小谷野敦のレビュー一覧
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恋愛は才能である、だから才能の無いヤツは諦めろ。コレはかなり極端な物言いではあるし、外見もダメ、スポーツもダメ、だから学歴に最後の望みを賭けたのにそれもダメで…。(著者は東大卒)と、私憤が多分に含まれているが、それはそれでイイじゃないの。まぁ、もてる男女には不要の書かもしれないですね。もてない男のルサンチマンという切り口で、つまらない男女論に一石を投じたという意味では読むに値すると思いました。それにしても、四民平等などの階層社会の撤廃や男女差別の撤廃によって進められてきた平等主義や、自由恋愛の浸透によって誰でも等しく恋愛できる世の中になってきた事が却って恋愛や結婚において不平等を生み出す結果となったという考察というか分析は面白かったなぁ。正しいか正しくないかは別として、この考え方は新鮮でした。詳しくは読んでみると分かりますが。共感できるか否かが評価の分かれ目でしょうね。
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前作の『もてない男』は言いたいことも不明で(多分著者も考えがまとまってなかったのだと思う)、「モテない男が自分について書いた文章という形の小説」としてしか読めなかった。
ところが、去年出たこの本は趣旨も非常に分かりやすくて、とても面白かったです。立場が似ているのか、僕の言いたいこともほとんど同じです。
「女性にどんなに酷い目に遭っても、俺は女が好きだ」という結論は素晴らしいなと思いました。上野千鶴子批判は、よくぞ書いてくれたという感じ。
「もてない男のために社会を改革しろなどと、私は言ったことがないし言うつもりもない。だが、そういう男女がいるということを、人びとに忘れさせないようにしたい」というスタンスも素晴らしいなぁと思う。 -
Posted by ブクログ
何かを学びたい、という知的好奇心はあるんだけれども、買ってくる思想書は前書きとあとがきしか読まない(読めない)人のための勉強法指南。小谷野が提案するのは「事実」の集積である歴史を学ぶことにより教養を深めていこう、という方法。歴史小説、歴史漫画をとっかかりとして、歴史的な知識を蓄積し、教養を深めていけばいい。思想と違って歴史的事実に関しては「はやりすたり」がないから、学んでソンは絶対ない、と小谷野。思想や文学に接するのはその後でもよいということなのだろう。
小谷野が歴史の学習を勧める背景には、次のような問題意識がある(と思う)。八十年代のニュー・アカデミズムの流行は相対主義を知の領域に蔓延させた。ニュー・アカデミズムというとフランスの現代思想を核とした学問のスタイルのことだけれども、フランスの現代思想がやって来たことというのは、乱暴な言い方かもしれないが「絶対的真理」とか「客観的事実」という概念の破壊だった。こうした概念の是非を問うことは確かに意味のあることだが、俗世間ではこうした「高尚」な問題について考えてみないままそのスタイルだけが受け入れられてしまい、「ほんとうのこと」をまじめな顔して議論することを恥じる風潮や、歴史に対する無関心を生み出す一因となった。でも、知的な議論というは、たとえそれがカッコ付であっても事実を基盤をせざるをえない。例えば、太平洋戦争について議論する場合、皇国史観であれ、左翼の史観であれ、色が付いていてもひとまず手にとって読まなければ議論さえ成立しないのだ。つまり、小谷野が促しているのは、どんな方法であれまず土俵に上がること、知の現場に足を踏み入れることと言っていいと思う。
ところで小谷野はこうした文脈とは別に「知的な」書物は、「明晰に」、つまり判り易く書かれるべきであると書いている。こう書くと実に当たり前なことなのだが、近現代の知の領域では必ずしもそうでないんだな。デリダやドゥルーズ、ラカンの書くものはきわめて難解で、非論理的な書かれ方をしており、小谷野自身も「解らなかった」と言う。この本にはこうした思想家に対する批判もある。小谷野の批判する文体とはどのようなものなのか。去年読んだ本から面白い例を紹介しよう。
「肛門・男根…は価値を奪われた換喩的隣接性の中で機能し、男根状の糞塊という概念は隠喩的代置の領域の中で機能する」(『サイエンス・ウォーズ』 金森修 東京大学出版会 2000)
これは『サイエンス・ウォーズ』(大変面白い本なのでそのうち内容を紹介します)にある現代フランス思想の文体のパロディの一例なのだが、一体何を言おうとしているか理解できるでしょうか?
「肛門とペニスはすぐ隣りにあるのに形は似ていないが、肛門から出てくる大便はペニスと形が似ているときがある」
…アホらしくなってくるが、思想の領域では実際にこういう文体がまかり通っている。
小谷野はこうした明晰でない文体、論理を厳しく批判する。こうした発言からも『バカのための…』における小谷野自身の学問観は保守的、あるいは古くさいと批判されうるものかもしれない。だが、僕自身は小谷野の議論はまっとうなものだと思うし、「面白さ」のみを追求するきらびやかでおしゃれな「思想の戯れ」は無内容と紙一重だとさえ僕は思う。 インテリの文体という事に関して付け足し。易しいことを難しく書くことなら誰でも出来るが、難しいことを易しく書くのはインテリの義務だぜ、と僕は思うのだ。だから、上のような文体で書かれた文章がいくらすぐれた内容を持っていたとしても、批判されなければならない、とも思う。だが、わけのわからん文章を書く人にはその人なりの理由はあるらしい。最近こんな文を読んだ。
なにしろ、文化が「文化財」「文化価値」として商品化され、市場で安易に消費されていく時代、そうした文化のあり方を批判する「文化批判」そのものでさえ、簡単に商品化されかねない。それを拒否しようとするアドルノや、彼の属するフランクフルト学派の人たちの批判の文体は、いやでも安易な理解をはねつける難渋なものにならざるをえない。めったに使われない言葉を選び、文法を無視し、わざと読みにくく分かりにくく書くという戦略がとられる。(『哲学以外』 木田 元 みすず書房 1997)
アドルノはデリダやラカンとは全く別の思想的文脈に属するドイツの思想家だが、この人の書く文章もきわめて難解で翻訳がちぃともでない。上の引用はアドルノの文章のわからなさを説明してくれているが、本当にアドルノがこう思っていたのだったら、アドルノ間違ってるよなあ… 消費社会と戦うためにはそんな方法しかなかったんかい、と僕は思ってしまいました。
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Posted by ブクログ
おすすめ本を教えるブックガイドは数あるが、普通の人が頑張って読んでも得るものが少なかったり、時間の無駄になったりする「読まなくてもいい本」を教えてくれるものは珍しい。そういう意味で価値がある。歴史関連は社会や経済の変遷を史料で追う専門書(新書版であってもほぼこれ)よりも人物を扱った小説や学習マンガの方が面白く流れが頭に入るというのはその通り。
書評は信用するな、というのも真理である。もう少し早く読んでおきたかった。
あとがきの終わりまで読み「電車の中で携帯で会話をする女子高生を怒鳴りつけた日に」とあるのを読んで、この人はもしかすると「極端な人」かも知れないが、そういう性格だからこそ書ける本というのもある。 -
Posted by ブクログ
2017年までの芥川賞を、
著者の独断と偏見で「偏差値」を付けている。
戦前のものも写真付きで掲載され、
各年の他の候補の名前や、
受賞作なしの時の小話や候補作なども。
今はネットで検索出来る時代だが、
古い作品のリストとしては、そこそこ便利な本でもある。
著者の蘊蓄などが鼻に付く部分も多いが、
無視無視。
再度言うが、著者の独断と偏見の「偏差値」は、
かなり辛辣で、いただけないなーと。
これを読んで純文学を読んでみようと思う人は、
果たして一人でも増えるのだろうか?
そもそも純文学は、
(この定義自体、死語になりつつあるかもしれない?)
文学は、数値化されない面白さが……
……などと言いながら、
この作品にちゃんと星を付ける、私であった。 -
Posted by ブクログ
本書によると、大衆、通俗に分類される小説でも、読者層は全体の1%にすぎず、小説とは思った以上に読まれていない。また近代において、純文学は人間のひどい面をシニカルに描く一方で、通俗は人情を訴えるところが特徴である。ちなみに西洋ではこれらの乖離が大きく、とくに通俗小説は構成に残らないことが多いという。本書の最後に今後の文学に考察するが、著者の考えとして、人は文字を読むのではなく、脳に直接何かが入力されるようになるかもしれないし、文学研究はコンピュータに一蹴される可能性が高い。とはいえ、文学は少数の人間の、金にならない趣味として今後も存続するだろうという。