家は、仏教に対して「怨霊」鎮魂を期待した。奈良の大仏がその典型で、日本的仏教とでもいうべきものが生まれる。
また、平安時代は中期まで平安貴族が権力を握っていたが、末期から武士が力をつけ、鎌倉時代以降には武士が実質的に日本を支配する時代が来る。それでは、貴族が政権を奪われるときに戦いは起きたのか。なかったわけではない。承久の乱や建武の新政に係る戦いがある。しかし、実際には、平安貴族や天皇が武士を雇って、武士同士で戦わせていた。武士に対する「穢れ」の意識があったから天皇や貴族は戦いに直接加わらなかった。だから、天皇や貴族が滅びることはなかった。この「穢れ」が分からないと、外国人には、日本の歴史は理解しがたいものと映るはずだ。
7.儒教
「述べて作らず、信じて古を好む」の孔子の言葉に凝縮されているように、儒教は保守的で反近代的な教え。儒教社会は自分で自分のことを変えられない。自力で近代化できないのである。日本は明治期に儒教を捨てた。他の儒教国家が近代化を果たした重要な要因は、植民地化されたことにあると井沢氏は言う。しかし、韓国だけは、これを認めない。それもまた儒教の影響である。
韓国の問題は、朱子学の悪影響が今も残っていること。朱子学は、12世紀の南宋に朱子によって集大成された儒教解釈。当時弱かった南宋が、自分たちのプライドを強調することで外国に対抗しようとしたのだ。朱子学をやった人の典型的な特徴は、自分たちは正しい教えを学んでいるのだから、絶対に正しい、それに対し相手は野蛮人である、という発想である。従って、態度が非常に尊大で、相手の批判は聞かないのである。今の韓国はそうだが、日本の場合も、江戸時代はもちろん、第二次大戦までは、朱子学の悪影響が根強く残っていたのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ以前から古代史好きな方のレビューを読んで積読リストに入れてあったのだけど、この世界に踏み込む心構えがなかなかできなくて・・・
でも、シリーズ累計500万部突破!というのを聞いて踏ん切りがつきました。(ミーハーすいません)
全巻読むって決めなくてもいいよね?古代史好きなのでとりあえず一巻です。。
日本の創世期について、著者が史料至上主義を排除し、新しい視点から見つめ直した新しい日本史です。
書かれていないということはその事実がない、という認識が今までの歴史解釈であったのに対し(史料過剰重視)、著者は
・当時の人々にとって「常識過ぎる」ことは文献にわざわざ記載しないことを認識する。
・当時の人々の根底に流れている「怨霊信仰」を重要視する。
・天文学や言語研究など異なる分野と史料をすり合わせながらの事実の精査。
という理屈で、歴史を分析しています。
こうした想像力、発想力を駆使した理論はとても説得力があり、面白かったです。
例えばこんなことが書かれてます☆
・「倭国」の倭の由来は、環でありそれが和になり、それは話し合いがすべての「話し合い至上主義」の世界。それが日本のルーツ。
・オオクニヌシは「国譲り」の際実際には殺害され、古代人はその怨霊を恐れ、祟りが起こらないよう出雲大社に祀った。
・卑弥呼は狗奴国との戦いに敗れたことで、敗戦責任を問われ殺害された。(卑弥呼が現人神である以上、敗戦は卑弥呼の霊力が衰えたからだと考えられていたから)
・卑弥呼はもとは日御子であり日巫女であり、つまり太陽神に仕える女性でアマテラスのモデル。
・現在「天皇陵」の学術調査を宮内庁が一切拒んでいるその理由は、天皇のルーツが朝鮮にあるかもしれないから。
などなど。
くわしくは書きませんがいちいち説得力のある理屈がちゃんとあるのです。
ちょっと強引な意見もありますが楽しめました。2巻も読まなきゃな。 -
Posted by ブクログ
久々に幕末関連の本を読んだ。そのため、発見も多かったし、何より読みやすく、分かりやすかった。
ただ、やはりこの本の通説批判が正しいだろうか?とは疑問を持たざるをえない。
島津斉彬の死を暗殺と考えることは、通説では行われていない、という主張だが、証拠がない以上、断定して通説にすることはできないし、学者の中でも暗殺と疑われることはわかっていると思う。
また、この暗殺説も別に珍しい話ではないのに、自説のように語るのがなんとも言えない。
あとがきの、孝明天皇の攘夷論の背景も、この本の作者だけが主張している論ではないと思うし。
自分的には評価は高いが、割り引いた解釈を要するとも思うシリーズ。 -
Posted by ブクログ
軍隊が公式上はない日本。それは平安時代も同様だった。その軍隊の不在が武士を世を生み出した。これからの日本は…
平安時代編。藤原政権の最盛期。しかし藤原は一人勝ちじゃあなあったんだな。というのが良くわかる。藤原氏も苦労して地位を独占していたんだ。そして当然恨みを買って、地位を脅かされたり、後半には天皇の逆襲を食らって、院政というシステムが始まってしまう。
後三条天皇という一見知名度の低い天皇が歴史の転換期に活躍したのが良くわかる。後三条天皇にすごく興味を引かれる話だった。
小説が蔑称だというのは目からうろこ。そうなんだよね。なんで「小さい説」なのか全然イメージできていなかった。
武士が生まれた理由は、改めて詳しく学べたって感じがした。後三条天皇の政策のおかげで源氏が復権していたというのもとても良い歴史知識だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ穐吉英樹さんの推薦書 卑弥呼:「天照大神」こそが「卑弥呼」であり、正体は天皇家の「神」の字にある 臺与(とよ):わたしは邪馬台国発祥の地は九州大分県宇佐市にある宇佐八幡あたりだと思っています27p 古代社会において帝王の本名というのはもっとも秘匿された アメリカでは、来るべき復活のために、できるだけ遺体が長持ちするように、血液を抜き取って防腐剤を注入するといった、防腐処理が徹底的に行われます 争いkごとを嫌うのは、日本民族の最大の特徴といっていいものだと思っています 新嘗祭とか御田植祭とかいった宮中儀礼をみても、大和朝廷は明らかに米に基づく政権です